「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」瀧瓢水

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「手に取るな  やはり野に置け  蓮華草」

少し前に「レンゲ」を御紹介した時に
この句をのせましたが、これは播磨
(兵庫県)の俳人、瀧瓢水の句です。

 

「滝野瓢水(たきのひょうすい)」と
書かれることが多いようですが、これ
は誤りで「瀧瓢水(たきひょうすい)」
が正しいそうです。

 

「蓮華草は野に咲くから美しく見えるので
あって、それを積んで家の中に飾っても
調和せず美しく見えないことから、播磨
の俳人瀧瓢水が遊女を身請けしようと
した友人を諌めた句。
自然の中で咲く蓮華草が美しいのと同じ
ように遊女は色町にいてこそ美しく見える」

 

との意味だそうですが、知りませんでした。
のんびりした素朴な句だと思っていたの
ですが、遊女の身請けをとめる句だった
のですね。

 

「此の里に  来らざるこそ  粋なるべし」
との花魁の発句に応えたものだとか。

 

教えていただいたのは「レファレンス
共同データベース」で、提供館は
「私立牛久中央図書館」です。

 

 

 

 

 

この【例文】は正しいのでしょうか?

その記載のなかに事典等の書籍ではなくネット
上の「故事ことわざ辞典」が紹介されていた
のですが、少々気になることがありました。

 

「やはり野におけ蓮華草」の
【類義】として「花は山人は里」
とあり、これはふむふむと納得ですが
気になったのは【例文】の方。

 

「やはり野に置け蓮華草で、金になるからと
いって無理をして違う業種に手を出してみて
も、まったく自分の能力が発揮できなかった」

 

と記載されているのですが、これは
例文として適しているでしょうか?
(2020年6月16日現在)

 

 

 

 

勿論、私は国語の専門家ではありま
せんが、この使い方にはすっきりと
しないすわりの悪さを感じます。

 

少々、無理やり例文を考えてみました感
も否めないような気もするのですよね、
この事例、

 

「金になるからといって無理をして
違う業種に手を出してみても、まったく
自分の能力が発揮できなかった」

 

でしたら「餅屋は餅屋」の方が
ふさわしいような気もします。

 

残念んがら私には適した例文
が思い浮かびませんが。

 

 

 

 

 

また、蓮華に戻りまして……

瀧瓢水がこの蓮華の句を詠んだ気持ちは、

 

「蓮華(遊女)は、野に咲いている(自分
のものではない)から美しいので、自分の
ものにしてはその美しさは失われてしまう」

 

はまことにもっともで、どこからも
反対意見は出なそうな正論です。

 

ですがこの出来事、私には森鴎外の
『舞姫』の最後の文を思い出させもします。

 

「ああ、相沢謙吉がごとき良友は
世にまた得がたるべし。
されどわが脳裏に一点の彼を憎む
心今日まで残りけり。」
        森鴎外『舞姫』

 

 

 

 

『舞姫』では別れさせたのが友人の
相沢謙吉であり、「蓮華草」の句では
瓢水が身請けを止めた方という違いは
ありますが。

 

_____________________________________________________________
         (とめた人)
作者・鴎外ーエリス  友人・ 相沢謙吉

(とめた人)
作者・瓢水      友人ー遊女

 

 

蓮華草を手に取ることのなかった
瓢水の御友人は後になって、このことを
どのように回想していたのでしょう。

 

 

 

 

最後に、森鴎外の蓮華(ゲンゲ)
の句を御紹介します。

 

「うらゝかや  げんげ菜の花  笠の人」

 

 

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