江戸時代の地図「江戸切絵図」 

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「切絵図」

このところ古川に架かる橋のお話をする時に「江戸切絵図」を
用いていますが、切絵図は現在の地図とは少々趣が異なっています。

 

「切絵図」とは、地域毎に区切られている絵図の
ことであり、その多くは江戸のものを指しています。
下書きされた地図を、絵師が仕上げたために絵図と呼ばれます。

 

江戸を大きな1枚の地図で表したものは、持ち歩くの不便ですが
地域毎の切絵図は携帯に便利なため、好評だったということです。

 

 

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武士たちの必需品?

江戸は人口100万人という世界最大の都市でもあり、その半数は武士
ともいわれていますが、江戸詰の武士たちはそれぞれの藩の地元から
やってきているわけで、江戸の地理には詳しくありません。

 

そのような武士が、他家へ行く時にとても重宝したのが切絵図でした。
一方、便利な携帯品として使われただけではなく、江戸のお土産
としても江戸切絵図は人気があったというのも、おもしろいところ。

 

江戸切絵図を制作していたのは、「吉文字屋(きちもんじや)板」、
「近吾堂板」、「尾張屋板」、「平野屋板」の四つ。

 

 

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最初の「吉文字屋板」はなぜか不評

まず最初に切絵図を刊行した「吉文字屋板(美濃屋板)」は
1755(宝暦5)年から1775(安永4)年の間、本屋の吉文字屋と
と美濃屋の合同で8枚の切絵図を出版しています。

 

目のつけどころはかなりのものだったと思うのですすが
売れ行きは芳しくなく、江戸全体までを網羅する前に制作中止。

 

なお切絵図1枚がどれほどの値だったかについては
2000円位ではなかったか(「噺の話」)としています。

 

安いとはいえないまでも、旗本屋敷等では仕事上で欠くことが
できないものなので、高過ぎる値段ではなかったようです。
この値段は、寄席の木戸銭とほぼ同じ額だったとか。

 

 

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道を訪ねられ続けて「近吾堂板」

「近吾堂板」は「近江屋板」とも呼ばれ、1846(弘化3)年から
1856(安政3)年にかけて江戸切絵図を刊行しています。

 

近江屋は、江戸麹町10丁目(現在4丁目)にお店を構える荒物屋
でしたが場所柄、荒物屋五平のお店には、様々な武家屋敷への道
を訪ねてくる人が後を絶たず、その数は仕事に支障を来すほど。

 

五平は番町の地図を作ろうと思い立ち、調べてみると90年ほど前に
吉文字屋という本屋から番町地図が出版されていることがわかりました。
調べを重ねて番町の切絵図の出版に漕ぎ着けましたが、これが好評。

 

番町以外の「永田町絵図」「駿河台小川町図」「日本橋並神田辺之図」
等々の切絵図も手がけるようになり、最終的には江戸全体を
網羅する38枚の切絵図が刊行されました。

 

 

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近吾堂板切絵図は池波正太郎のお墨付き

1955(昭和30)年の秋、まだ小説家になる前の池波正太郎は
1849(嘉永2)年制の近吾堂板の30余枚の切絵図を購入します。

 

池波正太郎はその後も、数種の古地図や切絵図を入手する
ものの、最初に手に入れた切絵図には及ぶべくもなく、

 

「木版の刷りも、堅牢な紙も、びくともしていない。
手元において、一日に何度となく手に取る、この切絵図を見るとき、
私は、江戸の文化を想わずにはいられない。」
と記しています。(池波正太郎『江戸切絵図散歩』新潮文庫)

 

 

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多色使いが錦絵のような「尾張屋板」

麹町10丁目(現在6丁目)にあった「近吾堂板」の大成功を目の
当たりにしたのが、麹町6丁目(現在4丁目)の絵草紙屋青七。

 

素人の荒物屋にしてあの成功、本業の自分がやらないわけにはいかない
と、1849(嘉永2)年に参入して1863(文久3)年まで続けます。

 

屋号は「尾張屋」、堂号は「金鱗堂」だったため、「尾張屋板」は
「金鱗堂板」ともいわれますが、江戸切絵図では最も有名なもの。

 

この「尾張屋板(金鱗堂)」と、先に出来た
「近吾堂板(近江屋)」とが二大版元といわれています。

 

絵草紙商の尾張屋が手がけた切絵図は、とてもカラフルで
土手や畑の緑、武家屋敷は白、町家が灰色、神社仏閣が赤で
海や川は青く、道路は黄土色と錦絵のようと人気を博しました。

