将軍家への献上1 そもそも「献上」とは?

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「献上物」の読み方は「けんじょうもの」

時々、お菓子などで「これは将軍家に献上された……」
と紹介されていますが、わかっているようで今ひとつ
よくわからないのが、この「献上」という言葉。

 

まず読み方ですが、「献上品」といった時はの読み方は
「けんじょうひん」ですが、それでは「物」をつけて
「献上物」と書いた時は、何と読むと思いますか?

 

これは「けんじょうぶつ」ではなく
「けんじょうもの」と読むそうです。

 

 

 

 

 

上下関係による表現の違い

「献上」という言葉は、下位の者から上位の者に
差し上げる時に使う言葉ですので、大名から将軍に
品物を贈る時(物とは限りませんが)に使う言葉が
「献上」です。

 

反対に将軍から大名などの下の者へは「下賜(かし)」、
上下関係でない場合は「贈答」を使います。

 

同位の者同士のやりとり ( → ) 「贈答」

下位の者から上位の者へ (  ↑  ) 「献上」

上位の者から下位の者へ (  ↓  ) 「下賜」

 

将軍から大名へ下賜された場合、大名側からですと
「拝領」ということになりますが、下賜されるのは
形のあるものとは限らずに、官位や官職、
将軍の名前の一字や家紋なども含みます。

 

また献上品も各藩での特産物だけではなく
江戸で調達したものもありましたし、馬代や太刀代
というように金品で代用することもありました。
もっとも初期には実際の馬や太刀を献上したそうですよ。

 

 

 

 

 

袖の下ではない

献上は、袖の下や賄賂ではなく、江戸時代の
幕藩体制の儀礼であり、賄賂的な色彩が強いのは
お歳暮やお中元等で、老中等、時の権力者や
上役に盛んに贈られたといいます。

 

毎回、大名家から将軍家へ、決まったものを
決まった量だけ贈るという儀式は、将軍への
恭順の意を表す行為でもあり、それを続けられる
のは安定した世であるからこそのことでした。

 

将軍家としては献上は、特産品を得たいという
よりは参勤交代や御成等、諸大名の財力を
削ぐための手段だったともいうことです。

 

 

 

 

 

献上の種類

献上にはいくつかの種類がありました。
「御太刀金銀馬代(おんたちきんぎんうまだい)」
といって年始(1月1日)と、
八朔(8月1日)の日に行わるものや、

 

「御時服献上(ごじふくけんじょう)」の
端午の節句(5月5日)と、重陽の節句
(9月9日)に行われる定式のもの。

 

また「時献上(ときけんじょう)」というのは各大名家
から、毎年決まった季節に領内でとれる産物を献上する
ことをさし、年中あるいは月献上といいました。

 

 

 

 

 

献上物の変更には厳格な基準

献上する物については、大名家の格により決められ
ていて、簡単に変更することは許されませんでした。

 

ある分家大名が、本家と同じ品物を献上したいと願い
出た時に、老中が拒否したとの記録も残っています。

 

献上物自体や、その数量の変更は
家格や格式の変更を意味するものであった
ため、その変更はかなり厳格だったのです。
(山本博文『江戸お留守居役の日記   寛永期の萩藩邸』)

 

 

 

 

 

「時献上」 将軍は箱しか見ない?

「時献上」は毎月決まった日に各大名家から
たくさんの品物が江戸城に到着しますので
将軍には全てを見せることはありません。
箱だけを見せ、品物は役人や側近に下賜しました。

 

献上品は決められたものではありますが
実際に受け取る人々にとっては嬉しいものと
そうでないものがあったようです。
嬉しいものの方は、紙、織物、畳表という実用品。

 

そうでないものは、日持ちがしない魚などの生鮮食品
とのことだそうですが、これは現代でも同じですね。

 

また現在のリサイクルショップと同じような働きをして
いた「献残屋」というお店が江戸城のそばにあり
それら不要のものを買い取ってくれたそうです。

 

 

 

 

 

年始の献上 (延岡藩内藤家)

決められ献上物を定期的に江戸城に送る
「時献上」は想像しやすいものの、それ以外は
イメージが湧きませんね、と思っていたら
延岡藩の良い資料がみつかりました。

 

