唐津焼「中里太郎衛門」

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

 

 

唐津市北波多で生まれた唐津焼

肥前鍋島藩の鍋島軍が朝鮮出兵の際に連れてきた朝鮮陶工
により日本初の磁器が作られるようになる少し前に
やはり朝鮮陶工の手によって唐津焼が作られていました。

 

こちらの唐津焼は、朝鮮出兵以前に岸岳(きしだけ)城主の
波多氏が朝鮮から連れてきた陶工によって焼かれるように
なったもので、有田焼のような磁器ではなく陶器。

 

岸岳を治めていた波多氏の、17代当主・波多親(ちかし)は
豊臣秀吉の不興を買いましたが、佐賀鍋島藩の鍋島直茂の
取りなしにより事なきを得ました。

 

しかし1594(文禄3)年、所領を没収の上、常陸に配流。
平安時代末期より戦国時代まで500年以上にわたって
活躍した波多氏は改易されることになってしまったのです。

 

 

 

 

 

金ケ江三兵衛が磁器の原料を発見

これにより岸岳古唐津の陶工たちは、秀吉の朝鮮出兵時に
連れてこられた陶工たちと一緒に仕事をすることになり
松浦古唐津、多久(たく)古唐津、武雄(たけお)古唐津、
平戸(ひらど)古唐津を形成してゆきました。

 

朝鮮からの陶工の中心的存在であった金ケ江三兵衛
(李参平・りさんぺい)は多久古唐津を焼成していました
が、1616年(元和2)年、有田泉山で磁鉱石を発見します。

 

これをきっかけに金ケ江三兵衛は磁器の有田焼を
作るようになり、多久古唐津と平戸古唐津は消滅。

 

そして、松浦古唐津は唐津藩の御用窯として、
武雄古唐津の方は日常雑器を焼く民窯となりました。

 

 

「染付山水図大鉢( そめつけさんすいずおおばち」
初期伊万里 高  12.5cm 口径  44.8cm 底径  12.9cm
重要文化財(写真/「文化遺産オンライン」)

 

 

 

「一楽、二萩、三唐津」

その後、唐津焼は全国に流通して西日本を代表する焼物となり、
西日本では焼物を「からつもの」と呼ぶほどまでになりました。

 

日常雑器としては勿論のこと、茶陶として古来から
茶人に愛された器でもあり、また楽焼や萩焼と並んで
「日本三大茶陶器」の一つにも数えられています。

 

お茶の世界では抹茶茶碗の格付けとして
「一楽、二萩、三唐津」という言葉があります。
「一井戸、二萩、三唐津」ともいうようですが、いずれに
せよ唐津焼は抹茶茶碗としては王道のお茶碗なのですね。

 

ろくろ、たたき、たたら、押し型等の技法で作られた唐津焼は
掘り、刷毛目、象嵌(ぞうがん)、搔(か)き落としの装飾が
施され、釉薬をかけて約1300度の高温で焼かれます。

 

土の味わいに描かれた野趣に富む模様の唐津焼。
現在、唐津焼の窯は唐津市内に70ほどあるということです。

 

 

 「赤樂茶碗 銘熟柿」17世紀前半 本阿弥光悦
(写真/「サントリー美術館」)

 

 

 

中里太郎衛門家

唐津焼の正確な歴史はわかっていないようです。
かなり前のことになりますが、私は唐津焼の
中里太郎衛門の窯を訪れたことがありました。

 

(中里太郎衛門窯
 〒847-8171 佐賀県唐津市津田3-6-29
 tel:0955-72-8171 fax:0955-73-3284
 mail:tarouemon@nifty.com)

 

唐津焼の中里太郎衛門の家は、江戸初期に中里又七が作陶を
始めて以来、唐津焼を作り続けている家系で、現在は14代目。

 

 

 

 

 

御用焼物師 中里家の歴史

初代の中里又七は生没年が不明ですが
肥前国唐津藩の御用焼物師でした。

 

5代目・中里喜平次が記した古文書によりますと、又七は
同じ高麗人の矢作や彦右衛門達と文禄年間(1592〜1596)に
伊万里市に田代窯を作った後、大川源窯に移ったそうです。

