徳川幕府は貿易相手国として、なぜオランダを選んだのか? 

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復刻された「デ・リーフデ号」(長崎ハウステンボス)

 

 

 

1600年、初めて日本に来たオランダ船

1602年に設立されたオランダ東インド会社は、
1609年から日本の平戸に商館を置いて
生糸や銀を中心として交易を行いました。

 

1639年以降は、ヨーロッパ諸国の中では、唯一
日本との貿易を独占する国でもありました。
「オランダ東インド会社( VOC)」

 

そんなオランダが初めて日本にやってきたのは、
1600(慶長5)年の3月、関ヶ原の戦いの5ヶ月前のこと。
豊後国臼杵沖にオランダ船の「リーフデ号」が漂着しました。

 

 

リーフデ号の航路(地図 /「青い目のサムライ」)

 

 

 

110名の乗組員、漂着時は20数名

1598年の6月にロッテルダムから出港したリーフデ号は
南アメリカ南端を回り太平洋にから東洋を目指していた
5隻のオランダ船のうちの1隻です。

 

航海の途中に嵐や、スペイン・ポルトガル船の襲撃にあい
東洋に着くことができたのはリーフデ号ただ一隻。
110人の船員は、漂着時には20数名が残るのみでした。

 

その少数の生存者の中にいたのが船長のクワケルナック、
船員のヤン・ヨーステン、イギリス人航海士だった
ウィリアム・アダムスです。

 

 

 

「ヤン・ヨーステン記念碑」
左がヤン・ヨーステン、右がリーフデ号
八重洲通り(写真/カノオミツヒサ)

 

 

 

「八重洲」と「三浦按針」

ヤン・ヨーステンとウィリアム・アダムスの二人の名が
現在に至るまで残っているのは、彼らの知識を重用した
徳川家康が召し出して働かせたからです。

 

ヤン・ヨーステンは、家康の通訳となり彼が与えられた
居住地は彼の「耶楊子(やようす)」という日本名から
「八代洲(やよす)河岸」と呼ばれ、転じて「八重洲」
と呼ばれるようになりました。

 

住所としての「八重洲(やえす)」は1872(明治5)年
からで、1954(昭和29)年には東京駅の東側が
中央区八重洲になりヤン・ヨーステンの名を残しています。

 

一方、ウィリアム・アダムスは外交顧問として働き
家康から与えられた知行地と水先案内の職務から
「三浦按針」と称されることになります。

 

 

九州の平戸藩、松浦家に伝えられていた
「婦女遊楽図屏風(ふじょゆうらくずびょうぶ)松浦屏風」
江戸時代前期 大和文華館蔵

 

 

 

ポルトガル・スペインが平戸に商館を構える

リーフデ号が豊後沖に現れる以前では、室町時代末期の
1543(天文12)年に、ポルトガル船が種子島に漂着し、

 

1550(天文19)年にはポルトガル船が来航して、領主の
松浦氏に商館の設置を認められ、交易が行われていました。

 

しかし松浦氏はキリスト教の布教を認めなかったため
ポルトガル人は1570(元亀元)年、領主の大村氏から
許可を得て長崎を寄港地とすることになります。

 

ポルトガルに遅れること十数年後の1584(天正12)年、
スペインも平戸に商館を設けました。

 

 

 

 

 

家康からオランダに朱印状が渡される

このようななか、家康は日本との貿易を許可する朱印状
をリーフデ号の船長だったクワケルナックに与えます。

 

これにより1602年に設立した東インド会社の船は
1609(慶長14)年に九州の平戸に到着し、オランダ総督の
マウリッツから家康への親書と献上品がもたらされます。

 

これを受け家康は、使節を駿府に迎え書状と通行許可書の
朱印状を託し、オランダ商館が平戸に設立されました。
1613(慶長18)年にはイギリスも平戸に商館を設けています。

 

 

「南蛮人来朝図屏風」(国立歴史民俗博物館)

 

 

 

スペイン、ポルトガル来航禁止に

1616(元和2)年には、中国の明船を除く外国船の
入港を平戸と長崎に限定する措置が取られます。

 

イギリスは1623(元和9)年に日本との
貿易から撤退し、平戸の商館を閉鎖しました。
翌1624(寛永元)年にはスペイン船の来航が禁止されます。

 

1634(寛永11)年、ポルトガル商館が
長崎に新たに築造された出島に移転した5年後の
1639(寛永16)年、ポルトガルの来航が禁止されました。

 

これは1637(寛永14)年10月に起きた島原・天草の乱
を重くみた幕府が、キリスト教を取り締まる目的
から来航禁止を決定したもの。

 

1613年(慶長18)年のバテレン追放令において、すでに
キリスト教を禁教としていましたが、ポルトガルや
スペインは宣教師を密かに送り込んでいたからです。

 

 


ポルトガルから伝来したお菓子「丸ボーロ」千鳥屋本家

 

 

 

布教目的が少なかったオランダ

幕府は、ポルトガルが日本にもたらしている同量の生糸を
オランダ商館が調達することができるか等を確かめた後の
1739(寛永16)年にポルトガルとの国交断絶に踏み切ります。

 

ポルトガルは、「コショウとキリスト教徒の獲得」を大航海
時代の二大目的としていましたが、スペインも同様で植民地
としたフィリピンや南米をカトリックに改宗させていました。

 

それに対してオランダの東インド会社は、利潤追求の
ための組織でもあったことからキリスト教布教という
目的は、さほど重要ではなかったといわれています。

 

