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いつも「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」を
訪れてくださってありがとうございます!

 

本来、今日は更新の日なのですが現在、入院中で
思うように更新ができなくなってしまいました。

 

更新の遅れや中止もあるかもしれませんが
どうかお許しくださいませ。
でも、また遊びに来てね〜!

 

 

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加賀藩3代藩主・前田利常(3/3)    「父の記憶」

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 今回は、前田利常の「1」「2」の続きです。

 

飯炊き女の介添えでひっそり出産

加賀藩3代藩主・前田利常が、金沢城の天守下の
暗い部屋でひっそりと生まれた時、母・千代
(寿福院)の介添えは、飯炊き女ただ一人でした。

 

利常は前田利家の四男であり、十人目の子どもでしたが
この赤ちゃんの出産に関心をはらいう者はなく、将来
藩主になろうとは誰一人思いもしませんでした。

 

生まれた日さえ正確にはわからなかったため、後に利常を
加賀藩の後継として幕府に届ける際、大慌てで介添えを
した飯炊き女を探し出して日にちを確定したといいます。

 

 

まつ(芳春院)

|ーーー利長(長男) 2代藩主
|ーーー利政(二男)
|ーーー幸姫(長女) 前田長種に嫁ぐ
|ーーー蕭姫(二女)
|ーーー摩阿姫(三女)
|ーーー豪姫(四女)
|ーーー与免(五女)
|ーーー千代姫(六女)

—————————————————–
*前 田 利 家(1537〜1599)1538、39年生説も
—————————————————–
 |     |     |     |
 |ー知好  |ー利常  |ー利孝  |ー利貞
 |(三男) |(四男) |(五男) |(六男)
金晴院   寿福院   明運院   逞正院

 

 

誕生した当初、利常は母の千代と暮らしていましたが、後に
前田長種のもとに嫁いでいたまつの長女・幸姫(こうひめ)
のいる越中守山で育てられることになりました。

 

利常が6歳になった頃、関ヶ原の戦いが起こります。
とはいえ利常の生まれた年は、1693年説と1694年説と
ありますのでそれによって年齢表記が異なりますが。

 

ここでは1993(文禄2)年11月25日誕生説
をとり満年齢の記載にしています。

 

 

前田利常・加賀藩前田家3代藩主

 

 

 

関ヶ原の前哨戦

1600年9月の関ヶ原の戦いの直前の8月に、関ヶ原の前哨戦
ともいわれる「浅井畷(なわて)の戦い」が起こりました。
丹羽長秀の子・長重((1571 [元亀2]年~1637[寛永14]年))
と、前田利家の子・利長との戦いです。

 

利家の妻・まつを江戸に人質に出し東軍についた前田家を
脅威に思う西軍の参謀役というべき大谷吉継は
あらゆる策をめぐらして前田家を制そうとしました。

 

丹羽長重を含む越前大名の多くは西軍についています。
吉継ら西軍の動きを察した利長は、金沢を出て丹羽長重
のいる小松城(現在は石川県小松市)を包囲。

 

 

小松城の天守台
東西20m、南北18m、高さ6.3m、傾斜は仰角82°

 

 

 

「浅井畷(なわて)の戦い」

兵の数では比較にならなかったほど前田軍の多さでしたが
小松城は数十年にわたって自治を勝ち取った加賀一向一揆の
人々が作った堅城であり、攻め取るのは容易ではありません。

 

そこで利長は、同じ西軍方の大聖寺城(現在の石川県加賀市)
に向かい勝利しますが、吉継が利長の妹婿を巻き込んで
流した巧みな嘘に騙され、金沢に撤退を決めてしまいます。

 

その途中、利長が長重と戦ったのが「浅井畷の戦い」です。
小松城付近は沼や田が多く、浅井畷という細い道で戦った
ことからつけられた名前で、「畷」とは「細い道」の意。

 

そうこうするうちに関ヶ原の戦いは1日で決着がつき
西軍の勝利が決定していますので、結局のところ長重も
利長も関ヶ原の戦い自体には不参加ということになります。

 