 

又七達が唐津藩主・寺沢志摩守広高の御用窯に
任じられたのは1615(元和元)年のこと。
又七は椎ノ峰窯へ移って御用焼物師となりました。

 

 

「叩き唐津南蛮耳付壷」13代・中里太郎衛門

 

 

初代・又七     生没不詳
2代・太郎衛門 生没不詳
3代・甚右衛門 生年は不詳、1703(元禄16)年に没。
4代・太郎衛門 生年不詳で、1744(延享元)年に没。
5代・喜平次   1691(元禄4)年〜1757(宝暦7)年
6代・太郎衛門  生年不詳〜1786(天明6)年
7代・陶司    生年不詳〜1823(文政6)年
8代・尚徳    生年不詳〜1827(文政10)年
9代・太郎衛門  生年不詳〜1872(明治5)年
10代・一陶     生年不詳〜1879(明治12)年
11代・太郎衛門 1854(安政元)年〜1924(大正13)年
12代・太郎衛門 1895(明治28)年〜1985(昭和60)年
13代・太郎衛門 1923(大正12)年〜2009(平成21)年

 

 

 

 

 

古唐津の技法の復活

12代・太郎衛門、本名重雄が生まれたのは、唐津藩の
御用窯としての庇護を失い衰退していた時代でした。

 

そのような中、古唐津の技法を復活させる
ことに成功し、唐津焼は勢いを取り戻します。

 

1976(昭和51)年、12代・中里太郎衛門は重要無形文化財
「唐津焼」の保持者(人間国宝)に認定されました。

 

 

 「斑唐津茶碗」12代・中里太郎衛門

 

 

 

14代・中里太郎衛門

当代の14代・中里太郎衛門は、1957(昭和32)年に
13代・太郎衛門の長男として佐賀に生まれました。
本名は忠寛。

 

1979(昭和54)年に武蔵野美術大学造形学部彫刻学科を
卒業、1981(昭和56)年、同大学院を卒業しました。

 

1983(昭和58)年に、多治見陶磁器意匠研究所釉薬科、
国立名古屋工業技術試験所釉薬科を修了後に
13代・中里太郎衛門陶房で作陶に入り、

 

1990(平成2)年の日展での特選を受賞を
はじめ数々の賞を受賞しています。
2002(平成14)年、14代・中里太郎衛門を襲名。

 

また、12代・太郎衛門の三男の中里重利(1930〜2015)、
同じく12代・太郎衛門の五男の中里隆(1937〜)、
中里重利の長男である中里嘉孝(1958〜)という
一族の方が陶芸家として活躍していらっしゃいます。

 

 

「唐津藍紋様二彩掻落し 馬上杯」14代・中里太郎衛門

 

 

 

生まれた時からの宿命

幼い頃から粘土遊びなどに親しんで、
「陶芸家になることは、生まれたときからの宿命でした」
と語る14代・中里太郎衛門さんですが、この「宿命」とは
逃れがたい重い定めという意味ではないそうです。

 

14代を継ぐというプレッシャーは「全然ありません」、
「作陶をやっていて、つらいと感じたことはない。
むしろ楽しいことばかりです」と続けます。

 

中国で焼物と限らずに絵画、彫刻などの素晴らしい作品に
触れた時の感想を、このように伝えてくれました。
「技術とかではなく、見る者に訴える力が画然と違う」
「昔の物に負けるものかという意気込みがわきます」
              (技見聞録「佐賀新聞」

 

 

「松図襖」狩野尚信 17世紀 佐賀藩鍋島家・徴古館

 

 

 

「窯もの」と「作家もの」

ところで、私が中里太郎衛門陶房に行った時のことですが、
残念ながら作品は一つも手にすることができませんでした。

 

陶房には何人もの職人さんたちが器を作っていますが、
それらは「中里太郎衛門窯のもの」と呼びます。
器の裏には中里太郎衛門窯で作られたという窯印
である「三ツ星」の商標がついています。

 

それに対して太郎衛門さんご自身の作品は「作家もの」と
呼んで区別していますが、欲しかった「作家もの」の
お抹茶茶碗にはとても手が届きませんでした。

 

