宇和島藩初代藩主・伊達秀宗は、伊達政宗の長男

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六本木にあった宇和島藩・上屋敷

前回、愛媛県西予市の「山田まんじゅう」を
ご紹介しましたが江戸時代、西予市は
宇和島藩の宿場町として栄えた町です。
その宇和島藩の江戸藩邸・上屋敷は、麻布にありました。

 

当時は麻布龍土町という地名でしたので
「宇和島藩麻布屋敷」と呼ばれていましたが
今の住所でいうと六本木7丁目。

 

現在その場所には、国立新美術館、
政策研究大学院大学などが建っています。

 

 

宇和島藩伊達家の上屋敷があった「国立新美術館」六本木

 

 

麻布には仙台藩伊達家の下屋敷もありましたので、
江戸時代、麻布には宇和島藩伊達家の上屋敷と、
仙台藩伊達家の上屋敷があったことになります。

 

下の地図では、上の方が宇和島藩の上屋敷、
下が仙台藩の下屋敷。

 

宇和島藩伊達家があるのは、東京ミッドタウン
の正面あたりで、六本木ヒルズを挟み
宇和島藩伊達家が上で、仙台藩伊達家が下です。

 

宇和島藩伊達家の上屋敷は、36,051坪の広い
敷地であるのに対し港区南麻布1丁目にあった
仙台伊達家の下屋敷は、21,293坪。
東新橋にあった仙台藩伊達家の上屋敷でも
25,819坪だったそうです。

 

 

 

(地図の上の方) 宇和島藩伊達家 上屋敷 36,051坪
(地図の下の方) 仙台藩伊達家 下屋敷  21,293坪

 

 

 

仙台藩主・伊達政宗の長男と生まれながら

伊予宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗は
仙台藩の初代藩主である伊達政宗の長男として
生まれ、当初は2代仙台藩主にと目されていた
ものの、諸事情からそれは叶いませんでした。

 

その理由としては、秀宗の母親が正室ではなく
側室だったからといわれていましたが
実はそうではなく別の事情だともいいます。

 

1591(天正19)年に、兵五郎という幼名の秀宗が
陸奥国の村田城で生まれた時、政宗の正室・愛姫
(めごひめ)には男子が長い間無生まれなかった
ために、待ち望まれた世子誕生でした。

 

しかしわずか3歳の1594(文禄3)年、父・政宗に
伴われて秀吉に拝謁した後、人質として秀吉に差し
出された兵五郎は伏見城で暮らすことになります。

 

 

 

 

 

秀次事件

秀吉が甥である秀次に、跡を託した後の1593
(文禄2)年、淀殿が秀頼を出産すると
秀吉はことのほか喜びようでした。

 

前田利家夫妻を仲人にして、生まれた
ばかりの秀頼を後継者・秀次の1歳の娘と
婚約をさせるなどと考え出す始末。

 

そして翌1595(文禄4)年、突如秀次に謀反の
嫌疑がかけられ、瞬く間に秀次の切腹と
妻子等39名の処刑という事件が発生します。

 

この処刑は京都の三条河原に40メートル四方の堀が
掘られた中で、秀次の子の遺体の上に、その母、侍女,
乳母等の遺体が次々と無造作に折り重なっていく
という酷いものだったといいます。

 

 

 

 

 

 

秀吉のもとで元服し「豊臣」秀宗に

この秀次事件の後、秀吉は伊達政宗に
起請文を出させています。
「もし政宗に逆位があれば、直ちに隠居して兵五郎を
当主に立てる」という内容の誓約でした。

 

1696(文禄5)年9月、兵五郎は
豊臣秀吉の猶子となり元服。

 

秀吉から偏諱(へんき、名前の一時をもらうこと)を受け
「秀宗」と名乗るとともに、従五位下侍従に叙位、任官。
3歳の秀頼のお側小姓となります。

 

 

 

 

 

そのわずか2年後の1698(慶長3)年、秀吉が死去、
1600(慶長5)年には、五奉行の石田三成等が五大老の
徳川家康に対して挙兵し、関ヶ原の戦いが始まりました。

 

秀宗は、石田三成方の宇喜多秀家のもとで人質となり、
1602(慶長7)年には、徳川氏の人質になることに。

 

いくら戦国の世とはいえ、現在でいえば小学校を卒業する
までに、3度も人質として各地を転々とさせられたのです。

 

 

