ミツバチの不思議

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女王蜂は1つの巣に一匹

太古より人間が危険を冒してまで手に入れようとしてきたハチミツ。
それを作り出しているのはミツバチたちです。

 

ミツバチは、体長10〜30ミリ以上の、ミツを集める
ハチの総称で、世界に2万種ほどいるといわれています。
ミツバチのコロニーは、たくさんの不思議に満ち溢れています。

 

皆さんもご存知のように、ミツバチの巣には
「女王蜂」「オスバチ」「働きバチ」と3種類のハチが
いますが、1つの巣の内訳はこんな感じ。

 

1つのコロニーの構成メンバー(全部で数千〜数万匹ほど)
 女王蜂(queen bee)    1匹    体重170〜250ミリグラム
 オスバチ(drone bee)  10パーセント   160〜280ミリグラム
 働きバチ(worker be)  90パーセント   80〜130ミリグラム

 

それぞれの大きさは、女王蜂が一番大きく、働きバチの2倍ほど。
オスバチは、働きバチよりも一回り大きいくらいですので
大きさを順にいうとこうなります。
   女王蜂 > オスバチ > 働きバチ

 

 

 

 

 

女王蜂と働き蜂は、本来同じハチ

性別は、オスバチのみがオスで、女王蜂と働きバチはメスです。
ただ、女王蜂と働きバチは、もともとは全く同じハチの卵なのですが
育てられ方の差により「女王蜂」と「働きバチ」に分かれます。

 

女王蜂は、次の女王蜂を育てるために卵を産みつけますが
まず、その産卵部屋、育つ場所である部屋が働きバチ用とは異なり
働きバチ用よりも、もう少し大きな女王蜂専用の飼育部屋です。

 

女王蜂専用の飼育部屋は働きバチたちが用意しますが
「王台(おうだい)」、あるいは「王房」といわれるものです。
女王蜂は1つの王台に、1つのメスの卵を産みつけますが
一度に王台は5,6個作ります。

 

 

 赤い矢印の部分が女王蜂の飼育部屋「王台」(写真/「浦添養蜂園」

 

 

 

王台の卵が女王蜂に

3日ほどすると卵は幼虫に孵化します。
その時に女王蜂の幼虫に与えられる食事が「ローヤルゼリー(王乳)」。
女王蜂の幼虫は、羽化するまで王台の中で育てられます。

 

一方、働きバチの卵は、王台より少し小さな部屋に産みつけられ
女王蜂と同じように3日で卵から幼虫になり、幼虫になってからの
3日間は、女王蜂と同じようにローヤルゼリーを与えられます。

 

違うのはその後で、4日目からは女王蜂はいままで通りローヤルゼリー
ですが、働きバチはには花粉が多く与えられるようになること。

 

その結果、女王蜂はさなぎになるまでの期間が「5日」
であるのに対して、働きバチは少し多く「7日間」かかります。
さなぎから成虫になるのも同様で、女王蜂は「7日」ですが
働きバチ「12日」ほど。

 

 

        養蜂の様子を描いたエジプトの壁画

 

 

 

「女王蜂」と「働きバチ」の違い

            女王蜂       働きバチ
_________________________________
卵〜幼虫に孵化する日数   3日         3日

幼虫〜さなぎになる日数   5日         6日

さなぎ〜成虫になる日数   7日           12日
_________________________________

   寿命        4年   生まれた季節によって異なるが
                    1ヶ月〜4、5ヶ月程度

 

 

女王蜂と働きバチの違いを表にしてみるとこのようになりますが
同じメスの卵が「女王蜂」と「働きバチ」に別れるのは
女王蜂は次の2つのように育てられるからです。

 

 1「幼若ホルモン」が含まれるローヤルゼリーを与えられる。
 2 王台で育てられる。

 

オスバチの場合も、卵からさなぎになるときは
働きバチとほぼ同じようですが、働きバチよりも体が少し大きい
せいなのでしょうが、羽化には14日ほどかかるようです。

 