延岡藩は、現在の宮崎県延岡地方を領した藩で、
1692年までは「県(あがた)藩」と称していました。
藩主は、
高橋家 → 有馬家 → 三浦家 → 牧野家 → 内藤家と変遷。

 

1865(慶応元・元治2)年、内藤家8代藩主
・政拳(せいきょ)が新年に登城した際の
記録なのですが、1865年といいますから、
政拳は延岡藩の最後の藩主ということになります。

 

延岡藩内藤家の上屋敷は虎ノ門に、
下屋敷は六本木にありました。

 

江戸時代が終わる3年前のお正月とはいえ
細かな儀礼に則った新年の儀式を勤めている
穏やかなお正月の様子が伺えます。

 

 

 

 

 

献上目録を持参して6時に登城

元旦、藩主は午前4時に起床し、上屋敷で
決まり事をした後、6時には江戸城に登城。
数日前には、当日のお召し物の指定が届いています。

 

指定通りの熨斗の効いた麻の上下を着用した藩主は、
登城をする際に献上品の「御太刀目録」を
持参し、目録は家臣が奏者番に渡します。

 

「御太刀」とありますが、これは木製の飾り木刀で
当日は実物ではなく、目録のみを献上します。
大広間でご挨拶後、将軍の御流れを頂戴し
昼頃に上屋敷に帰宅。

 

 

 

 

 

上屋敷で家臣からの献上を受ける

帰宅後にシダを(書院?)お供え等
の後に儀式が始まります。
将軍と大名で行ったことを、今度は大名と家臣で行います。
まず、家来がお殿様に献上品(刀とお金)を上納します。

 

「御太刀 1腰   御馬代  銀1枚」  御家老・穂鷹内蔵進、
「御太刀 1腰   鳥目  百疋」    御中老・原小太郎、
「鳥目(ちょうもく)  百疋」   お年寄・長坂平衛門
「干鯛(ひだい)  5枚」      御用人(家来の名が続く)

 

というように役職により献上するものが異なっています。
「鳥目(ちょうもく)」とは祝儀の時にのみ使用する
お金のことで、「疋(ひき)」は金額を表します。

 

 

 

 

鳥目百疋は、銭1000文だそうで
今の金額では約2万円ほどにあたるとか。

 

下の役職のものになると「干鯛(ひだい)」を
地位に応じた枚数だけ献上するのがきまり
だといいますが、面白いですね。

 

「干鯛」は武家の祝儀では贈答品として
欠かせないもので、親類等への訪問に
際しても持参するものだったそうです。

 

この日は、先代の藩主から、先々代の藩主の
正妻に対して干鯛一枚が献上され、同様に
先々代藩主の正妻から先代藩主へも
干鯛1枚が贈られているということです。

 

 

「干鯛」がないので「鯛焼き」

 

 

 

3日にはお寺で献上、御香典

2日も藩主はやはり朝6時に登城しますが献上はなし。
帰宅後は親戚への挨拶に廻ります。

 

3日は朝8時から、種々のお寺周りをしますが、
その時、留守居が御備物、御進物を持っていきます。

 

お寺からは、白銀1枚、御馬代銀10枚が献上され、
お寺には御香典300疋を贈っています。
その後、六本木のお屋敷の先代藩主へ年始に伺います。

 

 

 

 

 

ご挨拶と献上と

こうして「幕末の延岡藩」の詳細な記録を
見せて頂きますと、様々な立場の人と献上、
お返しを繰り返しているのがわかり、わずかながら
「献上」の意味合いが身近になった気もします。

 

4日もまだご挨拶廻りは続いているようで
お殿様もホント、大変そうです。

 

私は、贈物は頂くのも差し上げるのも超苦手なのですが、
これはいいなあ、と思ったことがあります。
それは差し上げるものが立場によって決まっていること。

 

儀式化されているが故なのでしょう。
太刀や馬を、それも現金で差し上げることや、
干鯛のプレゼントなどもかなり合理的、かつ実用的。

 

でも、木製の飾り木刀だという「御太刀」を、
毎年、献上された将軍はどうしていたのでしょう?
飾り木刀では、素振りの練習に使えるとも思えませんし。

 

 

「干鯛」が食べたい……

 

 

 

意外と合理的な献上システム?

