「国際文化会館(旧岩崎邸)」 六本木・麻布

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旧岩崎邸

前回、御紹介した「鳥居坂」を上ってから
少し歩いて行きますと、左側に「国際文化会館」があります。
今日はここに名残の桜を見にきました。

 

公益財団法人 国際文化会館(インタナショナル  ハウス
オブ  ジャパン  The International House of Japan, Inc.)」

 

(〒106-0032 東京都港区六本木5‐11‐16
Tel.  03-3470-4611(代)  Fax.  03-3479-1738)

 

 

kokusaibunkakaikan         (地図/「国際文化会館」)

 

 

住所は六本木ですが、地図を御覧いただくとおわかりのように
六本木駅よりは麻布十番駅からの方がはるかに近いです。

 

東京メトロ日比谷線の「六本木駅」からですと徒歩10分。
同じく東京メトロ南北線の「麻布十番駅」からは徒歩7分で
都営大江戸線の「麻布十番駅」ですと徒歩4分です。

 

 

 

現在の建物は1955年に完成

こちらが入口です。
大きな桜の木が出迎えてくれているかのよう。

 

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「国際文化会館」は国際交流を目的として、ロックフェラー財団
などの支援により、1955年(昭和30年)に完成しました。

 

建物の設計は、前川國男、吉村順三、坂倉準三の共同設計に
よるものですが、旧岩崎邸の庭園との調和を最大限に考慮して
作られたとのことです。

 

1976年には、設計者の一人である前川國男により
改修工事と併せて新館も増築されました。

 

2005年の改修工事の後には、その保存再生活動に対し
日本建築学会からは「2007年日本建築学会賞」、
財団法人日本産業デザイン振興会からは
「2007年グッドデザイン賞」をそれぞれ贈られています。

 

また、2006年には本館が、登録有形文化財に登録されました。

 

 

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一つ前に掲げた写真から、ほんの少しだけ歩いて桜の木の
そばに参りますと、突然、桜の木の右側に大きな建物が出現します。

 

最近は毎日のように霞(or濃霧?)のようなモヤモヤたちこめて
ちょっとボケて写っているのですが、この建物は六本木ヒルズです。

 

 

 

池泉回遊式庭園

六本木ヒルズを右に見ながら本館の玄関を入りますと、一面が
ガラス張りになっていて、このような風景が目に飛び込んできます。

 

 

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池の水が薄紅色に染まっていますが、これは散った桜の花びら。
もう桜はほとんど散ってしまったかと思いながらきてみましたが
桜の木全体が桜色に見えるほどに花が残っていました。

 

このの庭園は1929年(昭和4年)、岩崎小弥太が
小堀遠州と並び称される京都の造園家、「植治(うえじ)」の
七代目  小川治兵衛に依頼してできた池泉回遊式庭園です。

 

池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園とは、大きな池を中心に
まわりに路をつくって、築山や池の中の小島、石などで
景勝の地を再現する日本庭園の代表的なものです。

 

桃山時代、あるいは江戸時代の名残をとどめている
近代庭園の傑作として知られるこの旧岩崎邸庭園は
2005年10月に港区の名勝に指定されています。

 

 

 

次々と変わる主 

先ほどの写真の左側を写したものが次の写真です。
美しい庭園が建物をぐるっと取り囲んでいる落ち着いた
空間に身を置きますと、本当に安らぎを感じます。

 

 

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岩崎邸だった「国際文化会館」ですが、もっと遡りますと
江戸時代から幕末までは、香川県丸亀市の多度津藩
(たどつはん)主、京極壱岐守の江戸屋敷でした。

 

明治初期には、外務大事を務めた井上馨侯爵の邸宅でしたが
のちに1876年(明治9年)に創設された宮家の久邇宮の邸宅へ。

 

その後所有者は、三菱系の実業家であり大正銀行頭取であった
赤星鉄馬となりますが、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊。

 

1929年(昭和4年)になると三菱財閥4代目総帥である
岩崎小弥太が新しく邸宅を建設します。
しかしそれも1945年(昭和20年)の空襲で消失してしまいました。

 

戦後は一時、国有地となっていたそうですが「国際文化会館」に
払い下げられ、1955年(昭和30年)に現在の建物が完成したのです。

 

 

 

釣殿風

この写真の右側に見える風情のある建物ですが、これは平安時代の
絵巻物によく描かれている釣殿風に設えられています。

 

 

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「釣殿(つりどの)」とは、平安時代の貴族の邸宅に見られる
寝殿造(しんでんづくり)という建築様式のなかに含まれる建物の
一つで、水面に釣おろしたようにつくることから命名されています。

 

釣殿で魚を釣ったなどともいわれますが、主に納涼やお月見、
あるいは雪見などの遊宴に使用された建物です。

 

それでは、「国際文化会館」の釣殿風の建物は何の目的に使用
されているのかといいますとレストランで、その名も「SAKURA」。

 

2007年にお亡くなりになった作家の城山三郎さんは
「国際文化会館」のレストラン「SAKURA」がお気に入りで
いつも決まった席におすわりになっていたとか。

 

 

hira-4tume-100丸亀藩・京極氏家紋
「平四つ目結(ひらよつめゆい)」

 

 

3人の男児の相次ぐ夭折

江戸時代、この場所が多度津(たどつ)藩の江戸屋敷になったのは
元禄7年(1694年)のことだといいますので、前回お伝えした
「鳥居坂」が丁度できたかできないか、といった時期ですね。

 

この地に多度津藩の江戸屋敷ができた時、というのは
京極高道(きょうごくたかみち)が多度津藩の初代藩主になった時
ということでもありますが、その時、京極高道はわずか4歳。

 

高道の父は、丸亀藩藩主の京極高豊(たかとよ)です。
高豊は正室との間に生まれた幼い男児、3人を次々と亡くしています。

 

幸い元禄4年(1691年)には側室の子である高道が、翌年の
元禄5年(1692年)には正室の子・高或(たかもち)が生まれて
丸亀藩主は高或(たかもち)が継ぐことになりました。

 

 

sumitate-4tume-100多度津藩・京極氏家紋
「隅立四つ目結(すみたてよつめゆい)」

 

 

4歳の藩主・京極高通

父・高豊は家名の断絶を恐れて側室の子・高通に
支藩を立てることを幕府に願い出ます。

 

元禄7年(1694年)に父・高豊が40歳で亡くなると高或は丸亀藩主に、
高通は多度津周辺の1万石を賜る多度津藩主になったのです。

 

とはいえ藩主の高通はわずか4歳でしたので、実際に藩主として
政務を執るようになったのは正徳元年(1711年)からだったそうです。

 




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