ルリジューズ「ピエール・ガニョール」

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151220religieuse

 

 

×「ピンク色の雪だるま!」

前回の南部坂を下りて来て首都高を渡って
少しだけ溜池の方に歩くと、ANAインター
コンチネンタルホテル東京があります。

 

その2階の「ピエール・ガニョール
パン・エ・ガトー」で、今日のケーキを
見た時に、最初に思ったのは雪だるま。

 

雪だるまでピンク色はちょっと変ですが
まあこの色はピエール・ガニョールの
シンボルカラー(?)ですしね。

 

(ピエール・ガニョール パン・エ・ガトー
107-0052 港区赤坂1-12-33
ANAインターコンチネンタルホテル東京
03-3505-1111)

 

 

141212tokyomidtownyugidaruma2.3年前の冬に東京ミッドタウンにいた雪だるま

 

 

 

東京ミッドタウンの雪だるま(2.3年前の)

この雪だるまは、といっても本物ではありませんが
2.3年前に、東京ミッドタウンの外苑東通りに面した
場所にいたのですが、今までお蔵入りしていた写真。

 

それが今回思いもかけずに、アークヒルズの
ピエール・ガニョールのケーキの回に登場する
ことになって、きっと喜んでいるでしょう。

 

外国の雪だるまって、日本と違って
◯が3つなのですね。
となりますと、ピエール・ガニョールのケーキは
やっぱり雪だるまではないということになります。

 

 

pieruganyorupanegato300ANAインターコンチネンタルの
ピエール・ガニョール パン・エ・ガトー

 

 

 

フランス語のケーキの名前は覚えられない

私はピエール・ガニョールにたまにしか来ない
という理由もあるのかもしれませんが、来るたびに
初めて見るケーキに出会うことが多いです。

 

ショーケースに並んでいるケーキのうち、サイトに
出ているのはほんの一部ですので、お店の人に
雪だるま君の正式名を教えてもらいました。

 

でも家に着く頃には忘れちゃって……!
だってフランス語なんだもの。

 

写真を撮って、おいしく頂いた後に
ようやく調べてみますと……。

 

 

151210religieuseルリジューズ「ピエール・ガニョール」

 

 

 

× 「修道女のいる建物の形」

当然のことながら、この「RELIGIEUSE
(ルリジューズ、orレリジューズ)」という
ケーキは、雪だるまではありませんでした。

 

「RELIGIEUSE(ルリジューズ)」とは
フランス語で「修道女」を意味する言葉だとか。

 

そうか、この形は修道女たちがいる、丸々とした
屋根の教会の建物をあらわしているのね、
と思ったのですが、これも × でした。

 

 

「ピエール・ガニョール」のあるアークヒルズ

 

 

 

「修道女の姿」

ということで、これは修道女のいる建物ではなく
修道女の姿、そのものを表していたケーキでした。

 

二つのコロッと丸いものはシュークリームで
二つのシュークリームの間を、白い生クリームが
しずくのような形でぐるっと一周しています。

 

生クリームは、修道女の着る服の、襟やひだを
あらわしているといいますが、これは納得ですね。

 

 

ピエール・ガニョールの「ルリジューズ(修道女)」

 

 

上のシュークリームが修道女の頭部を、
下が体をそれぞれ模し、全体でヴェールを
かぶった修道女の姿なのだそうな。

 

パリでは結構見かけるお菓子ということで
色はさまざまあり、モカの色、チョコレート色、
今日のピエール・ガニョールのピンク色の他、
緑色もあるそうですよ。

 

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「南部坂雪の別れ」の舞台は、なぜ「南部坂」なのか?

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130617youzeninjikkaityou瑶泉院の実家跡

 

 

なぜ「南部坂」を選んだのか?