 

 

 

 

和議の条件は、利常の人質

西軍の処分の決定前の9月18日、利長と
長重は和議を結び穏便に事を収めます。

 

決められたのは前田家から丹羽家へ利常を人質に出すこと。
6歳の利常は長重の居城小松に送られることになりました。

 

「利長之を延見して曰く、和議既に成る、宜しく舊怨(長い
*間に積もった恨み)を一洗せざるべからず。是を以て
*我は舍弟猿千代(利常)を出して質たらしめんとす。」
       (石川県立図書館・石川県史 第二章 )

 

 

 

 

 

父・利家と最初で最後の面会

長重は関ヶ原の処分により改易されましたが
実直な人柄や大坂の役での活躍で許され、

 

1603(慶長8)年に常陸国古渡(ひたちふっと、
現在の茨城県稲敷市)藩の1万石の大名に復帰。

 

その後は江戸崎藩(茨城県稲敷市江戸崎)、棚倉藩
(たなぐらはん、福島県東白川郡棚倉町)そして
白河藩(福島県白河市)の初代藩主となっています。

 

 

丹羽長重(画像/WIKIpedia)

 

 

 

それのみならず、秀忠の御伽衆(おとぎしゅう、相談相手)
という重職に抜擢されることにもなりますが、その前の
利常がまだ小松城にいる6歳の時のことです。

 

療養のために草津温泉に行く途中の利家が
小松城にいる利常に会いに来ました。

 

 

 

 

利家を抱き上げた利家は、着衣の脇から手を入れて
背をなで、戦国武士にとって重要な筋肉を備え
もつ我が子の成長ぶりを喜んだといいます。

 

体格が最も自分によく似た息子・利常に、利家は
金箔で飾った刀と脇差の大小二刀を授けます。

 

翌年、利家は亡くなっていますので、これが
利常と利家が会った最初で最後の面会となりました。

 

 

「次郎左衛門雛」 前田家  成巽閣所蔵

 

 

 

珠姫の手紙

その後、3歳の秀忠の娘・珠姫を正室に迎えた7歳の利常
は、3年後の1605(慶長10)年に3代藩主になります。
政略結婚でしたが、二人の仲は睦まじかったといいます。

 

大名は、妻子を江戸に置く決まりですが
加賀藩は免除され、珠姫は金沢で暮らしていました。

 

参勤で江戸にいる利常について、父である秀忠に
「お父様 利常様を早く金沢に返してください」
と書き送った手紙が残されています。

 

 


「わたつらひ見まひとし****
て次八郎遣りし候******
ぎしよく之件(くだん)此者ニ
よくよく申候へく候、****
ゆたんなくやうやう□□***
尤ニ候、かしく*******
又此たき物なくさみ」****

(右からの縦書きを横書きにしてみたもの)
前田利常書状(野々市市
野々市デジタルデジタル資料館)

 

 

 

利常の手紙

また利常の方は、相手が珠姫かははっきりしていませんが
病身の身内の女性にこのような手紙を送っています。

 

そちらへやった家臣・喜八郎に事情を伝えなさい
との趣旨で、たきもの(香木)をもたせたことが
添えられている利常の優しい気遣いが感じられる書状。

 

利常との間に三男五女をもうけた珠姫でしたが
1622(元和8)年、24歳で亡くなってしまいます。

 

「元和八年三月前田利常の夫人逝去す。
*夫人は將軍秀忠の第二女なり」 (石川県史)

 

 

 

 

 

隠居後、再び後見人として藩政に

利常は、1633(寛永10)年に光高に、家光の養女
・阿智姫(水戸家の徳川頼房の娘)を正室に迎え、

 

1635(寛永12)年には、満姫を家光の
養女として浅野光晟に嫁がせます。

 

次男の利次には10万石の富山藩を、
三男・利治には7万石の大聖寺藩を分封。

 

