ヒュースケンの眠る場所「五の橋」 古川の橋4

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160729gonohasi

 

 

古川の上は首都高速道路

前回は、渋谷川(渋谷区)と古川(港区)の境にある
「天現寺橋(A)」と「狸橋(B)」を御覧いただきましたので
今日はそのお隣にある橋を御紹介しましょう。

 

 

 

hurukawanohasi古川に架かっている橋
「亀屋橋(c)」「養老橋(d)」「青山橋(e)」「五の橋(F)」

 

 

前回の「天現寺橋」と「狸橋」までは、地図でもおわかりの通り
水色の線で描かれていますので、川だということがわかりますよね。

 

ところが今日の「c」あたりからオレンジ色の線が川にかぶってきて
ちょっと見づらくなっていますが、このオレンジの線は首都高速道路。

 

次の地図は上のものより広い範囲を表した地図ですが、左下の方から
中央まできて、ほぼ直角に上に行き、中間で右に行って真ん中あたり
で切れている首都高速道路の下が、古川が流れているラインです。

 

 

taisikanmap        現代の麻布の地図(googlemapに加筆)

 

 

途中、少々ずれる所もあるものの東京湾へ注ぐまでこの状態。
川の上に蓋をされているような感じです。

 

 

 

首都高速が出来る以前の地図

現在の地図ですと、知っている人でなければ首都高速道路の
下に川が流れていることは、地図を見ただけではわかりませんが
江戸時代の地図ですと、きちんと川のあることがわかります。

 

 

azabukotizu               江戸時代の麻布の地図

 

 

こちらの方は、上にあげた現代のものより小さい面積の
地図ですが、古川が大体同じような場所にあることが
何となくおわかり頂けると思います。

 

この地図の下の方だけをアップしたものがこちらです。

 

 

hurukawa

 

 

左の上は、現在有栖川公園がある所で「南部美濃守」となっています。
現在の有栖川公園の敷地と同じような形ですので、すぐわかります。

 

南部坂を挟んで有栖川公園と反対側のドイツ大使館
がある所は「松平主水」となっていますね。

 

また、ニュー山王ホテルの場所は「成瀬安次郎」、
「荒木十左衛門」と書かれているようです。

 

 

160729gonohasi               「五の橋」

 

 

 

「五の橋」

「A」は「天現寺橋」、「B」は「狸橋」でした。
今日御紹介の「c」は「亀屋橋」、「d」は「養老橋」、
「e」は「青山橋」、そして「F」が今日の冒頭の写真「五の橋」。
古川橋の中でもちょっと変わっていて、面白い形をしていますね。

 

 

hurukawanohasi

 

 

一や二がなくてここで突然「五」がでてきましたが
古川の流れとは逆に下流の麻布十番の船着き場が「一の橋」で
だんだん上流に向かうにつれ数字が増えて、ここが「五の橋」。

 

「五の橋」は1934(昭和10)年にできたそうです。
南麻布3丁目22(地図でいうと上の方)から、白金5丁目3に架かる橋。
長さは17メートルで、幅は6.6メートル。

 

 

heusken     ヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケン
      Henry Conrad Joannes Heusken(英名)
    ヘンドリック・コンラット・ヨアンネス・フースケン
      Hendrick Conrad Joannes Heusken(オランダ名)

 

 

 

麻布に眠るヒュースケン

地図で見ますと「五の橋」の上の方には光林寺というお寺があります。
このお寺には以前もお話しした、幕末期に活躍した
アメリカ公使館通訳、ヒュースケンが埋葬されている場所です。

 

ヒュースケンはアメリカ公使館でハリスの通訳兼秘書として
日米の条約締結に活躍しましたが、そればかりでなく他の国の
条約締結に際しても、協力を惜しむことはありませんでした。

 

1861年1月15日の夜、プロイセン公使団宿泊施設だった赤羽説遇所(B
を出てアメリカ公使館(A)に向かったヒュースケンは
「中の橋(C)」付近で、彼は7人の攘夷派の薩摩藩士に狙撃されます。
しばらく走って力尽きた彼が落馬したあたりは、一面の血の海(D)。

 

 

huskenA アメリカ公使館 善福寺(元麻布1-6-21)
住居 善福寺門前の善光寺(元麻布1丁目7-3)
B 赤羽接遇所 プロイセン公使団宿泊(東麻布1-21-8)
C 中の橋 ヒュースケン襲撃場所(東麻布)
D 落馬したと思われる場所(東麻布)
E 墓 光林寺(南麻布4-11-25)

 

 

ただちに彼は、アメリカ公使館(A)・善福寺に運び込まれ
ましたが、医師の努力も空しく数時間後に息を引き取ります。
最期は彼の子どもを生んだ妻・ツルが看取ったということです。

 

死の直前にワインを口にした彼は
あと5日で29歳を迎えるという若さでした。

 

アメリカ公使館だった善福寺は土葬をすることができないために
彼は麻布の南端にあった光林寺(E)に埋葬されることになります。

 

 

turu         ヒュースケンの妻・ツルと子ども

 

 

 

ヒュースケンと麻布

ヒュースケンの葬儀の日、1861年1月18日
(万延元年12月8日)は小雨まじりの雪が降る寒い日でした。

 

アメリカ公使館から善福寺まで、喪主のハリスをはじめとして
日本の外国奉行やプロイセン軍楽隊、オランダ総領事、イギリス公使、
フランス総領事、兵士、水平など沢山の人が長い列をなしたといいます。

 

下田から江戸に移ってきてから亡くなるまでの間
ヒュースケンはその殆どを麻布の地で過しました。
アメリカ公使館の(A)から、今もその地に眠る(E)まで全て麻布。
ヒュースケンと麻布の縁を感じさせられます。

 

 

hurukawa川沿いほぼ中央にある光林寺がヒュースケンのお墓のある場所  
その左は戸沢上総介下屋敷

 

 

またもう一つ付け加えるならば、ヒュースケンが「中の橋」付近で
襲われた時に、馬でしばらく行った後に落馬した場所(D)は
当時、戸沢上総介の上屋敷のあったあたりです。

 

そして彼が眠る光林寺(E)の隣りは、現在はフランス大使館となって
いますが、当時は戸沢上総介屋敷の下屋敷があった場所。
共に戸沢上総介屋敷のお隣ということにも何か因縁を感じますね。

 




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