「禁止することを禁止する」には及ばぬものの 「千駄木駅」の落書き

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

130721sendagi

 

 

東京メトロ、千代田線「千駄木駅」

今日は「赤坂駅」がある東京メトロ、
千代田線の「千駄木駅」のお話。

 

「千駄木駅」は隣りの「根津駅」、
また谷中とともに「谷中・根津・千駄木」
と、東京の下町の風情が残る町として有名。

 

それぞれの頭文字をとって
「谷根千(やねせん)」ともいいますね。

 

もう随分前のことなのですが、その
「千駄木駅」で遭遇した落書きのことを
今日は、是非聞いて頂きたいと思います。

 

 

130721sendagitiyodasen

 

 

 

規制の嵐の吹き荒れる中で

昔、読んだ本にこんなことが書いてありました。
1968年5月10日に勃発したパリの五月革命で権力者は
様々な規制、禁止を市民に押し付けてきたといいます。

 

それに対抗した学生運動のスローガンが
「『禁止』することを禁止する!」という言葉でした。

 

 

kokkaigijidoushugiin131121

 

 

この言葉はパリの街角に書かれたいたずら書き
だったそうですが、それを見た本の著者は
言葉にならないほどの感動を覚えたといいます。

 

本当に胸が締め付けられるほどの
美しい言葉です。

 

(今日の話とは全く違うのですが、これを書いている
2015年9月18日は夜中の3時過ぎ、冷たい雨が降り
しきる中、国会議事堂前からの「強行採決絶対反対」
「憲法守れ!」「戦争反対!」の声が止みません)

 

 

150916tangozakaue「丹後坂」のてっぺんから下を見た写真

 

 

 

丹後守は徳川綱吉の命で10万匹の犬を管理

と、こんなに格調の高い落書きを御紹介した後に
私が見た「千駄木駅」での落書きをお話しする
のも、少々ためらわれるのですが。

 

前回は、赤坂の坂6で「丹後坂」を御紹介しましたが
「丹後坂」の名前の由来は、坂の隣りに米倉丹後守の
御屋敷があったことから名づけられたということでした。

 

「丹後坂」が出来た当時の米倉丹後守は
犬公方で有名な5代将軍・徳川綱吉に仕え、
16万坪の野犬収容所で10万匹の犬を管理した人
でもあったということですので……。

 

 


150916tandozaka
1つ上の写真の反対で、「丹後坂」の下から上を見たもの

 

 

 

電車が「千駄木駅」に停車した時に

私は「千駄木駅」は何度も通っているのですが
通りすぎるだけでほとんど降りたことはありません。

 

ある日の、夕方のラッシュにはまだ少し
時間があるものの、かといって午後の一番
人が少ない時間帯は過ぎて、人が少しずつ
多くなりつつある頃だったと思います。

 

椅子席は全て埋まって、立っている人が結構いる状態。
その時、立っていた私は停車した「千駄木駅」の
ホームを見るともなく、窓から眺めていたのです。

 

 

 

 

 

「木」→「大」→「犬」

ボーっと見ていた私の目に、千駄木駅の駅名が
記されているプレートが目に入りました。
私は、思わず目が釘付けになりました!

 

「千駄木」という字の3番目の「木」という字の
真中のたて棒「|」が消されていたのです。

 

多分、誰かが削り取ったのでしょう。
「木」という字の真ん中の縦棒がなくなったことで
「木」が「大」という字になってしまっています。

 

 

 

 

その上、「大」の字の右上あたりには
ご丁寧に「ヽ」が加えられています。

 

ということは、そうです、「木」という字は
「大」になった後、「犬」に変身していたのです!

 

「千駄犬」!
「千匹の駄犬」!
私はもはや、興奮の極地にいました。

 

 

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千のdog!

しかし、しかし、そこで話は終わらなかったのです。
駅名のプレートには、「千駄木」という下に
ローマ字で「sendagi」とも書いてあります。

 

その「sendagi」の、最後の4文字の
「dagi」もあやしい変化をしていました。

 

というか、細工がしてあったのです。
もう、おわかりかもしれませんね。

 

「 dagi 」の最後の「 i 」は削り取られ、
残った「 dag 」の「 a 」の上についている「~」
(似ていないけど、こんなの)も削り取られていて
「a」は「o」になっていました。

 

はい、これで完成です。
ローマ字表記は「sendog」、「千匹の犬」です!

