保科正之・長屋暮らしもした将軍の子 「三の橋」古川の橋11

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「二の橋」と「三の橋」の東側

古川に架かる「三の橋」は、古川の東側(地図では右)に
会津藩保科家(松平肥後守)の下屋敷があったことから
「肥後殿橋」とも呼ばれていました。

 

現在の住所でいいますと港区三田2丁目あたりになります。
会津藩保科家の上屋敷「和田倉門邸」は鍛冶橋内の
千代田区皇居外苑3付近でした。

 

中屋敷は「芝藩邸、芝新銭座邸」で、港区東新橋1丁目付近、
現在ではホテル  ヴィラフォンテーヌ汐留のある一帯。

 

そして今日、御紹介の下屋敷「三田藩邸」ですが、1658(万治元)年
5月15日にこの屋敷を構えてからは、実質的な拠点となりました。
「御田下屋敷」とも呼ばれていたそうです。

 

 

古川に架かる橋hurukawanikakaruhasi天現寺橋(a)・狸橋(b)・亀屋橋(c)・養老橋(d)・青山橋(e)・五の橋(f)・
白金公園橋(g)・四の橋(h)・新古川橋(i)・古川橋(j)・三の橋(k)
南麻布一丁目公園橋(l)・二の橋(m)・小山橋(n)・一の橋(o)・
一の橋公園橋(p)・新堀橋(q)・中の橋(r)・赤羽橋(s)

 

 

 

広大な敷地をもつ「三田藩邸」

下の江戸時代の地図では、水色の矢印の場所が「二の橋」で
緑色の矢印が「三の橋(肥後殿橋)」。

 

「三の橋」から「二の橋」近くまでの古川の東側に「  ●  ●  ●  」で
囲った所が会津藩保科家下屋敷、三田藩邸の敷地です。

 

 

aiduhoshina         会津藩保科家下屋敷「三田藩邸」

 

 

現在はその場所に三井倶楽部の南半分や慶応義塾中等部等
がありますが、なんと32,972坪もあるそう。
屋敷内で軍事調練が出来るほどだったといいます。

 

会津藩保科家の三田藩邸の右側の「——  」が「三田綱坂」と
呼ばれる坂ですが、この写真ですとお屋敷は右側。
この屋敷の主が、明暦の大火の際に陣頭指揮をとった保科正之です。

 

 

160814tunazaka      会津藩保科家下屋敷沿いにある「三田綱坂」

 

 

 

隠れるようにして出産

保科正之は前回、御紹介した第4代・徳川家綱の叔父にあたり
第2代将軍・秀忠の子でしたが庶子であったため、江戸城で出産する
ことは許されず、正之の存在すら幕府では数名の人間が知るのみでした。

 

正之を生んだ母・静(志津、後の浄光院)は、『会津家世実記』では
秀忠の乳母の侍女の神尾栄嘉(かんおさかよし)の娘としていますが
『柳営婦女伝来』では武蔵国板橋郷竹村の大工の娘と記載されています。

 

生まれた場所についても『松平会津家譜』では、江戸神田白銀の
竹村次俊宅とありますが、江戸北の丸にいた武田信玄の
次女・見性院の所領、大牧村(浦和)だという説もあるようです。

 

1611年6月17日(慶長16年5月7日)に幸松(正之の幼名)誕生。
静の最初の子は出産することも叶わず、一時はお江の方一派に命を
狙われたため、幸松と静は裏長屋で暮らしていたともいわれています。

 

 

010_1_201311241629247a6            正之の時代に作られた小袖

 

 

 

高藤藩主・保科正光の養子に

そのうちお城から迎えが来るだろう、との期待が裏切られただけ
ではなく、正之は父である秀忠に会うことさえできませんでした。

 

武田信玄の娘・見性院の元で養育されていた幸松は、1617(元和3)年
6歳の時に信濃国高遠藩主・保科正光の養子になることが決まります。
母と二人、身の安全は確保されることになりました。

 

(普通、養子に行ったのは「7歳」と記載されていますが、これは当時の
年齢の数え方、ここでは全て現代の年齢の数え方で書きたいと思います)

 

保科正光には跡継ぎにする予定だった弟の正貞や、養子の左源太が
いたことから、幸松(正之)は行くことを嫌がったといわれています。

 

 

