佐賀藩鍋島家の成立とお家騒動

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宇和島伊達家のお隣の「鍋島家」

冒頭の江戸時代の切絵図で藤色の三角形に見えるのが
宇和島潘伊達家の上屋敷があった場所で、そのお隣の
緑色の四角で囲った場所が佐賀藩鍋島家上屋敷です。

 

宇和島藩伊達家は地図上では「伊達遠江守」と、
佐賀藩鍋島家の方は「鍋島甲斐守」と記載されています。

 

宇和島藩伊達家の方は現在、国立新美術館、政策研究大学院
大学、都立青山公園、米軍ヘリポートなどになっていますが
佐賀藩鍋島家は小さく分けられて沢山の建物が建っています。

 

住所でいいますと六本木7丁目の一部ですが、現在メルセデス
ベンツ東京コネクションがあるあたりでしょうか。

 

 

「ブルーボトルコーヒ」六本木カフェ付近も佐賀藩鍋島家の近く

 

 

 

藩主の補佐役に就任

「佐賀藩」は「肥前(ひぜん)潘」とも、藩主の名前の
鍋島家から「鍋島藩」といわれることもある潘で
現在の佐賀県と長崎県の一部に該当します。

 

『鍋島家系図』によりますと藩主の鍋島氏は、かつては山代に
住み「長岡」を家名としていましたが、京都の北野に移り、
後に肥前の鍋島に住むようになってから「鍋島」を名のります。

 

鍋島氏は、元は龍造寺(りゅうぞうじ)氏の重臣であり、
鍋島直茂は、龍造寺隆信の義弟にもあたる間柄でした。

 

1584(天正2)年、沖田畷(おきたなわて)の戦いで龍造寺
隆信が戦死すると、遺児の政家が病弱だったこともあり
直茂は政家の補佐役を勤めるようになります。

 

 

江戸時代の刀の鍔(つば)
老松雲竜図鐔(おいまつうんりゅうずつば)
「写真/鍋島家伝来資料博物館「徴古館」」

 

 

 

家臣でありながら所領も持つ

1590(天正18)年、豊臣秀吉は政家を廃して、その子・
高房を擁立するよう命じて所領安堵の朱印状を与えます。

 

それと同時に秀吉は、直茂にも4万4000石、
その子・勝茂にも7000石の所領安堵を認めているのです。

 

ということは、鍋島氏は龍造寺氏の家臣でありながら同時に
大名として所領を秀吉から承認されたということになります。

 

朝鮮出兵の文禄・慶長の役には、龍造寺軍を率いて大将として
参戦するという、なんとも不思議な地位にありました。

 

 

 

 

 

名目上の藩主・高房の自殺

後に徳川家康も、鍋島氏を正式な佐賀藩主と認めますが
1607(慶長12)年、名目上は国主であった龍造寺高房が
江戸の桜田屋敷で妻を殺害後、自殺を試みます。

 

危ういところで家臣が止めて、医師が治療したため死には至らな
かったものの傷は思いのほか深く、その上妻の亡霊に悩まされて
精神を病むようになっていた高房は、再び自殺未遂の後、死去。

 

肥前で高房の死を知りショックを受けた病弱の父・政家も
高房の死から1ヶ月後も経たないうちに亡くなりました。

 

 

 

 

 

佐賀藩鍋島家の成立

高房の後継者として、龍造寺の分家である多久氏、
須古氏、諫早氏などが、鍋島直茂の嫡男・勝茂を推挙します。

 

これを幕府が承認して、1613(慶長18)年に直茂に対して
佐賀藩35万7000石の所領安堵の朱印状が交付されました。
ここに正式に鍋島氏の肥前、佐賀藩主が成立したのです。

 

無念のうちに亡くなった高房は江戸で火葬を
された後に、佐賀城下で埋葬されました。

 

 

 

 

 