この大聖寺藩で利常の全面的な支援のもと大聖寺藩の
藩窯が築窯され、多くの古九谷の名品が生まれました。
これが九谷焼へと繋がって行きますので、利常は九谷焼
の祖でもあるのですね。  (「古九谷(九谷焼)」

 

 

利常の支援により大聖寺藩藩窯で焼かれた古九谷の名品
「青手桜花散文平鉢(青い桜)」
石川県立美術館所蔵

 

 

 

1639(寛永16)年には光高に家督を譲って隠居
するものの、1645(正保2)年、光高が急死。
次の藩主となる綱紀がまだ3歳でした。

 

後見人になるように家光からの命じられた利常は
5代藩主・綱紀の後見時代に、「改作法」などの
優れた施策を打ち出しています。

 

また、綱紀の正室には、家光の弟でもある
保科正之の娘・麻須姫を迎えています。

 

 

(図/「余湖くんのホームページ」)

 

 

 

隠居城「小松城」

利常は後年、自らの隠居城として小松城を選びました。
「浅井畷の戦い」の時に攻めることのできなかった
堅城である小松城は、その時はすでに破城。

 

1615(元和元)年の「一国一城令」よる破城
でしたが、利常の隠居に伴い、1639
(寛永16)年に幕府に工事を願い出ます。

 

利常は桂離宮の造営等に尽力し、京風文化を
取り入れて金沢文化を開花させた藩主ですので
利常の美意識の結晶ともいえるお城だったのでしょう。

 

 

小松城天守台(写真/「日本の城」)

 

 

 

「小松の浮城」

小松城は、梯川の水を引き入れて何重にも堀を巡らせた
水城「小松の浮城」と呼ばれる城でしたが、現在は
ほとんど埋め立てられて残っているのは天守台等ごくわずか。

 

この石垣は、金沢城と同様に隙間のない「切り込みはぎ」
と呼ばれる石の組み方で作られた美しいものです。

 

この上に建っていた天守は、屋根も桧皮葺きで、一見
茶室のような建物で、隠居城であることから戦闘的なもの
ではなく、望楼のような洒脱なものだったということです。

 

 

こちらは毛利家の下屋敷だった現在東京ミッドタウンの石垣。
発掘で出てきたものを再現したそうですが
確かに石の組み方違いますね

 

 

 

ニックネームは「お猿」

利常が隠居城として選んだのは、生涯にたった
一度、父と会うことのできた小松城でした。

 

利家は、利常の幼名・猿千代から
利常を、「御さる」と呼んでいましたが
初めて出会った御さるは、満足のいく息子でした。

 

その記憶は、利家にとっても利常にとっても
忘れられないものだったに違いありません。

 

 

 

 

 

梨をむいてくれた長重

しかし利常には、小松城での出来事で、もう一つ
忘れることのできない思い出があったといいます。

 

それは人質として小松城にいた時に、城主である
丹羽長重が利常に、自ら梨をむいてくれた思い出。
当時、長重にはまだ子どもをもつ前でした。

 

利常は隠居後の小松城に、裏千家の創始者・
仙叟宗室を招いて三の丸に住まわせるほど茶道に
通じた人でしたが、長重もまた茶を嗜む人。

 

 

 

 

関ヶ原の戦いで改易された後に、大名に復帰したのも
長重の誠実な人柄が評価されたためということです。

 

そもそも「浅井畷の戦い」の当事者である
前田利家と丹羽長重の間に私怨はなく
立場上争うことになった相手にすぎません。

 

利常を人質にすることで事を穏便に済ませたことを
長重は気にし、利常に気遣いをしていたともいいます。

 

 

 

 

 

もう一つの「父の記憶」

誕生の日ははっきりわからない利常に死が訪れたのは
1658(万治元)年11月7日、66歳の時でした。

 

梨を食べる時に利常は、いつも小松城で長重が
梨をむいてくれた話を周りの人に語ったといいます。

 

私はこの話を何度読んでも、その度ごとに
幼い利常と梨をむいている長重の姿が
彷彿として涙が溢れそうになります。

 