前々回、「忠臣蔵」の有名な場面「南部坂雪の別れ」
の舞台である「南部坂」をとりあげました。

 

その時、大石内蔵助が討入り前に、浅野内匠頭の妻
である瑶泉院に、別れを告げるという重要な舞台に
なぜ「南部坂」が選ばれたのかということが
少々気になりました。

 

「忠臣蔵」は元禄赤穂事件をもとにした創作ですし
「南部坂雪の別れ」はフィクションですので
別に「南部坂」でなくても「氷川坂」でも
「本氷川坂」でもいいわけですから。

 

 

151212nanbuzakaue赤坂にある「南部坂」

 

 

 

瑶泉院の屋敷と南部坂の位置

まず、それぞれの位置関係を見てみましょう。
「南部坂」の回に御紹介した通り、「南部坂」の
場所は地図の右の下、首都高速道路のそばの
緑色で書いた線の部分。

 

 

右下の緑色で示した線が「南部坂」

 

 

「南部坂」という名は、陸奥盛岡藩南部家の
お屋敷が近くにあったことに由来します。

 

同じ場所が、明暦2年からは、赤穂藩浅野家の
下屋敷になっています(相対替と言います)。
地図でいいますと「A」の場所です。

 

 

asanonannbuM(三次浅野家下屋敷)A(赤穂浅野家下屋敷)
一番長い紫色の線が「氷川坂」
ピンク色で示したのが「本氷川坂」
緑色は「南部坂」

 

 

「M」は、前回御紹介した瑶泉院の実家、
三次(みよし)浅野家の下屋敷のあった場所。

 

その「M」を挟んで右上斜めに走っているのが
「氷川坂」で、左下斜めに短くあるのが
「本氷川坂」でした。

 

 

151212motohikawayoru「本氷川坂」

 

 

 

内匠頭家、瑶泉院家、南部坂は正三角形

こうして地図を見ますと、浅野内匠頭の下屋敷と、
瑶泉院の実家の下屋敷、南部坂は、ほぼ正三角形の位置。

 

忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」では、討ち入りの前日の
12月13日に、大石内蔵助が瑶泉院を
訪ねたことになっています
(これはフィクションで実際は、前年の11月)。

 

 

130312simoyasiki赤穂浅野家の下屋敷跡(赤坂6丁目)

 

 

その時には当然のことながら赤穂浅野家(A)
お取り潰し後ですので、もう屋敷はありませんので
内蔵助は、瑶泉院の実家の浅野家(M)
訪ねてきたわけです。

 

瑶泉院の実家のそばには「氷川坂」「本氷川坂」
もあるのに、なぜ「南部坂」なのでしょう?

 

 

130312ityou瑶泉院の実家、三次(みよし)浅野家の
下屋敷跡(赤坂6丁目)

 

 

 

「南部坂」を選んだ理由は……

もう一度、下の地図を御覧いただきましょう。
これは現在の地図ですが、基本的には
江戸時代と同じだそうです。

 

大石内蔵助は車を首都高に待たせてあったので
「瑶泉院の実家の屋敷」から「南部坂」を通過したのだ、
というのは冗談ですが、やはりその道から
帰ったのかもしれません。

 

 

asanonannbuM(三次浅野家下屋敷)A(赤穂浅野家下屋敷)
一番長い紫色の線が「氷川坂」
ピンク色で示したのが「本氷川坂」
緑色が「南部坂」

 

 

そこで「南部坂」が選ばれた理由を想像してみますと……

 

1 「氷川坂」や「本氷川坂」では瑶泉院の家の前後、
  地続きという感じであまりに近過ぎる。

 

2 内蔵助が瑶泉院を訪ねた時は、すでに
* 浅野家の屋敷ではないものの、「南部坂」は
* 赤穂浅野家下屋敷とゆかりのある坂だから。

 

3 「南部坂」は明治期には、歩くのが困難という
 ことから「難歩坂」ともいわれたように
 決して穏やかではなかった坂です。
 それがいかにも、内蔵助が立ち向かって、その
 身に負おうとしている困難を象徴しているから。

 

などが思い浮かびますが、実際はどうなのでしょう。
穿ち過ぎているでしょうか?

