加賀藩3代藩主・前田利常

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関ヶ原の戦いの数年前に生まれた前田利家の四男

加賀藩3代藩主の前田利常は、息子の大聖寺藩・初代藩主の
前田利治に九谷焼の窯を築窯させ、長崎にお買物師を常駐させ
オランダのデルフト焼を日本で初めて注文した大名です。

 

注文は4代藩主の光高の名で行われましたが、実際のところは
顧問を務めていた利常の指図のもとで行われ、利常は手に入れ
たデルフト焼の意匠を九谷焼の参考にしたともいわれます。

 

利常が前田利家の四男として、利家の正妻・まつ(芳春院)
の侍女だった千代(寿福院)から生まれた時、将来
利常が藩主になろうとは、誰一人思いませんでした。

 

 

まつ(芳春院)

|ーーー利長(長男) 2代藩主

|ーーー利政(二男) 七尾城主

|ーーー幸姫(長女) 前田長種に嫁ぐ

|ーーー蕭姫(二女) 中川光重に嫁ぐ

|ーーー摩阿姫(三女 )秀吉の側室、後に
|           万里小路充房に嫁ぐ

|ーーー豪姫(四女) 秀吉の養女となり
|          宇喜多秀家に嫁ぐ

|ーーー与免(五女) 浅野幸長と婚約するも
|          若くして亡くなる

|ーーー千代姫(六女) 細川忠隆に嫁ぎ、
|           後に村井長次に嫁ぐ

—————————————————–
*前 田 利 家(1537〜1599)1538、39年生説も
—————————————————–
 |     |     |     |
 |ー知好  |ー利家  |ー利孝  |ー利貞
 |(三男) |(四男) |(五男) |(六男)
 |     |     |     |
金晴院   寿福院   明運院   逞正院

 

 

 

飯炊き女の介添えでひっそり出産

金沢城の天守の下の暗い部屋でひっそりと生まれた時
母・千代(寿福院)の介添えは飯炊き女ただ一人。

 

生まれた日さえ正確にはわからず、後に利常が加賀藩の
後継として幕府に届ける際に、大慌てで介添えをした
飯炊き女を探し出して日にちを確定したといいます。

 

誕生した当初、利常は母の千代と暮らしていましたが
前田長種のもとに嫁いでいたまつの長女・幸姫(こうひめ)
のいる越中守山で育てられることになりました。

 

 

利常がオランダのデルフトに注文したといわれる
「和蘭陀白雁香合(おらんだはくがんこうごう)」
石川県立美術館

 

 

 

幼子の時は長姉夫婦のもとで

前田利常(まえだとしつね 1593〜1658)、
幼名は「猿千代」、初名は「利光」、従三位権中納言。

 

1629(元和9)年に諱(いみな)を、「利光」から「利常」
に改めていますが、これは3代将軍・家光の「光」の字が
名前の下になるのは失礼とのことからです。

 

利常が生まれた時に父・利家は56歳。
父と初めて会ったのは、1598(慶長3)年の利常が
5歳の時で、その翌年に利家は亡くなりました。

 

 

 

 

 

謀反の嫌疑をかけられ、まつは人質に

1599(慶長4)年の利家の死後、半年ほど経った頃のこと
2代藩主となっていた利長が家康の暗殺を企てている、
との密告により、家康は前田家征伐の意思を表明します。

 

これに驚いた利長は、嫌疑を晴らすために使者を家康
のもとに送り、母のまつを人質として家康のいる江戸へ
送るということで解決をみました。(『前田家雑録』)

 

まつは翌1600(慶長5)年に
「侍は家を立てることが第一。されば我を捨てよ」
              (『加賀藩史料』)
と言い残して江戸にたち15年間の人質生活を過ごします。

 

金沢にまつが戻ったのは、1614(慶長19)年、68歳の時。
1615(元和元)年に豊臣氏が滅亡し、その2年後の1617
(元和3)年に秀頼の妻に会った後、71歳で亡くなりました。

 

 

 

 

 

利常は丹羽長重の人質に

1600(慶長5)年9月、関ヶ原の戦い直前に起きた
前田利長(東軍)と丹羽長重(西軍)の浅井畷の戦いの後、
敗北した長重は東軍との講和を望んだだめ、利常は人質
として長重の元に送られることとなりました。

 

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、利長は東軍につき、
弟の利政は西軍でしたが、利長が東軍についたことを重く
みた家康は、32万石から120万石へと前田家を加増。

 

家康はその際、利長に条件をつけたといいます。
「利長は隠居し、家督は利常に譲る」ことと、
「利常は家康の孫娘を正室とする」ことを。

 

 

 

 

 

家康の孫娘との婚姻、3代藩主になる

1601(慶長6)年、利常は兄・利長の嗣子となり名を
「利光」と改め、家康の孫娘である秀忠の娘を迎えます。
その時、利常は7歳、珠姫にいたってはわずか3歳でした。

 

そして4年後の1605(慶長10)年6月、利長は10歳を過ぎた
利常に家督を譲り、自らは20万石の富山城主として隠居。

 

大坂冬の陣の前年にあたる1614(慶長19)年、
利長は豊臣方に味方につくよう説得されます。

 

 

 

 

その時、利長は「自分は味方するが、利常は徳川の婿に
あたるので味方できない」と繰り返し答えたといいます。

 

徳川から正室を迎えた藩主の立場を配慮する利長は、幕府から
再び謀反の嫌疑をかけられるのを恐れて、20万石も自ら返上。

 

また冬の陣の直前には、らい病で身動きすらできない体
をおして、自らの身柄を京都所司代に預けようとした利長は
冬の陣の直前、1614(慶長19)年5月に亡くなりました。

 

 

 

 

 

家康の気がかりは有力外様大名

1614(慶長19)年の大坂冬の陣、翌1615(元和元)年
の夏の陣により豊臣家は滅亡します。

 

1616年には天下統一を果たした家康が、死を迎える際
に気がかりだったのは、有力な外様大名のこと。
利常を臨終の床に呼び寄せた家康はこういったといいます。

 

「お前をなんども殺してやろうと思ったが、利常に嫁いだ
珠姫の父・秀忠が反対するので助けてやったのである。
これを恩義に思って秀忠に使えるように」と。
                 (『拾纂名言記』)

 

 

 

 

この時に利常と同じ豊臣の家臣であった外様大名の
肥後藩主・加藤忠弘と、安芸藩主・福島正則も
家康に呼ばれて同様の言葉を伝えられています。

 

二代将軍の秀忠の時代に、52万石の加藤忠弘が、
三代将軍の家光の代には、50万石の福島正則が
それぞれ改易されていますので、120万石の前田家が心穏やか
ならぬ日々を過ごしていたのは想像にかたくありません。

 

そして案の定といいますか、三代・家光の代に
再び前田家に謀反の嫌疑がかけられてしまうのですが
長くなりましたので、それは次回にお話ししましょうね。

 




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