長重に美味しいかと問われた時に利常は、映画のシーン
のように満面の笑みで応えたのではなく、むしろ心とは
裏腹に無表情に頷いたような気がしたりして……。

 

 

 

 

長重のむいてくれた梨の話は、利常の心を生涯
あたため続けてくれた、もう一つの忘れることの
できない父の記憶だったのかもしれません。

 

 

*     (参考/宮元健次「加賀百万石と江戸芸術
*       前田家の国際交流」人文書院 2002
       磯田道史『殿様の通信簿」新潮社2006
         石川県立図書館・石川県史)

 

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加賀藩3代藩主・前田利常(2/3)    「肥後殿のおどけ」  

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    前回(「加賀藩3代藩主・前田利常」)の続きです。

 

 

再び謀反の嫌疑

利常の代にも前田家は、家光から謀反の嫌疑をかけらます。
幕府の許可なく金沢城の修復をしたり、軍船を
多数買い入れたりした等のことがその理由。

 

家光に弁明を願い出るも拒否された利常は、加賀藩で最も
弁の立つ家老の横山康玄(やすはる)を江戸に送り、全てを
認めた上で、しかし謀反とは無関係であるとの説明をします。

 

すると驚くべきことに、これが受け入れられました。

 

 

 

 

お取り潰しになった他藩より、はるかに疑われても仕方
のない状況にもかかわらず受け入れられたのは、一説
には賄賂ともいわれますが、証拠はなく不明です。

 

そしてこの時も、幕府から一つの条件がつけられました。
それは利常の次の4代藩主・光高に、家光の養女・大姫
(水戸藩・徳川頼房の娘)を迎えるようにとのこと。

 

この後も、光高の子・綱紀には家光の弟・保科正之の
娘を正室にというように、歴代藩主の正室を徳川家
から迎えることが多く重ねられています。

 

 

 

 

 

「空から謡が降ってくる」といわれた金沢

加賀藩のとった文化政策は、幕府の警戒心を
解くためともいわれますが、それはさておき
結果としては素晴らしい工芸作品等を生みました。

 

2代・利長の代に作られた「御細工所(おさいくしょ)」
と呼ばれる武具管理用の藩のお抱え作業所を、利常は
美術工芸品製作所に変え、京都から優れた工芸作家を招聘。

 

手がけられたものは、絵細工、漆工、象眼、鍛冶、
各種金具など多岐にわたり、「加賀宝生」とも
いわれるように、宝生流のお能も盛んでした。

 

 

 

 

 

「改作法」

また塩の専売制をしいて塩の生産を高めたり、1651
(慶安4)年から1656(明暦2)年にかけて利常は
「改作法」と呼ばれる藩政改革にも取り組みました。

 

実はこの時期、藩主は5代・綱紀だったのですが
4代・光高が早世したため、利常が幼い綱紀の後見をして
いた時の施策で、後に成人した綱紀が引き継いています。

 

「改作法」は、窮乏していた百姓に、藩庫の米銀を貸し与え
他から借りることを禁じ、今まで家臣たちが行なっていた
年貢米の取り立てを、藩が直接に行うという画期的なもの。

 

こうした優れた利常の治政から、加賀藩は
「政治は一加賀、二土佐」といわれるまでになりました。

 

 

 

 

 

「鼻毛大名」「〇〇大名」

「政治一は加賀」といわれた利常ですが、当時
「もっとも奇行の激しい殿様」あるいは
「江戸城内でも常に変人扱いされていた」といいます。

 

家臣が止めるのも聞かずに鼻毛をのばしていることから
「鼻毛大名」と呼ばれたり、長期間下屋敷から出仕
せず、久しぶりに登城した際に、咎められた利常は

 

殿中であるにもかかわらず突如、袴をめくって
「年をとるとお〇〇の調子が悪くなって仕方ない」と言い訳
をしたことから「〇〇大名」とあだ名がついたほどでした。

 

 

 

 

 