 

narabukuyo         保科家の家紋「並び九曜(角九曜)」

 

 

 

生涯「保科」姓を名乗る

高遠藩の保科家では幸松を将軍の子と戴いて、跡継ぎにする予定
だった左源太を廃嫡しましたが正光は、左源太には生活に不自由
しないよう、加増や金子を与えることを遺言しています。

 

また正光は、秀忠と正之の父子対面を実現させたいとも願っていた
といいますので、正之は養父には恵まれていたようです。

 

しかし残念ながら、対面の実現前に正光は亡くなってしまいます。
1631(寛永8)年11月12日、21歳になっていた幸松は
名を保科正之と改め、三万石の高遠藩主となりました。

 

公式行事以外は冬でも裸足でいたという正之は、城外で領民と
触れ合うことも多く、藩主の使命は領民の幸せと学んだといいます。

 

保科正之は出世をした後に、松平を名乗ることを勧められますが
養父・保科正光の恩を重く感じて生涯、保科姓を名乗りました。

 

 

徳川家(1〜5代将軍)

*    ① 家康
*    |__________________ _ _ _ _
*    |     |     |     |
*      信康    秀康     ② 秀忠    忠輝
              1579〜1632
                |
                |
*      ___________  |______
*    |      |     |  |  |  |  |  |    |
*    ③ 家光     忠長        保科正之
  1604〜1651   1606〜1633        1611〜1672  ::  *
     |
    |
*    |____________
*    |     |     |
    ④ 家綱    綱重   ⑤ 綱吉
  1641〜1680

 

 

 

兄たちとの対面

藩主になる前の1629年には、兄である駿河府中城主・徳川忠長
(秀忠の二男)と初めて会うことになりました。
正之を気に入った忠長は家康の葵の紋のついた遺品を与えてます。

 

(しかし忠長はわずか4年後の1633(寛永10)年 12月6日、 様々な
事件を起こしたため、幕命により配流地の上野国高崎で自害、享年28)

 

 

160729sannohasi  「三の橋」の東側(写真では左)一帯が会津藩下屋敷のあった場所

 

 

正之が藩主となった翌年の1632(寛永9)年1月、正之を正式に子ども
と認めなかった秀忠が亡くなり、長男・家光が3代将軍に就任します。

 

家光がお忍びで目黒に鷹狩りに行った折りのこと、
お寺の僧侶に保科正之が弟であることを知らされます。

 

驚いた家光でしたが、正之のあくまでも家臣として接する
謙虚な姿に、次第に弟への親愛の情を深めていきました。

 

 

160814ninohasihyugazaka           「二の橋」から見た古川

 

 

 

「高遠」 →「 山形」 →「会津+幕政」

家光の信頼が深まると同時に、正之は目覚ましい出世をしていきます。
1636(寛永13年)7月21日、25歳の時に出羽国山形20万石へと大幅な
加増移封後、洪水や凶作で苦しむ領民を救うための仕事にかかります。

 

1643(寛永20年)7月4日、32歳の時に陸奥国会津藩23万石に移封。
これ以降、幕末まで正之の子孫が会津藩主を努めることになりました。
すでに20代の頃から幕政に関わっていた正之に一層の重責が加わります。

 

1651(慶安4)年4月20日の家光臨終の間際に「肥後よ宗家を頼みおく」
と、次期将軍・家綱の補弼(ほひつ、補佐)をまかされたのです。
正之は20年以上もの長い間、会津へ帰ることなく幕政に専念。

 

とはいえ正之は会津を重臣たちに任せきりにはせず、遠く離れた
江戸より指図をして、会津藩の改革にも尽力しています。

 

「殉死の禁止」「税制改革と減税実施」「飢饉対策」「90歳以上の
高齢者への扶持米支給(これは年金制度の始まりといわれている)」
「間引きの禁止」「救急医療制度の創設」等々。

 

 

160814hyugazaka   「二の橋」を渡ると「日向坂」 会津藩保科家下屋敷付近

 

 

 

「都知事」兼「首相」

正之は、会津藩主であった以上に江戸の幕政に専念して、まさに
東京都知事であり日本国首相のような働きをした人でもありました。

 

武力の武断政治から文治政治へと流れを変え、「末期養子禁の緩和」
「大名証人制度の禁止」「殉死禁止令」の三大美事といわれる
正之の施策は江戸幕府の基盤を安定させることになりました。