 

「銹絵染付松樹文茶碗」18世紀前半 尾形乾山
(写真/「サントリー美術館」)

 

 

 

中里太郎衛門陶房で頂いた大きなお土産

ただ品物としては1つも手にすることはできません
でしたが、実は大きなお土産をいただきました。
それは、陶房の庭の様子です。

 

私が訪れたのは数十年前のことですので、現在はまた違って
いるのかもしれませんが、その当時は一般の私たちが
入れるお庭には松の木が植えられていました。

 

松の木もではなく、松の木だけが植えられて
いるその潔い美しさに私は心を奪われました。

 

もし自分の庭を持つことが叶うならば、大好きな松に梅に
桜にクチナシ……、と夢と妄想は果てし無く膨らみます。

 

ですが、中里太郎衛門陶房の庭を拝見して
私も松だけの庭にする、と決めました。

 

 

 

 

 

「花のほかには 松ばかり」

能楽の「道成寺」の「花のほかには松(待つ)ばかり」
という謡を思い出します。
「器のほかには松ばかり、器の庭には松ばかり」

 

もちろんこの決意(?)は誰にも告げたことはありません。
何十年もの月日が過ぎた今、自分に突っ込んでみましょう。
「固い決意をしたって意味なかったじゃない!
お庭持てなかったのだから」と。

 

でもあの美しさは今でも目と心に残っているからいいかな。
もしかしたら、夢は実現せずに、松(待つ)ばかり
だったりして……。

 

スポンサードリンク




須田青華 加賀、山代温泉の「青華窯」

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

 

 

加賀の「精華窯」

先日、石川県金沢市の陶芸家・中村梅山の器をご紹介しましたが
そういえばこれも同じ石川県のもの、と思い出したのがこの器、
4代・須田青華の「色絵風船向付」です。

 

こちらは石川県ですが中村梅山の梅山窯のある金沢
ではなく、加賀市の山代温泉にある窯です。
1906(明治39)年に青華窯を築いてから、染付や祥瑞(しょんずい)、
呉須赤絵、古赤絵、古九谷などの作品を作り出しています。

 

「須田青華
〒922-0256 石川県加賀市山代温泉東山町4
Tel. 0761-76-0008  Fax. 0761-76-0988」

 

 

 

九谷焼窯元「精華」

 

 

写真の左の建物の1階の屋根の上にある看板には
「九谷焼窯元」と、右から書いてあります。

 

そして写真ですとちょっとわかりにくいのですが
その真下のガラス戸の上にあるのが下の写真にある看板で
「青華」とこれも右側から書かれています。

 

これは北大路魯山人の作品。
一度は陶芸作家の道から離れようとした中村梅山の御長男・中村錦平が
再び陶芸家を目指すきっかけともなったのが北大路魯山人の作品でした。

 

 

 

須田青華の窯元に掲げられている看板「青華」北大路魯山人作

 

 

 

ということで北大路魯山人というと、つい陶芸家と思ってしまいますが
彼は元々は篆刻家で、このような篆刻文字の看板や印鑑を掘る仕事が本業
でしたが、とはいえ魯山人を説明する肩書きは1つでは足りません。

 

美食家でも有名な魯山人は、今はもうなくなってしまい
ましたが、千代田区永田町に「星丘茶寮(ほしがおかさりょう)」
という有名な料亭の顧問兼料理長としても活躍していました。

 

「星丘茶寮」は政界、財界及び文化人の多くの顧客をもっていた料亭。
料理が超一流だったのみいうにおよばず、調理場をお客さんに公開し
料理長にネクタイ着用を義務付けたり、仲居さんにお酌をさせない
など、当時の料亭の枠におさまらない料亭だったようです。

 

 

北大路魯山人「伊賀釉四方平鉢」

 

 

同様に、北大路魯山人自身も篆刻家や陶芸家、料理人等々
そのどれか一つにはおさまることのない芸術家でもありました。
その魯山人の陶芸の手ほどきをしたのが、初代・須田青華。

 

