麻布十番の「十番」って何? 麻布御殿「四の橋」 古川の橋6

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四の橋交差点

前回は「四の橋」のそばにあった「狐鰻」で
修行をした岩次郎さんが作った「野田岩」の
うなぎを御覧いただきました。

 

今日は「四の橋」の北側にあった
「白金御殿(麻布御殿)」のお話を。

 

次の地図でいいますと、川の右の方に
架かっている橋が「四の橋」。

 

橋の北側に「土屋釆女正(つちやうねめのかみ)」
の屋敷があったことから「土屋殿橋」とも
または「御薬園橋」とも呼ばれていた橋です。

 

 

hurukawa川の右の方に架かっている橋が「四の橋」

 

 

現在「四の橋」を渡った所は、四の橋交差点
となっていますが、「四の橋」から
交差点を見た写真がこちらです。

 

 

160729azabugoten「四の橋」から四の橋交差点を見たところ

 

 

 

「薬園坂」

左のビルが建っている場所は
土屋釆女正のお屋敷があった所。

 

上の写真から少し進み、四の橋交差点を渡った
あたりから撮った写真がこちらの写真。

 

 

yakuenzaka四の橋交差点から先は「薬園坂」

 

 

左のビルは「イラン・イスラム共和国大使館
領事部」となっていて国旗が翻っていますが
ここもまだ土屋家の敷地内です。

 

四の橋交差点から続いている
この道は、少々上り坂になっていて
「薬園坂」という名前がついています。
(「薬園坂」南麻布3丁目13と、3丁目10の間の坂)

 

「薬園坂(やくえんざか)」をなまって
「役人坂(やくにんざか)」、あるいは
「役員坂(やくいんざか)」ともいったそうです。

 

 

yakuenzakaryokuti薬園坂緑地付近

 

 

 

御薬園

薬園坂をのぼった左には「薬園坂緑地」
(南麻布3丁目11)があります。

 

薬園坂緑地などというと広々とした緑地を想像
しがちですが、面積は105㎡とこじんまりした
ヤマモモが植えられた道のような感じの場所。

 

ここは江戸時代の前期には
幕府の御薬園があった場所でした。

 

 

 

 

元々は江戸城にあった「御花畑」を、この地に
移した後に、今度は様々な薬草を栽培する薬草園
となっていたのが、1673~1681年(延宝年間)頃。

 

現在の住所でいいますと、南麻布3、4丁目に
あたるこの場所に5代将軍・徳川綱吉の別邸
である御殿が建てらることになりました。

 

1684(貞享元)年に麻布御薬園は
小石川の白山御殿跡に移転し、小石川御薬園
となり、後に小石川植物園となります。

 

 

koishikawashokubutuen小石川植物園

 

 

 

麻布御殿

綱吉の別邸である麻布御殿は
幾つもの呼び名があるようです。

 

「麻布御殿」「白金(しろかね)御殿」
「白銀御殿」というのは地名からきた呼び方で、
富士山がよく見えるということで「富士見御殿」とも。

 

この名称が、このあたり一帯の地名
「富士見町」の由来ということです。

 

 

「麻布野菜菓子」山椒の最中
こんなふうに餡と別々になっています

 

 

麻布御殿は1697(元禄10)年12月1日に竣工し、
翌年4月14日に完成といわれますが、これですと
わずかに5カ月で完成したことになります。

 

実際の完成は、竣工から3年後の
1700(元禄14)年ともいわれています。

 

普請奉行としては酒井彦太夫の名が挙がっていますが
実質的には、備後岡崎城主の中川因幡守久通が
普請を任されました。(「Blog – Deep Azabu」)

 

 

「麻布野菜菓子」山椒の最中

 

 

 

麻布十番の「十番」の名称誕生

麻布御殿の建設工事にあたっては
古川の改修工事も行われました。

 