などと考えても詮ないことですが
先代藩主と、先々代藩主の正妻の間で
干鯛が行ったり来たりとは面白いことですね。
生ものが苦手な私には、干鯛が美味しそうで気になります。

 

同じものを献上したり、贈られたりというのは、結局、
必需品を贈り合う、つまりは気持ちなのでしょう。

 

ちょっと意外だったのは、経済的に上位の者へ
下位の者からお金を献上することでしたが、
それでも今回、内容を少し知ることができ
献上がかなり合理的であることに驚きもしました。

 

必要のないものは(飾り木刀は別として)献上したり
贈られたりということは、あまりしていないようです。

 

長くなってしまいましたので
時献上の紹介は、次回にしましょうね。

 

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佐賀藩鍋島家の成立とお家騒動

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宇和島伊達家のお隣の「鍋島家」

冒頭の江戸時代の切絵図で藤色の三角形に
見えるのが、宇和島潘伊達家の上屋敷が
あった場所で、そのお隣の緑色の四角で
囲った場所が佐賀藩鍋島家上屋敷です。

 

宇和島藩伊達家は地図上では
「伊達遠江守」と、佐賀藩鍋島家の方は
「鍋島甲斐守」と記載されています。

 

宇和島藩伊達家の方は現在、国立新美術館、
政策研究大学院大学、都立青山公園、米軍ヘリ
ポートなどになっていますが、佐賀藩鍋島家は
小さく分けられて沢山の建物が建っています。

 

住所でいいますと六本木7丁目の一部ですが
現在メルセデスベンツ東京コネクション
があるあたりでしょうか。

 

 

「ブルーボトルコーヒ」六本木カフェ付近も佐賀藩鍋島家の近く

 

 

 

藩主の補佐役に就任

「佐賀藩」は「肥前(ひぜん)潘」
とも、藩主の名前の鍋島家から「鍋島藩」
といわれることもある潘で、現在の
佐賀県と長崎県の一部に該当します。

 

『鍋島家系図』によりますと藩主の鍋島氏
は、かつては山代に住み「長岡」を家名として
いましたが、京都の北野に移り、後に肥前の鍋島
に住むようになってから「鍋島」を名のります。

 

鍋島氏は、元は龍造寺(りゅうぞうじ)氏
の重臣であり、鍋島直茂は、龍造寺隆信
の義弟にもあたる間柄でした。

 

1584(天正2)年、沖田畷(おきたなわて)
の戦いで龍造寺隆信が戦死すると、遺児の
政家が病弱だったこともあり、直茂は
政家の補佐役を勤めるようになります。

 

 

江戸時代の刀の鍔(つば)
老松雲竜図鐔(おいまつうんりゅうずつば)
「写真/鍋島家伝来資料博物館「徴古館」」

 

 

 

家臣でありながら所領も持つ

1590(天正18)年、豊臣秀吉は政家を
廃して、その子・高房を擁立するよう
命じて所領安堵の朱印状を与えます。

 

それと同時に秀吉は、直茂にも
4万4000石と、子の勝茂にも7000石
の所領安堵を認めているのです。

 

ということは、鍋島氏は龍造寺氏の家臣
でありながら、同時に大名として所領を
秀吉から承認されたということになります。

 

朝鮮出兵の文禄・慶長の役には、龍造寺軍
を率いて大将として参戦するという
なんとも不思議な地位にありました。

 

 

 

 

 

名目上の藩主・高房の自殺

後に徳川家康も、鍋島氏を正式な佐賀藩主
と認めますが、1607(慶長12)年、名目上
は国主であった龍造寺高房が江戸の桜田屋敷
で妻を殺害後、自殺を試みます。

 

危ういところで家臣が止めて、医師が
治療したため、死には至らなかったもの
の、傷は思いのほか深いものでした。

 

その上妻の亡霊に悩まされて精神
を病むようになっていた高房は
再び、自殺未遂の後に死去します。

 

肥前で、高房の死を知りショックを
受けた病弱の父・政家も、高房の死から
1ヶ月後も経たないうちに亡くなりました。

 

 

 

 

 

佐賀藩鍋島家の成立

高房の後継者として龍造寺の分家
である多久氏、須古氏、諫早氏などが
鍋島直茂の嫡男・勝茂を推挙します。

 

