保科正之・長屋暮らしもした将軍の子 「三の橋」古川の橋11

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「二の橋」と「三の橋」の東側

古川に架かる「三の橋」は、古川の東側(地図では右)に
会津藩保科家(松平肥後守)の下屋敷があったことから
「肥後殿橋」とも呼ばれていました。

 

現在の住所でいいますと港区三田2丁目あたりになります。
会津藩保科家の上屋敷「和田倉門邸」は鍛冶橋内の
千代田区皇居外苑3付近でした。

 

中屋敷は「芝藩邸、芝新銭座邸」で、港区東新橋1丁目付近、
現在ではホテル  ヴィラフォンテーヌ汐留のある一帯。

 

そして今日、御紹介の下屋敷「三田藩邸」ですが、1658(万治元)年
5月15日にこの屋敷を構えてからは、実質的な拠点となりました。
「御田下屋敷」とも呼ばれていたそうです。

 

 

古川に架かる橋hurukawanikakaruhasi天現寺橋(a)・狸橋(b)・亀屋橋(c)・養老橋(d)・青山橋(e)・五の橋(f)・
白金公園橋(g)・四の橋(h)・新古川橋(i)・古川橋(j)・三の橋(k)
南麻布一丁目公園橋(l)・二の橋(m)・小山橋(n)・一の橋(o)・
一の橋公園橋(p)・新堀橋(q)・中の橋(r)・赤羽橋(s)

 

 

 

広大な敷地をもつ「三田藩邸」

下の江戸時代の地図では、水色の矢印の場所が「二の橋」で
緑色の矢印が「三の橋(肥後殿橋)」。

 

「三の橋」から「二の橋」近くまでの古川の東側に「  ●  ●  ●  」で
囲った所が会津藩保科家下屋敷、三田藩邸の敷地です。

 

 

aiduhoshina         会津藩保科家下屋敷「三田藩邸」

 

 

現在はその場所に三井倶楽部の南半分や慶応義塾中等部等
がありますが、なんと32,972坪もあるそう。
屋敷内で軍事調練が出来るほどだったといいます。

 

会津藩保科家の三田藩邸の右側の「——  」が「三田綱坂」と
呼ばれる坂ですが、この写真ですとお屋敷は右側。
この屋敷の主が、明暦の大火の際に陣頭指揮をとった保科正之です。

 

 

160814tunazaka      会津藩保科家下屋敷沿いにある「三田綱坂」

 

 

 

隠れるようにして出産

保科正之は前回、御紹介した第4代・徳川家綱の叔父にあたり
第2代将軍・秀忠の子でしたが庶子であったため、江戸城で出産する
ことは許されず、正之の存在すら幕府では数名の人間が知るのみでした。

 

正之を生んだ母・静(志津、後の浄光院)は、『会津家世実記』では
秀忠の乳母の侍女の神尾栄嘉(かんおさかよし)の娘としていますが
『柳営婦女伝来』では武蔵国板橋郷竹村の大工の娘と記載されています。

 

生まれた場所についても『松平会津家譜』では、江戸神田白銀の
竹村次俊宅とありますが、江戸北の丸にいた武田信玄の
次女・見性院の所領、大牧村(浦和)だという説もあるようです。

 

1611年6月17日(慶長16年5月7日)に幸松(正之の幼名)誕生。
静の最初の子は出産することも叶わず、一時はお江の方一派に命を
狙われたため、幸松と静は裏長屋で暮らしていたともいわれています。

 

 

010_1_201311241629247a6            正之の時代に作られた小袖

 

 

 

高藤藩主・保科正光の養子に

そのうちお城から迎えが来るだろう、との期待が裏切られただけ
ではなく、正之は父である秀忠に会うことさえできませんでした。

 

武田信玄の娘・見性院の元で養育されていた幸松は、1617(元和3)年
6歳の時に信濃国高遠藩主・保科正光の養子になることが決まります。
母と二人、身の安全は確保されることになりました。

 

(普通、養子に行ったのは「7歳」と記載されていますが、これは当時の
年齢の数え方、ここでは全て現代の年齢の数え方で書きたいと思います)

 

保科正光には跡継ぎにする予定だった弟の正貞や、養子の左源太が
いたことから、幸松(正之)は行くことを嫌がったといわれています。

 

 

 

narabukuyo         保科家の家紋「並び九曜(角九曜)」

 

 

 

生涯「保科」姓を名乗る

高遠藩の保科家では幸松を将軍の子と戴いて、跡継ぎにする予定
だった左源太を廃嫡しましたが正光は、左源太には生活に不自由
しないよう、加増や金子を与えることを遺言しています。

 

また正光は、秀忠と正之の父子対面を実現させたいとも願っていた
といいますので、正之は養父には恵まれていたようです。

 

しかし残念ながら、対面の実現前に正光は亡くなってしまいます。
1631(寛永8)年11月12日、21歳になっていた幸松は
名を保科正之と改め、三万石の高遠藩主となりました。

 

公式行事以外は冬でも裸足でいたという正之は、城外で領民と
触れ合うことも多く、藩主の使命は領民の幸せと学んだといいます。

 

