麻布にある3つの更科そば   「総本家 更科堀井」「永坂更科布屋太兵衛」「麻布永坂更科本店」

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160919sarasinahoriisoba

 

 

創業1789(寛政元)年「永坂更科」

飯野藩の麻布屋敷内に逗留していた布屋の清右衛門は
蕎麦打ち上手、藩主・保科正率(まさのり)の
すすめによりお蕎麦屋さんになりました。

 

そして、そのお店が現在も麻布にあるという
ことまでが、前回のお話でした「もう一つの
『保科家』は麻布のお蕎麦屋さんの生みの親?」

 

清右衛門がお店を持ったのは1789(寛政元)年
のことで、清右衛門は布屋太兵衛と名を改め
麻布永坂の「永坂更科」の初代となります。
(布屋の清右衛門  →  布屋太兵衛・永坂更科初代)

 

「更級(さらしな)」とは、信濃国にあった
郡の名前で、現在の長野市の一部と千曲市の
一部にあたり、ソバの産地として有名な土地。
『更級日記』の更級ですね
(更級日記は更級が舞台ではありませんが)。

 

「さらしな蕎麦」という名前は、清右衛門が
蕎麦屋を始める以前からあったようですが、
布屋太兵衛のお店の名前は、

 

級(さらしな)」の「更」の字に、
「しな」は保科家の「」の一字を賜って
更科」としました。

 

飯野藩保科家の藩邸に近い、麻布永坂にお店を
構え「信州更科蕎麦処  永坂更科布屋太兵衛」
の看板を掲げました。

 

 

sarashinahoriiiA「総本家  更科堀井」106-0046   元麻布3丁目11-4    03-3403-3401
B「永坂更科布屋太兵衛」106-0046   麻布十番1丁目8-7    03-3585-1676
C「麻布永坂更科本店」106-0046   麻布十番1丁目-2-7    03-3584-9410

 

 

 

3つの「更科蕎麦」

今年、創業227年にもなるお蕎麦屋さんですが、
麻布には「更科」と名乗るお蕎麦屋さんが
徒歩5分程の範囲のなかに3つもあります。

 

 

  店名        創業     現在の当主
_________________________

「更科堀井」A      1789(寛政元)年
                9代目・堀井良教

「永坂更科布屋太兵衛」B 1959(昭和34)年
                3代目・小林正兒

「麻布永坂更科本店」C  1950(昭和25)年
                2代目・馬場繁二

 

 

3つとも「更科」が入っていて名前を見た
だけでは、どのお店が本当の創業227年、
布屋太兵衛のお蕎麦屋さんかわかりませんが
創業を見て頂ければ一目瞭然ですね。

 

 

sarasisnahorii 明治10年頃の「永坂更科布屋太兵衛」

 

 

 

戦時下の大恐慌の中、一時は廃業

200年以上の年月の間には、様々なことも
あったようですが、結論をいいますと
「更科  堀井」が清右衛門の流れを汲むお店です。
ということで「総本家  更科  堀井」とも称します。

 

1875(明治8)年に「布屋」という屋号を改め、
「堀井」と名乗り、5代目からは布屋ではなく
堀井太兵衛となり、現在は9代目堀井太兵衛
(堀井良教)が当主。

 

1941(昭和16)年、六代目の店主・堀井保の時、
戦時下で国内外は大変な金融恐慌が起こり
堀井家が出資していた麻布銀行が倒産するなどの
なか、お店は廃業の憂き目に遭うことになります。

 

 

160629nagasakasarasina生粉打蕎麦(きこうちそば)「永坂更科布屋太兵衛」

 

 

 

戦後の混乱期に現・「永坂更科本店」開業

1947(昭和22)年、戦後の混乱期に
料理屋だった馬場繁太郎が
「永坂更科製麺部新開亭」を開業。

 

19450年には「永坂更科」商標を取得し
麻布十番一の橋に「麻布永坂更科本店
(現・永坂更科本店)」を開業。

 

実は私はこの事実を知る以前から、
「永坂更科本店」の雰囲気はお蕎麦屋さん
というよりはお料理屋さん、という気が
していましたがやはりそうだったのですね。

 

サイトを見た印象もお料理屋さんのそれ
ですし「お蕎麦も美味しいお料理屋さん」
という位置づけのような気がします。

 

「創業寛政元年」とあるのは、ちょっと行き過ぎ。
まるで家系図をお金で手にして、◯◯の子孫と
名乗っているような悲しさを感じます。

 

