江戸ができるまで 江戸が公式の場となったのは1635年から

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1590(天正18)年、家康  江戸入城

1590(天正18)年、豊臣秀吉が小田原征伐で
北条氏を滅ぼした後、北条氏の旧領には
徳川家康が転封されることになりました。

 

江戸城は、平安末期から鎌倉時代にかけては
秩父平家の子孫、江戸氏の居城がのちの本丸、
二の丸あたりにあったといわれています。

 

15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落した後の鎌倉時代
には、扇谷上杉家に仕える太田道灌の居所となります。

 

 

 

 

文武に長け築城の名手としても知られる道灌が
手がけた、海に近い険しい台地の上にたつ江戸城は
道灌の名をはずかしめない名城といわれました。

 

1486(文明18)年、道灌が主君の上杉定正に暗殺されると
城は上杉家を経て小田原北条氏の支城となります。
そして1590(天正18)年に小田原北条氏が豊臣秀吉に
敗れた後、秀吉の命により徳川家康が入城したのです。

 

現在の愛知県岡崎市の出身である徳川家康は、
1590(天正18)年の八朔(旧暦の8月1日)に
関東地方の中心となるべき江戸城へ居を移しました。

 

しかし当時の江戸城は、満足に人が住めるような状態では
なかったようで以降、家康・秀忠・家光の徳川将軍三代に
わたる江戸城の整備と拡張が進められることになります。

 

 

 

 

家康が江戸城に入城した頃、秀吉の惣無事令(戦争禁止令)
に従わなかった伊達政宗は、東北で果敢に勢力を
のばし会津城を占拠していた最中でした。

 

会津出陣の準備に入った秀吉は、家康に会津への中継地点の
江戸に本拠を構えるように指示しますが、1591(天正19)年、
伊達政宗の蒲生氏郷との間で和議が結ばれます。

 

その時点で家康は、少々手狭であった江戸城から
北条氏が居城としていた小田原城へ移ることも可能
だったといいますが、家康は江戸を選びました。

 

 

 

 

 

湿地帯が多かった江戸

家康が江戸を選んだ理由の一つには、
伊勢から品川への海上交通が発達していたことや
陸上交通も発展していたことが挙げられます。

 

とはいえ当時の江戸は、現在の日比谷公園のあるあたり
まで海が迫っていて、江戸湾沿いの地帯は汐入地が多く、
満潮になると海水が入り込むという湿地帯が続いていました。

 

人の住める平地を広げるべく家康は、大規模な江戸湊
埋立てを敢行するために、神田山を切り崩します。

 

 

 

 

 

神田山を切り崩して、平地を作る

その土で日比谷入江や他の汐入地を埋立てて平坦
にし、家臣や町民の住む家を建ててゆきました。

 

しかし突貫工事だったために、当初は地面がきちんと
固まっていなかったために、雨が降ると
凄まじいまでの埃が舞い上がったそうです。

 

この地図は、上が埋立て前の江戸で、下が埋立て後
ですが、こんなに海が大きかったのですね。
これほどの土があった「神田山」を見てみたかった……。

 

 

地図(「江戸探訪シリーズ」

 

 

 

隅田川を合流し、橋を架け

神田山の切り崩しと同時に、平川を隅田川に
合流させ、江戸城の外堀とするとともに、
水を運ぶ上水としても活用することにしました。

 

これがのちの神田上水ですが、完成したのは代を重ねて
3代将軍・家光の時代になってからのこと。

 

家康は1594(文禄3)年に、隅田川の最初の
橋である「千住大橋」を架けています。
2番目の橋「両国橋」ができるのは、それから66年後。

 

 

 

 

 

関ヶ原の戦い後、多くの大名家をとりつぶす

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い後に、家康は石田三成、
小西行長らを処刑し、宇喜多秀家を八丈島に流罪、87もの
大名家の取り潰しや転封など大規模な賞罰を断行します。

 

これにより家康が没収した知行高は415万石(知行高を
減じたものを含めると622万石)にも及ぶということです。

 