「馬鹿殿様」を演じて

この他にも頭巾着用禁止の室内で平然とかぶっていたり、
「小用禁止、罰金を科す」と書いてあるところで
堂々と用を足した後に小判を投げて去るといった具合。

 

このような数限りない「馬鹿殿」ぶりは様々な文献
に記録され「肥後殿のおどけ」と呼ばれていました。

 

『微妙公直言』には、利常は常に髪の毛を乱して目を白黒
動かしながら早口で話してみせた、とも記されています。

 

 

 

 

 

「傾奇者(かぶきもの)」

しかしもちろん、これは利常の演技。
鼻毛の件を注意された時に利常はこう答えています。

 

「利巧面(りこうづら)をしていては、またどんな
無理難題をふっかけられるかもしれぬ。無能な顔をして
人々が安心するからこそ百万石は安泰なのだ」と。

 

金沢城の改築等で謀反の嫌疑をかけられた時に
幕府が得ていた情報の正確さは、加賀にスパイ
を置いていることを物語っています。

 

利常が藩主として有能であればあるほど幕府に
目をつけられるのは必定、であるならばいっそ逆に
悪目立ちをしてしまおうと考えたのかもしれません。

 

とはいえ、いやいや馬鹿殿を演じたわけではないでしょう。
これらのことは「傾奇者(かぶきもの)」としての
利常の傾(かぶ)き方だったのではないかという気もします。

 

 

 

 

 

世が世ならば

「肥後殿のおどけ」といわれた利常は、このような
本音を、側近・藤田安勝に漏らしてもいます。

 

「太閤時代には徳川家と前田家は同格だった。
たまたま家康が長生きして天下をとっただけだ」と。
              (『微妙公卿直言』)

 

 1598(慶長3)年 豊臣秀吉死去
 1599(慶長4)年 前田利家死去
 1600(慶長5)年 関ヶ原の戦い

 

死を間近にした家康の気がかりは、有力外様大名の
ことでしたが、秀吉のそれはまだ幼い秀頼のことでした。

 

「かえすがえす秀頼の事頼み申しそうろう」と書き残した
秀吉が、秀頼の補佐役として選んだ五大老が前田利家、
徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家の有力大名。

 

 

 

「唐物茄子茶入れ  富士(からものなすちゃいれ  ふじ)」
高5.5cm 口径3.7cm 胴径7.1cm 底径3.0cm
南宋(1101〜1300) 前田育徳会所蔵

 

 

 

五大老の筆頭

中でも信頼していたのは前田利家といわれています。
秀吉は死の前年に、信長から伝えられた「富士茄子」
と呼ばれる茶入れを利家に贈っています。

 

足利将軍・義輝の所持していたと伝えられる大名物で
曲直瀬道三(1507〜1595)、織田信長(1534〜1582)

 

を経て秀吉(1536〜1598)のもとにあったこの天下人から
天下人へ伝えられた「富士茄子」を渡した相手は利家。

 

 

 

 

秀吉が、1598年8月に死去した翌年の元旦、
伏見城には秀吉の後継である秀頼への
新年の挨拶のために、諸大名が集まりました。

 

病をおして出席した利家が、6歳の秀頼を抱いて
現れ、秀頼の後見としてともに着席したさまは、

 

「諸大名はまさに利家に拝謁しているようであった」
と『関ヶ原集』には記されています。

 

 

 

 

たまたま徳川の世になり、たまたま藩主となった利常。
好むと好まざるとにかかわらず、利常が藩主と
なった前田家は、たまたま大大名でした。

 

現世で巡り合わせた、このたまたまの必然を
利常はもって生まれた能力を全力で駆使して
最期の時に向かって駆け抜けたように思えます。

 

時には忍辱の衣を着て濡れ衣を晴らすために誠実に弁明し、
すぐれた施作を打ち出して「政治一は加賀」と言わしめ、
また別の時はおどけた変人の傾奇者(かぶきもの)。
その全てが紛れもなく利常だったのではないしょうか。

 

 また長くなってしまったので次回に続きます。
 ごめんなさい、次回で終わりますので。

 

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