これを幕府が承認して、1613(慶長18)年
に直茂に対して、佐賀藩35万7000石の
所領安堵の朱印状が交付されました。

 

ここに正式に鍋島氏の肥前、
佐賀藩主が成立したのです。

 

無念のうちに亡くなった高房は江戸で火葬を
された後に、佐賀城下で埋葬されました。

 

 

 

 

 

お家騒動から歌舞伎の「鍋島化け猫騒動」へ

ところがその後のこと、不思議な噂が
人々の口にのぼるようになります。
高房の亡霊が馬に跨って城下を
駆け巡っているというのです。

 

そればかりか、高房の飼っていた猫が
化けて出てきて、直茂と勝茂親子に復讐を
企てたが、鍋島家の家臣により退治された
というように話は脚色されてゆきます。

 

「2代藩主・光茂が、家臣の龍造寺
又七郎と碁をしていた時に機嫌を
損ねて又七郎を惨殺してしまいます。
又七郎の母もこれを恨んで自害すると、
母の体から流れた血を舐めた飼い猫が
化け猫となり、光茂の側室を殺し、
奥女中が惨殺されたり、家臣が発狂
するなどの凶事が相次ぎましたが、
最後は忠臣が猫退治をしておさまった」

 

というような化け猫の話にまで脚色されてゆき
後に歌舞伎で上映されるに至ったのです。

 

 

 

 

しかし話の内容はいく通りもあり、碁をして
いたのが光茂ではなく直茂であったり、また
龍造寺又七郎などは架空の人物で実在しない
というように、あくまでもフィクションでした。

 

そして『花埜嵯峨猫魔稿(はなのさが
ねこまたぞうし)』と題されて、1853年に
初演する予定でしたが、これは佐賀藩の
「嘘八百を描くとは何事ぞ!」
との強い抗議により中止。

 

そこで登場人物を「直重」と「龍造寺又七郎」
ではなく、「直島大領直茂」と「高山検校」
に変え、『百猫伝手綱染分(ひやくみようでん
たづなのそめわけ)』と題して、ようやく
1864年に公演の運びとなりました。

 

これは江戸の人々には人気があった
ようで化け猫騒動として、歌舞伎だけ
ではなく講談や映画などで、その後も
しばしばとりあげられています。

 

 

 

 

 

龍造寺家の再興はならず

実は、高房が亡くなった時に、高房の
息子・龍造寺伯庵と高房の実弟である
龍造寺主膳が生存していました。

 

二人が幼かったために後継とは認められず、
伯庵は直茂により出家させられていたのです。

 

1634(寛永11)年、伯庵と主膳は幕府に
龍造寺家再興の嘆願をしましたが聞き入れられず、
伯庵は会津藩の保科正之のもとに、主膳は
大和郡山藩の元へそれぞれ預けられました。

 

その訴訟は1642(寛永19)年までも続きましたが
結局、お家再興が叶うことはありませんでした。

 

 

 

 

 

苦しみを乗り越えて

1618(元和4)年に、6月3日に
直茂は81歳で死去します。

 

長寿ではありましたが、死の間際に腫瘍の
激痛で苦しみ悶死をしたことから、高房の
亡霊の仕業と噂されたということです。

 

私事になりますが、先日、30年以上前
から知っている人が亡くなりました。

 

6年前にくも膜下出血で倒れて意識不明
の期間が長期間続いて、生存確率は
ゼロに近いという診断でした。

 

万一、命が助かっても植物状態といわれた
のが80歳の時でしたが、なんと奇跡的な
回復を遂げ、数年の時を経て、今回は
帰らぬ人となってしまったのです。

 

 

 

 

 

安らかな最期を

80代半ばのその女性は、シワも
なく美しいお顔をしていました。

 

人は全て亡くなるということは動かしがたい
事実ではありますが、できることならば
最後は苦しまずにとは誰もが望むことでしょう。

 

直茂のような最期は、たとえ
知人ではなくても辛いもの。

 

ですが、その原因が高房の亡霊のせい
であったかといえば、必ずしも
そうともいえないような気がします。

 

龍造寺高房もまた、その地位につくまで
には、時代の背景もあるのでしょうが
様々な事柄を経てきているように思えます。

 

 

 

 

今の私達には、その時に実際はどの
ようなことがあったかはわかりません。

 

