宇和島藩初代藩主・伊達秀宗は、伊達政宗の長男

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六本木にあった宇和島藩・上屋敷

前回、愛媛県西予市の「山田まんじゅう」をご紹介しましたが
江戸時代、西予市は宇和島藩の宿場町として栄えた町です。
その宇和島藩の江戸藩邸・上屋敷は、麻布にありました。

 

当時は麻布龍土町という地名でしたので「宇和島藩麻布屋敷」
と呼ばれていましたが、今の住所でいうと六本木7丁目。

 

現在その場所には、国立新美術館、
政策研究大学院大学などが建っています。

 

 

宇和島藩伊達家の上屋敷があった「国立新美術館」六本木

 

 

麻布には仙台藩伊達家の下屋敷もありましたので、
江戸時代、麻布には宇和島藩伊達家の上屋敷と、
仙台藩伊達家の上屋敷があったことになります。

 

下の地図では、上の方が宇和島藩の上屋敷、下が仙台藩の下屋敷。
宇和島藩伊達家があるのは、東京ミッドタウンの正面あたりで、
六本木ヒルズを挟み宇和島藩伊達家が上で、仙台藩伊達家が下です。

 

宇和島藩伊達家の上屋敷は、36,051坪の広い敷地であるのに対し
港区南麻布1丁目にあった仙台伊達家の下屋敷は、21,293坪。
東新橋にあった仙台藩伊達家の上屋敷でも25,819坪だったそうです。

 

 

 

(地図の上の方) 宇和島藩伊達家 上屋敷 36,051坪
(地図の下の方) 仙台藩伊達家 下屋敷  21,293坪

 

 

 

仙台藩主・伊達政宗の長男と生まれながら

伊予宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗は、仙台藩の初代藩主
である伊達政宗の長男として生まれ、当初は2代仙台藩主にと
目されていたものの、諸事情からそれは叶いませんでした。

 

その理由としては、秀宗の母親が正室ではなく側室だったからと
いわれていましたが、実はそうではなく別の事情だということです。

 

1591(天正19)年に、兵五郎という幼名の秀宗が、陸奥国の
村田城で生まれた時、政宗の正室・愛姫(めごひめ)には男子が
長い間無生まれなかったために、待ち望まれた世子誕生でした。

 

しかしわずか3歳の1594(文禄3)年、父・政宗に
伴われて秀吉に拝謁した後、人質として秀吉に差し
出された兵五郎は伏見城で暮らすことになります。

 

 

 

 

 

秀次事件

秀吉が甥である秀次に、跡を託した後の1593(文禄2)年、
淀殿が秀頼を出産すると、秀吉はことのほか喜びようでした。
前田利家夫妻を仲人にして、生まれたばかりの秀頼を
後継者・秀次の1歳の娘と婚約をさせるなどと考え出す始末。

 

そして翌1595(文禄4)年、突如秀次に謀反の嫌疑がかけられ
瞬く間に秀次の切腹と、妻子等39名の処刑という事件が発生します。

 

この処刑は京都の三条河原に40メートル四方の堀が掘られた中で、
秀次の子の遺体の上に、その母、侍女,乳母等の遺体が次々と
無造作に折り重なっていくという酷いものだったといいます。

 

 

 

 

 

 

秀吉のもとで元服し「豊臣」秀宗に

この秀次事件の後、秀吉は伊達政宗に起請文を出させています。
「もし政宗に逆位があれば、直ちに隠居して兵五郎を
当主に立てる」という内容の誓約でした。

 

1696(文禄5)年9月、兵五郎は豊臣秀吉の猶子となり元服。
秀吉から偏諱(へんき、名前の一時をもらうこと)を受け
「秀宗」と名乗るとともに、従五位下侍従に叙位、任官。
3歳の秀頼のお側小姓となります。

 

 

 

 

 

そのわずか2年後の1698(慶長3)年、秀吉が死去、
1600(慶長5)年には、五奉行の石田三成等が五大老の
徳川家康に対して挙兵し、関ヶ原の戦いが始まりました。

 

秀宗は、石田三成方の宇喜多秀家のもとで人質となり、
1602(慶長7)年には、徳川氏の人質になることに。

 

いくら戦国の世とはいえ、現在でいえば小学校を卒業する
までに、3度も人質として各地を転々とさせられたのです。

 

 

 

 

 

異母弟・忠宗が誕生

その頃、父・伊達政宗と正室の間に男子が誕生しました。
後の仙台藩2代藩主となる伊達忠宗、幼名・虎菊丸です。
翌年の1月、政宗は虎菊丸を家康に拝謁させています。

 

一方、秀宗は家康に、徳川四天王の一人で重臣であった
井伊直弼の娘・亀を正室するよう命じられます。

 

1611(慶長16)年、弟の虎菊丸が江戸城で元服し、将軍・秀忠
から忠の字をもらい、忠宗と名乗ることになりました。

 

 

 

 

 

 

理不尽な藩主除外

豊臣秀吉から「秀」をもらい一時は豊臣姓を名乗り秀頼に仕えた
秀宗は、伊達家の長男とはいえ徳川の世で仙台藩主となるのは
ふさわしくない、これが藩主になれなかった理由だといいます。

 

しかし私は、これに大いに疑問を感じざるをえません。
人質となった秀宗が、親の反対をおして勝手に伏見城に
行ったわけではなく、親の命令に従ったまでです。

 

当時、兵五郎はわずか3歳、仙台を離れたくはなかったでしょう。
今でいう小学校1年生で既に小姓として秀頼に仕えていますが
それらも全て、政宗をはじめ周囲の大人が決定したこと。

 

 

 

同じ「秀」だし、ってダメ?