 

sarasinahoriisakisai季節のおすすめ種物「秋菜(あきさい)」は
栗、インゲン、百合根、、銀杏、甘長唐辛子等
の冷たい更科そば「更科堀井」

 

 

 

「永坂更科布屋太兵衛」設立

一方、1949(昭和24)年、7代目・堀井松之助夫妻、
麻布商店街組合長・木村政吉、小林玩具店の小林勇に
より、本来の伝統の暖簾を再開したいとの思いから
合資会社「永坂更科布屋太兵衛」が設立されます。

 

その後、1959(昭和34)年には、
小林勇が「株式会社永坂更科布屋太兵衛」を
設立し、この会社に大学卒業後の
8代目・堀井良造が入社しています。

 

ちなみにこちらの「永坂更科布屋太兵衛」のサイト
にも創業寛政元年の文字が見えますが……。

 

 

160919sarasinahoriisobaもりそば「総本家  更科堀井」

 

 

 

「総本家  更科堀井」の復活

1984(昭和59)年12月には、江戸時代創業
の血筋である、8代目・堀井良造が
総本家を開店することになりました。

 

本来はこちらが布屋太兵衛の子孫である
にもかかわらず、様々な事情で商標登録は
他の2店が持っていたため、「布屋太兵衛」
をお店の名前には使用できず、

 

姓の堀井を冠した「総本家  更科堀井」
になりましたが、こちらが正真正銘、
創業寛政元年の布屋太兵衛のお店です。

 

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もう一つの「保科家」は麻布のお蕎麦屋さんの生みの親? 「二の橋」古川の橋12

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160814ninohashi

 

 

保科正之の方ではない「保科家」

「三の橋」のそばには保科正之が初代会津藩主と
なった会津藩保科家の下屋敷がありましたが
今日は「二の橋」のそばの保科家の御紹介です。

 

下の江戸切絵図の緑色の矢印が「三の橋」で
その矢印がある藤色の「●  ●  ●」で囲った場所
が会津藩保科家の下屋敷「三田藩邸」でした。

 

切絵図では
「陸奥会津藩(福島)松平肥後守容保  二十三万石」
とあります。(松平肥後守は、会津藩保科家の
ことで、容保は会津藩最後の藩主)

 

 

aiduhoshina緑色の  ←「二の橋」 「 ● ● ● 」は会津藩松平肥後守の下屋敷
水色の  ←「三の橋」 「———」が飯野藩保科弾正忠の上屋敷

 

 

会津藩保科家の上に見える水色の矢印は「二の橋」
を指していますが、「二の橋」の左(西側)に
水色の線で囲った場所が、もう一つの保科家。

 

家紋(並び九曜紋)とともに、
「上総飯野藩 保科弾正忠正益」と記されています。
現在の住所では麻布十番3丁目、
以前は網代町と呼ばれていた場所です。

 

 

160729ninohasi「二の橋」を渡った先の右奥の方が保科正之の屋敷で
橋の手前、左の方にあったのが保科弾正忠の保科家

 

 

「二の橋」から飯野藩の保科家の屋敷が
あった方を写したのが次の写真です。

右のビルの後の方、またはるか
右の方まで保科家の敷地でした。

 

 

160814ninohashi右の建物あたり一帯が「保科家弾正忠の上屋敷」

 

 

 

「弾正忠」は何と読む?

ところで保科家の後に続く「弾正忠」が読めません……。
保科家の敷地の中には、家紋と一緒に
「上総飯野藩(千葉) 保科弾正忠正益   二万石」
とあります。

 

 

aiduhoshina

 

 

この江戸切絵図は復刻版ですので「上総飯野藩」
の説明として(千葉)と加えられており
版籍奉還をした最後の藩主の「正益(まさあり)」
の名前が記されています。

 

そして問題の「弾正忠」の読み方ですが、これは
律令制の官位だということは前々回に書きましたが、

 

官位とは「官職」と「位階」を組み合わせた言葉で
国の機関で働く人に割り当てられた職場のこと。
「位階」とは地位や身分の序列を表したものです。

 

 

hyugazakasendaizakaこの切絵図では「家紋 保科弾正忠」とのみ

 

 

 

「弾正忠(だんじょうのじょう)」

「弾正台」というのは、今でいう警察のような働きを
していて、「弾正台」の長官を「尹(いん、かみ)」
といい、「弾正尹」と書いて「だんじょうのいん」
あるいは「だんじょうのかみ」と読みます。

