クレームブリュレ「ザ・ガーデン」六本木 国際文化会館 

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

160409cremebrelee2

 

 

眺めの良い「ザ・ガーデン」

前回、御紹介した六本木(麻布十番)にある
「国際文化会館」にはレストラン「SAKURA」と
ティーラウンジ「ザ・ガーデン」があります。

 

庭園の池に釣おろしたように池に張り出して
いる釣殿風のレストラン「SAKURA」は
この写真の右側に写っている建物です。

 

 

160409kokusaibunkakaikan2右側が城山三郎がお気に入りだった
レストラン「SAKURA」

 

一方、ティーラウンジ「ザ・ガーデン」の方は
「国際文化会館」の入口を入って左側、
レストラン「SAKURA」の反対側にあり庭園の
全体を見渡せるすばらしいロケーション。

 

どのお席からでも良い景色が眺められますが、建物の
外にはテラス席もあり、こちらは「国際文化会館」の
入口からは真正面の位置にあたり最高の眺めです。

 

次の写真で右側に見えているテーブルがそのテラス席。
この日は少々風もあったので私は室内の席にしました
が、テラス席を楽しんでいる人もいましたよ。

 

 

160409cremebrulee右に見えるのは「ザ・ガーデン」のテラス席

 

 

ちなみにテラス席を写した写真( ↑ )は
私の席から右側をみたもので、
正面を見た写真がこちら( ↓ )です。

 

 

160409cremebrele2三方向、美しい庭園が見える「ザ・ガーデン」

 

 

ねっ?、どちらを見ても美しいお庭が見えるでしょ。
庭園に囲まれた贅沢な空間の
ティーラウンジ「ザ・ガーデン」。

 

 

 

「春の雪」桜の花びらの華麗な舞姿

その日は少々風の強かったのですが
風が巻き起こりますと、桜の花びらが一斉に
左の方に流されるように飛んで行きました。

 

上下ではなく右から左へ流れるような、時には
左上に吹き上がることもある桜の舞は、一瞬
ではなく、数秒は続いていたように思います。

 

前の席が空いていたこともありますが
あまりの美しさに私は思わず
窓辺にかけよってしまったほど。

 

 

140510sakura

 

 

以前、私は和泉式部の大好きな歌
「花さそう春の嵐は秋風の
   身にしむよりもあわれなりけり」
を御紹介したことがありました。

 

ですが、今日の風に誘われて舞っている
桜の花びらは、それとも少し異なって
ただただ美しく、ため息をつくばかり。

 

吉田兼好の『徒然草』の有名な一文、
「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」
ではありませんが、

 

今日はもう桜を見るには少々遅いかも
と思って来てみたのですが、もしかしたら
「花の盛り」よりも、もっと美しいものを
見ることができたのかもしれません。

 

 

 

 

 

「クリームブリュレ」は間違いよ

さてさて桜に見とれていないで
注文ですが、何にしましょうか。

 

今回私が訪れたのはティータイムの時間でした
ので「ザ・ガーデン」、おすすめのデザート
「クレームブリュレ」をお願いしてみました。

 

「クームブリュレ」の「レ」を「リ」、
「クームブリュレ」と書いてあるものも多い
のですが、正しくは「クレームブリュレ」です。
「クリーム」は英語で、「クレーム」はフランス語。

 

「クレーム」に続く「ブリュレ」がフランス語の
「焦がす」の意味ですので、「クレーム」と発音して
「クレームブリュレ」が正しいでしょう。

 

 

140510purinこちらは「サンデーブランチ」のプリン

 

 

 

プリンより数段、濃厚な味わい

ということで「クレームブリュレ( Crème brûlée)」
は、フランス語で「焦がしたクリーム」。
その名の通り、表面のお砂糖が
カタカタとして焦げていますね。

 

「クレームブリュレ」は見た目も、また味も
プリンに似ていますがプリンよりかなり濃厚です。

 

 

160409cremebrelee2「クレームブリュレ」ザ・ガーデン「国際文化会館」

 