保科正之は出世をした後に、松平を名乗ることを勧められますが
養父・保科正光の恩を重く感じて生涯、保科姓を名乗りました。

 

 

徳川家(1〜5代将軍)

*    ① 家康
*    |__________________ _ _ _ _
*    |     |     |     |
*      信康    秀康     ② 秀忠    忠輝
              1579〜1632
                |
                |
*      ___________  |______
*    |      |     |  |  |  |  |  |    |
*    ③ 家光     忠長        保科正之
  1604〜1651   1606〜1633        1611〜1672  ::  *
     |
    |
*    |____________
*    |     |     |
    ④ 家綱    綱重   ⑤ 綱吉
  1641〜1680

 

 

 

兄たちとの対面

藩主になる前の1629年には、兄である駿河府中城主・徳川忠長
(秀忠の二男)と初めて会うことになりました。
正之を気に入った忠長は家康の葵の紋のついた遺品を与えてます。

 

(しかし忠長はわずか4年後の1633(寛永10)年 12月6日、 様々な
事件を起こしたため、幕命により配流地の上野国高崎で自害、享年28)

 

 

160729sannohasi  「三の橋」の東側(写真では左)一帯が会津藩下屋敷のあった場所

 

 

正之が藩主となった翌年の1632(寛永9)年1月、正之を正式に子ども
と認めなかった秀忠が亡くなり、長男・家光が3代将軍に就任します。

 

家光がお忍びで目黒に鷹狩りに行った折りのこと、
お寺の僧侶に保科正之が弟であることを知らされます。

 

驚いた家光でしたが、正之のあくまでも家臣として接する
謙虚な姿に、次第に弟への親愛の情を深めていきました。

 

 

160814ninohasihyugazaka           「二の橋」から見た古川

 

 

 

「高遠」 →「 山形」 →「会津+幕政」

家光の信頼が深まると同時に、正之は目覚ましい出世をしていきます。
1636(寛永13年)7月21日、25歳の時に出羽国山形20万石へと大幅な
加増移封後、洪水や凶作で苦しむ領民を救うための仕事にかかります。

 

1643(寛永20年)7月4日、32歳の時に陸奥国会津藩23万石に移封。
これ以降、幕末まで正之の子孫が会津藩主を努めることになりました。
すでに20代の頃から幕政に関わっていた正之に一層の重責が加わります。

 

1651(慶安4)年4月20日の家光臨終の間際に「肥後よ宗家を頼みおく」
と、次期将軍・家綱の補弼(ほひつ、補佐)をまかされたのです。
正之は20年以上もの長い間、会津へ帰ることなく幕政に専念。

 

とはいえ正之は会津を重臣たちに任せきりにはせず、遠く離れた
江戸より指図をして、会津藩の改革にも尽力しています。

 

「殉死の禁止」「税制改革と減税実施」「飢饉対策」「90歳以上の
高齢者への扶持米支給(これは年金制度の始まりといわれている)」
「間引きの禁止」「救急医療制度の創設」等々。

 

 

160814hyugazaka   「二の橋」を渡ると「日向坂」 会津藩保科家下屋敷付近

 

 

 

「都知事」兼「首相」

正之は、会津藩主であった以上に江戸の幕政に専念して、まさに
東京都知事であり日本国首相のような働きをした人でもありました。

 

武力の武断政治から文治政治へと流れを変え、「末期養子禁の緩和」
「大名証人制度の禁止」「殉死禁止令」の三大美事といわれる
正之の施策は江戸幕府の基盤を安定させることになりました。

 

忘れてはいけないのは、このブログで御紹介している麻布の
古川の水源の一つである玉川上水の開削をしたのも保科正之。
江戸の人口が増えて足りなくなった水を補うための策です。

 

 

160729ninohasi          古川に架かる「二の橋」

 

 

 

自分の屋敷は後回し

明暦の大火(振袖火事)では江戸城も、二の丸を除いて多くを焼失。
幕閣らは天守閣の再建を主張しますが、正之は町方の復興を優先します。

 

廃墟のようになってしまった江戸の町の復興に、全力を注いで
いる正之には、焼失した自分の屋敷のことなど考える余裕はなく
そちらは全て、嫡子・正頼に任せきりの有様。

 

その時の過労がもとで正頼は病死をしてしまいます。
しかし、その死を悲しむ暇もないほど正之は奮闘を続けたのです

 

明暦の大火の数年後、無理がたたった正之は50歳を過ぎる頃から
ろうがい(結核)に苦しみ、また眼病も患って晩年には失明。

 

 

aiduaoi「会津葵紋」

 

 

将軍の子に生まれながら、兄弟すら自分の存在を知らず、
長じては、4代将軍となった幼い甥・家綱を全力で支え
将軍以上の働きと実績を残し、生涯、養父の姓を名乗り続けた正之。

 

会津藩保科家が「松平」姓を名乗り、「会津葵」の家紋を
使うようになったのは、第3代藩主・正容(まさかた)からです。

 

1672年(寛文12年)12月18日に、「肥後殿橋」と呼ばれた
「三の橋」近くの会津藩江戸下屋敷で保科正之は亡くなっています。
61歳でした。

 




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