綱吉が直接船で古川をさかのぼって麻布御殿まで
入ることができるようにするため川浚いをし
一間(1.8メートル)ほど川幅を広げました。

 

川幅の拡張だけではなく、掘り下げ等
大改修工事となったようです。

 

 

麻布「更科堀井」もり

 

 

1699(元禄12)年には、麻布十番付近にあった
岡田将監屋敷の西側が召し上げられ
新堀堀割となり新たに橋が架けられたりしました。

 

普請のための土運びや、資材を運ぶ人足場を、
古川の河口から一番、二番と順に設けていきましたが
その十番目の「十番組」が、現在の麻布十番と呼ばれる
付近であったことから「麻布十番」の地名が生まれた
といわれています。(渡部淳『東京風情』)

 

 

麻布「豆源」ひなあられ

 

 

もう一つの説は、1667(寛文7)年に金杉付近の
麻布新堀川筋の普請のために定められた人足が
一番から十番までの幟(のぼり)を立てたことから十番
というようになった(『江戸町方書上』)というもの。
(大石学『続駅名で読む江戸・東京』)

 

1667年の新堀川筋の工事か、あるいは1700年頃の
麻布御殿の造営に伴う改修工事かの違いはありますが
いずれにせよ17世紀後半の古川の工事の際の
人足の番組から「十番」という言葉はきているようです。

 

300年以上前から親しまれている麻布十番という名称が
住所として使われたのは1963(昭和38)年になってから。
麻布のつく地名では、一番有名にも思えますので
1963年というのはちょっと意外でもあります。

 

 

150408shabondama麻布十番のパティオ

 

 

 

麻布御殿焼失

このような大掛かりな工事をして作られた麻布御殿では
ありましたが、完成してからわずか2年後の1702
(元禄15)年、2月1日に火事で焼失してしまいます。

 

これを2年後ではなく、5年後とする説もありますが
これは完成した年が1698(元禄11)年とするか、
1700(元禄13)年とするかの違いで、火事で焼失
したのは、1702(元禄15)年ということは一定です。

 

夜9時頃、新宿・内藤宿から出火した火が青山宿、
百人町、麻布、弐本榎、三田、芝、品川、鈴ヶ森
まで及び、鎮火したのは翌日の夕方。

 

 

麻布十番「あべちゃん」つくね

 

 

麻布御殿の他、現在有栖川公園となって
いる、南部邸もともに消失しています。

 

ということで将軍が麻布御殿を訪れたのは
わずか2回だったということです。

 

1698(元禄11)年3月と、1701(元禄14)年3月30日
ですが、2回目の訪問の少し前に、浅野内匠頭と
吉良上野介の元禄赤穂事件が起きています。

 

事件による疲れを癒すための麻布御殿
訪問だったといわれているようです。

 

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うなぎ 芝・麻布・飯倉「野田岩」

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芝・麻布・飯倉「五代目  野田岩」

前回の「古川の橋5」で登場した
江戸時代のうなぎの名店「狐鰻」。

 

そこで修行をした岩次郎が作ったお店が
現在芝にある「野田岩」です。

 

ということ今回は、うなぎの老舗
「五代目  野田岩」に行ってみることにしました。

 

 

以前ご紹介した「飯倉公園」のすぐ近くです

 

 

 

今回は「芝・麻布・飯倉本店」にお邪魔しましたが
「銀座店」「下北沢店」「日本橋高島屋店」
「パリ店」と全部で5店あるようです。

 

桜田通りに面していて東京タワーの近くに
あり、最寄駅は地下鉄「赤羽橋」。

 

「飯倉公園」

 

 

「野田岩」の指定駐車場は
東京タワー地下の駐車場になっています。

 

(「五代目  野田岩」
〒106-0044   港区東麻布1丁目-5-4.
03-3583-7852
営業時間 11:00~13:30 17:00~20:00
定休日  毎週日曜日のほか年末年始と夏期休暇
*     7、8月の土用の丑の日)