 

 

 

異母弟・忠宗が誕生

その頃、父・伊達政宗と正室の間に男子が誕生しました。
後の仙台藩2代藩主となる伊達忠宗、幼名・虎菊丸です。
翌年の1月、政宗は虎菊丸を家康に拝謁させています。

 

一方、秀宗は家康に、徳川四天王の一人で重臣であった
井伊直弼の娘・亀を正室するよう命じられます。

 

1611(慶長16)年、弟の虎菊丸が江戸城で
元服し、将軍・秀忠から忠の字をもらい
忠宗と名乗ることになりました。

 

 

 

 

 

 

理不尽な藩主除外

豊臣秀吉から「秀」をもらい一時は豊臣姓を名乗り
秀頼に仕えた秀宗は、伊達家の長男とはいえ
徳川の世で仙台藩主となるのはふさわしくない、
これが藩主になれなかった理由だといいます。

 

しかし私は、これに大いに疑問を感じざるをえません。
人質となった秀宗が、親の反対をおして勝手に伏見城に
行ったわけではなく、親の命令に従ったまでです。

 

当時、兵五郎はわずか3歳、
仙台を離れたくはなかったでしょう。

 

今でいう小学校1年生で既に小姓として秀頼に
仕えていますがそれらも全て、政宗をはじめ
周囲の大人が決定したこと。

 

 

 

 

同じ「秀」だし、ってダメ?

自らの意思で秀吉の家臣だった武将達が、全て遠ざけ
られたというわけでもないのに、親の意思に
幼児の時から従った子が父・政宗の跡を継ぐ
ことができないとは、なんとも理不尽です。

 

確かに弟の名前は、秀忠から一字を
もらったものではあります。

 

徳川秀忠から「忠」の字を賜り
    虎菊丸 (弟) →「忠宗」に対し
豊臣秀吉から「秀」の字を賜り
    兵五郎  (兄)→「秀宗」と。

 

ですが幸い(?)といってもはなんですが
秀吉も秀忠もともに「秀」の字ががついている
のですから、ここはひとつ「『秀宗』の『秀』は
『秀忠』の『秀』から賜ったことにする」
などという新しい解釈にするとかなんとか……。

 

 

 

 

 

例えば現在の日本に目を転じてみても、離婚後も
結婚していた時の氏を使う人もいます。

 

この時、結婚していた時の氏である「伊達」は
離婚後に名乗っている氏の「伊達」とは、
「民法上の氏は異なる」などという、わけのわからない
説明が、21世紀の日本でもなされているわけですし。

 

秀宗は、秀吉の人質であり、家康の人質でもありました。
であるならば「秀」の一字の解釈など、いかようにも
できそうなものなどと思うのですがね。

 

 

 

 

 

参陣の功として

そのような中、秀宗は父とともに1
614(慶長19)年、大阪冬の陣に参陣。
いくさ後、徳川から政宗に伊予宇和島10万石が与えられます。

 

政宗はそれを秀宗に譲りたいと申し出て許されたこと
から秀宗は、10万石の伊予宇和島藩主となりました。
仙台藩の支藩ではなく、国主格(国持)大名としての扱い。

 

秀忠からは、西の伊達、東国の伊達と相並ぶよう
命じられたといいますが、これは有力外様大名である
伊達家の東西分断、かつ豊臣家に近い秀宗を
四国に遠ざけるためだったともいいます。

 

 

 

 宇和島藩伊達家の家紋

 

 

 

仙台伊達家からの「家臣」と「借財」が紛糾の元に

政宗は伊予宇和島に向かう秀宗につける家臣を
仙台藩伊達家家中から選び出し、また藩主交代が
続いて藩の財政が疲弊していた宇和島藩の
ための初期の資金として6万両を用意します。

 

一説には3万両ともいいますが、何れにせよ
大金には違いなく、それらの返済に関して
宇和島藩では紛糾の原因となりました。

 

1615(慶長20)年の3月18日、伊達秀宗が宇和島城に
入城したことにより、宇和島藩が正式に成立しました。

 

仙台伊達家からの多額の借財とともに
仙台藩からきた家臣と、そうでない藩士との間で
揉め事が生じ、殺人にまで至ります。
一時、政宗は激怒して秀宗を勘当したそうですが後に和解。

 

このことがあり、父子の関係はかえって
良好になったといいます。
長男でありながら家督を継げなかったこと、
また長期にわたる人質生活のことなどを、
父・政宗に訴えることができたからです。

