オランダが貿易相手として選ばれた理由 江戸時代の平戸と出島

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

復刻された「デ・リーフデ号」(長崎ハウステンボス)

 

 

 

1600年、初めて日本に来たオランダ船

1602年に設立されたオランダ東インド会社は、
1609年から日本の平戸に商館を置いて
生糸や銀を中心として交易を行いました。

 

1639年以降は、ヨーロッパ諸国の中では、唯一
日本との貿易を独占する国でもありました。
「オランダ東インド会社( VOC)」

 

そんなオランダが初めて日本にやってきたのは、
1600(慶長5)年の3月、関ヶ原の戦いの5ヶ月前のこと。
豊後国臼杵沖にオランダ船の「リーフデ号」が漂着しました。

 

 

リーフデ号の航路(地図 /「青い目のサムライ」)

 

 

 

110名の乗組員は20数名に

1598年の6月にロッテルダムから出港したリーフデ号は
南アメリカ南端を回り太平洋にから東洋を目指していた
5隻のオランダ船のうちの1隻です。

 

航海の途中に嵐や、スペイン・ポルトガル船の襲撃にあい
東洋に着くことができたのはリーフデ号ただ一隻。
110人の船員は、漂着時には20数名が残るのみでした。

 

その少数の生存者の中にいたのが船長のクワケルナック、
船員のヤン・ヨーステン、イギリス人航海士だった
ウィリアム・アダムスです。

 

 

 

「ヤン・ヨーステン記念碑」
左がヤン・ヨーステン、右がリーフデ号
八重洲通り(写真/カノオミツヒサ)

 

 

 

「八重洲」と「三浦按針」

ヤン・ヨーステンとウィリアム・アダムスの二人の名が
現在に至るまで残っているのは、彼らの知識を重用した
徳川家康が召し出して働かせたからです。

 

ヤン・ヨーステンは、家康の通訳となり彼が与えられた
居住地は彼の「耶楊子(やようす)」という日本名から
「八代洲(やよす)河岸」と呼ばれ、転じて「八重洲」
と呼ばれるようになりました。

 

住所としての「八重洲(やえす)」は1872(明治5)年
からで、1954(昭和29)年には東京駅の東側が
中央区八重洲になりヤン・ヨーステンの名を残しています。

 

一方、ウィリアム・アダムスは外交顧問として働き
家康から与えられた知行地と水先案内の職務から
「三浦按針」と称されることになります。

 

 

九州の平戸藩、松浦家に伝えられていた
「婦女遊楽図屏風(ふじょゆうらくずびょうぶ)松浦屏風」
江戸時代前期 大和文華館蔵

 

 

 

ポルトガル・スペインが平戸に商館を構える

リーフデ号が豊後沖に現れる以前では、室町時代末期の
1543(天文12)年に、ポルトガル船が種子島に漂着し、

 

1550(天文19)年にはポルトガル船が来航して、領主の
松浦氏に商館の設置を認められ、交易が行われていました。

 

しかし松浦氏はキリスト教の布教を認めなかったため
ポルトガル人は1570(元亀元)年、領主の大村氏から
許可を得て長崎を寄港地とすることになります。

 

ポルトガルに遅れること十数年後の1584(天正12)年、
スペインも平戸に商館を設けました。

 

 

 

 

 

家康からオランダに朱印状が渡される

このようななか、家康は日本との貿易を許可する朱印状
をリーフデ号の船長だったクワケルナックに与えます。

 

これにより1602年に設立した東インド会社の船は
1609(慶長14)年に九州の平戸に到着し、オランダ総督の
マウリッツから家康への親書と献上品がもたらされます。

 

これを受け家康は、使節を駿府に迎え書状と通行許可書の
朱印状を託し、オランダ商館が平戸に設立されました。
1613(慶長18)年にはイギリスも平戸に商館を設けています。

 

 

「南蛮人来朝図屏風」(国立歴史民俗博物館)

 

 

 

スペイン、ポルトガルも来航禁止に

1616(元和2)年には、中国の明船を除く外国船の
入港を平戸と長崎に限定する措置が取られます。

 

イギリスは1623(元和9)年に日本との
貿易から撤退し、平戸の商館を閉鎖しました。
翌1624(寛永元)年にはスペイン船の来航が禁止されます。

 

1634(寛永11)年、ポルトガル商館が
長崎に新たに築造された出島に移転した5年後の
1639(寛永16)年、ポルトガルの来航が禁止されました。

 

