「赤坂プリンス クラシックハウス(旧李王家東京邸)」で暮らした李垠と李方子、そして李玖

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

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李王家東京邸

前回は、赤坂プリンスホテルの旧館として親しまれてきた建物が
今年の夏「赤坂プリンス  クラシックハウス」とその名も新たに
レストラン、結婚式会場としてお目見えするというお話でした。

 

前回の記事の主役は「赤プリ旧館」でしたが、今日の主役は
その「赤プリ旧館」で暮らしていた御夫妻のお話です。

 

とはいえ勿論「赤プリ旧館」で生活をしていたわけではなく
その前身である「李王家東京邸」と呼ばれていた頃のこと。

 

 

kyurioketokyotei     「李王家東京邸」(写真/「赤坂プリンスホテル」

 

 

ここは、以前ブログで紀尾井坂」を紹介した時に
お伝えしましたように、紀伊徳川家のお屋敷があった場所です。
(千代田区紀尾井町1−2)

 

 

kioizakaup   「紀伊徳川家」「尾張徳川家」「井伊家」江戸時代の地図

 

 

1884(明治17)年には、ジョサイア・コンドルの設計により
北白川宮邸が建てられましたが、1912(明治45)年に北白川宮は
港区高輪に移った為、1924(大正13)年、李王家に下賜されました。

 

一つ建物が時の流れとともに、名前を変えていきます。

 

1930(昭和5)年 「李王家東京邸」
*    
1955(昭和30)年 「赤プリ旧館」
*    
2016(平成28)年 「赤坂プリンスクラシックハウス」

 

今日お話しするのは「李王家東京邸」が出来た当初に
暮らしていた李垠と李方子の御夫妻のことです。

 

 

150910kioizaka             「紀尾井坂」

 

 

 

夫・李垠は大韓帝国の皇太子

夫の李垠(り ぎん/イ ウン)は、大韓帝国最後の皇帝・
高宗(こうそう)の第七男子として1897(明治30)年10月20日に誕生。

 

1907(明治40)年7月に大韓帝国の皇太子になるも、朝鮮半島一帯
の統治を検討していた日本政府の招きにより同年12月、日本に留学。
伊藤博文らの扶養を受けることになりました。

 

 

rigin             李垠(り  ぎん)

 

 

李垠は、1910(明治43)年の日韓併合により身分は王世子、
日本の皇族に準ずる王族との待遇となり、敬称は「殿下」。

 

学習院、陸軍士官学校を卒業した李垠は大日本帝国陸軍に入り
近衛歩兵第二旅団長などをへて陸軍中尉になっています。

 

 

 

妻・方子は梨本宮守正王の第一女子

妻の李方子(り・まさこ/イ・バンジャ)は1901(明治34)年
11月4日に、梨本宮守正王と伊都子妃の第一女子として生まれました。

 

昭和天皇のお妃候補の一人でもあった方子は、学習院女子中等科
在学中の15歳の時に、梨本宮家の大磯別邸滞在中、何気なく手に
した新聞記事で、自らの婚約を知りショックを受けたといいます。

 

李垠と、方子の結婚は日韓併合後の「内鮮一体」(日本人も
朝鮮人も、全て日本国民)を目的とする政略結婚でした。

 

 

rimasako            李方子(り まさこ)

 

 

この結婚は天皇の決定によるとされていましたが、実際は方子の
実家、梨本宮家から朝鮮総督に縁組を申し込んだものだったそうです。

 

(小田部雄次『梨本宮伊都子妃の日記ー皇族妃の見た明治・
大正・昭和』小学館 2008年)

 

昭和天皇の妃となった久邇宮良子(くにのみやながこ)は
方子の父方のいとこにあたります。

 

 

 

最初の子を失う

婚約から4年後の1920(大正9)年4月28日、東京六本木の鳥居坂に
あった東京の李王邸で挙式、二年後の1922(大正11)年には
二人の最初の男の子・晋(しん/チン)が生まれます。

 

李垠・李方子夫妻は、1923(大正12)年4月25日
8カ月の晋を連れての2週間の朝鮮旅行に出かけました。

 

旅の最後の夜、お別れの晩餐会を終えて部屋に戻ってみると晋は
青緑色のものを吐き続け、その3日後に短い命を終えてしまいます。

 