私はこの「青華」の看板を作ったのは魯山人、と聞いた時に最初は
陶芸を教えてもらったお礼として、魯山人が看板を作ったのかと
思ったのですが、そうではなく順番が逆だったようです。

 

山代温泉の「吉野屋」の主人・吉野治郎のの別荘に滞在していた魯山人
がいくつか頼まれた仕事のうちの一つが、青華窯のこの看板でした。

 

 

北大路魯山人の篆刻看板「青華」

 

 

魯山人は1915(大正4)年の11月に、出来上がった
「青華窯」の篆刻看板を須田青華のもとに届けます。
期待にたがわない素晴らしい出来に、須田精華は大満足。

 

その御褒美として魯山人は青華窯で学ぶことを許されます。
書はお手のものである魯山人も、上絵付けには苦労したようでしたが
生来の美的感覚の素晴らしさで周囲を驚かせる作品を作りあげます。

 

別荘の主である吉野治郎は「この男、ただものではない」と。
また初代・須田青華は、この時に魯山人の類い稀な才能を
見抜いたといわれています。

 

一方、魯山人の方はといえば後に、初代・青華を
「陶芸界における〈独歩〉の観あり」と称えたととか。

 

 

「星丘茶寮」は現在、ザ・キャピトル東急ホテルになっています

 

 

 

初代・須田青華 1862~1927年 

初名、与三郎といった初代・須田菁華は
1862(文久2)年、金沢の商家に生まれました。
この年はペリー来航の9年後にあたります。

 

1880(明治13)年に石川県勧業試験場陶画部を卒業後、京都に出て
製陶の研究を重ね、3年後に九谷陶器会社に入社。
上絵付けに従事し、3年後の1885(明治18)年には画工長となります。

 

ところが会社が解散してしまい、1891(明治24)年に山代温泉に
錦窯(きんがま)を築いた後、1906(明治39)年には同じく山代温泉に
自家用の登窯「青華窯」を築いて独立することになりました。

 

 

 

 

 

「青華」の名前は「青花」から

須田青華の「青華」とは、白磁にコバルトで絵付けを
施した磁器の「青花」からきている名前です。
日本では「染付」と呼んでいるもののこと。

 

元代に、西方ペルシャから輸入されたコバルトを使用し
美しい白磁に酸化コバルトで絵付けをした後に
透明釉を掛け、高火度で焼成します。
鮮やかな青い色で複雑で重厚な模様が描かれています。

 

官窯の永楽、宣徳年間のものにも劣らない巧みなものを多く残した
初代・須田青華は1927(昭和2)年に、文久、元治、慶応、明治、
大正、昭和と6つの時代を生きた後に亡くなりました。

 

 

4代・須田青華

 

 

初代の須田青華の子である2代・青華は1892(明治25)年
に生まれ、1971(昭和46)年に亡くなっています。
本名は吉次。

 

本名は清治といった3代・青華は、1916(大正5)年
に誕生し、1981(昭和56)年に没しています。

 

「身から遠いものは移ろいで行く。
逆に口の形が人間変わらないのと同じように、
口に近いもの、食べ物は変わらないだろう。
だからこれまでもこれからも、
自分は同じものを作り続けるつもりだ」
と3代・青華は語ったといわれます。

 

 

溜池山王駅アート「色絵茄子大鉢」
ギャラリー「壷中居(こちゅきょ)」(東京)所蔵作品

 

 

 

当代、4代・青華

その3代・青華の子が現在の4代・須田青華です。
本名は千二郎、1940(昭和15)年生まれ。

 

金沢美術工芸大学の洋画家を卒業後に
祖父と父に作陶を学びました。
1981(昭和56)年、3代・青華の没後、4代を襲名。
4代・青華は、初代からの手仕事を大切に引き継いでいます。

 

地元の土を使って、電動ではない足で動かす蹴轆轤
(けりろくろ)で形作ったものを、磁器では珍しい
といわれる松薪の登り窯で焼くという
古九谷発祥時の工法を、現在も守り続けています。

 

 

須田青華「色絵かぶら文茶碗」

 

 

4代・青華はこの過程を「創作」ではなく「ものづくり」
と表現し「うちの器は健康なんです。だから丈夫で
使い勝手がよく、毎日楽しめるのです」と語ります。

 