これは1637(寛永14)年に起きた島原の乱を重くみた幕府
がキリスト教を取り締まるために来航禁止を決定したもの。

 

1613年(慶長18)年のバテレン追放令において、すでに
キリスト教を禁教としていましたが、ポルトガルや
スペインは宣教師を密かに送り込んでいたからです。

 

 


ポルトガルから伝来したお菓子「丸ボーロ」千鳥屋本家

 

 

 

布教目的が少なかったオランダ

幕府は、ポルトガルが日本にもたらしている同量の生糸を
オランダ商館が調達することができるか等を確かめた後の
1739(寛永16)年にポルトガルとの国交断絶に踏み切ります。

 

ポルトガルは、「コショウとキリスト教徒の獲得」を大航海
時代の二大目的としていましたが、スペインも同様で植民地
としたフィリピンや南米をカトリックに改宗させていました。

 

それに対してオランダの東インド会社は、利潤追求の
ための組織でもあったことからキリスト教布教という
目的は、さほど重要ではなかったといわれています。

 

 

オランダ東インド会社(VOC)の注文
によって伊万里(有田焼)で作られたお皿

 

 

 

一時はオランダとの貿易も禁止「台湾事件」

スペイン・ポルトガルの中国生糸入手に対抗するためオランダ
は、1622(元和8)年に台湾に商館と要塞を設けますが
現地の日本人商人との間で紛争が生じてしまいました。

 

バタビアにあった東インド会社の総督は、長官のヌイツに
解決を任せますが、ヌイツは朱印船船長の浜田弥兵衛と争い、
浜田は数名のオランダ人を人質として日本に連れ去ります。

 

これにより1628(寛永5)年、オランダとの貿易は全面停止。
ヌイツが日本側に引き渡され人質と交換に幽閉されることで
解決が図られ、1633(寛永10)年に、貿易が再開されました。

 

ヌイツは1636(寛永7)年に解放されていますが、
この貿易再開を許可されたお礼として商館長の
江戸参府がこの時、義務付けられ定例となります。

 

 

 「元禄染錦写八画面取筒型花瓶」
伊万里の錦手を写したオランダ・デルフト焼

 

 

 

オランダ商館 平戸  →  出島へ

1609(慶長14)年から平戸にあったオランダ商館を
長崎の出島に移すための特使・井上筑後守政重が
1640(寛永17)年11月9日に平戸に派遣されます。

 

オランダ商館長・カロンに伝えた商館取り潰しの表向きの
理由は、キリスト教歴の年号を掲げていることというもの。
いずれにせよ幕府は流血の事態になると予測していたようです。

 

屈強な男を20人ほど陰に待機させ、カロンが拒否したら
すかさず殺すという計画で、肥前や肥後、有馬の兵士に
オランダ船を破壊する準備もさせていました。

 

 

「南蛮人来朝図屏風」(国立歴史民俗博物館)

 

 

 

一言の抗議もなく受諾したオランダ商館長

しかし、井上筑後守政重の言葉に対して商館長の
カロンは一言の抗議もすることなく平伏して受諾。
石造りのオランダ商館はたちまち壊されることになりました。

 

1619年に平戸に来て江戸参府にもしばしば同行し、日本語
も完全に話すことができたカロンは、将軍の命令には
「承知した」と答えるほかはないと知っていたのです。

 

「一言も抗議せず、将軍の命令をただちに実行したことは、
ヨーロッパ諸国の中で、オランダだけが日本との通交貿易を
許されることになる要因の一つである」
と永積洋子は書いています。
(『平戸オランダ商館日記」1981年、講談社学術文庫)

 

 

 

島原の乱での働き

これ以外には、島原の乱の際のオランダ商館の
行動もプラスに働いたように思えます。

 

オランダ商館は島原の乱の際に、大砲を搭載した商船を
差し向け、反乱軍に発泡し鎮圧に貢献したのです。

 

島原の乱の鎮圧のために派遣されていた松平信綱は
このことを大いに喜び、帰路に平戸へ
寄って
オランダ商館長を労ったという記録も残っています。

 

 

「出島」長崎和蘭陀屋舗圖 (立正大図書館収蔵)

 

 

 

オランダ貿易相手国として選ばれた理由

1 ポルトガルやスペインのように強硬に
 キリスト教布教を全面に出さなかった

2 また島原の乱では幕府に協力的

3 平戸の商館を直ちに破壊し出島に移る
 という将軍の命を直ちに実行した

 