 

忘れてはいけないのは、このブログで御紹介している麻布の
古川の水源の一つである玉川上水の開削をしたのも保科正之。
江戸の人口が増えて足りなくなった水を補うための策です。

 

 

160729ninohasi          古川に架かる「二の橋」

 

 

 

自分の屋敷は後回し

明暦の大火(振袖火事)では江戸城も、二の丸を除いて多くを焼失。
幕閣らは天守閣の再建を主張しますが、正之は町方の復興を優先します。

 

廃墟のようになってしまった江戸の町の復興に、全力を注いで
いる正之には、焼失した自分の屋敷のことなど考える余裕はなく
そちらは全て、嫡子・正頼に任せきりの有様。

 

その時の過労がもとで正頼は病死をしてしまいます。
しかし、その死を悲しむ暇もないほど正之は奮闘を続けたのです

 

明暦の大火の数年後、無理がたたった正之は50歳を過ぎる頃から
ろうがい(結核)に苦しみ、また眼病も患って晩年には失明。

 

 

aiduaoi「会津葵紋」

 

 

将軍の子に生まれながら、兄弟すら自分の存在を知らず、
長じては、4代将軍となった幼い甥・家綱を全力で支え
将軍以上の働きと実績を残し、生涯、養父の姓を名乗り続けた正之。

 

会津藩保科家が「松平」姓を名乗り、「会津葵」の家紋を
使うようになったのは、第3代藩主・正容(まさかた)からです。

 

1672年(寛文12年)12月18日に、「肥後殿橋」と呼ばれた
「三の橋」近くの会津藩江戸下屋敷で保科正之は亡くなっています。
61歳でした。

 

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明暦の大火「振袖火事」 9歳の心優しき将軍・徳川家綱

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「振袖坂」とも呼ばれた「日向坂」

前回、御紹介したお洒落な「レーベルカフェ」は「日向坂(振袖坂)」
沿いにあるカフェでしたが、「日向坂」がなぜ別名「振袖坂」と
呼ばれているかについては不明ということでした。

 

名前の由来は、ひょっとしたら「振袖坂」の少し先にある
仙台藩伊達家の下屋敷で暮らしていた人々が、故郷・仙台の「振袖坂」
を懐かしんで呼び始めたのでは?、との私の妄想も御紹介しましたが。

 

「日向坂」が「振袖坂」とも呼ばれていたと知った時、私は
すぐに振袖火事を連想したのですが、これは違うようでした

 

 

160814hyugazakaue  「二の橋」から上ってきた「日向坂(振袖坂)」はここで終わり

 

 

 

日本史上最大の「明暦の大火(振袖火事)」

1657年3月2日(明暦3年1月18日)から二日後の3月4日(1月20日)まで
続き江戸の殆どを焼きつくし、江戸時代最大のみならず、関東大震災や
戦時の東京大空襲を除くと、日本史上最大の火事といわれた明暦の大火。

 

その当時の将軍は、第3代・徳川家光の長子の第4代・徳川家綱
(在職期間は、1651・慶安4年〜1680・延宝8年)でした。

 

家綱は11歳で将軍を継承したと記されていますが、11歳というのは
当時の年齢の数え方であり、10歳のお誕生日前に将軍になって
いますので、現代の感覚では、わずか9歳で就任したということ。

 

 

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将軍就任の年には、家光時代に改易されて浪人となった由井正雪、
丸橋忠弥による倒幕未遂事件「慶安の変」も起こりましたが、
叔父にあたる保科正之や、家光時代からの重臣・酒井忠勝、
松平信綱、阿部忠秋の寛永の遺老に支えられて無事、乗り越えます。

 

その後、29年にも及ぶ安定政権を維持し、武力の武断政治から
文治政治へと変化を見せた時代でもありました。

 

保科正之を主導者にし、外様大名への一定の配慮、末期養子禁の緩和、
大名証人制度の禁止、殉死禁止令などの改正がなされています。

 

 

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危篤状態の時の酒盛り(!)