 

プリンは、牛乳に卵にお砂糖やバニラなどを
加えて作りますが、「クレームブリュレ」の
材料は、牛乳ではなくクリーム、卵(全卵)
ではなく卵黄のみを使用しています。

 

それらの材料をオーブンに入れて焼くところ
まではプリンと同じですが、「クレームブリュレ」
は出来上がって冷やした後、表面にグラニュー糖、
粉糖をふりバーナー(orオーブンの上火)で
カラメル色に焦がします。

 

 

 

アメリも好きな「クレームブリュレ」割り

ですから「クレームブリュレ」の表面を「かたい」
と表現してしまうと、ちょっと違うのですが
それでも少しパリッとしています。
ここに最初のスプーンを入れるのが、また楽しい!

 

などと思っていましたらそういう人、
いるのだそうです。

 

私は見たことがないのですが
映画「アメリ」の主人公のアメリさん。
彼女のマイブームは「クレームブリュレ」
の表面を割ることなのだとか。

 

 

130222kaisaji

 

 

割ると、そこから幸せの一歩が始まる予感がする
ということですが、む〜ん、そんなに文学的では
なく即物的な私は、おいしさの予感でしょうか?、
まあ、おいしさも幸せですが。

 

 

 

ザ・ガーデンおすすめの「クレームブリュレ」

「国際文化会館」オススメのデザートだけあって
こちらの「クレームブリュレ」はとっても美味でした。

 

私はこの分量でしたら(少ないでしょ?)自慢では
ありませんが(?)、軽く一気にいってしまえる量。

 

ではあるのですが今回、「クレームブリュレ」を
一口スプーンで口にしたとたん、

 

 

130222supun

 

 

「うわ〜っ、ちょっと、ちょっと待って!
少し味わう時間が欲しい」
と舌が言っているような気さえするほどの深い味わい。

 

私にしては久しぶりに、時間をかけていただいた
デザートだったのでございます。
また、食べたい……。

 

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「国際文化会館(旧岩崎邸)」 六本木・麻布

「あぷりのお茶会」へようこそ!

 

160409kokusaibunkakaikan2

 

 

旧岩崎邸

前回、御紹介した「鳥居坂」を上ってから少し歩いて
行きますと、左側に「国際文化会館」があります。
今日はここに名残の桜を見にきました。

 

「公益財団法人 国際文化会館
(インタナショナル  ハウス オブ  ジャパン
The International House of Japan, Inc.)」

 

(〒106-0032 東京都港区六本木5‐11‐16
Tel.  03-3470-4611(代)  Fax.  03-3479-1738)

 

 

kokusaibunkakaikan(地図/「国際文化会館」)

 

 

住所は六本木ですが、地図を御覧いただくと
おわかりのように、六本木駅よりは麻布十番駅
からの方がはるかに近いです。

 

東京メトロ日比谷線の「六本木駅」
からですと徒歩10分。

 

同じく東京メトロ南北線の「麻布十番駅」
からは徒歩7分で、都営大江戸線の
「麻布十番駅」ですと徒歩4分です。

 

 

 

現在の建物は1955年に完成

こちらが入口です。
大きな桜の木が出迎えてくれているかのよう。

 

 

160409kokusaibunkakaikan「国際文化会館(旧岩崎邸)」入り口

 

 

「国際文化会館」は国際交流を目的として
ロックフェラー財団などの支援により
1955年(昭和30年)に完成しました。

 

建物の設計は、前川國男、吉村順三、坂倉準三の
共同設計によるものですが、旧岩崎邸の庭園との
調和を最大限に考慮して作られたとのことです。

 

1976年には、設計者の一人である前川國男により
改修工事と併せて新館も増築されました。

 

2005年の改修工事の後には、その保存再生活動に対し
日本建築学会からは「2007年日本建築学会賞」、
財団法人日本産業デザイン振興会からは「2007年
グッドデザイン賞」をそれぞれ贈られています。

