「三笠の山にいでし月かも」阿倍仲麻呂の望郷の念 カステラ巻「文明堂」

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「カステラ巻き」抹茶

頂いた文明堂の「カステラ巻き」。
この写真のものは、御覧の通りに緑色の抹茶
ですが、この他にプレーンとチョコレート
3種類の「カステラ巻き」があります。

 

原材料は、
鶏卵、砂糖、小麦粉、水飴、還元水飴、植物油脂、
麦芽糖、麦芽糖水飴、抹茶、清酒、蜂蜜、でん粉、
発酵調味液、粉末油脂、大豆粉、クロレラ、
加工でん粉、膨張剤、調味料(有機酸)、乳化剤。

 

まわりをぐるっと囲んでいるのは
文明堂の「三笠山」だそうです。

 

 

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三笠の山にいでし月かも

この「三笠山」の名前は、百人一首でも
有名な阿倍仲麻呂の歌の、

「天の原 ふりさけ見れば春日なる
   三笠の山に出(い)でし月かも」

からきています。

 

遣唐使として717年、19歳の時に中国に渡った
阿倍仲麻呂は、それ以降、2度と日本の地を
踏むことはありませんでした。

 

吉備真備(きびのまぎび)も同級生
(とはいわないのでしょうが)の阿倍仲麻呂
と一緒に遣唐使として渡っています。

 

 

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日本への帰国は叶わず

唐で35年間、過ごした阿倍仲麻呂は
一度は日本へ向かう船に乗りましたが
暴風雨にあい南方に流されてしまいます。

 

この時、帰国の途で暴風雨にあい、阿倍仲麻呂
が亡くなったという知らせを受けた李白は
「名月不帰沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」
を詠んだといいます。

 

しかし幸い、阿倍仲麻呂は漂流したものの
唐の領内の安南に漂着することができました。

 

その後、日本へ帰る話も出たことは出た
のですが結局、770年に73歳で亡くなる
まで唐で過ごすことになります。

 

なお、19歳の時に共に遣唐使として来た
吉備真備は、阿倍仲麻呂が漂流した時に
一緒に日本に向かっていたのですが、
吉備真備が乗った船だけは種子島に漂着して
日本に帰ることができたそうです。

 

 

150327sacasuyozakura          赤坂サカスの紅しだれ桜と月

 

 

 

もう一度、三笠の山に登る月を……

という事情を知った上で、もう一度先ほど
の阿倍仲麻呂の歌をみてみますと,

「あの月は奈良の春日の三笠山に
昇っていた月と同じだね」

などという軽い歌ではなかった
ことがわかります。

 

生涯、帰ることの出来なかった故郷、
奈良は春日の三笠山に昇っていた月を
万感の思いを込めて謳ったのでしょう。

 

現代のように、飛行機でビューンと
一飛びというわけにはいかないのです。

 

命がけで渡って来て、また同様にして帰る。
そしてもはや、それさえも諦めて
この地に骨を埋める覚悟の阿倍仲麻呂。

 

彼の望郷の念は、現代人には想像もつかない
ほど強いものだったに違いありません。

 

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