久留米藩有馬家上屋敷の「玄蕃の火の見」

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

160602nakanohasikita

 

 

「中の橋」から「赤羽橋」まで

前回は、中の橋付近で起きたヒュースケンの暗殺事件を御紹介しましたが
中の橋は港区で唯一の川である古川に架かっている橋の一つです。

 

1653(承応2)にできた玉川上水の水が新宿御苑の池に入った後に
再び川となったものが渋谷区方面では「渋谷川」と呼ばれ
港区の天現寺からは「古川」という名になり東京湾に注がれます。

 

ヒュースケンが襲撃された「中の橋」のお隣は
前々回に御紹介した「赤羽接遇所」のある「赤羽橋」。
「中の橋」から東の方に250メートルほど行った場所にあります。

 

 

160602akabanebasi             「赤羽橋」

 

 

 

1675(延宝3)年に造られた「赤羽橋」

この地図でいいますと紫色の線で囲ってあるのが「中の橋」、
赤い線で囲ったのが「赤羽橋」です。

 

現在の「赤羽橋」は1974(昭和49)年に架けられたものですが
1675(延宝3)年、古川の拡張工事に伴って造られた橋でした。
薩摩屋敷、有馬屋敷、黒田屋敷それぞれの物揚場として、また庶民の
船着き場として赤羽河岸ができ、赤羽広小路は賑わっていたそうです。

 

 

nakanohashi   緑色の部分が「久留米藩有馬家上屋敷」 「桜田通り( ↑ )」

 

 

前回、ヒュースケンが中の橋付近で襲われた後、傷を負いながらも
馬で200メートルほど麻布十番方面に行って落馬をしたのは、京極
佐渡守上屋敷(紺色)や戸沢上総介上屋敷(ピンク色)の付近でした。

 

 

 

久留米藩有馬家上屋敷跡

その2つのお屋敷とは反対側にある、緑色で塗った
大きなスペースは久留米藩有馬家の上屋敷があった場所です。
現在の住所では三田一丁目となりますが、21万石を有する外様大名
という大藩ですので、敷地もかなり広く2万5千坪もありました。

 

地図でもおわかりの通りに、東西(左右)は中の橋から赤羽橋までで
その広大な場所には、現在は国際医療福祉大学三田病院、
済生会中央病院、国際三田ビルなどが建っています。

 

久留米藩有馬屋敷の右側(東側)を通っているのが桜田通りで
有馬屋敷の敷地の一番下(南)は現在では三田一丁目の交差点。
そこから赤羽橋の方を撮った写真がこちらで、
左に写っているのは国際三田ビルです。

 

 

160602mitakokusaibiru   桜田通りから赤羽橋方面を見たもの(左は国際三田ビル)

 

 

 

江戸の名所として浮世絵に描かれた「赤羽橋」

この辺りは古代から開けていた場所だということですが
江戸時代、中の橋から赤羽橋にかけて有馬屋敷ができてからは
いっそうの賑わいを見せ、名所として賑わったようです。

 

江戸の名所として赤羽橋は何枚もの浮世絵として描かれています。
「あぷりのお茶会」の守備範囲(?)である、赤坂・麻布・六本木の
中で麻布の赤羽橋付近が最も多く描かれているのではないでしょうか。

 

それらの浮世絵のうち2,3枚を御紹介してみましょう。
これは広重の『東都名所 芝赤羽橋之図』。

 

 

akabanebashi          広重『東都名所 芝赤羽橋之図』

 

 

現在、東京タワーがある方から赤羽橋と久留米藩有馬家の屋敷を
描いたものですが、現在の橋に比べますと当然のことながら
いかにも「橋」という雰囲気の風情があるいい橋ですね。

 

ちなみに現在の赤羽橋南交差点はこんな感じ。
橋の位置がかわかりづらいですが、高速道路の下の部分が赤羽橋で
写真の左端の大きな建物の場所は、当時は有馬屋敷の敷地内です。

 

 

160602akabanebasiminami    桜田通りを赤羽橋まできた(上の高速道路の下が赤羽橋)

 

 

 

有馬屋敷の「玄蕃の火の見」

先ほどの広重の『東都名所 芝赤羽橋之図』を
アップしたような浮世絵がありました。

 

「江戸自慢三十六興(えどじまんさんじゅうろくきょう)」の
『赤はね火之見』ですが、これは豊国と広重の合作シリーズで
三代豊国が人物を、二代広重が背景を描いたものの一つです。

 

 

akahanehinomi      広重、豊国「江戸自慢三十六興」『赤はね火之見』

akabanebashi         広重『東都名所 芝赤羽橋之図』

 

 

先ほどの『東都名所 芝赤羽橋之図 』をもう一度つけてみますと
『江戸自慢三十六興』の方は赤羽橋は見えませんが、同じ方向から
見たもので左端の部分を拡大して描いているのがわかります。

 

川の土手沿いに木が植えられていて有馬屋敷が見え
その向こうの木立の中には塔のようなものが見えますが
これは有馬屋敷内にあった大きな火の見やぐら。

 

有馬玄蕃頭(ありまげんばのかみ)の名前から「玄蕃の火の見」と
呼ばれていたもので、久留米藩初代藩主の有馬豊氏氏(とようじ)の
官位が「従五位下玄蕃頭」だったことからきています。

 

 

 

中の橋の欄干に残る「玄蕃の火の見」

当然のことながら「玄蕃の火の見」は壊してしまってもうありませんが
この写真のように、中の橋の欄干がこれを形どったものとなっています。

 

 

160602nakanohashi   ひらがなで書かれた「なかのはし」の欄干(東京タワー側)

 

 

この写真は橋の東京タワー側ですが「なかのはし」とひらがなです。
反対側の有馬屋敷側は「中之橋」と漢字なのもおもしろいところ。

 

 

160602nakanohasi     漢字で書かれた「中之橋」の欄干(三田病院側)

 

 

ちょっと見づらくて申し訳ないのですが、ひらがなと漢字の
違いだけではなく自体も異なり、なんとはなしに趣が違います。

 

また、下の写真は同じ場所を冬に撮ったものなのですが
草が枯れて「なかのはし」という文字がよく見えます。
撮った時刻が夕暮れということもあり別の場所のような気がするほど。

 

 

160524nakanohasi     東京タワー側からの「中の橋」(冬の夕暮れ時)

 

 

 

「町火消」「定火消」「大名火消」

江戸の町は火事に苦しんだ経験から消防の組織を重視しました。
時代とともに様々に変化していますが基本的には、

 

町人から組織された「町火消」と、
幕府直轄で旗本が担当した定火消(じょうびけし)、
大名に課された大名火消(方角火消)の3つがありました。

 

大名火消の組織の変遷のなかで、東西南北の4組に
編成されたことがあり、その時に「方角火消(ほうがくびけし)」
という言葉が生まれたようです。

 

その後、4組  →  5方角5組  →  2組と改変し、参勤交代で江戸に
滞在中の大名から選ばれることとなって、屋敷には通常より高い
火の見やぐらの建設が許可されていたということです。

 

有馬屋敷の玄蕃の火の見やぐらは大名火消(方角火消)ですので
高さが三尺、約9メートルもある大きなものでした。

 

有馬屋敷の「玄蕃の火の見」がなくなってしまった現在
このあたりにある高い塔は東京タワーでしょうか。

 

160102tokyotower        今年(2016年) 新年の東京タワー

 




スポンサードリンク



コメントを残す