医師達の説明によれば、晋の死因は急性消化不良ということ
でしたが、日韓双方で暗殺説がささやかれました。

 

 

akasaka3             「李王家東京邸」

 

 

 

李垠の父の死

そもそも、二人の結婚は当初、1919(大正8)年1月25日に
予定されていたのですが、直前に李垠の父である高宗が
脳溢血で死去したために延期され、翌年となりました。

 

高宗の死も日本側の陰謀説による毒殺説があり
これが「三・一運動」という、日本からの独立運動の
引き金になったともいわれています。

 

 

140411yoake

 

 

 

李垠の父の妃の死

その上、高宗のみならず高宗の妃(李垠の母親ではない)
閔妃・明成皇后(めいせいこうごう/ミョンソンファンフ)
も1895(明治28)年10月8日に殺害されています。

 

長州出身の軍人、三浦梧楼という一国の公使が、在任国の宮廷で
皇帝の妃を殺害するという閔妃(びんひ/ミンヒ)暗殺事件です。

 

当時は謎に包まれていた事件を1988(昭和63)年に角田房子が
『閔妃暗殺』という小説に書きベストセラーになったことにより
この事件が初めて日本で広く知られるようになったということです。

 

 

akasaka43            「李王家東京邸」

 

 

 

幼い李垠を扶養した伊藤博文も

また1909(明治24)年10月26日には、中華人民共和国のハルビンで
伊藤博文が、大韓帝国時代の朝鮮の独立運動家・安重根
(あん  じゅうこん/アン  ジュングン)に暗殺されています。

 

(伊藤博文の暗殺に関しては
安重根は犯人ではないとの説もあるようです)

 

1895(明治28)年  李垠の父の妃の死
1909(明治42)年  日本に来た李垠の世話をした伊藤博文の死
1919(大正8)年    李垠の父の死
1923(大正12)年  李垠の最初の子、晋の死

 

 

150408kumoakapuri     ほぼ中央に見える建物が赤坂プリンスホテル新館

 

 

 

終戦

そんな李垠と李方子のもとに2度の流産の後に第二子・
玖(きゅう/ク)が誕生したのが1931(昭和6)年12月29日。

 

六本木の鳥居坂の御用邸から、赤坂に移った直後です。
1926(大正14)年から始まった洋館の建築は
1930(昭和5)年に完成していました。

 

新居で玖が生まれた喜びもつかの間、時代は敗戦を迎えることに。
1945(昭和20)年8月15日、終戦の放送を聞いた李方子は李垠に
「殿下おめでとうございます」と言います。

 

しかしそれを聞いた李垠は、沈痛な面持ちのまま何も
答えることはなかったといいます。(「読売新聞」1989年5月2日)

 

 

akasaka27             「李王家東京邸」

 

 

 

日本国籍の喪失、無国籍に

李垠・李方子夫妻は、第二次世界大戦後は
王族としての身分と日本国籍を失い
無国籍の在日韓国人として登録されることになります。

 

生活にも困窮し、彼らの家「李王家東京邸」を貸家にだし
参議院議長公邸として利用されたりもしましたが
1952(昭和27)年、ついに邸宅を売却します。

 

戦後、日本で最大の地主は天皇家。
その総面積は、東京、神奈川、香川、佐賀、鳥取の合計面積にも
匹敵したといいます。(「李王家邸(赤坂プリンスホテル別館)」)

 

皇籍離脱となった旧宮家は、課せられた巨額の財産税
のために邸宅を手放すしかありませんでした。

 

 

kyurioketokyotei             「李王家東京邸」

 

 

 

李王家邸の売却、プリンスホテルの誕生

それらの邸宅を買い集めたのが、西武グループの堤康次郎。
この地から高輪に移った北白川宮の邸宅は新高輪プリンスホテルに
なりましたが、旧宮家は次々とプリンスホテルに姿を変えて行きました。

 

朝香宮軽井沢別荘   千ヶ滝プリンスホテル(皇室専用)
   竹田宮邸       高輪プリンスホテル
   北白川宮邸      新高輪プリンスホテル
   東伏見宮別邸     横浜プリンスホテル
   李王家        赤坂プリンスホテル
   朝香宮邸       住民の反対により中止、庭園美術館に
            (「李王家邸(赤坂プリンスホテル別館)」

 