 

続いて、「大弼(だいひつ、だいすけ)」
「小弼(しょうひつ、しょうすけ)」
「大忠(だいじょう)」
「小忠(しょうじょう)」
「大疏(だいそ、だいさかん)」
「小疏(しょうそ、しょうさかん)」。

 

 

飯野藩保科家の上屋敷があった
近くに現在あるお店
「麻布野菜菓子」の山椒の最中

 

 

ということで保科正益は
「弾正忠(だんじょうのじょう)」
となるのですが、

 

「だんじょうのちゅう」という
ふりがなのものが多く見られます。
正しくは「ちゅう」ではなく「じょう」です。

 

ですから「保科弾正忠正益」は
「ほしなだんじょうのじょうまさあり」
となります。

 

織田信長の家も「弾正忠」を代々名乗り、また
米沢上杉家当主は代々、「弾正大弼(だいひつ、
だいすけ)」を叙位されて名乗っていました。

 

 

aiduaoi会津藩保科家の家紋「会津葵」

 

 

 

正之の養子により廃嫡

こちらの保科家は、保科正貞が
初代藩主となる飯野藩保科家です。

 

初代高遠藩主の保科正直の三男として
生まれましたが、7歳の時に子どもの
いない兄・正光の猶子となります。

 

猶子(ゆうし)というのは、養子より少し
緩やかな親子関係を指しますが、正貞の他に
親類の左源太という養子もいたそうです。

 

 

            —— 左源太
      高遠藩主  
保科正直 —— 正光 ———— 正貞(正光の弟)
     (1561〜1631)  (1588〜1661)
            
            —— 正之
               (1611〜1673)
                  ↑
                    |
徳川家康 —— 徳川秀忠 —— 幸松(保科正之)

 

 

15歳で実父・正直、養父・正光と同じ「甚四郎」
に改名して秀忠に仕え、18歳で諸大夫、従五位下
弾正忠を叙任し、大坂冬の陣、夏の陣と活躍。

 

1617(元和3)年、30歳の時に、正光が
秀忠の子・正之(当時は幸松)を養子
として迎えたために廃嫡。

 

 

narabukuyo保科家の家紋「並び九曜(角九曜)」

 

 

 

43歳で3千石の旗本

養父の正光と不仲だったともいう正貞は35歳で
高遠を去り、親類のいた伊勢桑名藩などに寄宿
したあとに、1624(寛永元)年、江戸に移り43歳で
下総香取両群内に3000石を与えられ旗本になりました。

 

1631(寛永8)年には、大坂定番になっていますが
この大坂定番(おおさかじょうばん)とは
大阪城での警護を主とする仕事で、2万石前後
の譜代大名が任じられたようです。

 

仕事は大阪城の警備に限らず、大坂東西町奉行、
堺奉行の監督、直領の徴祖と訴訟や裁判、
西日本の大名の監視と多岐にわたりました。

 

 

160814ninohashi保科正貞の亡くなった保科弾正忠の麻布上屋敷跡

 

 

 

保科家の本家に

同じ年に、保科正之から保科家代々
伝来の家宝文物を譲り受け、ここで
保科正貞の保科家は本家となりました。

 

その後、7000石を領していた正貞は
1648(慶安元)年、1万石を加増され、
上総国飯野(千葉県富津市)と
摂津国豊島群浜村(大阪府豊中市)に陣屋を設け、
1万7000千石の大名として飯野藩を立藩。

 

1680(万治3)年11月22日に、年齢を感じ
大坂定番を辞した翌年の1661(寛文元)年
11月1日、74歳で江戸藩邸で亡くなっています。

 

 

iinojinyakohun飯野陣屋の敷地の中にあった古墳(千葉県富津市)

 

 

 

飯野藩藩主

保科正貞の飯野藩は、現在の千葉県富津市の藩で
お城はなく飯野陣屋に藩庁が置かれていました。

 

このあたりは転封が頻繁に行われた地ですが
1648(慶安元)年の立藩以来、1868年の明治維新
にいたる223年間、一度の国替えもなく
藩主の保科家が10代に亘って治めています。

 

富津市飯野にあった飯野陣屋は、長州徳山陣屋、
越前敦賀陣屋とともに、日本三代陣屋の
一つにも数えられる陣屋です。

 

東西は約350メートル、南北は約280メートルに及び、
陣屋の内邸(うちやしき)の面積は41,000坪
(東京ドームの3倍ほど)で、周囲にある藩士の
邸宅、外邸を合わせますと71,000坪にもなりました。

 

保科正貞は大坂定番として、死去の前年まで
大坂城に詰めていたので、この立派な陣屋で
長い時を過すということはなかったそうです。

 

 

160919sarasinahoriisoba

 

 

 

7代藩主がいなかったら、麻布の
有名なお蕎麦屋さんはなかったかも?