 

 

150125ingurishumafinusagi

 

 

 

文句なしの最高傑作!

この類まれなる素晴らしい作品を説明し終わった今、
「何か文句あるか〜!」と言いたいほどの誇らしさを、
単に紹介しているに過ぎない私までが感じて
しまうほどの、完成度の高さです。

 

これはもう、偉業といってもいいでしょう。

 

千の犬ならば「dog」に「s」がつくはず、
なんて細かいことはこの際、言っちゃぁいけませんやね。
「千(sen)」なんですから。

 

「千駄犬」「sen dog」……嗚呼!

 

 

130721sendagi

 

 

「目がくぎづけになりました」と書いてから
なんと無駄に34行も費やしてしまいましたが、
実際はこの間、十秒位でした。

 

私は、ぼ〜っとした頭に突然襲いかかってきた
衝撃に眼を見張り、思わず声に出さないまでも
(少し出した)笑ってしまったのです。

 

私の前には女の人が立っていました。
私とほぼ向き合う形でいた彼女には
駅のフォームは見えない位置。

 

ではありますが、私が思わず彼女の目を見て
笑ってしまうと、彼女もわけがわからない
なりに、一緒に笑ってくれました。
いい人です。

 

 

 

 

 

実地検分

これは降りて確かめねばなるまい、と思っていたの
ですが、いつのまにか月日は過ぎてゆき「千駄犬
(sendog)」をしっかり見るために「千駄木駅」
に私が降り立ったのは、半年以上も後のことでした。

 

なんということでしょう!

 

その時には、「千の駄犬」と「sen dog」
の姿は、もはや「千駄木駅」からは
跡形もなく消え去っていたのです。

 

私は、悲しみにむせびながら、心の中で
叫ばずにはいられませんでした。
「綱吉君と米倉丹後守に言いつけてやる〜ッ!」と。

 

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「丹後坂」の名は徳川綱吉の野犬収容所の管理者・米倉丹後守から  赤坂の坂6

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150916tandozaka

 

 

赤坂で一番短い坂

ここのところ「弾正坂」「九郎九坂」「牛鳴坂」
近い場所で隣り合っている3つの坂を御紹介しました。

 

 

usinakizaka

 

 

ピンク色が「弾正坂(だんじょうざか)」
紫色が「九郎九坂(くろぐざか)」
そして緑色で示した部分が「牛鳴坂
(うしなきざか)」でしたね。

 

 

150827usinakizakarakuda「牛鳴坂」にいる金色のラクダさん

 

 

この緑色に示した「牛鳴坂」の終わり、3匹の
ラクダのオブジェを通り過ぎずに、写真の左
(地図でいいますと赤坂サカス方面)に
曲がって少し歩いたところにあるのが
今日、御紹介の「丹後坂」です。

 

「丹後坂」は赤坂の坂の中で
一番短い坂かもしれません。

 

地図の真ん中あたりにピンク色に
示した部分が「丹後坂」です。
黒い色で矢印をつけてみましたが
おわかりでしょうか?

 

 

tandozaka黒い矢印の先にあるピンク色が「丹後坂」

 

 

 

米倉丹後守の御屋敷のそばの坂

住所は、赤坂4丁目2番と、4丁目5番の間 。
長さは、なんと40メートルという短さですが
高低差は10.08メートルもある坂です。

 

距離は短く傾斜はかなり急なために
「丹後坂」は階段になっています。
標識に記されているのは次の言葉です。

 

「元禄(1688~)初年に開かれたと推定される坂。
その当時、東北側に米倉丹後守(西尾丹後守
ともいう)の邸があった。」

 

 

150916tangozakaue「丹後坂」と書いてある標識、ちょっと見にくいのですが

 

 

ということは米倉家の御屋敷は、この写真で
いいますと、左側にあったということになりますね。

 

冒頭に付けた写真は丹後坂を下から見上げたもので、
その階段を登りきった「丹後坂」の終わり(頂上?)
から下を向けて撮ったのがこの(↑)の写真です。

 

 

 

