「丹後坂」の名は徳川綱吉の野犬収容所の管理者・米倉丹後守から  赤坂の坂6

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

150916tandozaka

 

赤坂で一番短い坂

ここのところ「弾正坂」「九郎九坂」「牛鳴坂」
近い場所で隣り合っている3つの坂を御紹介しました。

 

 

usinakizaka

 

 

ピンク色が「弾正坂(だんじょうざか)」
紫色が「九郎九坂(くろぐざか)」
そして緑色で示した部分が「牛鳴坂(うしなきざか)」でしたね。

 

 

150827usinakizakarakuda

 

 

この緑色に示した「牛鳴坂」の終わり、3匹のラクダのオブジェを
通り過ぎずに、写真の左(地図でいいますと赤坂サカス方面)に
曲がって少し歩いたところにあるのが今日、御紹介の「丹後坂」です。

 

「丹後坂」は赤坂の坂の中で一番短い坂かもしれません。
地図の真ん中あたりにピンク色に示した部分が「丹後坂」です。
黒い色で矢印をつけてみましたが、おわかりでしょうか?

 

 

tandozaka

 

 

 

米倉丹後守の御屋敷のそばの坂

住所は、赤坂4丁目2番と、4丁目5番の間 。
長さは40メートルで、高低差は10.08メートルもあります。

 

距離は短く傾斜はかなり急なために「丹後坂」は階段になっています。
標識に記されているのは次の言葉。

 

「元禄(1688~)初年に開かれたと推定される坂。
その当時、東北側に米倉丹後守(西尾丹後守ともいう)の邸があった。」

 

ということは米倉家の御屋敷は、この写真でいいますと
左側にあったということになりますね。

 

 

150916tangozakaue   「丹後坂」と書いてある標識、ちょっと見にくいのですが

 

 

 

600石からわずか十数年で1万5千石の譜代大名に

米倉家の祖先は甲斐武田氏の士族で
竹田家の滅亡後は徳川家に仕えました。

 

米倉昌尹(まさただ)が48歳で家督を継いだ時は600石程の旗本でした。
しかし、わずか10数年後の元禄12年(1699)には1万 5千石の譜代大名に。

 

その理由は、5代将軍・徳川綱吉に認められた昌尹(まさただ)が
御目付 → 御側衆 → 若年寄 → 側用人と異例の出世をしたからだそう。

 

 

150916tangozakakaidan      「丹後坂」の階段の一番上から撮ったもの

 

 

 

昌尹の3代後の藩主は、柳沢吉保の六男

犬公方といわれた綱吉は「生類憐れみの令」を発布したことで有名です。
元禄8(1684)年には江戸郊外の中野の地に、16万坪にも及ぶ
野犬収容所をつくり、そこには10万匹の犬がいたといいます。

 

この収容所の普請惣奉行を担当していたのが昌尹(まさただ)でした。
犬小屋の維持、管理の業績などが認められた昌尹は出世街道をばく進。

 

またそれだけではなく当時、権勢を誇っていた柳沢吉保と米倉家とは
共に甲斐出身でもあり、地縁血縁で結ばれてもいたようです。

 

米倉家の家督は昌尹(まさただ) →  昌尹の子(昌明)→  孫(昌照)
へと受け継がれますが、共に30歳で早世したために
昌照の次は、7歳だった養子の忠仰が跡を継ぎました。

 

この忠仰の実の父親が柳沢吉保です。
柳沢吉保の六男だった忠仰は、5歳で米倉家と養子縁組を
していますので、いかに両家の縁が深かったかがわかります。
(「ぶらり金沢散歩道」)

 

 

150916tangozakaue

 

 

なお、江戸郊外の中野に野犬収容所ができたのが元禄8(1684)年、
「丹後坂」の標識に記載されている文章が
「元禄(1688~)初年に開かれたと推定される坂」

 

ということは、単に米倉家の御屋敷があった場所というだけではなく
「丹後坂」ができた、まさにその時に昌尹(まさただ)は
綱吉の命を実行する野犬収容所の取締役(?)でもあったわけですね。

 

 

150916tandozaka

 

 

 

赤坂の名所・史跡、38位!

この「丹後坂」は、旅行クチコミサイトの「フォートトラベル」
によりますと、赤坂で38位の名所・史跡なのだそうです。
38位という微妙な数字に思わず笑みがこぼれますが。

 

歴史に興味をお持ちで、米倉丹後守のお屋敷跡、というだけで
感無量という方は別にしますと、「丹後坂」を赤坂の名所として
どうぞ、見に来て下さいね、とはちょっと言いがたい地味な場所です。

 

ではありますが、何気ないようで趣があり
懐かしさを感じさせる「丹後坂」が私はとても好きです。

 




スポンサードリンク



コメントを残す