九州で最後まで参勤をしなかった島津氏が、1602(慶長7)年
12月に上洛することにより、徳川家康の全国統一が成りました。

 

 

 

 

 

1603(慶長8)年 征夷大将軍宣下

1603(慶長8)年2月、伏見在城の家康に征夷大将軍の宣下。
ここに徳川幕府が創設され、徳川氏が公儀を掌握し、
全国の諸大名を統制下に置く法的根拠が与えられます。

 

同じ年に、大坂城では豊臣秀頼と、家康の孫である
千姫(秀忠の娘)との婚儀が執り行われました。

 

家康は1605(慶長10)年5月に、将軍職を秀忠に譲ります。
この時に家康は、大坂の豊臣秀頼にも上洛を催促し、
徳川将軍の臣下として認めさせようとしますが拒絶されます。

 

家康は豊臣系の大名の勢力を削ぐ、様々な方策を講じました。
この時の政治の中心はまだ江戸ではなく京都で、家康は上洛
して政務を執り、諸大名も京都へ馳せ参じるという形態でした。

 

 

 

 

 

豊臣家と徳川家を主従関係に

1609(慶長14)年の正月儀礼は、これまでと同様に
大名が駿府・江戸へ出仕して行われましたが、
同年10月、中国、西国、北国の大名に

 

「12月に江戸に来て越年をすること」を命じて豊臣系
大名に江戸への参勤交代を強制することになりました。

 

1611(慶長16)年3月、家康と秀忠が上洛。
全国の諸大名が馳せ参じ、大坂城の豊臣秀頼も上洛させ
二条城で謁見することにより、主従関係の確認をし、

 

大坂方の1万石以上の大名に対して
一年交代で駿府の在勤をするように命じました。

 

 

 

 

 

大阪冬の陣、夏の陣

その後、大坂冬の陣(1614年・慶長19)と
夏の陣(1615年・元和元年)において豊臣氏が破れた
ことにより、徳川氏と諸大名の権力構造が確立しました。

 

これ以降、幕府は諸大名に対して改易や
転封の処置を行うことが可能になったのです。

 

1615(元和元)年閏6月、幕府は「一国一城令」を発布。
本城を除く全ての支城を破却させています。

 

 

 

 

 

参勤交代「武家諸法度」

さらに将軍、大小名、家臣間の主従関係を法制化した
「武家諸法度」や、「禁中井公家諸法度」「寺社法度」
などを制定。

 

1635(寛永12)年12月の「武家諸法度」の中に参勤交代が
明文化されましたが、この時点までは公儀の城として
機能していたのは京都の伏見城でした。

 

家康や秀忠による諸大名謁見の公式の場が
これ以降、江戸のみに一本化されることになったのです。

 

 

「赤坂見附跡」の標識 後ろは「ガーデンテラス紀尾井町」

 

 

 

世界一の人口を誇る100万都市に

江戸城の大改築は家康以降も続けられて、
幾重にも掘割が取り囲む大城郭ができ上がりました。
2代将軍・秀忠の時に、平川を隅田川とつなげて神田川を完成。

 

徳川家康の手により始まった江戸の大改造は
1636(寛永13)年、3代・家光の時代にほぼ完成します。
江戸城は現在の千代田区をそっくり含むほどの大きさでした。

 

本丸を中心に時計回りに渦巻き状の堀が取り巻き、本丸・
二の丸・三の丸・西の丸・北の丸など内郭だけで約30万坪。

 

 

「赤坂見附跡」

 

 

 

城内には50近い各種の櫓、外郭には赤坂見附や市ヶ谷見附
など36の見附(赤坂見附についてはこちらを
「『見附』とは見つけるところ?(赤坂門)」
を配し、史上例を見ない壮大さと堅牢さを誇るものでした。

 

その後、急速に拡大し、人口が増加していった江戸は
当時、世界一の人口を誇る100万都市となったのです。

 

   (参照/大橋康二「将軍と鍋島・柿右衛門」雄山閣
     「歩く、尋ねる  古地図で江戸さんぽ」淡交社)

 




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