明暦の大火「振袖火事」 9歳の心優しき将軍・徳川家綱

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「振袖坂」とも呼ばれた「日向坂」

前回、御紹介したお洒落な「レーベルカフェ」
「日向坂(振袖坂)」沿いにあるカフェでしたが、
「日向坂」がなぜ別名「振袖坂」と呼ばれて
いるかについては不明ということでした。

 

名前の由来は、ひょっとしたら「振袖坂」の少し先
にある仙台藩伊達家の下屋敷で暮らしていた人々が、
故郷・仙台の「振袖坂」を懐かしんで呼び始めた
のでは?、との私の妄想も御紹介しましたが……。

 

「日向坂」が「振袖坂」とも呼ばれていたと
知った時、最初に私が思ったことは振袖火事
だったのですが、これは違うようでした

 

 

160814hyugazakaue「二の橋」から上ってきた「日向坂(振袖坂)」はここで終わり

 

 

 

日本史上最大の「明暦の大火(振袖火事)」

1657年3月2日(明暦3年1月18日)から二日後の3月4日
(1月20日)まで続き、江戸の殆どを焼きつくし、江戸
時代最大のみならず、関東大震災や戦時の東京大空襲を
除くと、日本史上最大の火事といわれた明暦の大火。

 

その当時の将軍は、第3代・徳川家光の長子の
第4代・徳川家綱(在職期間は、1651・
慶安4年〜1680・延宝8年)でした。

 

家綱は11歳で将軍を継承したと記されていますが
11歳というのは当時の年齢の数え方であり、10歳
のお誕生日前に将軍になっていますので、現代の
感覚では、わずか9歳で就任したということです。

 

 

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将軍就任の年には、家光時代に改易されて浪人と
なった由井正雪、丸橋忠弥による倒幕未遂事件
「慶安の変」も起こりましたが、

 

叔父にあたる保科正之や、家光時代からの
重臣・酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋の寛永
の遺老に支えられて無事、乗り越えています。

 

その後、29年にも及ぶ安定政権を維持し
武力の武断政治から文治政治へと
変化を見せた時代でもありました。

 

保科正之を主導者にし、外様大名への一定の配慮、
末期養子禁の緩和、大名証人制度の禁止、
殉死禁止令などの改正がなされています。

 

 

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危篤状態の時の酒盛り(!)

歴代将軍のなかで、描いた絵が一番多く残っている
のは家綱だということですが、茶の湯を好み、
幸若舞を舞うなど芸術を好んだ人でもありました。

 

子どもがなく病弱だった家綱は1680(延宝8)年、
病に倒れ危篤状態のなか、堀田正俊の勧めで
末弟の館林藩主・松平綱吉を養子に定めます。

 

家綱が危篤状態の際に江戸城二の丸では、回復を祈る
との名目で、酒井忠清、稲葉政則、大久保忠朝らに
より800人を超える酒宴が開かれまた、逝去の直前
には徳川光圀が分厚い書物を家綱に献上したそうです。

 

それらのことは、彼等が家綱を軽くみている故の
行為だったということですが、もし、本当にそう
であったとしたら、何とも信じがたい思いです。

 

養子を決めた直後の1680年6月4日(延宝8年5月8日)、
家綱は40歳を前に死去していますが、これにより
はや5代目にして、徳川将軍家の直系の子が
将軍職を世襲する形は崩れたことになります。

 

 

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咎められる者が出ないよう

家綱は信頼できる名臣等に「左様せい」と政務を任せて
いたことから「左様せい様」という、あまり褒め言葉
ともいえないあだ名が付けられたともいいます。

 

しかし一方、家綱には次のような
エピソードも多く残されています。

 

将軍就任から間もないまた幼い頃、
江戸城天守閣に登った際に家綱は
お側の者が遠眼鏡を勧められました。

 

自分は少年ではあるが将軍である、遠眼鏡で
見下ろしたことを世人が知ったら、嫌な思いを
するに違いないと断っています。

 

 

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また食事の際に、家綱の汁物に髪の毛が入っていたこと
が、ありましたが、家綱は平然と箸で取り除きました。

 

あわてた小姓が用意した新しい椀に、家綱は言います。
「その汁は捨て、椀を空にして下げるように」と。

 

これはあたかも普段のおかわりの様に装うことで
咎められる者が出ないようにという家綱の配慮でした。

 

 

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まだ竹千代と名乗っていた頃に、流罪の話を
聞き、罪人は何を食べているのだろう?、と
問いましたが答えられる人はいませんでした。

 

命を助けてなぜ食を与えないのか、
という家綱の言葉に家光は喜びます。

 