600石からわずか十数年で1万5千石の譜代大名に

米倉家の祖先は甲斐武田氏の士族で
竹田家の滅亡後は徳川家に仕えています。

 

 

 

 

米倉昌尹(まさただ)が48歳で家督を
継いだ時は600石程の旗本でした。

 

しかし、わずか10数年後の元禄12年(1699)
には1万 5千石の譜代大名になっています。

 

その理由は、5代将軍・徳川綱吉に
認められた昌尹(まさただ)が
御目付 → 御側衆 → 若年寄 → 側用人
と異例の出世をしたからです。

 

 

150916tangozakakaidan「丹後坂」の階段の一番上から下を見下ろしたもの

 

 

 

昌尹の3代後の藩主は、柳沢吉保の六男

犬公方といわれた綱吉は「生類憐れみの令」
を発布したことで有名です。

 

元禄8(1684)年には江戸郊外の中野の地に
16万坪にも及ぶ野犬収容所をつくり
そこには10万匹の犬がいたといいます。

 

この収容所の普請惣奉行を担当して
いたのが昌尹(まさただ)でした。
犬小屋の維持、管理の業績などが
認められた昌尹は出世街道をばく進。

 

 

 

 

またそれだけではなく当時、権勢を誇っていた
柳沢吉保と米倉家とは共に甲斐出身でもあり
地縁血縁で結ばれてもいたようです。

 

米倉家の家督は、
昌尹(まさただ) →  昌尹の子(昌明)→  孫(昌照)
へと受け継がれますが、共に30歳で早世したために
昌照の次は、7歳だった養子の忠仰が跡を継ぎました。

 

この忠仰の実の父親が柳沢吉保です。
柳沢吉保の六男だった忠仰は、5歳で米倉家と
養子縁組をしていますので、いかに両家の縁が
深かったかがわかります。(「ぶらり金沢散歩道」)

 

 

 

 

なお、江戸郊外の中野に野犬収容所が
できたのが元禄8(1684)年ですが、
「丹後坂」の標識に記載されている文章には
このようにあります。

 

「元禄(1688~)初年に開かれたと推定される坂」

 

ということは、単に米倉家の御屋敷があった場所
というだけではなく、「丹後坂」ができたまさに
その時に昌尹(まさただ)は綱吉の命を実行する
野犬収容所の取締役(?)でもあったわけですね。

 

 

150916tandozaka

 

 

 

赤坂の名所・史跡、38位!

この「丹後坂」は、旅行クチコミサイトの
「フォートトラベル」によりますと
赤坂で38位の名所・史跡なのだそうです。

 

「名所・史跡」というのもちょっとおかしいですが
38位という微妙な数字に思わず笑みがこぼれます。

 

歴史に興味をお持ちで、米倉丹後守のお屋敷跡
というだけで感無量、という方は別にしますと
「丹後坂」を赤坂の名所として「どうぞ、見に来て
下さいね、とはちょっと言いがたい地味な場所。

 

ではありますが、何気ないようで
趣があり、懐かしさを感じさせる
「丹後坂」が私はとても好きです。

 

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ラクダがいるけど「牛鳴坂」 赤坂の坂5

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150827usinakizakarakuda

 

 

路面の悪さに牛が鳴く

赤坂の坂3回目は「弾正坂」を、
4回目は「弾正坂」と同じ場所から始まっている
「九郎九坂」
を御紹介しました。

 

ピンク色が「弾正坂」で、紫色が「九郎九坂」でした。
そして今日、御紹介するのは
緑色で表示した「牛鳴坂(うしなきざか)です。

 

 

usinakizakaピンク色「弾正坂」紫色「九郎九坂」緑色「牛鳴坂」

 

 

「弾正坂」は青山通りを越えて、そこからまた
「弾正坂」が続いていますが、今日の「牛鳴坂」は
「九郎九坂」とは少々場所も離れていますので、
独立した「牛鳴坂(牛啼坂)」の名を持っています。

 

 

 

短い坂

青山通りから「牛鳴坂」に入ったすぐの場所がこの
写真で、住所は赤坂4丁目1番から8番の間になります。

 

 

150827usinakisaka赤坂4丁目7-16にある「牛鳴坂」

 

 