これらのことが相まってオランダがヨーロッパ諸国の中で唯一
交易相手国として選ばれたのではないかという気がします。

 

こうして1641年にオランダ商館は出島に移されました。
しかし移転とともに幕府は、オランダ商館に
対して外部との接触もまた厳禁しています。

 

貿易が再開の1633(寛永10)年に義務付けられた、年一回の
将軍に拝謁の参幕旅行以外は出島を出ることは禁止。
より一層、隔離をしようとの幕府の意図が伺えます。

 

 

 

  年表

1543(天文12)年 ポルトガル船が種子島に漂着

1550(天文19)年 ポルトガル船が来航、領主の松浦氏
        の松浦氏の許可で商館を作り交易を開始

1570(元亀元)年 ポルトガルは領主の大村氏の許可
        のもと長崎を寄港地とする

1584(天正12)年 スペイン商館が平戸にできる

1600(慶長5)年  オランダ船、豊後沖に漂着
        家康が船長に朱印状(貿易許可)を与える

1609(慶長14)年 オランダ東インド会社の船が平戸に着き
         家康に親書と献上品
         家康から朱印状が託され商館設立

1613(慶長18)年 イギリスの商船が平戸に入港し、商館設立

1616(元和2)年 中国船以外入港を平戸と長崎に限定

1623(元和9)年 イギリスが撤退、商館を閉鎖

1624(寛永元)年 スペイン船の来航禁止

1628(寛永5)年 「台湾事件」オランダとの貿易は全面停止

1633(寛永10)年 オランダとの貿易が再開
        商館長の江戸参府が義務付け、定例となる

1637(寛永14)年 「島原の乱」

1639(寛永16)年 ポルトガルの来航禁止

1640(寛永17)年 オランダ商館出島に移転
         出島を出ることを禁止

 

スポンサードリンク




マンションの通路でお葬式をする家族

「あぷりのお茶会」へようこそ!

 

 

 

今日は、幽霊の話じゃないけどね

今日でお盆も終わります。
13日がお盆の入りで今日、16日がお盆明けですね。

 

一昨年の7月のお盆には、マンションのゴミ置場で私が
会った一家は幽霊だったのかもしれないという体験を、
「私が会ったのは……、幽霊? 存在しない居住者」

 

その2年前の8月15日には小学生の時に一緒に
暮らしていたイヌのお話をさせていただきました。
「死後にお別れを言いにきたイヌ『ペリ』」)

 

こうしてみると、お盆になると何とはなしにこのような
話をしてきましたが、今日は幽霊の話ではありませんよ。
でも、生きている人のお話でもないのです。

 

 

 

 

 

お隣に越してきた一家

その出来事があったのは今よりもう少し涼しい季節、
とはいえ冬の寒い時ではなく、春か初夏だったでしょうか。

 

当時、私が住んでいたマンションは1つの階に
十数軒が暮らしている外廊下式のよくあるタイプ。

 

建物はL字型に建っていて、「L」の字の縦の棒「 I  」と
横の「 _ 」がぶつかる部分にエレベーターがありました。

 

うちは「 _ 」の部分の一番右から一つ手前、つまり
うちの右の家が建物の端の部屋ということになります。

 

 

    □| |
    □|外|
    □|廊|
    □|下|____
    □|______
      E □□□□□

 Eはエレベーター がうちで、がお隣

 

 

お隣はマンションができた当初から女性が一人で
お住まいでしたが数年後、54歳という若さで亡くなり
持ち主が移転して半年経つか経たないかといった頃。

 

今度のお隣さんは4人家族のようでした。
最初、家族構成の内訳は両親とすでに成人している
二人の子と思っていたのですが、どうも違ったようです。

 

男女2人ずつのきょうだいか、あるいは両親と男の子に
妻の妹が同居なのか、そのあたりはわかりませんでしたが
男女2名ずつで暮らしているように思われました。

 

私は、女性の一人暮らしだった前の住人の時に
そのお宅へ何度がお邪魔をしたことがありますが、
70㎡以上ある3 LDKですので、4人暮しも可能な広さです。

 

 

 

 

 

部屋の中と外廊下を隔てているのは窓ガラス1枚

わが家の間取りは、角部屋ではなく真ん中に挟まれている部屋
としてはよくあるタイプのもので、玄関を入ると廊下があり、
突き当たりはリビングで、リビングに接して和室が一つ。