自らの意思で秀吉の家臣だった武将達が、全て遠ざけられた
というわけでもないのに、親の意思に幼児の時から従った子が
父・政宗の跡を継ぐことができないとは、なんとも理不尽です。

 

確かに弟の名前は、秀忠から一時をもらったものではあります。
徳川秀忠から「忠」の字を賜り虎菊丸 (弟) →「忠宗」に対し
豊臣秀吉から「秀」の字を賜り兵五郎  (兄)→「秀宗」と。

 

ですが幸い(?)といってもはなんですが、秀吉も秀忠も
ともに「秀」の字ががついているのですから、ここはひとつ
「『秀宗』の『秀』は『秀忠』の『秀』から賜ったことにする」
などという新しい解釈にするとかなんとか……。

 

 

 

 

 

例えば現在の日本に目を転じてみても、離婚後も結婚して
いた時の氏を使う人もいますが、この時、結婚していた時の氏
である「伊達」は、離婚後に名乗っている氏の「伊達」とは、

 

「民法上の氏は異なる」などという、わけのわからない
説明が、21世紀の日本でもなされているわけです。

 

秀宗は、秀吉の人質であり、家康の人質でもありました。
であるならば「秀」の一字の解釈など、いかようにも
できそうなもの、などというおしゃべりはこれくらいにして。

 

 

 

 

 

参陣の功として

そのような中、秀宗は父とともに1614(慶長19)年、大阪冬の陣に参陣。
いくさ後、徳川から政宗に伊予宇和島10万石が与えられました。

 

政宗はそれを秀宗に譲りたいと申し出て許されたこと
から秀宗は、10万石の伊予宇和島藩主となったのです。
仙台藩の支藩ではなく、国主格(国持)大名としての扱いです。

 

秀忠からは、西の伊達、東国の伊達と相並ぶよう命じられたと
いいますが、これは有力外様大名である伊達家の東西分断、かつ
豊臣家に近い秀宗を四国に遠ざけるためだったともいいます。

 

 

 

 宇和島藩伊達家の家紋

 

 

 

仙台伊達家からの「家臣」と「借財」が紛糾の元に

政宗は伊予宇和島に向かう秀宗につける家臣を、仙台藩伊達家
家中から選び出し、また藩主交代が続いて藩の財政が疲弊して
いた宇和島藩のための初期の資金として6万両を用意します。

 

一説には3万両ともいいますが、何れにせよ大金には違いなく、
それらの返済に関して宇和島藩では紛糾の原因となりました。

 

1615(慶長20)年の3月18日、伊達秀宗が宇和島城に
入城したことにより、宇和島藩が正式に成立しました。

 

仙台伊達家からの多額の借財とともに、仙台藩からきた家臣と
そうでない藩士との間で揉め事が生じ、殺人にまで至ります。
一時、政宗は激怒して秀宗を勘当したそうですが、後に和解。

 

このことがあり、父子の関係はかえって良好になったといいます。
長男でありながら家督を継げなかったこと、また長期にわたる
人質生活のことなどを、父・政宗に訴えることができたからです。

 

 

 

 

 

伊達政宗の長子

秀宗は仙台藩の支藩と扱われることを嫌いました。
将軍・家光と御成之間での対面の折には
弟の忠宗より上座に着席したともいわれます。
石高は少なくとも忠宗より年長であるとの意思表示でしょう。

 

父・政宗から「唐物小茄子茶入」や、秘蔵の伽羅の名香「芝舟」
を贈られた秀宗は、父と同様に和歌の才に秀でていたことから
和解後は、和歌の交歓をしながらも藩政に力を注ぎます。

 

1622(元和8)年に遠江守を叙任し、
1626(寛永3)年には従四位下に昇位。
そして1636(寛永13)年、政宗死去。

 

 

こちらは細川家所蔵の香木「白菊」ですが、実はこれ
「一木四銘香」といい四つの名前を持っている香木で
政宗から秀宗に贈られた「芝舟」と同じ香木です

 

 

 

維新まで続いた宇和島藩

1657(明暦4)年7月21日に、秀宗は世子の宗利に家督を譲って
隠居し、8月16日には、五男の宗純に伊予吉田藩を分知。
これにより宇和島藩は7万石、吉田藩は3万石となりました。

 

翌1658(明暦4)年、6月8日江戸藩邸にて死去、68歳。
死後の翌日、宮崎八郎兵衛、高島太郎衛門が、
18日は神尾勘解由、23日には渡辺左衛門が殉死したといいます。

 

 

 

 

秀宗後は、2代・宗利(むねとし)、3代・宗賢(むねよし)、
4代・村年(むらとし)、5代・村候(むらとき)、
6代・村寿(むらなが)、7代・宗紀(むねただ)、
8代・宗城(むねなり)、9代・宗徳(むねえ)
と宇和島藩伊達家は、江戸末期まで存続しました。

 

多くの家がそうであるように、血縁としては途中で耐えたため、
3代は仙台藩主家から宗賢(むねよし、秀宗の弟)を迎えています。

 

また8代藩主・宗城は、土佐の山内容堂、福井の松平春獄、
薩摩の島津斉彬とともに「幕末四賢侯」と称され活躍しました。

 

 次回は、六本木の宇和島藩伊達家上屋敷跡
  からの出土品についてです、また見てね〜!

 




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