この写真で、道の突き当たりに見えるのが
冒頭にあげたラクダが3匹いる場所で
「牛鳴坂」はそこで終わります。

 

もし「牛鳴坂」がここで終わらずに、「弾正坂」
まで延びていたら「弾正坂」「九郎九坂」、
「牛鳴坂」の三つの坂で二等辺三角形ができたのに
残念(!)ですね。

 

 

usinakizakaピンク色「弾正坂」、紫色「九郎九坂」緑色「牛鳴坂」

 

 

 

悪路だった「牛鳴坂」

 

「牛鳴坂」の名前の由来が
次のように説明されています。

 

「赤坂から青山に抜ける厚木道で、路面が悪く
車を引く牛が苦しんだため名づけられた。
さいかち坂ともいう。」

 

 

150827usinakizaka

 

 

と書いてありましたが、牛さん、可哀想だなぁ〜。
あまり泣き言をいわず、黙々と働くあの牛達が
鳴かずにはいられないというのは、よほどの
ことだったに違いありませんからね。

 

さほど急な坂ではないのに、なぜ牛が鳴くのかと
思っていたのですが、路面が悪いという理由
だったのですね、納得。

 

ところで標識の説明文の中に「厚木道」
という言葉がありますが、「厚木道」
とは厚木街道のことだそうです。

 

今、地図で神奈川県の厚木街道から
赤坂まで、ずっと辿って確認しました。
(車を運転しないので、道の名前がわからないもので)

 

 

 

 

 

ラクダのオブジェ

「牛鳴坂」という名前以上に不思議なのが
このラクダたちなのです。
3匹の黄金のラクダの存在。

 

結構大きくて、3匹とも帽子なんか
かぶっちゃってます。

 

 

150827usinakizakarakuda

 

 

数年前にうちの郵便受けに投函されていた地域
情報紙「MYタウン  赤坂  青山」によりますと
(今までとってあったのだよ、この日のために)。

 

80年代のバブル全盛期、この近くに
ディスコがあったそうな。

 

六本木の「ジュリアナ」は有名ですが
赤坂にも「ムゲン」、「HWITE HOUSE」
というディスコがありました。

 

その「 WHITE HOUSE 」が
     ↓
「 BLACK  &  WHITE  」
     ↓

   「キャメル」

と名を変えて営業していたそうですが
現在では赤坂彫金学園になっている

 

と「MYタウン  赤坂  青山」には書いてあったので
すが何か違うような気がして調べてみましたら、赤坂
彫金学園は、既に2012年3月で閉校していました。

 

 

 

 

 

謎の黄金のラクダ

そこでまた、ラクダに戻りますが
「MYタウン  赤坂  青山」20号によりますと、

 

「どうしてこのオブジェを建てたのかは、
元のオーナーも亡くなり、所有者も変わり、
詳しいことはわからなくなってしまいました。」

 

ということだそうですよ。
お店の名前が「キャメル」という名前だった
当時に作られたものなのでしょうか?

 

そんなに昔のことでもないのに、
そして黄金のラクダはまだ健在なのに、
わからなくなってしまったとは不思議ですね。

 

 

150827usinakisaka

 

 

 

今に残るは「牛鳴坂」の名前のみ

たった30年ほどしか経っていないのに、ディスコは
次々と名前を変え、そこにいる3匹のラクダの由来
もわからないままに、その場所は赤坂彫金学園に。

 

今は、その赤坂彫金学園もなくなってしまいました。
人の世の移り変わりの早さには驚くばかり。

 

そして今は、路面の悪さに牛も鳴く、と言われて
名づけられた「牛鳴坂」の名前が残るのみです。
それにしても牛さん、可哀想だなぁ……。

 

 

 

 

(2017年8月9日:追記)

写真に写っているラクダさんですが
この夏、解体されてしまったそうです!
「ご近所さん」さん(!)にコメントで
教えていただいて驚いています。
寂しいなぁ……、

 

実は少し前に、60年以上前からこの近くにお住まい
だった方に、この辺りのことを聞いたばかりでした。
その方は数ヶ月前に赤坂を離れてしまいましたので
ラクダさん解体を早速、教えてあげなくては!

 

「ご近所さん」様、ありがとうございました!

 

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