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2007年まで使われていたプリンスホテルのこのマークは
菊の御紋、菊の花をアレンジしたものです。

 

「李王家東京邸」も31室の客室をもつ赤坂プリンスホテルとなり
1955(昭和30)年開業、ここに赤坂プリンスホテルの歴史が始まります。

 

 

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国籍回復

李垠は、1950(昭和25)年には来日した大韓民国初代大統領・李承晩
(リ・ショウバン)と会談したおり、故国への帰国の希望を述べるも
彼を快く思わない大統領の言葉に、諦めるほかはありませんでした。

 

失われた日本国籍が回復したのは1957(昭和32)年5月18日のこと。
日本国籍取得後、李垠・李方子夫妻は息子・玖の留学している
アメリカに行きますが、李垠は翌年3月に脳梗塞で倒れてしまいます。

 

一時は回復して李方子と共に海外にも出かけますが再び入院。
そのような状態だった1962(昭和37)年12月15日、
韓国政府から李垠・李方子夫妻に大韓民国国籍の回復が告示されました。

 

 

akasaka10              「李王家東京邸」

 

 

 

悲願の帰国

そして翌年の1963(昭和38)年、李垠・李方子夫妻の
長年の念願だった帰国がやっと叶いました。

 

李垠・李方子夫婦の生活費は韓国政府から支出され
ソウルにある李氏朝鮮の宮殿・昌徳宮(チャンドックン)
に住むことが許されます。

 

大統領・李承晩(リ・ショウバン)政権による激しい排日政策で
反日感情は極限に達していたものの韓国の人々は1963(昭和38)年
11月22日に帰国した李垠・李方子夫妻を沿道で大歓迎で出迎えます。

 

しかし念願がかなって帰国した李垠は、脳血栓と脳軟化症で意識
はなく、その歓迎ぶりも知らずにベッドのまま病院に運ばれます。
そして7年後の1970(昭和45)年5月1日、72歳で亡くなりました。

 

 

151030sora

 

 

 

方子は韓国に帰化し活躍

一方、韓国に帰化した李方子は、李垠の死後も韓国にとどまり
当時韓国ではまだ進んでいなかった障害児教育に取り組んだり
韓国にいる日本人妻達の集まりを作るなどして精力的に活動します。

 

知的障害児施設『明暉園(めいきえん/ミョンヒウォン)』等
の施設を設立していますが、「明暉」は、李垠の雅号。

 

彼等の結婚は「内鮮一体(日本人も朝鮮人も、全て日本国民)」
との政略結婚でしたが、李方子は夫・李垠の国の人間と
なりきろうと帰化をして生涯、夫に添い遂げました。

 

李方子は死の前年に、社会福祉事業の資金を
調達するために日本を訪れています。

 

その際、体調を崩して二カ月ほど宮内庁病院に入院しましたが
李方子がそのまま日本に留まることはありませんでした。

 

そして翌1989(平成元)年4月30日という、過去の歴史ではなく
まさに私達が生きている同時代に87歳で息を引き取ったのです。

 

 

130826kumo370

 

 

 

祖国に帰るも意識はなく

「時代の荒波に飲み込まれ、翻弄された」という月並みな
形容が陳腐に思えるほどの李垠と李方子の生涯でした。

 

11歳で人質のようなかたちで日本にやって来た李垠を襲う
幾つもの死と、国籍喪失という波瀾万丈の日々。

 

日本にきて56年後、国籍回復後にやっと故国に帰れたものの
その時にはもうすでに意識がない状態だった李垠の無念さは
想像にあまりあります。

 

李方子との間が睦まじかったということが
せめてもの救いでしょうか。

 

 

350x211_ZM9V9102_02             「李王家東京邸」

 

 

 

李玖の最期も「赤坂プリンスホテル」

とここで「李王家東京邸」で暮らした李垠・李方子夫妻の
話は終わるのですが、彼等の成人した唯一の子どもである
李玖について少々触れてみましょう。

 

李玖は14歳で終戦を迎えた後、1950(昭和25)年にアメリカ
マサチューセッツ工科大学(MIT)に入学します。
卒業後もニューヨークにとどまり1958年にジュリアと結婚。

 

1963(昭和38)年に父母と共に韓国に帰国して
大学で建築工学の講義をしたり、会社経営にも
手を染めましたが、1979(昭和54)年に倒産。

 

