仙台藩伊達家下屋敷沿いの大きな坂「仙台坂」 麻布の坂4

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

160712sendaizaka

 

 

「振袖坂」とは対照的な「仙台坂」

二の橋から続いている「日向坂」の別名が「振袖坂」という名前
だったことから、私は勝手に「振袖坂」の名は「仙台にある同名
の坂から来たものではないか」
との妄想を書いたことがありました。

 

「振袖坂(日向橋)」のほんの少し先には「仙台坂」があります。
「仙台坂」の名前の由来は、仙台藩伊達家下屋敷
があったことから命名されたものです。

 

 

160814hyugazaka「日向坂(振袖坂)」

 

 

下の江戸時代の地図では、水色の「・・・」で囲ったところが
仙台藩伊達家(松平陸奥守)下屋敷の場所。

 

水色の線「———」が「仙台坂」です。
ピンク色の線が「———」が「振袖坂(日向坂)」ですが
「仙台坂」の高低差や長さに比べて、やさしい穏やかな坂です。

 

 

hyugazakasendaizaka・・・」で囲んだ部分が仙台藩伊達家下屋敷
———」が仙台坂   「———」が振袖坂

 

 

 

現在は韓国大使館

下の写真を撮ったのは、「仙台坂」の左端。
左端が一番高くて、右に向かって下り坂になっています。

 

元麻布1丁目と南麻布1丁目の間を通る「仙台坂」は、かなり長くて
傾斜もある、大藩の仙台藩に相応しい坂然とした坂。

 

 

160712sendaizaka「仙台坂」右が南麻布1丁目で、左は元麻布1丁目

 

 

この写真の場所から少し下った右側には現在、韓国大使館があります。
本当は韓国大使館の写真も撮りたかったのですが、入口に警察官
(警備員?)が棒を持って立っていたので、撮りそびれてしまいました。

 

実はその時、財布を落としたのに気づいて韓国大使館の前を2往復
行ったり来たりとウロチョロしていて不審者と間違えられないかなと。

 

 

仙台藩伊達家の家紋「竹に雀」

 

 

 

最初の上屋敷は外桜田

ここ麻布にあった仙台藩伊達家の屋敷が下屋敷だったことは間違いない
ようですが、実は屋敷の上中下の呼称と、数、場所は江戸時代を通して
一定ではなく変化しているので、とてもわかりにくいのが実情です。

 

仙台藩伊達家の最初の江戸屋敷は、1601(慶長6)年に
徳川家康から外桜田に与えられたもので、1661(寛文元)年
まで上屋敷として使用されていました。

 

江戸初期の段階では4カ所だった、仙台藩伊達家の
江戸屋敷は、幕末には7カ所に増えています。

 

 

kuromaiinaho370

 

 

 

1841(天保12)年に幕府に提出した仙台藩の記録

上屋敷 芝口3丁目(港区東新橋1丁目 旧JR汐留駅構内)  25,819坪

中屋敷 愛宕下(港区西新橋3丁目)             10,842坪

下屋敷 麻布(港区南麻布1丁目 韓国大使館周辺)      21,293坪

下屋敷 品川大井(品川区東大井4丁目)      2,134坪と借地1,006坪

下屋敷 大崎袖ヶ崎(品川区東五反田3丁目)  16,680坪と抱地5.990坪

蔵屋敷 深川(江東区清澄1丁目)           5,396坪余預地50坪余
                  (「江戸に仙台を見る」

 

 

 

1702(元禄15)年12月15日の早朝

1841(天保12)年の記録にある上屋敷は、最初に賜った外桜田の屋敷
とは異なり、1641(寛永18)年に幕府から与えられ、1676(延宝4)年
以降。幕末まで上屋敷として機能した「浜屋敷」と呼ばれるものです。

 

この仙台藩伊達家の「浜屋敷」の表門前に、1702(元禄15)年
12月15日の早朝に、赤穂義士の一団が通りかかりました。

 

本所の吉良邸の討ち入りを終え、主君の浅野内匠頭の墓所
高輪泉岳寺へ向かう途中の赤穂義士たちでした。
仙台藩士は赤穂義士を呼び止め、お粥をふるまったといわれています。

 

 

160519kousogenmai

 

 

この時のお米は、うるち米を蒸して乾燥させた「干し飯(ほしいい)」
と呼ばれる軍糧(ぐんりょう)として作られていたものでした。

 

軍糧(ぐんりょう)とは、軍隊の食料、兵糧(ひょうろう)のことで
仙台糧として特定の製造所で作られていた特産品だったとか。

 

「干しいい」は「糒」という、見たこともない難しい漢字ですが
「干し飯」は「ほしめし・ほしいい」といわれたお米で作る保存食。

 

仙台藩士が赤穂義士に、干し飯で作られたお粥をふるまった
と聞いた時に、私は最初、不思議な気がしました。
なぜわざわざ、あのような乾燥してかたいもので作ったのだろうと。

 

「あのような」とはいえ、私は干し飯を実際に見たことはないの
ですが、炊いた御飯を乾燥させカラカラにしてあるもののようですし。
などと考えていたら、思い出しました、大昔に読んだ『伊勢物語』を。

 

 

160602arisugawakoenhanashobu

 

 

 

「乾飯の上に涙おとしてほとびにけり」

「昔、男ありけり」の在原業平が京から東に下る途中、カキツバタの花が
咲いていたことから、「カキツバタ」の5文字を入れて句を詠みました。

 

ら衣 つつなれにし ましあれば
*              るばる来ぬる びをしぞ思ふ」

 

(着慣れた唐衣のように、親しんだ妻を都に置いてきて
カキツバタの花を見ると、はるばる来たのだなあとしみじみ思う)

 

という句ですが、これを聞いたその場の皆が悲しさで涙を落とすと
食べていた乾飯(かれいい)がふやけてしまったというお話。

 

 

images干し飯

 

 

 

「仙台藩特製 干し飯」

この時代の人はよく泣いたようですが本当にそんなに泣いたの?という
のは今回は置いておき、乾飯(かれいい)がほとびる、柔らかくなった
ということは簡単に柔らかく、食べられるようになるということ。

 

今の私たちが想像する以上に、お湯さえ用意すれば簡単に
お粥に変身する、インスタント食品なのかもしれません。

 

赤穂義士たちがお粥が出来上がるのを広間で待つ、などありえません
から、本当にあっという間に用意することができたのでしょう。

 

 

130121azuki

 

 

つまり長期保存が可能で、かつすぐに食べられるということ。
仙台市の『東京に残る正宗公ゆかりの地』によりますと、
「仙台糧として特定の製造所で作られていた仙台藩の特産品」とか。

 

自慢の特産品であり、現代だったならばさしずめ
特許取得の「仙台藩特製 干し飯」だったのかもしれませんね。

 

表高62万56石4升4合、実高は支藩であった一関藩を含めて
18世紀初頭には100万石を超えていたという、さすが
諸藩のなかで第3位の石高を誇る仙台藩伊達家だけあります。

 

真冬の早朝に思いもかけない、温かいお粥にあたたかな心遣い、
赤穂義士たちにはさぞ美味しく感じられたことでしょう。

 




スポンサードリンク



コメントを残す