お家騒動から歌舞伎の「鍋島化け猫騒動」へ

ところがその後のこと、不思議な噂が
人々の口にのぼるようになります。
高房の亡霊が馬に跨って城下を駆け巡っているというのです。

 

そればかりか、高房の飼っていた猫が化けて出てきて直茂と
勝茂親子に復讐を企てたが、鍋島家の家臣により退治された
というように話は脚色されてゆきます。

 

「2代藩主・光茂が、家臣の龍造寺又七郎と碁をして
いた時に機嫌を損ねて又七郎を惨殺してしまいます。
又七郎の母もこれを恨んで自害すると、母の体から流れた
血を舐めた飼い猫が化け猫となり、光茂の側室を殺し、
奥女中が惨殺されたり、家臣が発狂するなどの凶事が
相次ぎました、最後は忠臣が猫退治をしておさまった」

 

というような化け猫の話にまで脚色されてゆき
後に歌舞伎で上映されるに至ります。

 

 

 

 

しかし話の内容はいく通りもあり、碁をしていたのが光茂では
なく直茂であったり、また龍造寺又七郎などは架空の人物で
実在しないというようにあくまでもフィクションでした。

 

そして『花埜嵯峨猫魔稿(はなのさがねこまたぞうし)』
と題されて、1853年に初演する予定でしたが、これは佐賀藩
の「嘘八百を描くとは何事ぞ!」との強い抗議により中止。

 

そこで登場人物を「直重」と「龍造寺又七郎」ではなく、
「直島大領直茂」と「高山検校」に変え、
『百猫伝手綱染分(ひやくみようでんたづなのそめわけ)』
と題して、ようやく1864年に公演の運びとなりました。

 

これは江戸の人々には人気があったようで、化け猫騒動
として、歌舞伎だけではなく講談や映画などで
その後もしばしばとりあげられています。

 

 

 

 

 

龍造寺家の再興はならず

実は、高房が亡くなった時に、高房の息子・龍造寺伯庵と
高房の実弟である龍造寺主膳が生存していました。

 

二人が幼かったために後継とは認められず、
伯庵は直茂により出家させられていたのです。

 

1634(寛永11)年、伯庵と主膳は幕府に龍造寺家再興の嘆願を
しましたが聞き入れられず、伯庵は会津藩の保科正之のもとに
主膳は大和郡山藩の元へそれぞれ預けられました。

 

その訴訟は1642(寛永19)年までも続きましたが
結局、お家再興が叶うことはありませんでした。

 

 

 

 

 

苦しみを乗り越えて

1618(元和4)年に、6月3日に直茂は81歳で死去します。
長寿ではありましたが、死の間際に腫瘍の激痛で苦しみ悶死を
したことから、高房の亡霊の仕業と噂されたということです。

 

先日、30年以上前から知っている私の知人が亡くなりました。
6年前にくも膜下出血で倒れて意識不明の期間が長期間
続いて、生存確率はゼロに近いという診断でした。

 

万一、命が助かっても植物状態といわれていたのが80歳
直前の時でしたが、なんと奇跡的な回復を遂げました。
しかし数年の時を経て、今回は帰らぬ人となってしまったのです。

 

 

 

 

 

安らかな最期を

80代半ばのその女性は、シワもなく美しいお顔をしていました。
人間の死亡率が100パーセントということは確かですが
できることならば最後は苦しまずにとは誰もが望むことでしょう。

 

直茂のような最期は、たとえ知人ではなくても辛いものです。
ですが、その原因が高房の亡霊のせいであったかといえば
必ずしもそうともいえないような気がします。

 

龍造寺高房もまた、その地位につくまでには、時代の背景も
あるのでしょうが、様々な事柄を経てきているように思えます。

 

今の私達には、実際にどのようなことがあったかはわかりません。
また、たとえ彼らと同時代人であったとしても、全ての場に
立ち会っていない以上は、本当のことはわからないでしょう。

 

全ての人が安らかな最期を迎えることができるなら、
もしかしたらそれは、最高の幸せなのかもしれませんね。

 




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