歴代将軍のなかで、描いた絵が一番多く残っているのは家綱だということ
ですが茶の湯を好み、幸若舞を舞うなど芸術を好んだ人でもありました。

 

子どもがなく病弱だった家綱は1680(延宝8)年、病に倒れ危篤状態
のなか、堀田正俊の勧めで末弟の館林藩主・松平綱吉を養子に定めます。

 

家綱が危篤状態の際に江戸城二の丸では、回復を祈るとの名目で
酒井忠清、稲葉政則、大久保忠朝らにより800人を超える酒宴が開かれ
また、逝去の直前には徳川光圀が分厚い書物を家綱に献上したそうです。

 

それらは彼等が家綱を軽くみている故の行為だったということですが
もし、本当にそうであったとしたら何とも信じがたい思いです。

 

養子を決めた直後の1680年6月4日(延宝8年5月8日)、
家綱は40歳を前に死去していますが、これによりはや5代目にして
徳川将軍家の直系の子が将軍職を世襲する形は崩れたことになります。

 

 

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咎められる者が出ないよう

家綱は信頼できる名臣等に「左様せい」と政務を任せていた
ことから「左様せい様」という、あまり褒め言葉ともいえない
あだ名が付けられたともいいます。

 

しかし一方、家綱には次のようなエピソードも多く残されています。
将軍就任から間もないまた幼い頃、江戸城天守閣に登った際に
家綱はお側の者が遠眼鏡を勧められました。

 

自分は少年ではあるが将軍である、遠眼鏡で見下ろしたことを
世人が知ったら嫌な思いをするに違いないと断っています。

 

 

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また食事の際に、家綱の汁物に髪の毛が入っていたことが
ありましたが、家綱は平然と箸で取り除きました。

 

あわてた小姓が用意した新しい椀に、家綱は言います。
「その汁は捨て、椀を空にして下げるように」と。

 

これはあたかも普段のおかわりの様に装うことで
咎められる者が出ないようにという家綱の配慮でした。

 

 

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ある時、流罪の話を聞いた竹千代と名乗っていた頃の家綱は、罪人は
何を食べているのだろう?、と問いましたが答えられる人はいません。
命を助けてなぜ食を与えないのか、という家綱の言葉に家光は喜びます。

 

「これを竹千代(家綱)の仕置きはじめにせよ」と家光は言い、これ以降
流罪に処せられた罪人にも食料を与えるようになったということです。

 

自らはひもじい思いをしたことはないであろう家綱が、他の人へ思いを
馳せたという話が事実か否かはわかりませんが、このような話が数多く
伝えられていることからも、そのような人柄であったように思われます。

 

 

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明暦の大火後

1657(明暦3)年、大火が起きた時は、すでに将軍となり月日も経って
いたとはいえ家綱は15,6才、陣頭指揮を執ったのは保科正之でした。

 

明暦の大火で焼失した本丸を再建するだけでも100万両という
膨大な資金が必要であり、天守閣の再建は見送られます。

 

大火に学んで、防衛上のため千住大橋しかなかった隅田川に両国橋を
架設、橋の袂には「火除地」を設置して、建造物を造ることを禁止。
例外として、すぐに取り壊せるものに限り、許可されました。

 

それにあうものとして土俵がつくられ、ここから両国は
相撲の町として有名になっていったということです。

 

 

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「振袖火事」の名前の由来

そこで「明暦の大火」を、なぜ「振袖火事」と
呼ぶのかということなのですが、

 

これは本郷丸山の妙本寺で、供養のために火に投じた振袖が
風にあおられ火元となったから、という説明がなされています。

 

一目惚れをした美少年が着ていたものと同じ模様の振袖を作って
抱いていたという、江戸の大店の娘が恋の病で亡くなりました。

 

 

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娘の棺とともにお寺に行った振袖は、後に町で売られて17歳の少女
のものになりましたが、その娘も亡くなり、振袖は再びお寺に。

 

また別の少女のものになった振袖でしたが、あろうことがその少女も
亡くなり、3度お寺に戻った振袖は供養のために火に投じられました。

 

前年の11月から、80日間も雨が降っていなかった乾燥していた日、
強い風に煽られ火のついた振袖が、まるで人が立ち上がるかの様に
起き上がって飛んで行き、江戸の町を焼きつくしたというのです。

 

 

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本当は……

ということなのですが、これは作ったお話とされています。
なぜならば、当時は火元になったお寺は、50年間は再建が許されない
はずでしたが妙本寺は何のお咎めもなく、すぐに復興しています。

 