 

また、2006年には本館が
登録有形文化財に登録されました。

 

 


160409kokusaibunkakaikanropponngihiruzu
「国際文化会館(旧岩崎邸)」
上の写真から少し入ったところ

 

 

一つ前に掲げた写真から、ほんの少しだけ
歩いて桜の木のそばに参りますと、突然、
桜の木の右側に大きな建物が出現します。

 

最近は毎日のように霞(or濃霧?)のような
モヤモヤがたちこめていて、ちょっとボケて
写っているのですが、この建物は六本木ヒルズです。

 

 

 

池泉回遊式庭園

六本木ヒルズを右に見ながら本館の玄関を
入りますと、一面がガラス張りになっていて
このような風景が目に飛び込んできます。

 

 

160409kokusaibunkakaikan2「国際文化会館(旧岩崎邸)」の庭園

 

 

池の水が薄紅色に染まっていますが
これは散った桜の花びらです。

 

もう桜はほとんど散ってしまったかと思い
ながらきてみたのですが、桜の木全体が
桜色に見えるほどに花が残っていました。

 

このの庭園は1929年(昭和4年)、岩崎小弥太
が小堀遠州と並び称される京都の造園家、
「植治(うえじ)」の七代目  小川治兵衛に
依頼してできた池泉回遊式庭園です。

 

池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園とは、
大きな池を中心にまわりに路をつくって、
築山や池の中の小島、石などで景勝の地を
再現する日本庭園の代表的なものです。

 

桃山時代、あるいは江戸時代の名残をとどめている
近代庭園の傑作として知られるこの旧岩崎邸庭園は
2005年10月に港区の名勝に指定されています。

 

 

 

次々と変わる主 

先ほどの写真の左側を写したものが次の写真です。
美しい庭園が建物をぐるっと取り囲んでいる落ち着いた
空間に身を置きますと、本当に安らぎを感じます。

 

 


160409kokusaibunkakaikan3「国際文化会館(旧岩崎邸)」

 

 

岩崎邸だった「国際文化会館」ですが
もっと遡りますと、江戸時代から幕末までは
香川県丸亀市の多度津藩(たどつはん)主、
京極壱岐守の江戸屋敷でした。

 

明治初期には、外務大事を務めた井上馨侯爵の
邸宅でしたが、のちに1876年(明治9年)に
創設された宮家の久邇宮の邸宅へ。

 

その後、所有者は三菱系の実業家であり
大正銀行頭取であった赤星鉄馬となりますが
1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊。

 

1929年(昭和4年)になると三菱財閥4代目総帥
である、岩崎小弥太が新しく邸宅を建設します。
しかしそれも1945年(昭和20年)の
空襲で消失してしまいました。

 

戦後は一時、国有地となっていたそうですが
「国際文化会館」に払い下げられ、1955年
(昭和30年)に現在の建物が完成したのです。

 

 

 

釣殿風

この写真の右側に見える風情のある建物ですが
これは平安時代の絵巻物によく描かれている
釣殿風に設えられています。

 

 

160409kokusaibunkakaikan2「国際文化会館(旧岩崎邸)」

 

 

「釣殿(つりどの)」とは、平安時代の貴族の邸宅
に見られる、寝殿造(しんでんづくり)という
建築様式のなかに含まれる建物の一つで、水面に
釣おろしたようにつくることから命名されています。

 

釣殿で魚を釣ったなどともいわれますが、主に納涼や
お月見、あるいは雪見などの遊宴に使用された建物です。

 

それでは、「国際文化会館」の釣殿風の建物は
何の目的に使用されているのかといいますと
レストランで、その名も「SAKURA」。

 

2007年にお亡くなりになった作家の城山三郎さんは
「国際文化会館」のレストラン「SAKURA」がお気に
入りでいつも決まった席におすわりになっていたとか。

 

 

hira-4tume-100丸亀藩・京極氏家紋
「平四つ目結(ひらよつめゆい)」

 

 

 