 

 

 

 

働きバチの仕事は次々、変化する

働きバチの寿命は一般に、30日ほどといわれますが、生まれた時期に
よって異なり、繁殖期である4月から6月には、1ヶ月程度ですが
秋から冬を越す時期には、春先までの4〜5ヶ月の寿命ということです。

 

そして働きバチたちは生まれてから寿命が尽きるまでの
短い期間に、こなす仕事の種類が次々と変わっていきます。

 

羽化した働きバチが、まず最初にするのは掃除の仕事です。
その次は幼虫の世話係で、餌を与えたり、体を舐めてあげたりします。
女王蜂のそばにいるものは、女王蜂の世話も働きバチたちの仕事です。

 

1週間ほど経った後は、外回りの働きバチたちが持ち帰った
ミツや花粉を集めて花粉団子を作ったり、巣房に蓄えたりします。
巣板、巣の壁を作るという、お家の修理も働きバチの仕事。

 

 

        ハチミツを採取する様子を描いた壁画

 

 

 

最後の10日が花蜜集めの仕事

「働きバチ」といって私が想像するのは、何といっても蜜を採取する
ハチですが、それ以外にも巣の清掃、幼虫の世話、女王蜂の世話、
巣作り、巣の防衛といった様々な仕事をこなしているのですね。

 

働きバチの一生の最後の10日ほどになると、ようやく如何にも
ミツバチらしい、花蜜を集める外の仕事につくことになります。

 

花蜜や花粉を集めて運搬するという、危険を伴う仕事は
熟練バチの出番で、外回りをするようになった働きバチは
原則として、今度は巣の中での仕事はしません。

 

ただ外敵から襲われて巣の中で働く蜂が少なくなってしまった
緊急時などには、再び幼虫の世話係などもこなす
というように臨機応変に対応するようです。

 

 

               ミツバチ

 

 

 

ミツバチの春夏秋

働きバチがハチミツを作るのは、巣の群れの維持や、幼虫の餌、
また花が咲かなくなる冬の保存食として蓄えておくためです。

 

花が咲き乱れる季節に外に出た働きバチたちは、500近くもの
花を訪れ、蜜を集めては巣に持ち帰るということを繰り返し、
天気がよい時は、1日に20回以上も出かけるそう。

 

1度に運ぶミツの量は、なんと自分の体重の半分ほど
(0,02g)から、ほぼ同じ量といいますから驚きます。
とはいえ1匹のミツバチが一生に運ぶ量はティースプーン1杯ほど。

 

蜜集めに忙しい季節も終わり、秋の長雨が続くと、働きバチはあまり
巣の外には出られなくなりますが、それでも集めることのできるミツ
や花粉、プロポリスとなる木の樹脂などを集めて巣の中に備えます。

 

 

 

 

 

冬のミツバチは何をしている?

そしてこの季節になると、女王蜂は産卵を徐々に控えるようになります。
ミツバチは冬に冬眠をすることはありませんが
外にはでずに巣の中にこもっています。

 

産卵を休止している女王蜂を中心に、働きバチたちが体を寄せ合って
蜂の球(蜂球)を作り、胸部飛翔筋(きょうぶひしょうきん)、
羽を動かさずに振動させることにより熱を起こしています。

 

このため、冬でも巣の中は30度前後を保っています。
暖め合いながらミツバチたちは、蓄えておいたハチミツを
冬の間の食料にし、再び巡ってくる春を待ちます。

 

そして春になると、花からミツを採取しハチミツ作りに勤しみ
女王蜂はまた卵を産み始めて、仲間を増やし始めるのです。

 

 

 

 

 

高度なミツバチの温度調節技術

変温動物のミツバチは冬は固まって羽ばたくことにより温度を
保っていますが、巣の中は四季を通じてほぼ一定の温度だそうです。
さなぎが育てられている飼育部屋は、常に32〜35℃。