また、たとえ彼らと同時代人であったと
しても、全ての場に立ち会っていない以上
は本当のことはわからないでしょう。

 

全ての人が安らかな最期を迎えることが
できるなら、もしかしたらそれは
最高の幸せなのかもしれませんね。

 

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「遅起きのススメ」早起きは心身に悪いという嬉しい研究結果が世界中で話題に

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

うれし過ぎる研究結果

寝正月ならぬ寝ゴールデンウィークもそろそろ終わりに
近づきましたが、少し前に早起きは身体に良くない
という記事を読んでびっくりしたことがありました。

 

「早起きは三文の徳」などという古い諺の中で暮らして
いる私たちにとっては健康のためにも、また社会人として
もあらまほしい早起きを全否定したものだったからです。
(まあ、古過ぎて「三文っていくらなの?」と思いますが)

 

これはオックスフォード大学での研究ですが
レポートが発表されるや否や、イギリスの新聞等で
報じられ、世界中で大いに話題となったそうです。

 

実は私がこれを知ったのは、一年半ほど前のことでした。
嬉しくてすぐブログに書きたかったのですが、何かあまり
に嬉しすぎて(?)ちょっと躊躇しちゃったりして……。

 

 

 

 

 

「早起きは人体にとって『拷問』」なんですと

この嬉し過ぎるい研究をしてくれたのはイギリス、
オックスフォード大学の睡眠・概日リズム神経科学
研究所の名誉研究員であるポール・ケリー博士。

 

ちょ、ちょっと待って!、その「概日リズム」って何?
とのっけからコムズカシイ言葉が出てきてめげそうに
なりますが、「概日」は「がいじつ」と読むそうですよ
(私は「がいにち」かと思いましたが!)。

 

概日リズムとは、英語で「circadian rhythm
(サーカディアン・リズム)」で、約24時間
周期で変動する生理現象のこと。

 

動物だけではなく植物や、なんと菌類、藻類などの生物
にも存在している、体内時計のことなんですって。

 

イギリスの科学イベントで発表されたポール・ケリー博士
の「朝早く起きることは、人体にとって『拷問』に等しい」
とのお言葉には、個人的には冗談抜きで
嬉し涙にくれるほどの思いです。

 

小学生の頃から本当に毎朝、感じていたことでした。
他の人は難なくこなしているように見えるのに
朝起きる、というそれだけのことが
なぜ、私にはこんなに大変なのだろう?、と。

 

 

 

 

 

推奨すべき起床時間、活動開始時間

ポール・ケリー博士は、世界中のあらゆる人たちの睡眠
パターンを分析し、年齢層ごとの推奨すべき起床時間と、
起床後の活動開始時間をはじきだしてみました。

 

個人差はありますが、起床時間は以下の通り
15〜30歳の青年期  朝9時
31〜64歳の中年期  朝8時
64歳以上 高年期  朝7時

 

起床後に活動を開始する時間
 青年期  11時
 中年期  10時
 高年期  9時

 

これによりますと、どの年代の人であっても朝は6時
より前に起きないほうがいいということになります。
つまり、早起きは良くないということ。

 

 

 

 

 

早起きのリスク

もし早起きを続けているとどのような
リスクがあるのかについては
ケリー博士はこうおっしゃっています。

 

「私のいるオックスフォード大学だけでなく、
米国のハーバード大学やネバダ大学などの研究機関で、
早起きが病気のリスクを高めることに
関する実証研究がすすめられています。
*現時点でもすでにメタボリック・シンドロームや
糖尿病、高血圧、より重篤な病気であれば、
心筋梗塞や脳卒中、心不全などの循環器疾患やHPA
(視床下部ー脳下垂体ー副腎皮質)
機能不全によるうつ病などが判明しています」

 

いや〜、これ本当にあるあるです、納得。
私は子どもの頃から今朝に至るまで
毎日ではありませんが、かなりの確率で
起きる前に体の不調を一番感じます。

 

空が白み始める頃から、もう完全に明るくなった頃、
心臓が少し痛かったり、動悸がしたりすることが
よくありますが、本格的に目覚めて起きた後は
就寝するまで結構平気なのです。

 

 

 

 

 

早起きによって生まれる体内時計のズレ

この早起きによって体の不調が起きることの原因は
「人間の体内時計の『ズレ』」にあるということです。

 

