言葉を持つ以前の記憶

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25年も前の新聞記事なのですが
とても興味深く思いましたので
残しておきたいと思います。

 

 

 

「言葉を持つ以前の記憶」

1996.1.16 朝日新聞 夕刊
アーチスト 日比野克彦
私の宝物

 

「言葉を持つ以前の記憶がありますか?」
と質問されたら困る。
なぜかというと、ことばで答えなければ
ならないからである。
でも人間、生まれてすぐしゃべるのは
「天才バカボン」のパパくらいなのだから、
だれしも、ことばをはっきりと持っていない
時期が確実に1-2年はあったのである。

 

「じゃ締めて、赤色を見た時のことを
覚えていますか?」と言われても困る。
赤色を初めて見た時というのは絶対に
存在したのだろうけれど、その時はまだ、
ことばを持たなくて、赤とか色とかいう
ことも知らないのである。
だから、「赤色を見たときの記憶はことば
では私の中に記録されていません」としか
申し上げられない。

 

しかし、初めて赤色を見た時や黄色と見た
時は確実にあったわけで、きっとその時は、
一体これは何なんだと、驚いたに違いない。
初めての黒色なんていうのは、想像する
だけで卒倒しそうだ。
今は何万回も見てきて慣れてしまっている
のだが。

 

言葉を持っていない時に、きっと、「怖い」
とか「うれしい」とか「奇麗」とかの
人間の感覚の初体験というものは、
ほとんど済ませてしまっているのであろう。
それを後から大ざっぱに、ことばで分類し、
自分の感情の伝達手段に使用しているが、
まあ、その感覚に近いってところで使って
いるだけで、ことばじゃ伝わらない部分って
のが九十九パーセントであろう。

 

だから、ことばを持つ以前の記憶ってのが、
その人の個性そのものであり、その人の宝
であると思う。

 




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