 

 

kituneunagi「尾張屋板(金鱗堂)」の江戸切絵図
古川に架かる「四の橋」付近

 

 

 

現代的だったが何故か不評の「平野屋板」

「平野屋板」は1852(嘉永5)年、ペリーの黒船が浦賀に
来る前年に出版された現代の地図に近い切絵図です。

 

今までのものとは違い、方位や縮尺を全て一定にし、また
それぞれの切絵図が連続するように作られている切絵図でした。

 

ですが人々の支持を得られなかったようで、本来は40枚で江戸全体を
網羅する予定のだったものが、結局は3図だけの刊行に終わっています。

 

 

 

azabukotizu右の真ん中あたりにオレンジ色の丸がありますが
この地図での東西南北が示されています。

 

 

江戸切絵図のルール ①
「北が上ではない」

これらの刊行された切絵図の全てに共通することではありませんが
切絵図には現代の地図とはことなったお約束、決まりがあります。
まず、現在の地図のように北が上ではないこと。

 

北が上ではありませんので、東西南北はこのようになっていますと
いう意味で、上の切絵図のように()の中に、方位が示されています。

 

私はブログで使う時は出来るだけ上が北に近くなるようにしています。
例えば下の切絵図は、右下の文字でおわかりの通り
90度回転をして北が上になるようにしたもの。

 

 

hurukawa  古川の「四の橋」、南部美濃守(現在の有栖川公園)付近の切絵図

 

 

 

江戸切絵図のルール ②
「表門側を上として名前を書き始める」

次の切絵図は前回、御紹介した保科正之のお屋敷が載っている
ものですが、各大名家の名前の書き方の、向きがバラバラですね。
これは表門がある方を上として、名前を書いているからです。

 

右下四分の一以上を占めている会津藩保科家の屋敷は、名前が
横向きに書かれていて、かつ右を頭として書き始めていますので
右の「綱坂」のある道路が表門だったということがわかります。

 

 

aiduhoshina     古川に架かる「三の橋」、「二の橋」付近の切絵図

 

 

町名や坂、川の名前も同様で、どちらを上(最初の文字)
にするかによって、それぞれ意味をもたせています。

 

町名では、江戸城がある方を上(最初の文字)として書き、
坂名は、坂の高い方から低い方に向けて、
川の名は、上流から下流に向けて書かれています。

 

 

 

江戸切絵図のルール ③
家紋、■、●  の表すもの」

また、会津藩保科家(松平肥後守)の名前の上には「黒い丸(●)」が
あり、他の屋敷に多く見られるような家紋は見当たりませんが、これは

 

「家紋」がついている場合は「大名家の上屋敷」を表し、
「黒い四角(■)」は、「大名家の中屋敷」を、
「黒い丸(●)」は、「大名家の下屋敷」をそれぞれ表しています。

 

そこで会津藩保科家の三田藩邸は下屋敷ということになりますが、この
地図はそれ以外にかなり詳しい情報を書き込んでいる地図のようです。

 

 

 

他の情報を加えたものも

例えば、次の地図は同じような場所を表した1857(安政4)年の
ものですが、「● 松平肥後守」とだけ書かれています。

 

 

higonokami1857    古川に架かる「一の橋」「二の橋」「三の橋」付近の切絵図

 

 

先ほどの地図には、領地名、藩主の名、石高が記載されています。
「陸奥会津藩(福島) ●  松平肥後守容保 二十三万石」

 

松平容保(かたもり 1852年〜1868年)は、会津藩
第9代目の藩主であり実質的には最後の藩主でしたので、
この切絵図はそれ以降に作られたものですね。

 

 

 

江戸切絵図のルール ④
縮尺の不正確さ(実測より「心測」?)

最後に刊行された「平野屋板」の切絵図は縮尺が正確でしたが
それ以前のものがそうでなかった理由は、測量技術の未熟から
というよりは、あえてそのようにしていたということです。

 

つまり、有名な建物、木といったものをあえて大きく描くことは
切絵図を見る人の心の中でも、それらが大きくクローズアップ
されていた故に、逆にバランスがとれていたというわけです。

 

存在感が大きいものを実際以上に大きく表すことは、事実とは異なり
ますが、それはいわば実測ではなく心測(という言葉はありませんが)
思いを測った心の反映であって、何か頷けるような気もします。

 




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