 

rikyu          李玖(り  きゅう)とジュリア

 

 

1981(昭和56)年には離婚し、その後来日して梨本家の
世話を受け、渋谷区のマンションで暮らしていました。

 

2005(平成17)年7月18日、李玖のいとこにあたる梨本家の方が
李玖の赤坂プリンスホテル滞在が1カ月を過ぎたために訪れます。

 

その時すでに、李玖の息は絶えていました。
死因は急性心不全。
亡くなったのは2日前の7月16日と推定されています。

 

 

 

「王家の人間ではなく、個人、李玖」

私は冒頭に今日の主役は、李垠・李方子御夫妻だと書きました。
「李王家東京邸」といった場合にはそうではあります。

 

ですがこと建物に限っていうならば、この場所で生まれ
この地で亡くなった李玖の方がむしろ主役といえるのかもしれません。

 

 

1001983721              幼い頃の李玖

 

 

「私はもはや、王家とは関係がない、個人、李玖にすぎない」
と李玖は常々言っていたといいます。

 

王家の人間であることの良いこともそうでないことも全て含めて
この言葉は、李玖の偽らざる本心という気が私にはします。

 

李玖は韓国王家の血を引く人間とはいえ
韓国の地で生まれ11歳まで育った父の李垠とは
かなり異なった感覚で育ったのではないでしょうか。

 

 

2010akasakaprincehotelillumination2010年12月 赤坂プリンスホテル
最後のクリスマスツリー

 

 

 

最期の場所

ジュリアとの間に王家の跡継ぎが生まれなかったことも災いしてか
韓国に永久帰国した李玖は「故国」に完全に馴染むことができずに
精神を疲弊させ、日本との行き来を繰り返します。

 

そして当時、渋谷の小さなマンションに住んでいた李玖は
赤坂プリンスホテルで死を迎え、韓国に埋葬されました。

 

渋谷に自分の住む場所はあっても、実家に帰って羽をしばし
休めたい、いえ永遠に……、そんな気持ちが李玖の心の深い
ところにあったと考えるのは穿ち過ぎているかもしません。

 

 

o03700483121517526692011年3月31日
赤坂プリンスホテル最後の日

 

 

 

李玖のふるさとは

李玖の最期の場所が赤坂プリンスホテルだったことに
私は李玖と赤坂の縁の深さを感じずにはいられません。

 

李玖、あなたの故郷はここだったのではないでしょうか?
生まれ育ったこの場所が、あなたにとっては
唯一、安らげる居場所だったのではないかと。

 

李玖が亡くなった6年後、彼のあとを追うように
赤坂プリンスホテルは55年の歴史を閉じました。

 

その後の開発で、この地は名前も「赤坂プリンスホテル」から
「東京ガーデンテラス紀尾井町」になりこの夏生まれかわります。

 

「赤坂プリンス」は、李玖が生まれ育った「旧李王家東京邸」の
新しい名称「赤坂プリンス  クラシックハウス」に残るのみです。

 

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赤坂プリンス クラシックハウス「東京ガーデンテラス紀尾井町」

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kyurioketokyotei     「赤坂プリンスホテル」旧館  =「旧李王家東京邸」

 

 

「旧李王家東京邸」

前回、私の友だちが興味をひかれた建物
というのが、冒頭の写真に写っている建物です。

 

東京ガーデンテラス紀尾井町の中に佇むこのレトロな館は
英国チューダー・ゴシック様式の洋館「旧李王家東京邸」。

 

この建物は、旧宮内省内匠寮の公務長・北村耕造や
技士・権藤要吉らの設計により1930年に造られました。
2011年には、東京都指定有形文化財にも指定されています。

 

赤坂グランドプリンスホテルの旧館として長年、親しまれていた
建物がリノベーションされて、レストラン・結婚式会場
「赤坂プリンス  クラシックハウス」としてこの夏、オープンします。

 

 

hanatabauedhingudoresu11

 

 

 

丁寧に解体された「赤プリ」新館

赤プリの新館は2011年3月31日に営業を終了した後、
4月9日から6月30日までは、福島の被災者を受け入れて
有終の美を飾り、解体作業は始まったのはその後でした。

 

当初は2011年9月からの予定だった解体は諸事情により遅れ
2012年6月から始まり、2013年7月6日に完了しています。
赤プリ新館の解体は、国内では最も高いビルの解体だったそう。