時は移って寛政年間、上総飯野藩藩主は第7代藩主・
保科正率(まさのり  1752〜1815)になっていました。

 

保科家ゆかりの信州からきた信濃布を商う
清右衛門は、元禄の初め頃、飯野藩の江戸
麻布上屋敷の長屋に逗留することを許されます。

 

清右衛門は「布屋太兵衛」という
商号で、晒布の行商をしていました。

 

 

同じく「麻布野菜菓子」の
トマトのフィナンシェ

 

 

代を重ね、8代清右衛門になっていた
1789(寛政元)年、本業は布屋の
清右衛門は、蕎麦を打つのがめっぽう上手。

 

藩主・正率のすすめにより清右衛門は
蕎麦屋になってしまったのです。

 

この流れを汲むお蕎麦屋さんが、現在も麻布にある
のですが、さて、どのお蕎麦屋さんでしょうか?
次回をお楽しみに!

 

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仙台藩伊達家下屋敷沿いの大きな坂「仙台坂」 麻布の坂4

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160712sendaizaka

 

 

「振袖坂」とは対照的な「仙台坂」

二の橋から続いている「日向坂」の別名が「振袖坂」
という名前だったことから、私は勝手に「振袖坂」の
名は「仙台にある同名の坂から来たものではないか」
との妄想を書いたことがありました。

 

「振袖坂(日向橋)」のほんの少し先には
「仙台坂」があります。
「仙台坂」の名前の由来は、仙台藩伊達家下屋敷
があったことから命名されたものです。

 

 

160814hyugazaka「日向坂(振袖坂)」

 

 

下の江戸時代の地図では、水色の「・・・」で
囲ったところが、仙台藩伊達家(松平陸奥守)
下屋敷の場所。

 

水色の線「———」が「仙台坂」です。
ピンク色の線が「———」が「振袖坂(日向坂)」
ですが,「仙台坂」の高低差や長さに比べて
やさしい穏やかな坂です。

 

 

hyugazakasendaizaka・・・」で囲んだ部分が仙台藩伊達家下屋敷
———」が仙台坂   「———」が振袖坂

 

 

 

現在は韓国大使館

下の写真を撮ったのは、「仙台坂」の左端。
左端が一番高くて、右に向かって下り坂になっています。

 

元麻布1丁目と南麻布1丁目の間を通る
「仙台坂」は、かなり長くて傾斜もある
大藩の仙台藩に相応しい坂然とした坂。

 

 

160712sendaizaka「仙台坂」右が南麻布1丁目で、左は元麻布1丁目

 

 

この写真の場所から少し下った右側には
現在、韓国大使館があります。

 

本当は韓国大使館の写真も撮りたかったのですが
入口に警察官(警備員?)が棒を持って
立っていたので、撮りそびれてしまいました。

 

実はその時、財布を落としたのに気づいて
韓国大使館の前を2往復、行ったり来たりと
ウロチョロしていて不審者と間違えられないかなと。

 

 

仙台藩伊達家の家紋「竹に雀」

 

 

 

最初の上屋敷は外桜田

ここ麻布にあった仙台藩伊達家の屋敷が、下屋敷だった
ことは間違いないようですが、実は屋敷の上中下の呼称と
数、場所は江戸時代を通して、一定ではなく変化して
いるので、とてもわかりにくいのが実情です。

 

仙台藩伊達家の最初の江戸屋敷は、1601(慶長6)年
に、徳川家康から外桜田に与えられたもので
1661(寛文元)年まで上屋敷として使用されていました。

 

江戸初期の段階では4カ所だった、仙台藩伊達家の
江戸屋敷は、幕末には7カ所に増えています。

 

 

kuromaiinaho370

 

 

 

1841(天保12)年に幕府に提出した仙台藩の記録

上屋敷       25,819坪
芝口3丁目(港区東新橋1丁目 旧JR汐留駅構内)

 

中屋敷      10,842坪
愛宕下(港区西新橋3丁目)

 