観賞用だけではなく、日々の暮らしにとけ込む「用の美」
であり「色絵かぶら文茶碗」のゆったりとした大らかさは
まさにその言葉通り。
赤い色は紅殻を丹念にすることで生み出される赤だそうです。

 

この他には、青、緑、黄色、紫、紺などはっきりとした色は
溢れ出る生命力を感じさせる九谷の色でもあります。

 

 

須田青華「色絵風船向付」

 

 

 

「色絵風船向付」

それらの九谷の色が勢揃いして、楽しげなハーモニィーを
奏でているのが、かなり前に手に入れたこの色絵風船向付。
「向付(むこうづけ)」というのは、小鉢のことです。

 

今、調べてみても見つからないのですが、以前は目黒に
こじんまりとした東京店があったような記憶があります。
私はそこで「色絵風船向付」を5つ購入しました。

 

残念ながら私は、石川県加賀市の「青華窯」に
お邪魔したことはありません。

 

この色絵風船向付の広い方を二つあわせて、まさに紙風船の
形にした花瓶もあるのですが、なぜか私はこちらの方が好き。
紙風船の箸置きもありますよ。

 

 

 

 

「青華窯」の窯元では、何十畳ものお部屋にはたくさんの器
があるようですが、それでも現在ないものを頼む部場合は
1年ほど待たなくてはならないそうです。
購入された方は、待つのもまた楽しいとおっしゃいます。

 

また4代・青華は
「手の込んだものを『これは手が込んでいるのだ』と
見せつけるようではダメ」ともおっしゃいます。
本当は凄いものを、軽やかにさりげなく作り上げる。

 

「私どもが作るのは、日常で使う手工芸。
器ばかりが立派で、気にかかるのは本意ではありません。
伝統を継承する職人として仕事は確かにこなしながら、
世に生み出す姿は謙虚でありたい」

 

と語る4代・青華は、古九谷が発祥した江戸前期からの古い絵柄
を参考にしつつも、新しいデザインを多く作り出しています。
「気兼ねなく自然に、今の感覚で自由に使っていただきたいです」

 

古い伝統的な工法を大切にし、古九谷の絵柄を
参考にしながらも現代のデザインを作り出し、
日々の生活で使われることを望む作者の作り出す器。
「青華窯」の器は「辻留」でも多く使われているようです。

 

スポンサードリンク




「中村錦平」「中村卓夫」「中村康平」  梅の庭に咲き誇る三兄弟

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

中村錦平

中村錦平、中村卓夫、中村康平三兄弟の祖父である初代・中村梅山
は大正初期に趣味が嵩じて陶芸家の道に入った人でした。
その子どもが2代目・中村梅山です。

 

2代目・中村梅山の子として1935(昭和10)年に
生まれの錦平は、1956年に金沢市美術工芸大学の
彫塑科に入学したものの才能に疑問を感じ中退。

 

やきものを「作る側」ではなく、「使う側」にたとうと
考えて銀座にある日本料理の中島で板前修行に入ります。
そこで彼は、北大路魯山人の存在に行き当たりました。

 

 

 

北大路魯山人「伊賀釉四方平鉢」

 

 

 

再び、やきものを志す

彼は父の手伝いをしながら、やきものの修行を始めます。
そして、1960年に現代日本陶芸展(朝日新聞社主催)に初入選、
翌1961年は、日展と日本現代美術工芸展に入選を果たします。

 

1964年には、三菱銀行金沢支店での建築に関する初仕事後、
1966年にソニービルで、1998年は北陸放送会館に陶壁を作りました。

 

1969年にロックフェラー財団に招聘されて、1年間欧米に滞在。
以後、活躍は世界的に広まっていきました。

 

 

 

中村錦平「粉引風白釉徳利」

 

 

 

「東京焼」

中村錦平は、御自身のやきものを「東京焼」と呼んでいます。
やきものは普通、作る場所で採れた土を使いますが、彼は電話一本で
手に入る、ビニール入りの粘土を使って作品を作っているのだそう。

 

