もう一つの「保科家」は麻布のお蕎麦屋さんの生みの親? 「二の橋」古川の橋12

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保科正之の方ではない「保科家」

「三の橋」のそばには保科正之が初代会津藩主となった会津藩保科家の
下屋敷がありましたが、今日は「二の橋」のそばの保科家の御紹介です。

 

下の江戸切絵図の緑色の矢印が「三の橋」で、その矢印がある藤色の
●  ●  ●」で囲った場所が会津藩保科家の下屋敷「三田藩邸」でした。

 

切絵図では
「陸奥会津藩(福島) 松平肥後守容保 二十三万石」とあります。
(松平肥後守は、会津藩保科家のことで、容保は会津藩最後の藩主)

 

 

aiduhoshina緑色の  ←「二の橋」 「 ● ● ● 」は会津藩松平肥後守の下屋敷
水色の  ←「三の橋」 「———」が飯野藩保科弾正忠の上屋敷

 

 

会津藩保科家の上に見える水色の矢印は「二の橋」を指していますが
「二の橋」の左(西側)に水色の線で囲った場所が、もう一つの保科家。

 

家紋(並び九曜紋)とともに
「上総飯野藩 保科弾正忠正益」と記されています。
現在の住所では麻布十番3丁目、以前は網代町と呼ばれていた場所です。

 

 

160729ninohasi「二の橋」を渡った先の右奥の方が保科正之の屋敷で
橋の手前、左の方にあったのが保科弾正忠の保科家

 

 

「二の橋」から飯野藩の保科家の屋敷があった方を写したのが次の写真。
右のビルの後の方、またはるか右の方まで保科家の敷地でした。

 

 

160814ninohashi      右の建物あたり一帯が「保科家弾正忠の上屋敷」

 

 

 

「弾正忠」は何と読む?

ところで保科家の後に続く「弾正忠」が読めません……。
保科家の敷地の中には、家紋と一緒に
「上総飯野藩(千葉) 保科弾正忠正益 二万石」とあります。

 

 

aiduhoshina

 

 

この江戸切絵図は復刻版ですので「上総飯野藩」の説明として
(千葉)と加えられており、版籍奉還をした最後の藩主の
「正益(まさあり)」の名前が記されています。

 

そして問題の「弾正忠」の読み方ですが、これは
律令制の官位だということは前々回に書きましたが、

 

官位とは「官職」と「位階」を組み合わせた言葉で
国の機関で働く人に割り当てられた職場のことです。
「位階」とは地位や身分の序列を表したものです。

 

 

hyugazakasendaizaka       この切絵図では「家紋 保科弾正忠」とのみ

 

 

 

「弾正忠(だんじょうのじょう)」

「弾正台」というのは、今でいう警察のような働きをしていて
「弾正台」の長官を「尹(いん、かみ)」といい、「弾正尹」と書いて
「だんじょうのいん」あるいは「だんじょうのかみ」と読みます。

 

続いて、「大弼(だいひつ、だいすけ)」「小弼(しょうひつ、
しょうすけ)」「大忠(だいじょう)」「小忠(しょうじょう)」
「大疏(だいそ、だいさかん)」「小疏(しょうそ、しょうさかん)」。

 

ということで保科正益は「弾正忠(だんじょうのじょう)」と
なるのですが、「だんじょうのちゅう」と書いてあるものが多く
見られますが、正しくは「ちゅう」ではなく「じょう」だとか。

 

ですから「保科弾正忠正益」は
「ほしなだんじょうのじょうまさあり」となります。

 

織田信長の家も「弾正忠」を代々名乗り、また米沢上杉家当主は代々、
「弾正大弼(だいひつ、だいすけ)」を叙位されて名乗っていました。

 

 

aiduaoi          会津藩保科家の家紋「会津葵」

 

 

 

正之の養子により廃嫡

こちらの保科家は、保科正貞が初代藩主となる飯野藩保科家です。
初代高遠藩主の保科正直の三男として生まれましたが
7歳の時に子どものいない兄・正光の猶子となります。

 

猶子(ゆうし)というのは、養子より少し緩やかな親子関係を
指しますが正貞の他に、親類の左源太という養子もいたそうです。

 