下屋敷(1)   21,293坪
麻布(港区南麻布1丁目 韓国大使館周辺)

 

下屋敷(2)         2,134坪と借地1,006坪
品川大井(品川区東大井4丁目)

 

下屋敷 (3)           16,680坪と抱地5.990坪
大崎袖ヶ崎(品川区東五反田3丁目)

 

蔵屋敷         5,396坪余預地50坪余
深川(江東区清澄1丁目)

         (「江戸に仙台を見る」)

 

 

 

1702(元禄15)年12月15日の早朝

1841(天保12)年の記録にある上屋敷は、最初に
賜った外桜田の屋敷とは異なり、1641(寛永18)年に
幕府から与えられ、1676(延宝4)年以降、幕末まで
上屋敷として機能した「浜屋敷」と呼ばれるものです。

 

この仙台藩伊達家の「浜屋敷」の表門前に
1702(元禄15)年12月15日の早朝に
赤穂義士の一団が通りかかりました。

 

本所の吉良邸の討ち入りを終え
主君の浅野内匠頭の墓所である
高輪泉岳寺へ向かう途中の赤穂義士たちでした。

 

仙台藩士は赤穂義士を呼び止め
お粥をふるまったといわれています。

 

 

160519kousogenmai

 

 

この時のお米は、うるち米を蒸して乾燥させた
「干し飯(ほしいい)」と呼ばれる軍糧(ぐんりょう)
として作られていたものでした。

 

軍糧(ぐんりょう)とは、軍隊の食料、兵糧
(ひょうろう)のことで、仙台糧として特定の
製造所で作られていた特産品だったとか。

 

「干しいい」は「糒」という、見たこともない
難しい漢字ですが、「干し飯」は「ほしめし・
ほしいい」といわれたお米で作る保存食。

 

 

 

 

仙台藩士が赤穂義士に、干し飯で作られた
お粥をふるまったと聞いた時に
私は最初、不思議な気がしたものでした。

 

なぜわざわざ、あのような乾燥して
かたいもので作ったのだろうと。

 

「あのような」とはいえ、私は干し飯を実際に
見たことはないのですが、炊いた御飯を乾燥させ
カラカラにしてあるもののようですので。

 

などと考えていたら、思い出しました、
大昔に読んだ『伊勢物語』を。

 

 

160602arisugawakoenhanashobu

 

 

 

「乾飯の上に涙おとしてほとびにけり」

「昔、男ありけり」の在原業平が京から東に
下る途中、カキツバタの花が咲いていたことから
「カキツバタ」の5文字を入れて句を詠みました。

 

ら衣 つつなれにし ましあれば
*       るばる来ぬる びをしぞ思ふ」

 

(着慣れた唐衣のように、親しんだ妻を
都に置いてきて、カキツバタの花を見ると
はるばる来たのだなあとしみじみ思う)

 

という句ですが、これを聞いたその場の皆が
悲しさで涙を落とすと、食べていた乾飯
(かれいい)がふやけてしまったというお話。

 

 

images干し飯

 

 

 

「仙台藩特製 干し飯」

この時代の人はよく泣いたようですが、本当に
そんなに泣いたの?というのは今回は置いておき
乾飯(かれいい)がほとびる、柔らかくなり簡単に
柔らかく、食べられるようになるということですよね。

 

今の私たちが想像する以上に、お湯さえ用意すれば簡単に
お粥に変身する、インスタント食品なのかもしれません。

 

赤穂義士たちがお粥が出来上がるのを広間で待つ
などということはありえませんから、本当に
あっという間に用意することができたのでしょう。

 

 

130121azuki

 

 

つまり長期保存が可能で、かつすぐに
食べられる食品ということなのでしょう。

 

仙台市の『東京に残る正宗公ゆかりの地』に
よりますと、「仙台糧として特定の製造所で
作られていた仙台藩の特産品」なのだとか。

 

自慢の特産品であり、現代だったならばさしずめ
特許取得の「仙台藩特製 干し飯」、
防災バックの必需品だったかもしれませんね。

 

表高62万56石4升4合、実高は支藩であった
一関藩を含めて、18世紀初頭には100万石を超えていた
という、さすが諸藩のなかで、第3位の石高を
誇る仙台藩伊達家だけあります。

 

真冬の早朝に思いもかけない、温かいお粥を
用意してくれた、仙台藩士のあたたかな心遣い。
赤穂義士たちには、これ以上ない美味
に感じられたのではないでしょうか。

 

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