 

夏に温度が上昇しすぎた場合は、巣の門にいる
働きバチが風を起こして、外気を巣の中に入れます。

 

それだけではなく、外から水を運んで巣に広げて、水分の帰化
による温度の降下を促すといいますから、本当に驚きます。

 

 

 

 

 

オスバチの働き

こうして働きバチたちの仕事ぶりを見てきますと、それでは
オスバチとは何をしているのだろう、との疑問が生じますが
オスバチの働きといえば、女王蜂と交尾をするだけということ。

 

本当にそれだけ?、とちょっと信じがたい思いもありますし
もしかしたら、まだ人がわかっていない働きもあるのでは
ないか、などという気もしなくはありませんが。

 

とにかく現在はそういうことで、オスバチの「drone bee」の
「drone 」とは、「のらくらもの、居候、怠け者」の意味だとか。

 

 

      桜ハチミツリーフ 東京ミッドタウン「浅野屋」

 

 

 

用が済んだとばかり邪魔にされるオスバチ

交尾を終わったオスバチは、自分の生殖器官が
体から外れてしまい、地面に落ちて死にます。

 

この交尾時期に成功しなかったオスバチは巣に戻りますが、巣箱にいる
必要はない存在ともいえるので、働きバチから疎まれ、羽をかじられ
たり、追いかけまわされたりと邪魔者扱いをされるといいます。

 

食料の少ない冬の前にオスバチたちは、餌をもらえなくなり
働きバチたちによって巣から追い出されてしまうそう。
ちょっと、かわいそうです。

 

さて次は、女王蜂についてお話をしたいのですが
長くなってしまいましたので、続きは次回にしましょうか。
また、見てね〜!

 

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ハチミツの歴史「ハチミツの歴史は人類の歴史」

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ハチミツ

「ハチミツの歴史は人類の歴史
(The history of honey is the history of mankind. )」
こんなことわざがイギリスにはあるそうです。

 

1万年以上前から、人間はハチミツを甘味料として利用してきました。
紀元前6000年頃、先史時代末期から新石器時代にかけてできたと思わ
れる壁画には、既にハチミツを採取している様子が描かれています。

 

スペインのイベリア半島沿いのバレンシア州のビコルプ村、
アラーニャ洞窟の中の壁画です(実際の壁画は劣化して
見づらいため、これは模写した絵だということ)。

 

 

 

紀元前6000年に描かれた壁画「ハチミツを集める女性」
写真(「ミツバチと共に90年  鈴木養蜂場   はちみつ家のブログ」)

 

 

 

木に登った女性が、左にあるハチの巣からハチミツを採取
している様子を描いたもので、女性の右側に見える
いくつかのものは、ちょっと大きめですがハチのようですね。

 

貴重なハチミツを手に入れるには、このような危険を
冒さなければならなかったことを表しているといいます。
そして時が経ち、人々は養蜂を始めるようになりました。

 

紀元前2500年頃の古代エジプトの壁画にその様子が残されています。
紀元前300年頃になると、ミツバチの巣箱を船に乗せ
ナイル川を移動する移動養蜂も始まりました。

 

 

エジプト、パバサの墓の壁画「ハチミツ採取」
(写真/「Natural  food」

 

 

 

エジプトのパバサの墓の壁画には、象形文字と共に養蜂をする人が
描かれていますが、当時のエジプトではハチミツは特権階級のもの。
女王クレオパトラも肌を美しく保つために利用していたそうです。

 

食用以外に傷の手当などの、治療薬としてもハチミツは利用されて
いて、高い殺菌力はミイラ造りの防腐剤としても使われました。
ツタンカーメン王もハチミツの壺と共に埋葬されています。

 

またアレキサンダー王の遺体は、ハチミツ漬けにされて
バビロンからアレキサンドリアまで運ばれました
このようにハチミツの殺菌力は強力で、現在ピラミッドから
発掘されるハチミツも食べることが可能だとか。