 

 

 

 

 

伊達政宗の長子

秀宗は仙台藩の支藩と扱われることを嫌いました。
将軍・家光と御成之間での対面の折には
弟の忠宗より上座に着席したともいわれます。

 

石高は少なくとも忠宗より年長であるとの
意思表示でしょう。

 

父・政宗から「唐物小茄子茶入」や、秘蔵の伽羅の
名香「芝舟」を贈られた秀宗は、父と同様に
和歌の才に秀でていたことから、和解後は
和歌の交歓をしながらも藩政に力を注ぎます。

 

1622(元和8)年に遠江守を叙任し、
1626(寛永3)年には従四位下に昇位。
そして1636(寛永13)年、政宗死去。

 

 

こちらは細川家所蔵の香木「白菊」ですが、実はこれ
「一木四銘香」といい四つの名前を持っている香木で
政宗から秀宗に贈られた「芝舟」と同じ香木です

 

 

 

維新まで続いた宇和島藩

1657(明暦4)年7月21日に、秀宗は世子の
宗利に家督を譲って隠居し、8月16日には
五男の宗純に伊予吉田藩を分知。
これにより宇和島藩は7万石、吉田藩は3万石となります。

 

翌1658(明暦4)年、6月8日江戸藩邸にて死去、68歳。
死後の翌日、宮崎八郎兵衛、高島太郎衛門が、
18日は神尾勘解由、23日には渡辺左衛門が
殉死したといいます。

 

 

 

 

秀宗後は、2代・宗利(むねとし)、
3代・宗賢(むねよし)、
4代・村年(むらとし)、5代・村候(むらとき)、
6代・村寿(むらなが)、7代・宗紀(むねただ)、
8代・宗城(むねなり)、9代・宗徳(むねえ)
と宇和島藩伊達家は、江戸末期まで存続しました。

 

多くの家がそうであるように、血縁としては
途中で耐えたため、3代は仙台藩主家から
宗賢(むねよし、秀宗の弟)を迎えています。

 

また8代藩主・宗城は、土佐の山内容堂、福井の
松平春獄、薩摩の島津斉彬とともに
「幕末四賢侯」と称され活躍しました。

 

 次回は、六本木の宇和島藩伊達家上屋敷跡
  からの出土品についてです、また見てね〜!

 

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山田屋まんじゅう

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金沢ではなく愛媛のお菓子

ちょっと小ぶりの可愛いおまんじゅうは
愛媛の「山田屋まんじゅう」。

 

ご覧の通りに包んである紙に梅鉢紋がついて
いたので、てっきり加賀のお菓子かと思って
いたのですが、今見たら愛媛のものでした。

 

(「山田屋まんじゅう」 本店
〒797-0015 愛媛県西予市宇和町卯之町3-288
Tel./Fax.  0894-62-0030
サイト yamadayamanju.jp
営業時間 9:00〜18:00 年中無休
お休みは1月1日だけだそう)

 

直営店は愛媛県に5店舗と、2015年8月には
東京の恵比寿にもお店をオープンしたほかは
高島屋でも扱っているようです。

 

 

 

 

この「山田屋まんじゅう」はいただいた
もので、初めて頂くお菓子だったのですが
とても美味しくて驚きました。

 

その味を説明するのは、私の貧困なボキャブラリー
ではちょっと難しいのですが、強く前面でアピール
する美味しさというより、控えめな慎ましやかな
美味しさとでもいったらよいでしょうか。

 

縦二つに切ったものがこちら。
いってみれば、おまんじゅうの全体が「皮」
であり「餡」でもあるような感じで
境目が優しく溶け合っています。

 

 

「山田屋まんじゅう」を縦二つに切ったところ

 

 

おまんじゅうの全体の構成員(?)が
皮のようなさっぱり感と、あんこのような
まったり感を持ち合わせて絶妙なバランス。
(と言っていることが意味不明になってきましたが)。

 

全体が餡のような感じというと、いかにも甘すぎる
と思いがちですがさにあらず、ほのかな甘さは
くどくなくて、もうホント幾つでも食べられて
しまうという感じのおまんじゅうでした。

 

 

 

宿のお礼に教えてくれたレシピ

小ぶりの丸っとしたかわいい「山田屋まんじゅう」が
生まれたのは1867年、慶応3年のことといいますから
今からちょうど150年前。
かわいいけど誕生したのは結構、昔なのですね。