3人の男児の相次ぐ夭折

江戸時代、この場所が多度津(たどつ)藩の江戸屋敷
になったのは、元禄7年(1694年)のことだと
いいますので、前回お伝えした「鳥居坂」が
丁度できたかできないか、といった時期ですね。

 

この地に多度津藩の江戸屋敷ができた時、というのは
京極高道(きょうごくたかみち)が多度津藩の
初代藩主になった時ということでもありますが、
その時、京極高道はわずか4歳。

 

高道の父は、丸亀藩藩主の京極高豊(たかとよ)です。
高豊は正室との間に生まれた幼い男児、
3人を次々と亡くしています。

 

幸い元禄4年(1691年)には側室の子である高道が、
翌年の元禄5年(1692年)には正室の子・
高或(たかもち)が生まれて、丸亀藩主は高或
(たかもち)が継ぐことになりました。

 

 

sumitate-4tume-100多度津藩・京極氏家紋
「隅立四つ目結(すみたてよつめゆい)」

 

 

 

4歳の藩主・京極高通

父・高豊は家名の断絶を恐れて側室の子・高通に
支藩を立てることを幕府に願い出ます。

 

元禄7年(1694年)に父・高豊が40歳で亡くなると
高或は丸亀藩主に、高通は多度津周辺の1万石を
賜る多度津藩主になったのです。

 

とはいえ藩主の高通はわずか4歳でしたので、
実際に藩主として政務を執るようになったのは
正徳元年(1711年)からだったそうです。

 

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「鳥居坂」鳥居元忠は大石内蔵助の高祖父 麻布の坂1 

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160411toriizaka

 

 

都道319号線を渡ると六本木

麻布十番の絵てぬぐいのお店「麻の葉」を出て、
麻布十番駅の方に少しだけ戻った角を、左に
曲がると大きな通り(都道319号)に出ます。

 

「東京都道319号環状三号線(とうきょうとどう
319ごうかんじょうさんごうせん)といい、
港区海岸2丁目から江東区辰巳2丁目までの23,7
キロメートルの道路で「外苑東通り」もその一部。

 

「都道319号」という名前よりも「明治路通り」や
「国道6号水戸街道」「言問通り」というように
それぞれの地名で呼ばれているそうですが、今日
はその都道319をから始まる「鳥居坂」のお話です。

 

「鳥居坂下」の交差点から「鳥居坂」を上って
行くと、長い直線の道が続き、突き当たりは
六本木通りの「六本木五丁目交差点」。

 

付近には六本木ロアビルや
ドンキホーテなどがあります。

 

 

toriizaka(地図/「Mapion」に加筆)
・・・・・・」は都道319号で、「  ◉  」のあたりが「麻の葉」
 ———  」が鳥居坂です。

 

 

 

右側が「鳥居家(現在はシンガポール大使館)」

鳥居坂下交差点のそばから
「鳥居坂」を見た写真が次のもの。
木々が見えている「鳥居坂」の
右側はシンガポール大使館です。

 

 

160411toriizaka都道319号から始まっている「鳥居坂」

 

 

江戸時代、この場所に大名の鳥居(鳥井)
彦右衛門元忠のお屋敷があったことから
「鳥居坂」と名づけられました。

 

鳥居坂下交差点から六本木五丁目交差点までの間
には、麻布麻地区総合支所、フィリピン共和国
大使館、東洋英和女学院などが並んでいます。

 

 

 

「きみちゃん」と「李垠(りぎん)」

「鳥居坂」の少し先には麻布十番パティオにある
「きみちゃん」にゆかりの建物もあります。

 

 

blog_import_51535fef6677a麻布十番のパティオにある「きみちゃん」の像

 

 

童謡「赤い靴」のモデルといわれる「きみちゃん」
は、1911年(明治44年)に鳥居坂教会の運営する
孤女院(女の子だけの孤児院)で9歳で亡くなり、
現在は青山墓地で眠っています。

 