 

 

 ピラミッドの壁画「ミツバチ」
(写真/「L’A BEILLE」

 

 

この写真はピラミッドに描かれた象形文字ですが
ミツバチは一目でわかりますね。

 

隣にある長細いものは葦だそうで、ミツバチと葦は王位のシンボルです。
紀元前3000年に始まった第一王朝の頃から
女王蜂は王座のシンボルとして使われていました。

 

メキシコ南東部に栄えていた古代マヤ文明(紀元前900年頃成立)
でも養蜂は行われていて、16世紀に侵入したスペイン人も
その養蜂技術の高さには驚いたということです。

 

 

            マヤ文明「ピラミッド」

 

 

 

飛鳥時代に始まった日本の養蜂

一方、日本での養蜂は飛鳥時代に始まったといわれています。
皇極天皇三年(643年)、百済の太子・余豊がf大和三輪山(奈良県桜井
市)で、養蜂をしたが失敗したという記録が『日本書紀』に見えます。

 

『大日本農史』には皇極天皇二年(624年)に養蜂が始まった
との記述や、『延喜式』には平安時代の宮中への献上品として
ハチミツが贈られていたとの記録も残されています。

 

「蜜、甲斐国1升、相模国1升、信濃国2升、能登国1升5合、
越後国1升5合、備中国1升、備後国2升」
という具合で、全部を足しても10升ですので、かなりの貴重品扱い。

 

当然、庶民には縁のないもので、主に神饌用や薬用でした。
貴族が多用した、香木を混ぜて作る「練香」の
つなぎにも、ハチミツは使われました。

 

 

 

 

 

江戸時代には庶民にも広まる

巣箱を使う養蜂が始められるようになったのは、江戸時代に入ってからの
ことですが、この頃には庶民もハチミツを楽しめるようになりました。
江戸も後期になると、ハチミツ作りの解説書や、専門書を書く人も出現。

 

ハチミツは、消化器、呼吸器、循環器、眼病、皮膚病などに効くとされ、
日本に伝わっていた中国の薬学書『本草綱目』には
「十二臓腑ノ病ニ宜カラスとイフモノナシ」と絶賛されるほどでした。

 

その頃の採密技術は、当時のヨーロッパの方法より進んでいたそう。
ヨーロッパではミツバチを殺してから、巣を壊して採取していましたが、
日本では、巣箱の蓋を叩いて、ミツバチが巣の後ろ側に逃げたすきに
巣の2/3を切り取って蜜を採取する方法をとっていました。

 

こうすることにより残りの1/3から、ミツバチが巣を
元通りに繕うために、何度でも採取することが可能です。
これは経済的でもあり、ミツバチも殺さずにすむ良い方法ですね。

 

 

 

 

 

近代養蜂

地中海周辺から広まった養蜂は、次第に世界に広がっていましたが人が
ミツバチの巣からハチミツを採取する際は、上記のようにハチの巣を
壊していましたので、採取後はまた最初からということの繰り返しでした。

 

それを改良したのが現在行われている巣箱(ラングストロス式)です。
1853年、アメリカ合衆国のラングストロス( (L.L.Langstroth)は
著書『巣とミツバチ(The Hive and the Honey Bee)』で
この画期的な近代養蜂を発表しました。

 

取り外しが可能な長方形の巣枠、
ミツバチが巣を作りやすいよう蜜蝋を六角模様にプレスして作った巣礎、
蜜を巣から取り出すための遠心分離機、などです。

 

 

 

 

これは自然に作られているミツバチの巣に近い形をしたもので
このラングストロスの方法は、現在に至るまで基本的には
変化していないというほど、優れた方法でした。

 

ラングストロス方式の近代養蜂が日本に入ったのは、明治時代になって
からのことで、欧米文化と共に流入してきた産業として定着しました。
また、花を追って北上する移動養蜂も盛んだったようです。