 

商いをしていた高辻源蔵は、ある日
旅人に一夜の宿を提供します。
そのお礼にと、旅人が作り方を教えて
くれたのがこのおまんじゅう。

 

作ってみると大評判だったことから
源蔵はそのおまんじゅうを商うことになりました。

 

以来、親から子へ、子から孫へと受け継がれ
一子相伝の製法として高辻家当主に伝わった
おまんじゅう作りも現在は、5代目を数えます。

 

 

 

 

 

1つ22グラム

現在は、名水しるこ「きら」という製品もある
ようですが、山田屋はただ一種類のこのおまんじゅう
作りにこだわり続けてきたといいます。

 

わずか22グラムの小さなおまんじゅうに、入手しうる
最良の小豆と砂糖を選んで作り続け、「これでいい」
という到達点はないと言い切る姿勢に、誇りと自負と
飽くなき精進を心に秘めた作り手の姿勢を感じます。

 

そして贅沢な材料を使って丹念に作られた
「山田屋まんじゅう」は控えめなのに美味しい
というよりは控えめだからこそ美味しいのでしょうね。

 

 

 

 

 

十勝産の選りすぐり小豆を使用

小豆は北海道の十勝産のものだけを使用
していますが同じ十勝産でも場所により
またその年によって作柄は異なります。

 

そこで山田屋は毎年、北海道の十勝産小豆の上質な
ものを数種類選んだ後に、実際に食べる食味実験を
した後、最も良いものを選ぶといったこだわりよう。

 

使用する「二等級」と呼ばれる小豆は、味だけでは
なく形も揃っていて主に高級粒あん、また和菓子や
洋菓子のトッピング用に使うものです。

 

つまり味だけではなく、本来は大きく美しい形を
要求されるお菓子に使用するランクの小豆なのです。
それを全て潰して、こしあんにしてしまうという贅沢さ。

 

 

西予市のお隣、宇和島市吉田町で作られる柑橘類「宇和ゴールド」

 

 

 

天野祐吉「贅沢な時間に出会う」

この「山田屋のおまんじゅう」に添えられていた
天野祐吉のエッセイがとても素敵で全部を書きたい
くらいなのですがそうもいきませんので
一部分だけご紹介しましょう。

 

「むかし、友人に連れられてここを訪ねたとき、
家並みのはずれに
お茶ふうの店があった。
ガラスのケースのなかに、小さなまんじゅうが
並んでいる。
赤い毛氈を引いたその店の床几(しょうぎ)に腰掛けて

ぼくらはそのまんじゅうを食べた。あまりに
おいしかったので、ぼくは
三つ食べた。
 そのまんじゅうは、ひと口で食べてしまえるような
小さな形(なり)を
していたが、その小さな形(なり)
のなかには、家並みと同じように
たっぷりの時間が
つまっていて、口に入れてそっと噛むと、その時間が

口のなかいっぱいに、ゆったりひろがっていく。

 たしか店のどこかに、「一子相伝」「慶応三年創業」
と書いてあったが、
時間がたっぷり詰まっている
というのは、そんな歴史の長さだけではない。

薄い皮につつまれた漉し餡のちょっと例を見ない
洗練と品位のなかに、
このまんじゅうを黙々と
つくりつづけてきた人たちの時間が、ぎっしりと
つまっている感じがしたのだ。
 山田屋のまんじゅうのなかには、二十一世紀の
いまも、そんな豊かな
時間が息づいている。たぶん、
本当のぜいたくというのは、こんな
さりげないところに、
ひっそり隠れているものなんだろう。」

 

 

四国の左端、赤い線で囲んだ部分が宇和島市
その上に隣接するのが「西予市」

 

 

 

西予市(せいよし)

エッセイのこの部分の前には「山田屋まんじゅう」
の創業の地である伊予・卯之町(うのまち)の
家並みの様子が描写されていて、卯之町の
こじんまりとしながらも美しい様子が伺えます。

 

四国の愛媛県西南部に位置する伊予・卯之町は
現在、西予市といいますが、実は私「西予市」が
読めませんでした(!)。
「さいよし」?「にしよし」?と、思ったら
「せいよし」だそう。

 

西予市は、以前ブログでご紹介した柑橘類の
「宇和ゴールド」が算出される宇和島市の
お隣の市のようですね。

 