その上、多大な迷惑を被ったであろうお隣の老中・阿部忠秋の
家からはその後、毎年多額の供養が届いているという事実。

 

一説には、人口が急増した江戸の町の再開発のために放火をした
という幕府放火説もありますが、これはあり得ないと思いますね。
江戸城が焼失するようなことを、幕府がするはずはないでしょう。

 

となりますと一番頷けるのは、妙本寺のお隣の阿部家出火説。
これですと火元であるはずの妙本寺がお咎めなしで、すぐ再建、
阿部家からの関東大震災まで毎年の多額の供養と全て筋が通ります。

 

 

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阿部家の当主・阿部忠秋は、明治時代の歴史家・竹越与三郎から
「(酒井忠清・松平信綱などは)みな政治家の器にあらず、政治家の
風あるは、独り忠秋のみありき」(『二千五百年史』)といわれる
ほど能力があったのみならず、人柄もまた素晴らしかったようです。

 

何人もの捨て子を連れてきては、優秀な奉公人として育て上げ
子どもの遊ぶ姿を見ることを何よりも喜んだ人だったといいます。

 

責任感も強かったと伝えられていますので、よんどころなく火事の
火元の責任を負わせてしまったことに深く心を痛め、自身が亡き後も
必ず供養を忘れるでない、とでも言い遺したのかもしれません。

 

徳川幕府崩壊後は、妙本寺も阿部家出火説を主張しだしたということ
ですが、これは少々いただけないといいましょうか、おかしいですね。

 

 

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「切り放ち」の制度化

明暦の大火による死者の数は、正確にはわからない
ものの、3万人から10万人といわれています。

 

人々が炎と煙に苛まれ逃げ惑っている時に、あまり思いが
及ばないことではありますが、牢屋の中にも人はいました。

 

小伝馬町の牢屋奉行・石出帯刀吉深は、後で必ず戻ってくる
よう伝えて、罪人たちを逃がす「切り放ち」を独断で実行。
涙を流し感謝した罪人達は後に、一人も欠けることなく戻りました。

 

吉深は、老中に死罪も含めた罪一等を減ずるように
上申し叶えられましたが、これがきっかけとなって
緊急時における「切り放ち」が制度化されたということです

 

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「レーベルカフェ」二の橋の袂にある素敵なカフェ 古川の橋10

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「二の橋」の袂

麻布通りから「二の橋」を渡って「日向坂」、オーストラリア大使館
などの写真を撮った後に、「二の橋」の袂(たもと)で見つけた
「レーベルカフェ」で一休みすることに。

 

「レーベルカフェ  トーキョー(Label  cafe  Tokyo)
〒108−0073 港区三田1丁目11-49 レーベルビル1階
03-5444-6677       火曜定休 9:00〜17:00)

 

水分不足で疲れた真夏の夕方に、突然現れたオアシスという感じ。
「日向坂」からお店へと続く、この通路を見ただけでも
素敵なお店という期待感で、ドキがムネムネしてしまいます。

 

 

160814lanelcafe        「日向坂」からお店へと続く通路

 

 

のどの渇きももちろんですが、お腹もすいていたので
この写真の左にある椅子のメニューを見ましたが
残念ながら、この時間はケーキ以外はないようですね。

 

モーニングセットと、ランチセット、それ以外はお茶の時間。
朝は9時からオープンしているようですが夕方の5時に
閉まってしまうというのは、ちょっと早い感じもしますが。

 

カフェでモーニングセットを頂いたのは、一体いつだったか忘れて
しまったほど前ですが、今度「レーベルカフェ」で食べてみたいな。
まあ、何はともあれ今日はのどの渇きを潤しに。

 

 

 

どっしりした木のドアを開くと

壁でスペースが少し区切られているように
見える、写真の左の方に入口のドアがあります。

 

 

160814labelcafetokyo        麻布「レーベルカフェ トーキョー」

 

 

う〜ん、外から見て思った雰囲気通りのお店です。
奇を衒(てら)うような派手なお洒落さではなく
落ち着いた自信を感じさせるセンスの良さ、という感じ。

 

入った瞬間の空気感もさることながら、私は何といっても
壁面の一面の大きな曇りガラスの醸し出す雰囲気に圧倒されました。

 

はっきりと見えるわけではないのですが、存在感のある木々たち。
ちょっと森みたいな感じがしますね?