 

よくTVなどで高い建物を一瞬で爆破して解体するシーンを見ますが
赤プリの新館は、1年という長い年月をかけて解体されたのですね。
丁寧に解体されたことが、とても嬉しく感じられます。

 

 

2010akasakaprincehotelillumination解体された「赤坂プリンスホテル」新館
「赤プリ最後のクリスマスツリー 2010年」

 

 

「目立たないように美しく解体することが長年使われてきた建物への
気遣いだ」と言うのは、工法を開発した大成建設建の市原英樹次長。

 

また日経新聞は「さらば『赤プリ』解体さえも美しく」
と、2013年1月17日の記事に記しています。

 

 

 

「テコレップシステム」で解体

工法については、以前お知らせした「テコレップシステム」
を採用しました。(「赤プリちっちゃくなってる!」

 

 

1302akasakapurinsuhoteruzansho           小さくなった赤プリ

 

 

10日毎に2階分、6,4メートルずつを解体するという、騒音や粉塵が
少ない工法で、毎日見ていると小さくなるのがわからなかったほど。

 

また、解体された廃材をクレーンでおろすエネルギーで
発電照明などの電力をまかなうという優れた工法でもありました。

 

 

akasakaprince    「東京ガーデンテラス紀尾井町」(西武プロパティーズ)

 

 

 

東京ガーデンテラスのシンボルに

かくして2013年7月に大きかった赤プリ新館はなくなり、跡地に
東京ガーデンテラス紀尾井町の2つのタワーの建設が始まりましたが
今日の主役「旧李王家東京邸」の「動き」も見逃せないものでした。

 

もちろん「旧李王家東京邸」は改装のうえ
「貴重な文化財を保存して、建て替え計画のシンボルにしたい」
(西武プロパティーズ都市開発部・妹尾寛仁ジェネラルマネージャー)

 

というように建物自体は残るのですが、デンとその地にとどまる
のではなく、文字通り「動いた」のです、それも2度も。

 

 

tokyougardenterassemap東京ガーデンテラス紀尾井町 建物の位置関係
(イラスト/「西武プロパティーズ」)

 

 

 

2回の「曳き家」

既にある建物まるごとを、そのまま曳いて移動することを「曳き家」
というそうですが、1回目の曳き家は2013年11月に行われました。
「旧李王家東京邸」を南東の方角に44メートル移動させたのです。

 

新たに建設する2棟のスペースを作るためかと思いきやさにあらず、
「旧李王家東京邸」の地下にオフィス・ホテル棟の駐車場やバス、
タクシー乗り場などを作るためなのだそう。

 

そしてその作業が終了後の2014年8月には、2回目の曳き家をして
「旧李王家東京邸」をほぼ元の位置に戻したのです。

 

 

kyurioketokyoutei写真の手前側から向こうに移動した「赤プリ」旧館
(写真/「日経アーキテクチュア」)

 

 

 

8日で44メートルの移動

動かささずに工事をするという案も検討されたそうですが
「費用と工期の両方を考えると、旧館をいったん曳き家をして
動かした方が有利だった」とのこと。(「日経アーキテクチュア」

 

1回目の曳き家は11月11日に開始し、19日までの8日間で移動しました。
建物の総重量5000トンを、毎秒0.5~1ミリメートルの速さで
動かすという、1日当たり、ほぼ6メートルの移動でした。

 

「見ていても動いていることが分からないくらいの
ゆっくりとしたスピード」と言うのは大成建設の小倉学作業所長。

 

スピードを要求される現代に、赤プリの新館、旧館ともに
その解体や曳き家作業が、見ていてもわからないほどの
ゆっくりとした早さだったというのもおもしろいですね。

 

 

350x211_ZM9V9102_02ステンドグラスが組み合わされた大階段室
「赤プリ」旧館(写真/「西武プロパティーズ」)

 

 

 

「赤坂プリンス  クラシックハウス」として

今回、引用させて頂いた「日経アーキテクチュア」は
2013年11月20日の報道ですが、その時点では「旧李王家東京邸」の
利用方法については、まだ明示されていませんでした。

 

「関係官庁と協議して、多くの人に利用してもらえる施設にしたい」
という妹尾ジェネラルマネージャーの言葉が紹介されているのみ、

 