 

この定休日を見ただけでも「野田岩」
のこだわりがわかりますね。

 

うなぎ屋さんなのに7、8月の土用丑の日は休業。
土用の丑の日は、よいうなぎが
提供できないからだそうです。

 

 

150808nodaiwa桜田通りに面している「野田岩」、右の方に東京タワー

 

 

 

創業200年 ミシュラン1つ星

第11代将軍・徳川家斉の寛政年間に創業して以来、
200年近くも変わらぬ味を守り続けている
「野田岩」の現在の当主は5代目。

 

日本人はうなぎを食べる習慣が、かなり古くから
あったようで、『万葉集』にも大伴家持が
「むなぎ」として歌っています。

 

江戸時代に徳川家康が江戸を開発する際、干拓工事
などでできた泥炭湿地にうなぎが住みつき、それを
蒲の穂のようにぶつ切りにし焼いて食したそう。

 

その後、1716〜1736(享保)年間頃に、江戸で
作られるようになった濃口醤油を、今度は開いた
うなぎにつけて焼くようになる、というように
蒲焼はだんだんと進化していきました。

 

 

130815sida

 

 

 

原点は、江戸前の「狐うなぎ」

その時に使用されたうなぎは
前回もお話した通りに江戸前のうなぎで、
その姿から「狐うなぎ」と呼ばれました。
「野田岩」のサイトにはこのような説明があります。

 

「原点は『狐うなぎ』
飯倉本店の看板にある
『狐うなぎ』とは

遠く利根川の上流で蟹などを食して育ち
狐のように口が細く

精悍な顔立ちと整ったかたちをした
希少な天然うなぎのこと

 

江戸時代  一級品の代名詞とされた
その『狐うなぎ』を丁寧な手作業で
最高の美味しさに仕上げていく

それが鰻専門の老舗それが鰻専門の老舗
野田岩の原点でございます」

 

 

120813hagiうなぎの旬は萩の花の最盛期から終わりの頃
(「萩」溜池山王駅アート)

 

 

 

晩秋から初冬がうなぎの旬

「五代目   野田岩」は、天然うなぎの入手のために
アイルランドにも仕入れに行く、というほどの
こだわりだといいますが、江戸時代とは環境も
異なっている現在は養殖うなぎも使われています。

 

「野田岩」の箸袋には
「天然うなぎ使用期間 4月〜12月」、
「天然鰻のお吸物のきも、又はきも焼に
釣針が入っていることがあります
ので、お気をつけ下さいませ。」
と書かれています。

 

うなぎは冬から春にかけては冬眠をしている
そうで、冬眠直前の晩秋から初冬にかけてが
一番美味しい時期だそう。

 

土用の丑の日あたりの真夏は
味が落ちている時期だといいます。

 

しかも、栄養価が高いものを普段から食している
現代人にとっては、とりたてて夏バテ防止に
うなぎを食べるというのは、医学的根拠によるもの
というよりは、殆ど風物詩なのかもしれませんね。

 

 

140222koke470

 

 

 

待ちたくない人は、要予約

老舗の「野田岩」は超人気店でもあります
ので、いつもお客さんが一杯。
予約をしていない場合は、名前を書いて
椅子に座って待つのが普通です。

 

本店は1階が椅子席、2階が座敷、3階は個室
だそうですが、それ以外にも、本店別館
として、少し離れた所にお店があります。

 

それでも入りきらないで
お客さんが待っているという状態です。

 

 

 

 

私は1階の椅子席でしたが、内装は飛騨高山から
合掌造りの建材を取り寄せて造られたという
だけあり、重厚な雰囲気が漂っています。

 

 

 

待っても、感動の美味しさ

お茶を頂いていると、さほど
待つこともなくうなぎが登場。
まず目を引いたのは、うなぎの「焼き」の美しさ。

 