 

しかし戦後の高度経済成長期に、農薬の使用が増えて自然破壊が進行。
その上、安価な輸入品も増えるなどの理由から、現在では
養蜂業は衰え、移動養蜂も見られなくなってしまいました。

 

 

    こんなかわいい形をしたミツバチの巣箱もあるのですね

 

 

 

自然からのプレゼント

フランスの養蜂は、20世紀半ばまでは仕事というよりは
自分の土地の片隅に、巣箱を設置してハチミツを楽しむといった
趣味、あるいは副業にとどまる範囲のものに過ぎませんでした。

 

しかし1960年代に巻き起こった自然回帰ムーブベントにより
ハチミツは俄然、注目されることになります。
それを機に、様々な研究が養蜂業の発展に寄与することになりました。

 

とはいえ今でも何千年前と同じように、野生のハチミツを採取する
人々もアフリカ、アマゾン、アジアの各地に存在します。

 

それというのも、ハチミツは人が作り出すものではなく
基本的には自然からの賜物だということが大きいからでしょう。
貴重なハチミツを自然から頂けることに、心から感謝ですね。

 

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ミッフィ(うさこちゃん)の作者 ディック・ブルーナ

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ディック・ブルーナは亡くなってしまったけど

三日前のツイッターのタイムラインを見ている時のこと、
棺に入って眠るミッフィーちゃんの絵が目に飛び込んできました。
嫌な予感がします。

 

発信していたのはオランダ在住の「Janko Bosch」さん。
絵には次の言葉が添えられていました。

 

「Dick Bruna overleden maar nijntje will live forever!
(ディック ・ ブルーナが亡くなってしまいましたが
ミッフィーは永遠に生き続けます!)」

 

やはり不安は的中してしまいました。
ミッフィー(うさこちゃん)の作者であるオランダのグラフィック
デザイナー、絵本作家のディック・ブルーナが、2017年2月16日に
オランダ、ユトレヒトで老衰のために89歳で亡くなったそうです。

 

 

     オランダのユトレヒトの信号は「ミッフィーちゃん」

 

 

 

世界中で愛されたうさぎ

ミッフィーのお父さんであるディック・ブルーナ(Dick  Bruna)は
オランダのユトレヒトで生まれ、89年後に同じ街で亡くなりました。
そんなミッフィーちゃんの街の信号は、こんなに可愛い信号です。

 

上の写真は青(緑)信号のミッフィーちゃんですが、もちろん赤信号も。
こちらの写真もツイッター「ひるひ」さんという方からのものです。
ミッフィーちゃんの信号のある、こんな素敵な街で暮らしたいですね。

 

ユトレヒト市で生まれたディック・ブルーナは、60年にわたる
長い制作活動の間に「ミッフィー」シリーズを
はじめとして、120作を越える絵本を刊行しています。

 

 

 

 

ディック・ブルーナの絵本は、世界50カ国以上で
翻訳され、8500万部以上のロングセラーと
文字通り世界中で愛された絵本作者でした。

 

日本では、1964年『ちいさなうさこちゃん』という題の絵本が
出版されて以来、5000万部以上の絵本が刊行されて
「子どもが初めて出会う絵本作家」として親しまれてきました。

 

我が子だけではなく、全ての子どもを愛し、そして
世界中の子どもたちに愛されたディック・ブルーナ。
その絵の原点には、強い平和への願いがありました。

 

 

 

 

 

冬に湖を泳いで逃げる人

1927年にユトレヒトで生まれたディック・ブルーナは、幼い頃から
画集に触れて、油絵を描いている子どもでしたが、十代の半ばの
多感な時期に、第二次世界大戦を経験することになってしまいます。

 

祖国であるオランダは、ナチス・ドイツに侵攻されました。
戦時下にあったある日のこと、冬の寒さの中
冷たい湖を泳いで逃げるユダヤ人の姿を目撃します。

 