そしてようやく今回、赤プリ旧館がレストラン・結婚式会場
「赤坂プリンス  クラシックハウス」
として再デビューすると正式発表されました。

 

とはいえ1月9日に見たときは、まだまだ工事中という感じでした。
あと数ヶ月で美しく生まれ変わる「赤プリ旧館(旧李王家東京邸)」
の完成を、楽しみに待つことにいたしましょう。

 

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「東京ガーデンテラス紀尾井町」7月オープン

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

150717akapuriato

 

 

「東京ガーデンテラス紀尾井町」

前回の「春帆楼」東京店へ行く時に、赤坂エクセルホテル東急
「ゴディバ」の前でお友達と待ち合わせをしました。

 

上の写真は赤坂見附の交差点から撮ったものですが、右の端に
夕日を受けて淡いオレンジ色に見えるのが赤坂エクセルホテル東急。

 

一番左側とそのお隣の建設途中のビルがある場所は
赤坂プリンスホテルのあった場所です。

 

 

blog_import_51536828683c9   2012年8月 解体作業に入っている赤坂プリンスホテル(右)

 

 

赤プリ跡地のタウンネーミングが
「東京ガーデンテラス紀尾井町」に決定したのは昨年の4月。
(〒102-0094 東京都千代田区紀尾井町1-2 )

 

そしてこの地に出来るホテルの名前を
「ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町」
と発表されたのが3日前、2016年1月21日のことでした。

 

 

121127tugidon2012年11月 赤坂プリンスホテル(左)
プルデンシャルタワー(中) 赤坂Bizタワー(右)

 

 

 

 

ツインタワー

冒頭の写真に写っている赤プリ跡地に建設途中の
ツインタワーの完成図がこちらです。

 

 

akasakaprince         (画像/「西武プロパティーズ」)

 

 

左がホテル・オフィス棟で、右が住宅棟で
地下2階、地上21階の高さ90メートル。
ホテル・オフィス棟は地下2階地上36階で高さは180メートル。

 

これは東京都、都市計画審議会が2011年7月に従来の容積率を変更して
建物の高さの上限が140メートルから180メートルに増えたため。

 

1階から4階までが商業施設、5階から29階までがオフィス、
そして30階から最上階の36階までがホテル。

 

写真や図を御覧になってもおわかりのように
ワンフロワーは1000坪を越すという大きさですが、その24の
オフィスフロワーのうち20にヤフーが入る予定だということ。

 

現在、ヤフーオフィスは東京ミッドタウンのタワーに
ありますが、5月から順次、引っ越し作業に入るそうです。

 

 

logo           東京ガーデンテラスのロゴ

 

 

 

ロゴがあらわす3つのエレメント

東京ガーデンテラス紀尾井町のサイトにはこのロゴについて
「家紋を感じさせるデザイン」と記してありますが
私が最初に思ったのはクローバーでした。

 

上の緑色が——豊かな自然を象徴する緑の葉、
左のが———文化や人々が交差し、赤く熟した様を、
右のが———お堀の水面(みなも)と、積み重なった歴史を
表現しているのだそうです。(「東京ガーデンテラス紀尾井町」

 

 

kioizakaup「紀州徳川家」「尾張徳川家」「彦根井伊家」
の屋敷付近の江戸時代の地図

 

また、2月前このブログで「紀尾井坂」をとりあげましたが
「紀尾井町」の名のもとともなった「紀伊徳川家」「尾張徳川家」
「彦根井伊家」の屋敷がこの地にあった歴史も象徴しているとか。

 

 

 

ホテルがいっぱい

冒頭の写真をもう一度御覧いただきましょう。
この写真を撮ったのは2カ月ほど前でしたので
今はもうすこし建ち上がっています。

 

 

150717akapuriato

2015年11月 左から「東京ガーデンテラスオフィス・ホテル棟」
同「住宅棟」、「都道府県会館」、「赤坂エクセルホテル東急」

 

 

上の写真の左の方を撮ってみたのがこちら。

 

 

150717akapuriatoti2015年11月 左から「ホテル・ニューオータニ」
「ニューオータニガーデンコート」
「東京ガーデンテラス オフィス・ホテル棟」

 

 

この写真では、先ほど左に写っていた「東京ガーデンテラスの
オフィス・ホテル棟」が右にきています。

 