「これを竹千代(家綱)の仕置きはじめにせよ」
と家光は言い、これ以降、流罪に処せられた罪人
にも食料を与えるようになったということです。

 

自らはひもじい思いをしたことはないであろう
家綱が、他の人へ思いを馳せたという話が
事実か否かはわかりません。

 

しかし、このような話が数多く伝えられていること
からも、そのような人柄であったように思われます。

 

 

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明暦の大火後

1657(明暦3)年、大火が起きた時は、すでに将軍と
なり月日も経っていたとはいえ家綱は15,6才、
陣頭指揮を執ったのは保科正之でした。

 

明暦の大火で焼失した本丸を再建する
だけでも。100万両という膨大な資金が
必要であり、天守閣の再建は見送られます。

 

大火に学んで、防衛上のため千住大橋しかなかった
隅田川に両国橋を架設、橋の袂には「火除地」を
設置して、建造物を造ることを禁止。

 

例外として、すぐに取り壊せるもの
に限り許可されました。

 

それにあうものとして土俵がつくられ、ここから両国
は相撲の町として有名になっていったということです。

 

 

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「振袖火事」の名前の由来

そこで「明暦の大火」を、なぜ「振袖火事」
と呼ぶのかということなのですが、

 

これは本郷丸山の妙本寺で、供養のために火に
投じた振袖が、風にあおられ火元となったから
という説明がなされています。

 

一目惚れをした美少年が着ていたものと
同じ模様の振袖を作って抱いていたという
江戸の大店の娘が恋の病で亡くなりました。

 

 

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娘の棺とともにお寺に行った振袖は、後に町で
売られて17歳の少女のものになりましたが
その娘も亡くなり、振袖は再びお寺に。

 

また別の少女のものになった振袖でしたが
あろうことがその少女も亡くなり、3度お寺に
戻った振袖は供養のために火に投じられました。

 

前年の11月から、80日間も雨が降っていなかった
乾燥していた日、強い風に煽られ火のついた振袖が
まるで人が立ち上がるかの様に起き上がって飛んで
行き、江戸の町を焼きつくしたというのです。

 

 

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本当は……

ということになっているようですが
実は、これは作ったお話とされています。

 

なぜならば、当時は火元になったお寺は、50年間は
再建が許されないはずでしたが、妙本寺は何の
お咎めもなく、すぐに復興しています。

 

その上、多大な迷惑を被ったであろうお隣の
老中・阿部忠秋の家からは、その後
毎年多額の供養が届いているという事実。

 

一説には、人口が急増した江戸の町の再開発
のために放火をした、という幕府放火説も
ありますが、これはあり得ないのでは?

 

いくら再開発のためとはいえ、江戸城が焼失する
ようなことを幕府がするはずはないでしょう。

 

となりますと一番頷けるのは
妙本寺のお隣の阿部家出火説。

 

これですと、火元であるはずの妙本寺がお咎めなし
で、すぐ再建、その後、阿部家からの関東大震災
まで毎年の多額の供養と全て筋が通ります。

 

 

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阿部家の当主・阿部忠秋は、明治時代の歴史家・
竹越与三郎から「(酒井忠清・松平信綱などは)
みな政治家の器にあらず、政治家の風あるは、
独り忠秋のみありき」(『二千五百年史』)

 

といわれるほど能力があったのみならず
人柄もまた素晴らしかったようです。

 

何人もの捨て子を連れてきては、優秀な奉公人
として育て上げ、子どもの遊ぶ姿を見ることを
何よりも喜んだ人だったといいます。

 

責任感も強かったと伝えられていますので、よんどころ
なく火事の火元の責任を負わせてしまったことに深く
心を痛め、自身が亡き後も必ず供養を忘れるでない、
とでも言い遺したのかもしれません。

 

徳川幕府崩壊後は、妙本寺も阿部家出火説を主張
しだしたということですが、これは少々いただけない
といいましょうか、おかしいですね。

 

 

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「切り放ち」の制度化

明暦の大火による死者の数は、正確にはわからない
ものの、3万人から10万人といわれています。

 

人々が炎と煙に苛まれ逃げ惑っている時に
あまり思いが及ばないことではありますが
牢屋の中にも人はいました。

 

小伝馬町の牢屋奉行・石出帯刀吉深は
後で必ず戻ってくるよう伝えて、罪人たちを
逃がす「切り放ち」を独断で実行。

 

涙を流し感謝した罪人達は、後に
一人も欠けることなく戻りました。

 

吉深は、老中に死罪も含めた罪一等を減ずるように上申
し叶えられましたが、これがきっかけとなって緊急時
における「切り放ち」が制度化されたということです。

 

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