ムラなく焦がさず、しかも
香ばしく焼き上げる技にしばし感動。
私が今までいただいていたうなぎは
もうちょっと黒っぽっかったかな。

 

 

unagiうなぎ 芝・麻布・飯倉「五代目  野田岩」

 

 

ここまでの焼きができない(といっても普通の
レベルでは充分合格点ですが)職人さんは、

 

「これでは使いものにならない」と叱られるのでは
ないかなどと、我が身に当てて、いらぬ妄想をして
しまうほどの、パーフェクトな焼き色でした。

 

肝吸いもそうですが、コクがありながらも、基本は
さっぱりの美味しさで、うなぎというと連想され
がちな脂感はまったくない、あっさり川魚。

 

肝吸いなど、それはもうはかないほど……、
といってももちろん味はしっかりと主張して
いるのですが、あくまで出過ぎない。

 

 

 

広重「東都名所 芝赤羽橋之図」

 

 

 

肝以外は三つ葉と柚子という過不足のない
品の良いお吸い物に、ふと何十年も前に
母が作ってくれたお正月のお雑煮を思い出しました。

 

「裂いて串を打った鰻を、素焼きしじっくり
蒸して余分な脂をのぞき、身をふっくらさせる。
さらに味醂と醤油のほかは何も入っていない
タレにつけ備長炭で焦げ目をつけることなく、
繰り返し焼いて仕上げていく。
時間と手間を惜しまない。
丁寧な作業が鰻の老舗野田岩の基本です」

 

基本に忠実に、決して手を抜かずに丁寧な仕事を
続ける、「野田岩」のサイトには
そんな伝統の技の自負が垣間見えます。

 

 

160808unsagiうちの食器にうつしかえた「野田岩」のうなぎ

 

 

大名家御用達、今でも出前をします

驚いたことに「野田岩」のうなぎは
出前もしてくれるのだそうです。

 

江戸時代、飯倉界隈には大名屋敷が多くあり
出前で楽しまれたそうで、「野田岩」は
江戸市中で評判の「山手の味」となっていきました。

 

その流れから今でも出前をしてくれるのですが
範囲はどこまで可能なのかは、サイトに記載されて
いませんでしたが、どこまでなのでしょう?
出前の料金が200円というのも良心的ですね。

 

 

 

広重「東都名所芝赤羽根之雪」

 

 

 

上の写真は出前ではありませんが、持ち帰った
「野田岩」のうなぎを、うちの食器に入れ替えたもの。
少し時間がたってしまっても
本当に美味しいうなぎでした。

 

次は、うなぎの一番おいしい時期に、これ
よりちょっとだけ上のものを食べたいな。
今回は一番お安いうなぎだったから。

 

とはいっても「野田岩」のうなぎの
お値段は、あくまでも量の違いであって
うなぎ自体は同じ品質のものだそうです。

 

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広尾の名の由来と江戸名物「狐鰻」「四の橋」古川の橋5

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「四の橋」=「相模殿橋」「薬園橋」

古川に架かる橋、今日は「四の橋(h)」のお話
ですが「四の橋」は、「五の橋」のお隣の橋
ではなく間に「白金公園橋(g)」があります。

 

現在の「四の橋」は、1984(昭和59)年、
3月に架け蹴られた橋で長さは16.2メートル、
幅は12.9メートル。

 

南麻布3丁目21と(地図では橋の上)
白金3丁目1を結んでいます。

 

橋のたもとにある、橋の名の由来が書かれたものには

「この橋は、高輪の葭見坂から麻布本町に向かう、
古い街道すじにあったという伝承があるので、初めて
架けられたのは、江戸時代よりも前のことであろう」

と記されていました。

 

 