赤い線で囲ってあるのが宇和島市で
西予市はその上に隣接しています。

 

 

卯之町にある西日本最古の小学校「開明学校」

 

 

 

西日本最古の開明学校

西予市は宇和島藩の宿場町として栄え、江戸時代中期
から昭和初期までに造られた商家が現在も並んでいる、
白壁、うだつ、出格子といった伝統的な
美しい街並みが続いている町で有名だとか。

 

残念ながら私は行ったことはありませんが
1882(明治15)年に造られた、西日本最古の
小学校である「開明学校」は有名ですね。

 

アーチ状の窓枠やドイツ製のガラスを使用して
いる「擬洋風建築」です。

 

開明小学校は現在、重要伝統的建造物保存地区として
指定されている宇和文化の里の施設の一つとなり
1997年5月には、国の重要文化財に指定されています。

 

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「キットカット」の名前の変遷 日本は「キットカット」世界2位の消費国 

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140919kittokatto

 

 

九州の方言から?

「キットカット」は日本では受験の時
にも人気のお菓子ですね。
これについては「ネスレ」のサイトでは、

 

九州の方言で「きっと勝つどぉ(きっと勝つよ)」
が「キットカット」という言葉に似ていることから
九州を中心に受験生の間で生まれ、2002年頃から
受験生の間に口コミで広まった、

 

というような説明があります。
私自身はもっと前から、すでに大昔の
私の受験時代から、そのように囁かれていた
ような気もするのですがいかがでしょうか?

 

 

 

 

 

イギリス生まれの「キットカット」

この「キットカット」の本家といえば
もちろんイギリスですが、現在はイギリス以外
の多くの国でも作られているよう。

 

次の写真は以前、シアトル在住のみぎぃさんに
送っていただいた「キットカット」たちです。

 

左の赤い四角形の大きいものがアメリカの
「キットカット」で、その右にあるの細長い2つの
ものはイギリス、下の緑色の細長いものは
ブルガリアの「キットカット」なんですって。

 

 

blog_import_515364c4f19a211赤い四角形(アメリカ)       細長い赤(イギリス)
細長いオレンジの模様付き(イギリス)
緑りの細長(ブルガリア)

 

 

送ってくれたみぎぃさんの美味しさの順位
というと、一番美味しいのは日本、
次がイギリスだとのことでした。

 

それを聞いた時に私は、同じキットカットなのに
味が違うの?、と不思議に思っていたものでしたが
今回いただいてみてようやく納得、謎が解けました。

 

 

 

「キットカット」はミートパイの名前だった?

今やイギリスのみならず、多くの国で作られている
「キットカット」ですが一体、いつ誕生したのでしょう?

 

「キットカット(Kit Kat)」という名前そのものは
すでに18世紀にはイギリスに存在してしていました。

 

とはいっても当時の「キットカット」は現在の
ようなチョコレート菓子ではなく「ミートパイ」。

 

 

当然のことながら、当時の写真ではありませんが

 

 

ロンドンのクリストファー・カット(Christopher Catt)
が経営していたレストランで出していた羊肉のパイの
名前が「キットカット」。
もちろんこれは彼の名からきています。

 

「クリストファー」という人名の当時の愛称は
「キット」だったということですから
「キットカット」といったら、まんま彼の名ですよね。

 

有名な羊肉のパイ「キットカット」がでるレストランで
社会をよりよくするための政治的、文学的な会合が
開かれましたが、そのクラブの名前も
「キットカットクラブ(Kit  Kat  Club」でした。

 

1911年には、ヨークにあったお菓子製造のロントリー社
(Rowntree’s)が、「キットカット」を登録商標し、
1920年代に「キットカット」の名前のついたお菓子を
発売したものの、1930年代初頭には生産中止。

 

 

blog_import_515363452f412-11こちらは日本で購入した「ラズベリーキットカット」
私個人の感想としては、香りがちょっと強すぎるかな

 

 

 

社員の提案から生まれた「キットカット」

というように「キットカット」は、実態よりも
先にまず、名前が誕生していました。

 

その名にふさわしい私達にお馴染みの「キットカット」
というお菓子が生まれたのは、1935年のことでした。

 

登録商標を持っていたロントリー社の提案箱に寄せられた
社員の提案がもとになってできたということです。

 