体内時計とは先ほどの「概日リズム」のことですが
生物に備わる生命活動のサイクルがあることで、
無意識のうちに一定のリズムで活動状態と
睡眠状態を繰り返すことができるのです。

 

それが早起きをすることによって、体内時計の周期と、
実生活における行動周期との間にズレが生じてしまう
ため体に悪影響を及ぼすと考えられているのだそう。
ケリー博士はこうも付け加えています。

 

 

 

 

「体内時計は身体のあらゆる部位に存在します。
例えば脳の視交叉上核という場所に体内時計が
備わっていますが、早起き
することによって
これがズレてしまうと、著しく脳の機能が
低下します。
すると集中力や記憶力、コミュニケーション能力

などが著しく減退してしまうのです」

 

ケリー博士は、ハーバード大学医学部で
こんな実験をしました。

 

朝から夕方までの勤務シフトで働く医者と、
昼から夜までの勤務シフトで働く医者の仕事ぶりを
比較すると、前者の医者は後者の医者に比べて
集中力の欠如がみられ、医療ミスが
36パーセントも増加したというのです。

 

 

 

 

 

フレックスタイムを導入しているグーグル社

この事実を知っているのでしょうか、世界最大の
IT企業であるグーグルがフレックスタイムを
採用していることは有名ですね。

 

グーグルは社員の能力と睡眠の関係性を
重要視している企業で、出社時間と退社時間は
社員が自由に決められるということです。

 

お昼過ぎになると社員たちが姿を見せ始め、午前中は
人がまばらだといいますから、入社時にみそぎ研修
がある日本の企業だったら「滝に打たれてこい!」
とか言われそうですね。

 

 

 

 

 

心臓への負担、実感しています……

65歳以上の人の起床時間と病気に関係について調査を
したケリー博士の研究結果によりますと、7時以降に
起きている人に比べて、6時以前に起きている人は、

 

心筋梗塞や脳卒中などの循環器疾患の発症リスクが
最大で約4割、糖尿病やうつ病といったその他の病気に
関しても2〜3割高く、また高いだけではなく
重篤化しやすいという結果も出ているそうです。

 

早起きが習慣化することによって、脳や心臓に負担を
かけることによって、寿命が短くなってしまうといいます。

 

 

スティルトンチーズを食べると奇妙な夢が見られるとか
「『奇妙な夢を見る』スティルトン 実験しました!」

 

 

 

日本の医師も警告

ケリー博士の研究結果と同様に、早起きが病気を
引き起こす恐れがあると指摘するのは睡眠医療の
専門家である遠藤拓郎・スリープクリニック調布院長。

 

「人間のパフォーマンスというのは体温に依存します。
体温が低い時は身体中の機能が著しく低下します。
人間の一日のなかで最低体温というのは、
個人差もありますが朝の4時から6時。
一方で最高体温となるのが夕方4時から6時。
したがってケリー博士の言う通り、朝早くから
活動をするのは年齢に関係なく危険なのです」

 

高齢になると朝早く目が覚めるといいますが
これはメラトニンという眠気を誘発するホルモンが
加齢によって減少してしまうため。

 

うとうとしながらテレビを見るのは最悪だといいます。
遠藤院長によりますと、深い眠りを誘う一番
良い方法は昼間から夜にかけて時間を忘れる
くらい趣味に没頭するのがよいそう。

 

 

 

 

 

最後に勤勉な日本人の皆様へ

ケリー博士は、特に日本社会に対して
危機感を抱いているということです。

 

ケリー博士から…

「統計的にも日本人は世界中で突出して睡眠時間が短い。
加えて早く起きる人の割合も多い。
しかも学校や政府、企業がそれを主導して
いるように思えます。
『早起きは三文の徳』ということわざが日本にはある
ようですが、特に高齢者の方には、それは科学的に
間違いだということを十分理解してもらいたいです」

 

ケリー博士と並ぶとはおこがましいですが私からも…

 

ということだそうですよ、皆さん、なんといっても
「朝早く起きることは、人体にとって『拷問』に等しい」
のだそうですから、今日からは後ろめたさを、一切
感じることなく、いっぱい、いっぱい寝ましょうね!
 Zzzz…
       (「週刊現代」2015年10月17日号)

 

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