 

玄関の両側には廊下を挟んで2つの部屋があるという
間取りが多いですが、うちは部屋は一つだけで
もう片方は大きめの収納という造りでした。

 

図が上手に描けなくてもうしわけないのですが
こんな感じでピンク色の部分がうち、緑色はお隣です。

 

 

______________
     ●●●● 外廊下
______________
 |    |玄関| | 玄関
 |    | |   (お隣の)
 | 部屋 ||  
 |    ||    |
 |    | |    |
       ↓
     リビング等

 

 

ピンク色で「部屋」と書かれている部分が
外廊下に接している玄関脇の部屋。
窓があって、当然のことながら外の音はよく聞こえます。

 

考えてみますと玄関脇のこの部屋の窓のそばに
立っている時に、外廊下に人がいたとしたら、
ほんの数十センチ先に人がいることになるのですね。

 

そう考えると不思議な感じもして、ちょっと怖くも
ありますが、マンションとはそのようなものでしょう。

 

 

 

 

 

外がなんだか騒がしくて

そして問題の日がやってきました。
その日はお昼頃から、うちの玄関の前で何やら人の気配が。

 

実はその少し前にもお隣が、多分お風呂の取り替え
と思われる工事をうちの前でしていたことがありました。

 

うちのお隣は端だったこともありお風呂場の工事の作業は
お隣の玄関のドアの前というよりは、うちの玄関のドアと
外廊下に面した部屋の窓の前でしていたのです。

 

ですから問題の日に外で物音がした時も、また何かの工事
をしているのか、あるいは家具の搬入のために一時的に
外廊下で作業をしている物音なのかと思っていました。

 

 

 

 

 

何人もの人がいる気配

ところがその物音はなかなか終わりません。
前回のお風呂場の工事の時よりもはるかに
長い時間が経っていたのですが。

 

それだけではなく人の数も多くて、大きな話し声では
ないものの、かなりの人数がいることが伺えます。

 

しばらく時間が経った時に、一体、何が起きている
のかと様子を見るために、私は外廊下に面している
窓をほんの少しだけ開けてみました。

 

 

 

 

 

窓の少し先には……

わずか1,2センチほど窓を静かに開けてみると
そこには10人以上の人が立っていました。
どなたも私が窓を開けたことに気づいていないようです。

 

窓の先にあるものを目にした時、それが
何なのか、私は全く理解できませんでした。
わかった瞬間アッという言葉を飲み込んで窓を閉めました。

 

そこには青白い人の顔が……、
私が目にしたのは、亡くなった人の顔だったのです。

 

もう一度、先ほどの図を示します。
部屋から、マンションの外廊下に面している窓を開けて
みると、そこにあったのは「棺(●●●●)」でした。

 

 

______________
     ●●●● 外廊下
______________
 |    |玄関| | 玄関
 |    | |   (お隣の)
 | 部屋 ||  
 |    ||    |
 |    | |    |
       ↓
     リビング等

 

 

棺には、年配の男性が横たわっていました。
左側が頭だったので、私の顔のほんの少し先に亡くなった
お隣の御家族の父親と思われる人の顔があったのです。

 

今考えてみましたら、左側は南なんですよね、
反対だと北枕なので、そうだったら私と顔が合うことも
なかったのに、などと今更のことを思ったりして。

 

私はすぐに窓を閉めたものの驚き、呆気にとられていました。
亡くなっている方ですので目が合う、ということは
ありませんでしたが、本当に目の前に顔があったのですよ!

 

 

 

 

 

狭い通路に置かれた棺

うちはごく普通のマンションですから外廊下の通路の幅は
1メートルとちょっと、1,5メートルはないでしょう。

 

その狭い通路に、棺の頭の方をうちの窓の隣に、
足の方はうちのドアの前あたりに置いていました。

 

お風呂場の工事と違ってことはお葬式、もし私が知らずに
外出のためにドアを開けたらどうなっていたのでしょう?
葬儀屋さんもいるようでしたので彼が一言、言って
くれてもよかったのではないかという気もします。

 

 

 

家でお葬式をしない理由は?