 

オランダ東インド会社(VOC)の注文
によって伊万里(有田焼)で作られたお皿

 

 

 

一時はオランダとの貿易も禁止「台湾事件」

スペイン・ポルトガルの中国生糸入手に対抗するためオランダ
は、1622(元和8)年に台湾に商館と要塞を設けますが
現地の日本人商人との間で紛争が生じてしまいました。

 

バタビアにあった東インド会社の総督は、長官のヌイツに
解決を任せますが、ヌイツは朱印船船長の浜田弥兵衛と争い、
浜田は数名のオランダ人を人質として日本に連れ去ります。

 

これにより1628(寛永5)年、オランダとの貿易は全面停止。
ヌイツが日本側に引き渡され人質と交換に幽閉されることで
解決が図られ、1633(寛永10)年に、貿易が再開されました。

 

ヌイツは1636(寛永7)年に解放されていますが、
この貿易再開を許可されたお礼として商館長の
江戸参府がこの時、義務付けられ定例となります。

 

 

 「元禄染錦写八画面取筒型花瓶」
伊万里の錦手を写したオランダ・デルフト焼

 

 

 

オランダ商館 平戸  →  出島へ

1609(慶長14)年から平戸にあったオランダ商館を
長崎の出島に移すための特使・井上筑後守政重が
1640(寛永17)年11月9日に平戸に派遣されます。

 

オランダ商館長・カロンに伝えた商館取り潰しの
表向きの理由は、倉庫に記された建設年が
キリスト教歴の年号だからというものでした。

 

これをオランダ商館長がすぐに受け入れると
思わなかった幕府は、いずれにせよ流血の事態
は避けられないと予測していたようです。

屈強な男を20人ほど陰に待機させ、カロンが拒否したら
すかさず殺すという計画で、肥前や肥後、有馬の兵士に
オランダ船を破壊する準備もさせていました。

 

 

「南蛮人来朝図屏風」(国立歴史民俗博物館)

 

 

 

一言の抗議もなく受諾したオランダ商館長

しかし、井上筑後守政重の言葉に対して商館長の
カロンは一言の抗議もすることなく平伏して受諾。
石造りのオランダ商館はたちまち壊されることになりました。

 

1619年に平戸に来て江戸参府にもしばしば同行し、日本語
も完全に話すことができたカロンは、将軍の命令には
「承知した」と答えるほかはないと知っていたのです。

 

「一言も抗議せず、将軍の命令をただちに実行したことは、
ヨーロッパ諸国の中で、オランダだけが日本との通交貿易を
許されることになる要因の一つである」
と永積洋子は書いています。
(『平戸オランダ商館日記」1981年、講談社学術文庫)

 

 

 

島原の乱での働き

これ以外には、島原の乱の際のオランダ商館の
行動もプラスに働いたように思えます。

 

オランダ商館は島原の乱の際に、大砲を搭載した商船を
差し向け、反乱軍に発泡し鎮圧に貢献したのです。

 

島原の乱の鎮圧のために派遣されていた松平信綱は
このことを大いに喜び、帰路に平戸へ
寄って
オランダ商館長を労ったという記録も残っています。

 

 

「出島」長崎和蘭陀屋舗圖 (立正大図書館収蔵)

 

 

 

オランダ貿易相手国として選ばれた理由

1 ポルトガルやスペインのように強硬に
 キリスト教布教を全面に出さなかった

2 また島原の乱では幕府に協力的だった

3 平戸の商館を直ちに破壊し出島に移るという将軍の
 命に一言の抗議をすることもなく直ちに実行した

 

これらのことが相まってオランダがヨーロッパ諸国の中で唯一
交易相手国として選ばれたのではないかという気がします。

 

こうして1641年にオランダ商館は出島に移されました。
しかし移転とともに幕府は、オランダ商館に
対して外部との接触もまた厳禁しています。

 

貿易が再開の1633(寛永10)年に義務付けられた、年一回の
将軍に拝謁の参幕旅行以外は出島を出ることは禁止。
より一層、隔離をしようとの幕府の意図が伺えます。

 

 

 

  年表

1543(天文12)年 ポルトガル船が種子島に漂着

1550(天文19)年 ポルトガル船が来航、領主の松浦氏
        の松浦氏の許可で商館を作り交易を開始

1570(元亀元)年 ポルトガルは領主の大村氏の許可
        のもと長崎を寄港地とする

1584(天正12)年 スペイン商館が平戸にできる

1600(慶長5)年  オランダ船、豊後沖に漂着
        家康が船長に朱印状(貿易許可)を与える

1609(慶長14)年 オランダ東インド会社の船が平戸に着き
         家康に親書と献上品
         家康から朱印状が託され商館設立

1613(慶長18)年 イギリスの商船が平戸に入港し、商館設立

1616(元和2)年 中国船以外入港を平戸と長崎に限定

1623(元和9)年 イギリスが撤退、商館を閉鎖

1624(寛永元)年 スペイン船の来航禁止

1628(寛永5)年 「台湾事件」オランダとの貿易は全面停止

1633(寛永10)年 オランダとの貿易が再開
        商館長の江戸参府が義務付け、定例となる

1637(寛永14)年 「島原の乱」

1639(寛永16)年 ポルトガルの来航禁止

1640(寛永17)年 オランダ商館出島に移転
         出島を出ることを禁止

 




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