また、少し前にブログで御紹介した
李王家の邸宅があったのもここ。

 

1907年(明治40年)の12月、大韓帝国の皇太子で
あった10歳の李垠(りぎん)は、留学という名の
もとに人質として日本にきました。

 

長じた李垠はここで結婚式も挙げ、今年の夏に
赤坂プリンスクラシックハウス」として
生まれ変わる、赤坂の旧李王家東京邸に
移るまでの日々を鳥居坂で過ごしています。

 

 

rigin李垠(りぎん)

 

 

 

300年前に誕生

「鳥居坂」という名前が付けられたのは
元禄年間、1688〜1703年頃だといわれています。

 

おもしろいことに1673 ~ 1681年(延宝)の
地図には、「鳥居坂」の名前がないだけではなく、
坂そのものも見当たらないことです。

 

その後の1699年(元禄12年)の地図に
なりますと「鳥居坂」が登場します。

 

このことから、1681年から1699年までの間に、
鳥居家の敷地の一部を道にしたと考えられて
いるようです(「港区 鳥居坂物語」)。

 

 

160411toriizakaue「鳥居坂」の上から下を見た写真

 

 

 

鳥居元忠は「鳥居坂」を知らなかった!

先ほど私は「鳥居坂」の名前は、「江戸時代、
この場所に大名の鳥居彦右衛門元忠の屋敷が
あったことから名づけられた」
と一般的に言われていることを書きました。

 

徳川家の家臣で、下総香取郡矢作藩の初代藩主
である鳥居元忠(とりい  もとただ)は、
1539年(天文8年)に松平氏の家臣・鳥居忠吉
の三男として三河(愛知県岡崎市)に生まれ、

 

1600年(慶長5年)の8月1日、62歳の時に
関ヶ原の前哨戦である伏見城の戦いで
鈴木重朝との一騎打ちで討ち死をしています。

 

 

151030kinokuni

 

 

つまり亡くなったのは1600年ということで、
「鳥居坂」が作られた100年近く前に、すでに
亡くなっているのですから、元忠自身は
「鳥居坂」の存在は全く知らなかったはずです。

 

となりますと「江戸時代、この場所に大名の
鳥居彦右衛門元忠の屋敷があったことから
名づけられた」というよりは、

 

「この場所の近くにあった大名屋敷『鳥居家』から
名づけられた」と表現する方が、より正確で、
かつ誤解がないようにも思えますね。

 

 

toriizakaピンク色の部分が「鳥居坂」

 

 

 

「鳥居坂」が出来た当時の当主は?

ここで、鳥居家の歴代当主を見てみましょう。
鳥居家は元忠が初代ではありませんが、ここでは
わかりやすく元忠を①として数えることにします。

 

 

*  歴代当主の名        当時の領地
________________________
① 元忠(もとただ)
 1539〜1600

 

② 忠政(ただまさ)    1590年〜1600年
元忠の二男       下総矢作藩(4万石)
* 1566〜1628

1566〜1628*         1600年〜1622年
              陸奥磐城平藩(10万石)

             1622年〜1636年
             出羽山形藩(22→24万石)

 

③ 忠恒(ただつね)        ↓
忠政の長男             断絶
 1628〜1636
末期養子が認められず、山形藩没収

                  再興
④ 忠春(ただはる)    1636年〜1689年
忠政の三男、忠恒の異母弟  信濃高遠藩(3万2千石)
 1624〜1663

 

⑤ 忠則(ただのり)         改易
忠春の長男
 1646〜1689
                  再興
⑥ 忠英(ただてる)    1689年〜1695年
忠則の次男           能登下村藩(1万石)
 1665〜1716

             1695年〜1712年
             近江水口藩(2万石)

             1712年〜1871年
             下野壬生藩(3万石)

 