しかし、それ以前に、家の外でお葬式をするなど
今まで一度も考えたことも聞いたこともありません。
しかもお隣は6畳一間の狭い家というわけでもないのに。

 

たとえ部屋が片付いていなくて棺を置く場所が
なかったとしても、わずか1時間ほどのことです。
一つの部屋に荷物を積んでおくことも可能なはず。

 

1メートル幅の通路でお葬式をしているスペース分の
広さを作ることができないとはとても思えませんでした。

 

 

 

 

お隣の御家族のうち、一番若い方にはお目にかかった
ことはありませんが、他の3人は50代から60代と思われ
今の若い人は……、という年齢でもありません。

 

何の心の準備もないまま、数十センチ程の位置で亡くなった
方の顔を目にするという驚きに加え、父親のお葬式を外で
するという前代未聞の家族に、私は複雑な思いでした。

 

その時はうちにはうさぎの「あぷりしゅがぁ」がいてくれ
ましたので、棺の中の顔が目に入った後、すぐ窓を閉めて
私はあぷりしゅがぁと息を飲んで顔を見合わせました。

 

 

 

 

 

色々面白かったマンションでしたが

そういえば、あぷりしゅがぁの前にうさぎの「ももち」
がいた時は、深夜の3時頃に知らない女の人が
ドアを蹴りながら叫んでいたこともありましたっけ。

 

「『なぜ人の家に入り込んでいるんだ、警察を呼ぶ』
とドアを蹴る、深夜に現れた見知らぬ人」

 

その人は、私が説明をしてもハイヒールでドアを蹴るのを
一向にやめる気配がなく仕方なく警察に来てもらった、といい
ますか、その女性が「警察を呼べ!」と息巻いていたのですが。

 

 

 

 

考えてみると、色々面白いことがあったマンションでした。
通路でのお葬式があったから、というわけではないのですが
ほどなく、私は18年間住んだ場所から越すことになりました。

 

入居する時は、一生暮らすつもりだったのですが。
でも、まあ越したからこそ、このような話もできるわけで。
まだ隣に住んでいたら、無理だったでしょう。

 

何事も形ではなく心が重要だということに異論はありません
が、それでもやはりマンションの通路でのお葬式とは
お父さん、ちょっと可哀想すぎる気がしますね。

 

スポンサードリンク




ネコやイヌまでをも供出させる戦争

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

「氏家法雄 ‏@ujikenorio」2015年6月7日のツイート

2年ほど前の6月7日に、氏家さんという方が
このようなツイートをしていらっしゃいました。

 

「昭和17年の夏、役場から突然『猫を供出せよ』とのお達し…
『アッツ島を守っとる兵隊さんのコートの裏毛になるんじゃ』
『女の気持ち:私の猫』毎日新聞2012年8月3日付。
タバコ吸いにリビング横切ったらタマが起きた。
俺は絶対いややで。」

 

毎日新聞に掲載されていた「私の猫」と題する、戦時中に
ネコを供出させらるという経験をなさった方の投稿を
お読みになった氏家さんが呟いた言葉です。

 

「おれは絶対いややで」。
兵隊さんのコートの裏毛にするためにタマを供出するなんて
絶対に、絶対に「いややで」と思われたのでしょう。

 

このツイートに添えられていたのが、このネコの写真。
そう思ってみるせいなのかもしれませんが、タマちゃん、
単に可愛いというだけではなく、いかにも何かを
言いたげなちょっと戸惑ったような表情にも見えます。

 

 

タマちゃん(写真/氏家法雄さんのツイッターから)

 

 

 

「毎日新聞」2012年8月3日の記事

氏家さんのツイートにタマちゃんの写真とともに
添えられていた毎日新聞の記事「私の猫」はこちらです。

 

 私の猫

「昭和17(1942)年の夏、岡山に住んでいた。
役場から突然『猫を供出せよ』とのお達しがあった。
うちの飼い猫は、私が物心ついた頃から我が家にいた。
名前はタマという。

 

学校から帰り、『タマ』と呼ぶと、『ニヤッ』と
答えるだけで、いつもかまどのそばで丸くなり
寝ている老いた猫だった。

 

「猫をどねーするん?」。
役場の人に尋ねると、
『アッツ島を守っとる兵隊さんのコートの裏毛になるんじゃ。
アッツ島は寒うてのう。零下40度にもなるんじゃ。
お国の役に立つんじゃ、めでたい』と言った。
そして次の日の昼までに役場に連れてくるように
指示して、帰った。

 

私は母に言った。
『山に隠そうや。お墓の裏なら、誰にも見つからんで……』。
しかし、母は首を横に振った。
『そねーなことをして見つかったら大事じゃ。
憲兵に連れて行かれる。軍のお達しじゃ、聞かないけん』
と言い返してきた。