 

               |———— 左源太
        高遠藩主   |
保科正直 ——— 正光 ———|———— 正貞(正光の弟)
       (1561〜1631) |     (1588〜1661)
               |
               |———— 正之
                     (1611〜1673)
                       ↑
                         |
   徳川家康 ——— 徳川秀忠 ——— 幸松(保科正之)

 

 

15歳で実父・正直、養父・正光と同じ「甚四郎」に改名して秀忠に仕え、
18歳で諸大夫、従五位下弾正忠を叙任し、大坂冬の陣、夏の陣と活躍。

 

1617(元和3)年、30歳の時に、正光が秀忠の子・正之
(当時は幸松)を養子として迎えたために廃嫡。

 

 

narabukuyo         保科家の家紋「並び九曜(角九曜)」

 

 

 

43歳で3千石の旗本

養父の正光と不仲だったともいう正貞は35歳で高遠を去り、親類の
いた伊勢桑名藩などに寄宿したあとに、1624(寛永元)年、江戸に移り
43歳で下総香取両群内に3000石を与えられ旗本になりました。

 

1631(寛永8)年には、大坂定番になっていますが、この大坂定番
(おおさかじょうばん)とは、大阪城での警護を主とする仕事で
2万石前後の譜代大名が任じられたようです。

 

仕事は大阪城の警備に限らず、大坂東西町奉行、堺奉行の監督、
直領の徴祖と訴訟や裁判、西日本の大名の監視と多岐にわたりました。

 

 

160814ninohashi     保科正貞の亡くなった保科弾正忠の麻布上屋敷跡

 

 

 

保科家の本家に

同じ年に、保科正之から保科家代々伝来の家宝文物を
譲り受け、ここで保科正貞の保科家は本家となりました。

 

その後、7000石を領していた正貞は1648(慶安元)年、1万石を加増
され、上総国飯野(千葉県富津市)と摂津国豊島群浜村(大阪府豊中市)
に陣屋を設け、1万7000千石の大名として飯野藩を立藩。

 

1680(万治3)年11月22日に、年齢を感じ大坂定番を辞した翌年、
1661(寛文元)年11月1日、74歳で江戸藩邸で亡くなっています。

 

 

iinojinyakohun       飯野陣屋の敷地の中にあった古墳(千葉県富津市)

 

 

 

飯野藩藩主

保科正貞の飯野藩は、現在の千葉県富津市の藩で
お城はなく飯野陣屋に藩庁が置かれていました。

 

このあたりは転封が頻繁に行われた地ですが、1648(慶安元)年の
立藩以来、1868年の明治維新にいたる223年間、一度の国替えもなく
藩主の保科家が10代に亘って治めています。

 

富津市飯野にあった飯野陣屋は、長州徳山陣屋、越前敦賀陣屋
とともに、日本三代陣屋の一つにも数えられる陣屋。

 

東西は約350メートル、南北は約280メートルに及び、陣屋の内邸
(うちやしき)の面積は41,000坪(東京ドームの3倍ほど)で、
周囲にある藩士の邸宅、外邸を合わせますと71,000坪にもなりました。

 

保科正貞は大坂定番として、死去の前年まで大坂城に詰めていたので
この立派な陣屋で長い時を過すということはなかったそうです。

 

 

160919sarasinahoriisoba

 

 

 

7代藩主がいなかったら、麻布の有名な
お蕎麦屋さんはなかったかも?

時は移って寛政年間、上総飯野藩藩主は第7代藩主
・保科正率(まさのり 1752〜1815)になっていました。

 

保科家ゆかりの信州からきた信濃布を商う清右衛門は、元禄の初め頃
飯野藩の江戸麻布上屋敷の長屋に逗留することを許されます。
清右衛門は「布屋太兵衛」という商号で晒布の行商をしていました。

 

こちらも第を重ね、8代清右衛門になっていた1789(寛政元)年。
本業は布屋の清右衛門は、蕎麦を打つのがめっぽう上手。
藩主・正率のすすめにより清右衛門は蕎麦屋になってしまったのです。

 

この流れを汲むお蕎麦屋さんが、現在も麻布にあります。
さて、どのお蕎麦屋さんでしょうか?、次回をお楽しみに!

 




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