 

と思うでしょ、ところ違うのですよ。
麻布十番側、麻布通りから見た「二の橋」はこんな風です。

 

 

160729ninohasi        麻布十番の方から見た「二の橋」

 

 

実はこの写真、ほんの少しだけ「レーベルカフェ」が写っています。
左上の高速道路の太い脚の左側に、5ミリほど見えているのですが
これでは全くわかりませんので、次の写真をどうぞ。

 

「二の橋」を三分の一か半分ほど行った所で
「レーベルカフェ」方向を撮ったものです。

 

 

160814ninohasihyugazaka   「二の橋」の中ほどから古川と「レーベルカフェ」を臨む

 

 

この写真では右端の中央あたりに見える建物が「レーベルカフェ」。
外からですと、先ほどのガラス一面に描かれたように写っていた
木々の存在はあまりわからず、木はどこにあるの?という感じ。

 

でもこうして見ますと、古川は結構大きい川なのですね。
第7代将軍・徳川綱吉が「四の橋」の麻布御殿(白金御殿)に船で
行くことができるように、川幅を1間ほど大きくしたのですものね。

 

ここからでは、あんなお洒落な「レーベルカフェ」があるとは
とても思えないところも意外性があって、隠家風でいいのかも。

 

 

160814labelcafetokyo    木々が描かれたような「レーベルカフェ」の壁面ガラス

 

 

 

野菜と豚ひき肉のキーマ風カレー

訪れたこの日は8月14日、お盆期間中だったのですが、お休みは
あくまで定休の火曜日だけということで通常の営業でした。

 

さてさて、何にしましょうか?、とメニューとにらめっこ。
ランチは「日替わりプレートごはん」と
「野菜と豚ひき肉のキーマ風カレー」があるようです。

 

「日替わりプレートごはん」は、10種のおかずと黒米ごはんに
2日毎に替わる具だくさんスープが添えられている魅力的なメニュー。
毎日のスープの名前が小さな紙に書かれています。

 

ランチの時間(11:30〜15:00)はとうに過ぎていたのですが
カレーを用意してもらえることになりました、感謝、感謝。

 

 

labelcafecurry     「野菜と豚ひき肉のキーマ風カレー」温泉卵のせ

 

 

「野菜と豚ひき肉のキーマ風カレー」には温泉卵かパクチー
をのせてもらうことができるので、私は温泉卵を選択。

 

御覧の通り、お米が「日替わりプレートごはん」同様、黒米です。
黒米入りというだけではなく、他の穀物も入っていましたよ。
御飯はかなり柔らかめでしたが、キーマ風カレーってこうなのかな。

 

 

160524kurogome              黒米

 

 

飲物は「レーベルカフェ」自家製の梅シロップをソーダで割ったもの。
冷たいお水割りや、ホットも可。
甘すぎず、サッパリとして暑い日にはぴったりの飲物でした。

 

 

160814labelcafeumesiroppusoda    「レーベルカフェ」自家製の梅シロップソーダ割り

 

 

この「レーベルカフェ」何かやたらお洒落だなあと思ったら、レーベル
クリエーターズというモノづくりメーカーが作ったカフェだとか。

 

「レーベルカフェ」のあるビルがレーベルビルで上階は会社なのですね。
2004年に生まれた日本のモノづくり衣・食・住をテーマにした会社。

 

 

 

壁面の大きなガラスが絵画のような美しさ

「レーベルカフェ」は大阪にもあって、そちらも堂島川に面したお店
だということですが、違うのは、「レーベルカフェ OSAKA」の
大きな壁面は曇りガラスではなく普通の透明のガラスだということ。

 

 

labelcafeosaka        (写真/「レーベルカフェ OSAKA」

 

 

外の景色が見えるのも開放感があって、とっても素敵なのですが、麻布の
「レーベルカフェ」のガラス窓も独特の雰囲気を醸し出していますよね。

 

もしかしたらさほど美しくないものを隠す目的なのかもしれませんが
そうであったらなおのこと、極上の仕上がりといった美しさです。

 

この日はパソコンを持ってきている女性が2人いましたが、私も
パソコンを持ってきて、住み着いてしまいたいほどの心地よさでした。

 

 

160814labelcafe        麻布「レーベルカフェ トーキョー」

 

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