 

hurukawanikakaruhasi天現寺橋(a)・狸橋(b)・亀屋橋(c)・養老橋(d)・青山橋(e)・五の橋(f)・
白金公園橋(g)・四の橋(h)・新古川橋(i)・古川橋(j)・三の橋(k)・
南麻布一丁目公園橋(l)・二の橋(m)・小山橋(n)・一の橋(o)・
一の橋公園橋(p)・新堀橋(q)・中の橋(r)・赤羽橋(s)

 

 

「よのはし」と呼ぶ方もいますし、また
「よんのはし」とも読んでしまいそうですが
冒頭の写真のように、読み方は「しのはし」。

 

江戸時代には、「四の橋」の左上あたりに
土屋相模守の下屋敷があったことから「相模殿橋」
とも、また麻布薬園が少し離れた場所にあった
ということで「薬園橋」とも呼ばれたようです。

 

 

hurukawa右寄りの真ん中あたりが「土屋釆女正(土屋家)」

 

 

青で描かれた古川に沿って「土屋釆女正
(つちやうねめのかみ)」と描かれているのが
「土屋殿橋」の名前の元となった土屋家のお屋敷。

 

釆女正(うえねめのかみ)とは官位従五位下で
釆女と呼ばれる女官の管理をする役職名で
1837(天保8)年、土浦藩土屋家は第十代の藩主・
土屋寅直(ともなお)が釆女正を叙位されています。

 

 

 

描いたのは「天現寺橋」ではなく「四の橋」

次の浮世絵は1856(安政3)年に、広重が
「四の橋」付近を描いた『名所江戸百景』の
『廣尾(広尾)ふる川』という作品です。

 

『名所江戸百景』は、歌川広重が1856
(安政3)年2月から、1856(同5)年10月
にかけて制作した連作浮世絵名所絵。

 

 

hirohurukawa-1広重『名所江戸百景』『廣尾(広尾)ふる川』
(「ボストン美術館」)

 

 

この絵に描かれた場所および描かれた橋
については、「四の橋」という説と
「天現寺橋」という方と二通りあるようです。

 

「天現寺橋」説では、現在の天現寺橋
交差点付近を描いたもので、左奥の山は
今の有栖川公園等がある丘陵地、
下を流れるのが古川としています。

 

ですが広重には『絵本江戸土産』に
『麻布古川、相模殿橋、広尾之原』という
同じ場所を描いたと思われる作品があり、

 

そちらには広重自身が「相模殿橋」
と記してありますので、「四の橋」説
が正しいようです。

 

 

sinohasihurukawa広重『絵本江戸土産』『麻布古川、相模殿橋、広尾之原』

 

 

 

「広尾」の名前の由来

広重は同じ「絵本江戸土産」に
この絵の説明として、

 

「江都第一の郊原にして人のよく知る所なり。
されば四時草木の花更に人力を仮 (か)らず
といへどとも、自然(おのずから)咲き
つづき、月の夜しがら、古への歌に見えたる
武蔵野の景色はこれかと
おもふばかり。
寂寥として余情(よせい)探し」

 

とも書いています。

 

廣尾(広尾)は、江戸時代にはピクニックの
場所でもあり、「広尾原」とも呼ばれていてここ
から広尾という地名が生まれたということです。

 

 

hirohurukawa-1橋の向こうは「麻布十番」か「広尾」か?

 

 

 

どちら側から描いた絵か?

私は『江戸名所百景」の「廣尾(広尾)ふる川』と
いう題名から、川の向こうに見える広い野原が
「広尾」だろうと思っていたのですが、

 

「広尾」ではなく「麻布十番」だとする説
もネットで散見されます。

 

となるとこの絵は、地図の下の方から上を見ている
ことになり、広がる景色は明治通り側ということに
なりますが、これは違うでしょう。

 

絵の手前が明治通り側だということは
江戸時代の地図からわかります。

 

 

こちら側から描いている 「四の橋」を渡った所にある
「狐鰻」といううなぎ屋さん

 

 

地図の上の方には「四ノ橋 相模殿橋」
と書かれていますので、そちら側が
現在の明治通りがある方ですね。

 