左は「ホテル・ニューオータニ」と「ニューオータニガーデンコート」。
写真を撮っているときは気づきませんでしたが、こうしてみると
写真に写っているほとんどの建物がホテルなのですね。

 

 

 

「ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町」7月27日オープン

私は建設関係のことは疎いので、これは常識なのかも
しれませんが面白いと思ったことがあります。

 

オフィス・ホテル棟を施行するのは鹿島・鉄建・熊谷建設協同企業体で
住宅棟は、西武・大林・前田健説協同企業体ということ。

 

このような大きなタワーというのは、いくつもの建設会社で
造るものなのだということを初めて知りました。

 

なお設計・管理は日建設計が担当し、外装デザインは米国の設計事務所
コーン・ペダーセン・フォックス・アソシエーツ(KPF)。

 

 

130210minitomato敷いてあるのはプリンスホテルのテーブルナプキン
プリンスホテルのマーク(2007年まで使用)がついています

 

 

 

既存のプリンスホテルではないホテル

当然のことながら、出来上がったホテルに関しては
株式会社プリンスホテルが運営をします。

 

ですが「ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町」は
プリンスホテルの既存ブランドである「ザ・プリンス」
「グランドプリンスホテル」「プリンスホテル」、

 

のどれにも属さないホテルであり、
プリンスホテルの最上級ホテルと位置づけられています。

 

 

1302akasakapurinsuhoteruzansho   2013年2月 解体中のかなり小さくなった赤坂プリンスホテル

 

 

う〜ん、私にはちょっとわかりませんが、そういえば
名前に「ギャラリー」がついたりして、やたらに長いですものね。

 

ということで当然ながら、宿泊料金も最上級だそうです。
1泊、6万円〜59万円だということですので
残念ながら私には縁がないかなぁ。

 

 

141126akapuriato  2014年11月 「東京ガーデンテラス オフィス・ホテル棟」(中央)

 

 

 

赤プリは知らない

東京ガーデンテラスの建設中のタワーを見ながら
お友達とその裏側にあたる「春帆楼」東京店へと
歩いて行ったのですが、その時に私が彼女に言いました。

 

「ここ赤プリがあったところなの。
少し前に壊して、今建て替えているのだけど。
赤プリ知ってるでしょ?」と。

 

すると予想もしないことに彼女は「ううん」と首を横に振ったのです。

 

 

1505yoage2015年3月 左のクレーンが乗っている建物が
「東京ガーデンテラス オフィス・ホテル棟」

 

 

 

そんなにも長い年月が……

その時は、一瞬「えっ?」と驚いたものの、そうなんだ
と流していたのですが、後になって気づきました。

 

赤プリの新館は、1982年11月に竣工し
1983年3月7日から営業を開始しています。
そして2011年3月31日に営業終了し、その後解体。

 

彼女が外国へ留学するために日本を発った時には
赤プリの新館は完成していたのかもしれませんが、少なくとも
華やかな赤プリ全盛期には彼女はもう日本にいなかったのだと。

 

日本で暮らしていた年月よりもはるかに長い年月を
彼女は海外で過ごしていたのです。

 

そして当然のことながら、それと同じ長い時間は私の上にも
通り過ぎて行ったはずです、というよりは過ぎていきました。

 

 

150923yugata   2015年9月 「東京ガーデンテラス オフィス・ホテル棟」

 

 

 

♬  太郎はたちまちおじいさん  ♪

なにか急に浦島太郎が玉手箱を開けた時のような
雰囲気に包まれた私は、しばし感慨に耽りました。

 

『浦島太郎』の玉手箱って、そういう意味なのかなぁ。
私は子どもの時から納得できなかったのですが。

 

だって浦島太郎はカメを助けて、そのお礼に竜宮城に
招かれただけなのに、帰ってきて何故あのような仕打ちを
受けなければならないのかが理解できなくてね。

 

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じゃあ、あのお話はいじめられているカメは助けないように
しましょうということなのかといえば、勿論そうではなく、

 

私自身充分わかっていたはずの時間の長さがわかっていなかった
という事実と不思議さ、人間の愚かさのお話なのもしれないですね。

 

実は彼女と赤プリの話をしている時、彼女は建設中の
東京ガーデンテラスのツインタワーよりも興味を示している
建物がありましたが、長くなってしまいましたのでそちらは次回に。

 

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