彼は憤りと悲しみを覚えたといいます。
「(この体験が)ぼくの人生を決定づけたのかもしれません」
とディック・ブルーナは後に語っています。

 

 

 

 

 

父の猛反対の中、画家を志す

1945年、第二次世界大戦終結後、高校を退学して
イギリスとフランスの出版社の研修に出かけます。
出版社を経営する父親の跡を継ぐため、との名目のもとで。

 

しかし、実際は美術館や画廊をまわり、パブロ・ピカソや
アンリ・マティスの自由な作風に影響を受けて
自らもスケッチに励む日々だったのです。

 

1947年にはオランダに戻り、アーティストになることを
父親に認めてもらい、アムステルダム国立美術アカデミーに
入学しましたが、自らの求めているものとの違いから退学。

 

1951年、イレーネとの結婚を機に、父親の経営する出版社
「A.W.ブルーナ&ゾーン」に専属デザイナーとして就職した彼は、これ
以降、2000冊を越えるブックカバーのデザインを手がけることなります。

 

 

 

 

 

1955年、ミッフィーちゃん誕生

1953年、彼の最初の作品である絵本
「de appel(りんごぼうや)」を発表。

 

1955年には、ミッフィーシリーズの最初の1冊が誕生しました。
これはイレーネ夫人との間に恵まれた3人の子の、最初の子に
してあげたうさぎのお話がもとになっているそうです。

 

日本では「ミッフィー」や「うさこちゃん」と呼ばれているうさぎの
オランダ名は「ナインチェ(nijntje)」で、これが本の題名。
ミッフィーは、オランダでは「ナインチェ・プラウス」という名前です。

 

その年に、「nijntje(ちいさなうさこちゃん)」と
「nijntje in de dierentuin(うさこちゃんとどうぶつえん)」を発表。
その時の「うさこちゃん(ナインチェ)」はこんな子です。
今とかなり違っていますが、この子も素朴て可愛いですね。。

 

 

          最初の子うさぎ「ナインチェ」

 

 

「ミッフィー(うさこちゃん)」のオランダ名は「ナインチェ」でしたが
実は、ディック・ブルーナという名前も、ブルーナという姓以外は違う
そうで、本名は「ヘンドリック・マフダレヌス・ブルーナ」。

 

「ディック」というのは「太っちょ」という意味の愛称だそうですが
ブルーナさん、ちっとも太っていないのに面白いですね。
それとも子どもの頃は、ちょっと太っていたのかな?

 

 

 

「ブラック・ベア」シリーズ

彼の父の会社であったA.W.ブルーナ&ゾーン社は、老舗の中堅出版社
でしたが、第二次世界大戦後は、電車に乗る時にポケットに入る
サイズの、ペーパーバックの探偵小説の出版で成功します。

 

それまでの書籍の概念を覆す、ディック・ブルーナの描くシンプルで
斬新な装丁は人気を博し、年間150冊もの装丁をこなしました。
英作家イアン・フレミングの「007」シリーズの装丁も彼の作品だそう。

 

同社のキャラクターだった熊に彼が手を加えた「ZWARTE BEERTJES」
(ブラック・ベア)」は、読書週間用のポスターとして登場し、
1955年には、A.W.ブルーナ&ゾーン社のペーパーバック
「ブラック・ベア」シリーズが生まれました。

 

 

      ディック・ブルーナの装丁(写真/「assist on」

 

 

 

小さな四角形の絵本

1959年には、彼の最初の絵本だった「りんごぼうや」(1953年)の
改訂版が出ることになりましたが、この時に私たちにおなじみの
あの小ぶりの正方形の絵本スタイルが生まれます。

 

その理由は、この大きさが「子どもの手に取って楽しく
両手におさまるサイズだから」というものですが
まさに納得です、本当に子どものための絵本ですね。

 

また彼の絵本は、全て12場面の構成になっています。
これも幼児が集中できる時間が10分ということから
その時間内に読み切れるページ数ということだそう。

 