その「四ノ橋」を渡った所のすぐ左側に
「狐鰻(きつねうなぎ)」とありますが、この
お店が浮世絵で左側に書かれていたお店です。

 

ということで広重の2枚の絵は、地図の
上の方から川越しに広尾方面を臨んだもので
逆から麻布十番を見ているものではありません。

 

広重の絵で手前にある道は、現在の明治通りで
「四の橋」を渡った先は高輪、遠くに見えて
いるのは広尾の原ということになります。

 

 

hirohurukawa-1手前の道は、現在の明治通り

 

 

 

「狐しるこ」→「狐鰻」

広重の絵に描かれたのは、麻布田島町に
あった、二階建ての有名な料亭で
うなぎ屋さんの「狐鰻」というお店です。

 

「狐鰻」が出来る前は、「狐しるこ」という
お店があり時折、キツネが化けて買いに
くるほど美味しい、と評判のお店でした。

 

(「狸橋」のそばには、タヌキがお蕎麦を
買いにくる「狸蕎麦」というお店があり
ましたが、こちらはキツネです!)

 

「狐しるこ」はとても繁盛し
その後に京橋三十間堀に移転。
「狐」の名を引き継いで、同じ場所に
お店を出したのが「狐鰻」でした。

 

 

kitunesiruko「狐鰻」の前にあったお店「狐しるこ」

 

 

 

江戸前といえばうなぎのこと

「狐鰻」の名前は、「狐しるこ」の狐を
引き継いだというだけではなく、うなぎが
江戸前の「キツネのような細い口で尖った
形をしていたから」ともいわれています。

 

江戸時代は、浅草川、深川あたりの産の
うなぎを江戸前といい、他からのものを
「旅うなぎ」と呼んで区別していたそうです。

 

今の私たちは江戸前といえば、すぐお寿司を
連想しますが、江戸時代は江戸前、江戸名物
というのは全てうなぎ屋だったとか。

 

1818〜1830年の文政年間頃になると、
江戸の両国で与兵衛ずしが人気となり
江戸前という言葉は、うなぎから
お寿司に移っていったようです。

 

 

kituneunagi『江戸買物独案内』1824(文政7)
麻布 さがみどの橋 蒲焼 尾張屋藤兵衛

 

 

 

「狐鰻」は江戸の人気うなぎ屋さん

1824(文政7)年刊行の『江戸買物独案内』
には「麻布 さがみどの橋 蒲焼
尾張屋藤兵衛」と記載されています。

 

また『江戸前大蒲焼番付』(1852・嘉永5年
発行)では、105軒のうなぎ屋の中で、世話役
のところに「麻布 狐鰻」の名がありますし、

 

『江戸自慢』番付の料理屋の項には
『永坂更科そば』『両国与兵衛ずし』
『麹町おてつぼた餅』(←これはわかりません!)
とともに、『古川狐うなぎ』が載っているそう
ですので、有名なうなぎ屋さんだったようです。

 

 

東麻布「野田岩」

 

 

「狐しるこ」は、いわゆるニックネームで
「尾張屋藤兵衛」がお店の名前だということ
ですが、先ほどの『江戸買物独案内』の
「さがみどの橋  蒲焼尾張屋藤兵衛」
も同じ名ですので、

 

「狐」のみならず「尾張屋藤兵衛」という
名前までも継承したということなのですね。

 

その「狐鰻」は、木戸孝允の日記にもでてきます。
1975(明治6)年2月26日に「狐鰻」で井上馨と
伊藤博文に会ったという記述(「Blog-Deep
Azabu」)があるようですので、明治になって
もまだ「狐鰻」はあったということ。

 

 


東麻布「野田岩」

 

 

現在は「狐鰻」のお店はありませんが、東麻布
にある鰻の名店「野田岩」の初代店主・岩次郎
は「狐鰻」で修行したということです。

 

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