その提案というのはこのようなものでした。
「男性がランチバックに入れて職場に持っていくことが
できるようなチョコレートーバーを作ってみては?」

 

 

140919rosenthalbourukitkatこちらはミニタイプの「キットカット」
色々な種類がありすぎて、全部を試すことはできないほど

 

 

 

「ロントリーズ」から「キットカット」へ

かくして1935年8月29日に、現在お馴染みの
「キットカット」の前身が生まれます。

 

ですが、誕生した時は「キットカット」という名前
ではなく「ロントリーズ・チョコレート・クリスプ
((Rowntree’s Chocolate Crisp))」という名でした。

 

まあ何とも現在の「キットカット」になるまでに
名前と実態がなかなか一致しない「キットカット」では
ありますが、「ロントリーズ・チョコレート・クリスプ」
はロンドンとイングランドの南部一帯で発売されました。

 

 

 

 

「ロントリーズ・チョコレート・クリスプ」は大ヒット。
その2年後の1937年5月、大ヒットを受けお菓子の名前を
より覚えやすいよう「キットカット・チョコレート・
クリスプ(Kit Kat Chocolate Crisp)」に改名。

 

と同時に「キットカット」という名前に、
「ブレイク(Break、休憩)」を組み合わせた
大々的な宣言が始まりました。

 

「ブレイク(休憩)してバーを割って食べよう」という
現在にも続いているこのコンセプトが生まれたのです。

 

 

 

 

 

 戦時中、赤  →  青に変わった「キットカット」

ところが1942年、原材料の一つである牛乳が手に入らない
ため、ロントリー社は「キットカット・チョコレート・
クリスプ」のレシピの大幅な変更を余儀なくされます。

 

1942年といえば第二次大戦真っ最中
原料の調達ができなかったのです。

 

今までの製品とは異なったお菓子となってしまった
「キットカット・チョコレート・クリスプ」の名から
「チョコレート・クリスプ」の文字をとり、

 

「キットカット」だけを残した上に
パッケージも赤から青い色に変更。
味も「ダーク」と呼ばれるものになりました。
ロントリー社は、次のような説明書をつけたといいます。

 

 

senjityukitkat香港海防博物館に展示されている戦時中に発売された
青い「キットカット」(写真/Wikipedia)

 

 

 

青ざめた悲しげな「キットカット」

「平和な時代に楽しんでいただいていたチョコレート
クリスプは
牛乳不足のため作ることができなくなりました。
この『キットカット』は、現在我々が提供できる、
最大限
味を近づけたレシピで作られた製品です」

 

ブルーは大好きな色ではありますが、そうと知って
見るからでしょうか、何とも青ざめて寂しげな
「キットカット」ではあります。

 

そして1949年、戦後になり「ダーク」味から
「ミルク」味の赤いパッケージが再び戻ってきました
が、「キットカット」という名称はそのまま
使われることになったのです。

 

 

 

抹茶味の「キットカット」

 

 

 

日本上陸は1973年

赤い「キットカット」が戻ってきてから約10年後、
「Have a break, have a Kit Kat.」という今に続く
コピーが1958年に誕生に、イギリスのTVで
大キャンペーンが打たれました。

 

そして1973年「キットカット」は日本にも上陸。
イギリスのロントリー・マッキントッシュ社と
提携した不二家から発売されることになりました。

 

その後、ロントリー・マッキントッシュがネスレに
吸収され、1989年にネスレと不二家の合弁企業
「ネスレマッキントッシュ」設立、

 

後に「ネスレコンフェクショナリー」に社名を
変更後、2010年にネスレ日本に吸収されています。
(なんともめまぐるしい!)

 

 

kitkatiroiro1左/イギリス「Pop Choc」
中/アメリカの普通サイズ
右/アメリカ「Big kat」

 

 

 

 現在、日本は世界第二位の消費国に

「キットカット」が日本に入ったのはそれほど早くは
なかったものの、現在では、「キットカット」の
本国であるイギリスの次、世界第二位の
「キットカット」消費国だそうです。

 

日本では、ホワイトチョコ、宇治抹茶、ほうじ茶、
さくら風味、ラムネ、わさび、アップルビネガー、
ずんだ、夕張メロン、マンゴー,巨峰、ヨールグ等々、
100種類以上ものキットカットが発売されているとか!

 

2010年の8月30日には、37年ぶりに
ウエハースが今まで以上にサクサクする
よう食感を改良させたということです。

 

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