1971年に、グラフィックデザイナーのピーター・ブラッティンガと
ともに、ディック・ブルーナの著作物を管理するメルシス社を設立。
1975年にA.W.ブルーナ&ゾーン社を退職するまでの20年間、
彼は「ブラック・ベア」シリーズの装丁を続けました。

 

 

 

たった一人でミッフィーちゃんを描き続ける

出版社を辞めて独立した後も、ディック・ブルーナはアシスタントを
雇わずに、構想から仕上げまで、たった一人で仕事場で描き続けます。

 

ミッフィーちゃんの絵をよく見ると、黒の輪郭線がちょっと
デコボコしていますが、その理由を彼はこう答えています。

 

 

輪郭がちょっとデコボコしているミッフィーちゃん
(写真/「ディック・ブルーナ みみよりフログ」

 

 

「私の線は、いつも少し震えています。
まるで心臓の鼓動のようでしょう?
震える線は私の個性なのです」と。

 

 

 

2015年 ミッフィー誕生60周年

それからもディック・ブルーナの活躍は目覚ましく
数々の賞を獲得してゆきました。

 

1983年「オレンジナッソー勲章」
1990年「くまのぽりす」でオランダ書籍宣伝協会から「金の絵筆賞」
1993年 オランダのベオトリクス女王からナイト(騎士)の称号を受ける
1996年「うさこちゃんのてんと」でオランダ書籍宣伝協会から
「銀の絵筆賞」受賞等、書ききれませんのでこのくらいにしましょう。

 

2006年には、ディック・ブルーナの作品を専門に展示する美術館
「ディック・ブルーナ・ハウス」(現在は
「ミッフィー・ミュージアム」)もオープンし、

 

2007年には、次世代に英知をもたらす「Wisdom」 Projectで
「世界の70人」に選ばれています。

 

また2013年には、初めての映画「劇場版ミッフィー どうぶつえんで
宝さがし」が公開され、2015年には、ミッフィー誕生60周年を
記念する展覧会が世界各地で開催されました。

 

 

 

 

 

2011年 涙を流すミッフィーちゃん

そして私たち日本人には決して忘れることのできないことがあります。
2011年の東日本大震災の時に、ディック・ブルーナが
描き起こしてくれたミッフィーちゃんです。

 

当時、唯一このアートの使用を許可されていた会社に所属していた
グラフィックデザイナーのいちかわ照葉さんは、このアートに
添えられていたディック・ブルーナの言葉を記してくれています。

 

「このアートのライセンス料(使用料)は一切いただきません。
これを自由に使って、日本の復興に役立ててください。」
                   (「日々色々」

 

私は当時、そのようなディック・ブルーナの言葉は
全く知りませんでしたが、涙を流しているミッフィーちゃんを
見て、私も涙が溢れたことを思い出します。

 

 

 

 

 

正面を向くミッフィーちゃん

そういえばミッフィーちゃんって、いつも正面を向いていますね。
これは読者といつも対話していたいという思いから、登場人物は全て
正面を向き、読者と目を合わせるように設定されているためだそう。

 

「飢餓、貧困、病気から子どもたちを守ろうと訴える
ポスターも描き、東日本大震災では涙を流す
うさこちゃんのイラストで日本の子どもたちを励ました。
生涯にかいた絵本の、どの主人公も
まっすぐに読み手である子どもたちを見つめている。
子どもたちを怖がらせるストーリーは一昨もない」(森本俊司)

 

 

 

 

また、ミッフィーちゃんの絵に多い余白について
ディック・ブルーナはこう説明しています。
「多くの余白を子どもたちの想像力のために残しておいた」と。

 

ミッフィーちゃんの絵の余白を読み取った後に、自分の心の余白に
描き込む作業は、私たちに残された仕事なのかもしれませんね。
ディック・ブルーナさん、ありがとうございました!   (・×・)

 

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