 

 

151209nanbuzaka赤坂にある「南部坂」

 

 

ちなみに赤坂には、今回の瑶泉院の実家である
三次浅野家の下屋敷、赤穂浅野家の下屋敷の他にも
三次浅野家の上屋敷、広島浅野家の中屋敷と
4つの浅野家の屋敷がありました。

 

 

miyosiasanokamiyasiki130916三次(みよし)浅野家の上屋敷跡(赤坂8丁目)

 

 

 

上屋敷、中屋敷、下屋敷

少し前に御紹介の「新坂」の前にあったのは
三次浅野家の上屋敷で、「南部坂雪の別れ」
に登場するのは下屋敷です。

 

大名が江戸にお屋敷を置くようになったのは
参勤交代の制度が始まってからのことですが
お屋敷の数は藩の大きさにより様々です。

 

瑶泉院の実家の三次浅野家では、上屋敷と下屋敷
の2つがあり、内匠頭の赤穂浅野家も同様でした。

 

一方、本家の広島浅野家では、上屋敷、中屋敷、
下屋敷とありますが、中屋敷は1つではなく
2つあったそうです。

 

その中屋敷の1つがあった場所が
現在の赤坂サカスです。

 

 

140401sakasutakisakura広島浅野家の中屋敷跡「赤坂サカス」(赤坂5丁目)

 

 

 

内匠頭亡き後、下屋敷で過ごした瑶泉院

上屋敷とは、藩主が江戸滞在中に住む家で
中屋敷は、隠居や世継ぎが暮らす家といわれます。

 

下屋敷は別荘、別邸といった趣の存在だった
ようで、その他に抱(かかえ)屋敷、
蔵屋敷を持つ藩もあったそうです。

 

 

三次(みよし)浅野家の
下屋敷跡(赤坂6丁目)

 

 

ということで前々回に御紹介した「新坂」
のそばの、8丁目の三次浅野家の上屋敷
は、瑶泉院の父親が暮らす屋敷でした。

 

瑶泉院は浅野内匠頭に嫁いだ後は、赤穂浅野家の
上屋敷のある鉄砲洲で暮らしていましたが、元禄赤穂
事件で内匠頭が即日切腹になった後は、6丁目の
下屋敷で亡くなるまでの年月を過ごしています。

 

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「氷川坂」「本氷川坂」「転坂」瑶泉院の屋敷を挟んで 赤坂の坂11

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151209motohikawazaka

 

 

瑶泉院の実家、三次浅野家の下屋敷

前々回は、瑶泉院の実家の上屋敷のそばにある「新坂」
を御覧いただきましたが、今日は同じく瑶泉院の実家
ではありますが、下屋敷のそばの坂を御紹介しましょう。

 

瑶泉院の実家、三次(みよし)浅野家の下屋敷を挟んで
「氷川坂」と「本氷川坂」の二つの坂があります。

 

次の地図でいいますと「M」のあたりが瑶泉院の実家
である三次浅野家の下屋敷があった場所です。

 

 

hikawakorobiM=瑶泉院の実家藤色が「氷川坂」
ピンク色が「本氷川坂」

 

 

Mの右斜め上に藤色で描いた線が「氷川坂」
反対側のピンク色の短い線が「本氷川坂」です。

 

 

 

「氷川坂」

「氷川坂」は距離も長く、傾斜も比較的緩やかな坂。
この写真は「氷川坂」の高い方から低い方を見て、
地図でいいますと右下から左上の方を撮った写真です。

 

 

151212hikawazaka「氷川坂」を高い方から見下ろした写真

 

 

地図でもおわかりのように、距離は結構長いの
ですが、直線ですので坂の終わりまで見えます。

 

こちらは「氷川坂」の反対側から
先ほどの写真を撮った場所を見て撮ったもの。

 

 

141212hikawazaka上の写真とは反対側の端から撮った「氷川坂」

 

 

う〜ん、こうして並べてみても
建物や雰囲気が、あまりかわりばえがしませんね。
うっかりすると同じ写真に見えてしまうほど。

 