⑦ 忠瞭(ただあきら)1681〜1735 忠則の五男
⑧ 忠意(ただおき)1717〜1794 忠瞭の長男
⑨ 忠見(ただみ)1750〜1794 忠意の四男
⑩ 忠熹(ただてる)1776〜1821 忠見の次男
⑪ 忠威(ただあきら)1809〜1826 忠熹の次男
⑫ 忠挙(ただひら)1815〜1857 忠威の弟
⑬ 忠宝(ただとみ)1845〜1885 忠挙の三男

          1869年(明治2年)版籍奉還

 

 

120px-Japanese_Crest_Torii_Sasa.svg鳥居氏 家紋「鳥居笹」

 

 

1681年には記載がなかった「鳥居坂」が地図に現れた
のは、1699年からですので、その間の当主といいます
と、⑤忠則か、⑥忠英ということになるでしょうか。

 

 

 

「三河武士の鑑」といわれた元忠

なお「③忠恒」から「⑥忠英」の時代、右の領地の
記載には「断絶」と「再興」の言葉が見えます。

 

断絶した家がなぜすぐ再興したのか不思議に思い
ますが、これには「三河武士の鑑」と謳われた
鳥居元忠の活躍が関係しているのです。

 

元忠は、今川氏の人質として「松平竹千代」
と呼ばれていた徳川家康のもとに
13歳の時から仕えていました。

 

人質だった家康は3歳上の元忠に、主従を越えて
共に育った兄弟のような感情さえ
抱いていたのではないでしょうか。

 

 

130617gekkabijin

 

 

会津征伐に出兵する家康は、伏見城
に残して行く元忠に言います。

 

手勢不足のため伏見にわずかな
人数しか残せず苦労をかける、と。
すると元忠は、このように答えたのです。

 

「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば
自分と松平近正両人で事足りる。
将来殿が天下を取るには、一人でも多くの
家臣が必要である。
もし変事があって大坂の大軍が包囲した時は
城に火をかけ討死するほかないから、人数を
多くこの城に残すことは無駄である。
一人でも多くの家臣を城から連れ出して欲しい」と。

 

家康と元忠はその夜、おそくまで
酒を酌み交わしたといいます。

 

元忠が10歳の家康に仕えてから
50年の歳月が流れていました。

 

 

140222koke470

 

 

そして元忠は伏見城で討死し、京極口に晒されて
いた首級は、知人の商人が葬ったということです、
元忠の忠節は「三河武士の鑑」と称されました。

 

生涯、家康への忠義を貫いた元忠は、秀吉からの度々
の官位推挙の話も受け入れることはありませんでした。

 

元忠の最期の場である伏見城の「血染めの畳」を
江戸城の伏見櫓の階上に置かせた家康は
途城する大名たちに元忠を偲ばせたといいます。

 

 

130815hasunohana

 

 

 

元忠の功績により

さてここで先ほどの「断絶」に戻りますと、
元忠の孫にあたる忠恒は子どもがなく、
33歳で亡くなる直前の養子縁組に関してルール違反
をしたということでお家断絶になってしまいます。

 

しかし大政参与(幕府の職制の1つ)の井伊直孝
の反対にも関わらず、祖父・元忠の功績により
鳥居家は存続されることになったのです。

 

亡くなった忠恒の異母弟にあたる
忠春が信濃高遠藩主となりました。

 

それにとどまらず忠春の子、忠則も問題を
起こして閉門中に急死し(自害したと
いわれている)、再び領地没収。

 

2度目の不祥事ではありましたが、ここでも
元忠の功績により忠則の子・忠英は能登下村藩
(1万石)の藩主となることができたのです。

 

 

130312simoyasiki赤穂浅野家 下屋敷跡(赤坂6丁目)

 

 

「血染めの畳」も凄まじいですが、元忠の忠臣
ぶりは、しばしば子孫を救うことになりました。

 

忠臣といえば、鳥居元忠の四男である鳥居忠勝の
娘は、赤穂藩家老・大石良欽に嫁いでいます。

 

そしてその孫が大石良雄(内蔵助)ですので
元忠は、内蔵助のひいひいおじいちゃん
(高祖父)にあたるのですね。

 

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