 

私は泣きながら、近所の神社へ走った。
神社には大きな杉が6、7本あり、南側は川だった。
そこはどこからも見えないので、大声で泣いた。

 

『タマは殺されるんじゃ。
毛皮にされるんじゃ。可哀そうじゃ』。
升で量りたいほど涙が出た。
顔が腫れていた。

 

夕方、家に帰ると、タマはもういなくなっていた。
私のいない間に父が連れて行ったようだった。

 

アッツ島で日本軍は玉砕している。
私の猫はどうなったのだろう。
夏休みの時期になると思い出す。

         大阪府八尾市 主婦 79歳」

 

 

 

 

 

私の主治医の体験

何度見ても悲しすぎる毎日新聞の記事を読んで
私は同じような話を思い出しました。
かなり前に歯医者さんで聞いた話です。

 

こちらはネコではなくシェパードの「ミラー」というイヌ。
この話をしてくれた歯医者さんの父親も歯科医でした。
ミラーという名前は診察の際、口の中に入れて
歯をみる鏡「ミラー」からつけたそう。

 

当時、5歳になったかならないかという年頃の私の主治医は
毎日新聞に投稿していた女性より、少し年下と思われますが
今でもミラーのことが心に大きな傷として残っているようです。

 

私自身はイヌやネコの供出の話はその時に初めて知って憤り
や悲しみは感じましたが、それ以前に不思議な気もしました。
お寺の鐘などの金属類を供出させた話は聞いたことがあります。

 

でもコートの裏毛のために、ペットのネコやイヌの
毛が必要なんて一瞬、信じられなかったのです。
まさか、そんなこと……、と。

 

 

 

写真は本文とは関係ありません
草むらで保護されたイヌの
シーズー犬は子猫を守ってました

 

 

 

「 NHK 北海道  NEWS  WEB」2017年8月11日

ですが残念ながらこの信じがたい酷いことは事実です。
昨日の「NHK  NEWS  WEB」にこのような記事がありました。
「戦地に姿を変え送られた犬やネコ」(北海道 NEWS WEB)

 

この記事によりますと、イヌやネコの毛をコートの裏毛に
使用する取り組みは、北海道が全国に先駆けておこなった
ものでその後、全国に広がっていったということです。

 

北海道内では、1944(昭和19)年から人々に供出を呼びかけ
終戦までにおよそ7万匹のイヌやネコが処分されました。
この数は、あくまでも北海道内のみでの数字です。

 

 

 

 

そうして供出されたイヌやネコが、次にどのように
なるかを目撃した人の動画もつけられていました。
加藤光則さん、83歳の体験です。

 

当時10歳だった加藤さんは、後志の共和町に住んで
いましたが、学校からの帰り道で、皮を剥ぎ取られた
イヌやネコが積み上げられているのを目撃します。

 

「イヌやネコが雪の中に毛皮になって、丸裸になった
やつは片側にずっと分けて積み上げてある」という
加藤さんの次の言葉が最初、私には理解できませんでした。

 

「生きたまま血だらけで逃げたのは今でも目に焼き付いている」
という言葉なのですが、何度かその部分を再生し、また文章
を読み返すことでやっと私は理解することができたのです。
このむごすぎる文章の意味が。

 

「毎日の生活の家庭の中に直接戦争が入り込んでくるんだと。
鉄砲の弾が飛んでくるとか爆弾が落ちるという形で入って
くるんじゃないんです」と語る加藤さん。

 

 

 

こちらは、目の見えない友達(左)を助けるイヌ

 

 

この動画には、供出の経緯について調べている
地域史研究者の西田秀子さんも出ています。

 

「撲殺されて毛皮にされて兵隊さんの防寒着になったり、
帽子になったりして戦場に姿を変えていくわけなん
ですけど、それが実際のリアルな戦争の姿ですよね。
その状況っていうのは想像してみなきゃならない。
そのために、体験者の話を実際に聞き取ってみなさんに
伝えていくことが私の仕事じゃないかと思っています」

 

と西田さんは話していました。
日常生活に戦争が入り込んでくることの恐ろしさ、
実際のリアルな戦争のむごたらしさ……。

 

それを私たちが実際に体験しないようにするには
何をしたらよいかを考える段階も過ぎて、今は
もう実際に行動する時期が来ているのかもしれません。

 

スポンサードリンク