でも「氷川坂」の途中にこんなに
美しいものがありましたよ。

 

紅葉するのを計算して壁の色を決めたのでは?
と思ってしまうほどの紅葉と壁の色でした。

 

 

151212hikawazakamomiji「氷川坂」の途中の紅葉

 

 

 

「転坂」

そうそう、「氷川坂」の途中といえば
もう一つ坂がありましたっけ。
先ほどの地図をもう一度御覧いただきましょう。

 

 

hikawakorobi氷川坂」の中ほどに直角にあるのが「転坂

 

 

藤色の「氷川坂」の真ん中当たりに
直角に水色の短い線がありますが
これは「転坂(ころびざか)」という坂です。

 

「氷川坂」から「転坂」を撮った写真がこれ。

 

 

151212korobizaka「転坂(ころびざか)」

 

 

よく人が転んだので「転坂」なのだそうですが
それでは他の坂は転ばなかったのかなぁ、
などと余分なことも考えたりして……。

 

この写真で「転坂」の全部が写って
しまうほどの短い坂です。

 

 

 

「本氷川坂」

さてさて、もう一方の「本氷川坂」ですが(何故か力が
入ります)「氷川坂」が三次浅野家・下屋敷の正面に
あたり「本氷川坂」は裏手にあたるのだそうです。

 

距離こそ「氷川坂」の半分ほどと短いものの、道が
クネクネとして傾斜もそれなりにある個性的な坂。

 

 

hikawakorobiM=瑶泉院の実家藤色が「氷川坂」
ピンク色が「本氷川坂」

 

 

地図でいいますと、ピンク色の「本氷川坂」の
左上から撮った写真が次のものです。

 

 

151212motogikawazakaここが「本氷川坂」の一番低いところ

 

 

坂の始まりの時点で既に道が曲がっている
のがおわかりでしょうか?

 

「本氷川坂」の標識のある石垣の
右奥方向に坂は続きます。

 

ほんの少し歩くとこんな風景が出現。

 

 

151212motohikawazaka

 

 

傾斜は結構ありますね。
そして道の白線が示しているように
また右側へ曲がっています。

 

次の写真は、今回ではなく2.3年前に撮ったもの
ですが、正面の白い建物のそばに咲いていた椿の花。

 

 

130312tubaki「本氷川坂」の途中に咲いていた椿の花

 

 

と寄り道をしているうちに、そろそろ坂の上に到着。
今度は赤い紅葉がお出迎え。

 

 

151212motohikawa「本氷川坂」の上り部分はここで終了

 

 

この写真の坂を上りきった直後に左に曲がります。
そして、短いけれど結構急な「本氷川坂」は終わります。

 

 

151209motohikawazaka鬱蒼とした木と風情のある塀が続く「本氷川坂」

 

 

 

一番好きな坂なので

電柱がなかったら「もしかしたら江戸?」
と思ってしまいそうな雰囲気のある佇まいです。

 

とはいえ、この写真の右の方向に
少し行きますと今、ニュースに度々登場
しているシリアの大使館があります。

 

瑶泉院の実家のお屋敷の正面だった「氷川坂」は正面
だった故に開け、「本氷川坂」は裏手で坂の傾斜も
あったため静かな趣を残す坂となったのだろうか
と考えてしまうほど、両者は全く表情の違う坂です。

 

 

151212motohikawayoru

 

 

実は「本氷川坂」は私の大好きな坂なので
ついつい写真も多くなってしまいました。

 

前回の「南部坂」で書き残したことを書くつもり
だったのですが今回も、またかなり長くなって
しまいましたので、次回に書かせていただきます、
本当にごめんなさい。

 

そんなに引っ張るほどのたいしたことではない
のですが、今回は「あぷりのお茶会 赤坂・麻布
・六本木」史上初の一度に3つの坂の御紹介
でしたので、さすがに無理でしたね。

 

なお今回、御紹介した3つの坂は
全て赤坂6丁目にある坂です。

 

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