おひな様の「左近の桜」は「左近の梅」だったかも?、というお話  梅干し 

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

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色をも香をも

立春はとうに過ぎ、今日は桃の節句
ですが、まだまだ寒いですね。
一昨日などはとても冷たい風が吹いていましたし。

 

そんな真冬に、凛として花を咲かせているのが梅の木。

「君ならで誰にか見せむ梅の花
     色をも香をも知る人ぞ知る」

という古今集の紀友則(きのとものり)
の歌が思い浮かびます。

 

(あなた以外の誰に、この梅の花を見せましょう。
花の色、そして香りをわかって下さる
風雅なあなた以外に)との歌を添えられて、
違いのわかる「あなた」に送られた梅の枝。

 

 

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梅の花の一枝を手折って、香をたきしめた
美しい料紙に、墨跡鮮やかに書き上げた
歌を添え、わらわに届けさせる……。

 

なんと優雅なことでしょう!
小学生の私はこの時代に心底、憧れていました。

 

紀友則は教科書でも有名な百人一首の、

「久方の光のどけき春の日に
     しづ心なく花の散るらむ」

を読んだ歌人です。

 

という風雅な話の最中に恐縮ですが、今日は
この梅の花が実った後にできる梅干しの話です。

 

 

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1位  紀州、2位  群馬、3位  山梨

梅といえば紀州、それも南高梅
という名前が思い浮かびます。

 

私はこの「南高梅」を最近まで
「なんこうばい」と読むのだと思っていましたが
本来は「なんこううめ」なのだそう。

 

下の写真のカリカリ梅干しは
紀州・和歌山ではなく甲州・山梨の梅。

 

梅の実は、国内の80パーセントほどが
和歌山県で生産され、ついで群馬県の8パーセント、
山梨県の3パーセントと続きます。

 

この梅干しは、小さくてカリカリとした梅干し用の
「甲州小梅」という種類で、作っているのは
ヤマノー(山梨農産食品株式会社)。
塩分は約9パーセントです。

 

 

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甲州のカリカリ小梅

 

 

 

赤い色はシソの葉ではなく着色料

原材料名は、
小梅、漬け原材料(食塩、醸造酢、発酵調味料、
鰹エキス)、調味料(アミノ酸等)、酸味料、
香料、着色料(赤102)。

 

ちょっと意外だったのは、小梅の赤い色は
シソの葉の色ではなく着色料なのですね。

 

冒頭にもつけたこの写真の梅干しは、自家製の
梅干しを売っているお店で買ってきたもので
産地はわかりませんがシソの葉漬けです。

 

 

160302umeboshi自家製梅干しを売っているお店で購入したもの

 

 

 

薬用

梅干しといえば日本古来のもので、私はごく庶民的な
食べ物と思っていましたがそうでもなかったようです。
庶民が食せるようになったのは
なんと江戸時代になってからだそう。

 

「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花
       あるじなしとて春な忘れそ」

 

と太宰府に赴任する菅原道真が庭の梅を
詠んだのは、平安時代の901年(延喜1年)。

 

 

blog_import_515360577252b『東風(とうふう)』 原米洲作

 

 

そのしばらく後の960年(天徳4年)、
悪疫が流行った折に、村上天皇は梅干しと
昆布のお茶で回復したと伝えられ、

 

また同じく平安時代の984年(永観2年)
には、日本最古の医学書である『医心方』
に梅干しが登場しています。

 

コーヒーやチョコレートもそうですが、現在
嗜好品として楽しまれているものの多くが
最初はお薬だったのですね。

 

 

140222siraume370白梅

 

 

 

「男の子が生まれたら梅の木を植えよ」

鎌倉に入ると1214年(建保2年)には
禅僧の栄西が『喫茶養生記』で、お茶の効能を
書いたことは有名ですが、このお茶うけ、お茶の
お菓子として梅干しが供されたということです。

 

私が不思議思ったのは、戦国時代の
大名・黒田如水の次の言葉。

 

「男の子が生まれたら梅三株を植えよ」
と家臣にお振れをだしたとか。

 

 

 

 

女の子が生まれたら桐の木を植えるというのは、
その子が長じて嫁ぐ時に、桐の箪笥を作るとか
作らないとかということだと聞いたことが
ありますが、梅の木とは初耳でした。

 

これは梅の実を保存食として
活用するのが目的だったそうです。

 

江戸時代、1619年(元和5年)、徳川頼宣が
紀州藩主になると、梅栽培が奨励されたそうで
紀州の梅はここから始まったのでしょうか。

 

 

130215umeugu「梅」と「うぐいす」 赤坂「青野」

 

 

 

シソ染めは江戸期以降

またその後の寛文年間に京都の鹿苑寺の
鳳林和尚の日記には、「紅色の梅干しが珍しい」
という記載があるようです。

 

ということはそれまでの梅干しは
無着色だったわけですね。

 

江戸に入ってからシソを使って赤く染めるように
なり、1692年(元禄5年)の『本朝食鑑』にも
シソ染めの梅干しが珍重品であるとの記述があるとか。

 

1675年(延宝3年)頃になりますと
『雑兵物語』が成立し、そこには梅干しが
戦場食として活用されたと書かれています。

 

このように薬用や保存食に戦場食、お菓子
として大活躍することになった梅干しは
現在でもかわることなく人々に親しまれています。

 

 

blog_import_515360603e2a1赤坂「虎屋」本店に飾られていたお雛ざま(2013年)

 

 

 

ひな壇に飾るのは梅の花だったかも?

最後に今日、3月3日にちなんだ梅のお話を一つ。
おひな様には「右近の橘」「左近の桜」を飾りますね。

 

これは京都御所を模したもので
左にあるのが橘で、右側が桜。
この「左近の桜」は本来は「桜」
ではなく「梅」だったそうです。

 

 

kyotogosho向かって左が橘、右が桜 京都御所

 

 

時は村上天皇の御代。
おお、村上天皇は先ほども梅干しと昆布茶で
疫病を治したということで登場していましたね。

 

今日、2度目の登場の村上天皇が京都御所に
お住まいになっていた時に、橘と対をなして
いた梅の木が火災で倒れてしまいました。

 

村上天皇は、朝廷に入内していた紀貫之の娘の
紀内侍に、家にある梅の木を献上させます。
献上した紀内侍は、梅との別れをこのように詠いました。

 

 

 

 

 

うぐいすに聞かれたら……

「勅なればいともかしこし鶯の
    宿はと問わばいかが答えん」

 

(天皇の御命令ですので、梅の木を差し上げますが
この梅の木に来る鶯に「宿はどうなったのですか?」
と聞かれたらなんと答えましょう)

 

この歌に心を打たれた村上天皇は、梅の木を
紀内侍に返し、倒れた梅の木があった場所には
新たに桜の木を植えさせたということです。

 

 

130215ugusiro「ボクの宿はどこ?」  「梅」 赤坂「青野」

 

 

この歌の作者、紀内侍の父親の紀貫之は
今日の最初に御紹介した歌である、

「君ならで誰にか見せむ梅の花
     色をも香をも知る人ぞ知る」

を詠んだ紀友則の従兄弟にあたります。

 

ところで紀内侍がこの歌を詠まなかったら
おひな様の段飾りには「右近の橘」「左近の桜」では
なく「左近の梅」が飾られていたのでしょうか?

 

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