やきものの土台ともいうべき土がそうであるのみならず
顔料や釉薬も特別なものではなく、誰でもカタログを見て
簡単に取り寄せることのできる市販品を使っているといいます。

 

このこだわりのなさには驚くばかりですが、一方
その無頓着さは自信の裏返しであるようにも思えます。

 

 

中村錦平(写真/「21世紀美術館」

 

 

 

「余計な遊びに徹して」

「東京焼・中村錦平展 1993〜94年」のカタログには
「東京ほど多種のテーマ、多様な素材の掘り出せる場は他にない。
伝承なし、様式なし、愛陶家なしの地が意欲を盛りあげる。」と。

 

また陶壁作品についてはこのように語っていらっしゃいます。
「余計な遊びに徹して、空間を飾り、埋める事に
関心を持って、作品を作りたいと思っています」

 

「余計な遊びに徹して」という言葉が、何とも魅力的な
中村錦平は、赤坂のお隣にある東京・青山に窯を構えています。
現在、多摩美術大学名誉教授。

 

 

 

 

 

中村卓夫(3代目・中村梅山)

中村錦平が誕生した10年後の1945年に生まれたのが、中村卓夫です。
1978年、会社員を経た後の33歳になってから
父・中村梅山の元で陶芸を始めました。

 

1982年 名古屋工業試験場瀬戸分室で釉の研究
1984年 イタリア・国立ファエンツァ陶芸美術学校で学ぶ
1990年 和光 アートサロンにて個展を開催
2004年 WEDGWOOD「ジャパネスク」シリーズ製作
2013年 中村卓夫展 和光ホール「陶・もうひとつの琳派 」等々

 

作品は、ニューヨークのメトロポリタン美術館、シカゴ美術館、
金沢21世紀美術館等に、オブジェ、花器等が所蔵されています。

 

 

中村卓夫(写真/「西福ギャラリーブログ」

 

 

 

自分の道は「壊すこと」

卓夫が長年の製作の中で見つけた「自分の道」、それは「壊すこと」。
やきものの材料である粘土を、投げ、きり、ちぎるという動作を重ね
「作るのではなく、壊すこと」から数々の作品が生まれてゆきます。

 

他人と同じことをしても意味がないという彼の制作は
轆轤(ろくろ)を使わずに、タタラという伝統的な技法を用いるもの。

 

「粘土に自然に起こることを、見つけるのが私の仕事です。
自然に動く表情、おもしろい瞬間を掴むんです」と説明します。
                 (「REVALUE NIPPON」

 

「ぎりぎり器」「すりぬける器」「浮遊する器」と自由な器の個展を
開催し、花器にも香炉にも、自由自在に遊ぶことのできる「うつわ」を
考えていたという彼は、ついに全く新しい形の「うつわ」を見つけます。

 

 

中村卓夫「器になるコトをやめたうつわ」

 

 

 

「器になるコトをやめたうつわ」

それが「器になるコトをやめたうつわ」シリーズや
「箱になるのをやめたハコ」シリーズです。

 

「用」を離れ、作者の意図からも離れ、「場」との関係を結んで
表現することで「うつわ」になる、新しい「うつわ」の世界。

 

「うつわはうつろに通じ、茶碗にせよ花器や皿類にせよ、何かを保持する
空隙を抱えたモノとして作られるが、用途が一義的になるうちに、
うつろは見えなくなり姿形や意匠ばかり意識されがちになる。
器に埋められたうつろを、器を鉈で割るように断ち切ることで、
発火させた作品。平らな皿が、下から逆転した軸物のようにじかに
たれ上がる「SUIHATSU」。
常に過去に引き摺られ、歩調を緩めがちな伝統に、鞭を入れ、
現在に跳躍させようとする。中村の俯き加減の目の鋭角は、伝統の
愛好層にも、現代美術を好む人々にも、共に刺激的だろう。」
                       大倉宏 美術評論家

 

 

中村卓夫
光琳を思わせる九谷様式の絵付けが美しい「花器」

 

 

 

3代目・中村梅山

祖父である初代・中村梅山や父、2代目梅山の住居でもあった
梅山窯には、現在「ギャラリー梅山」があり、中村卓夫と
中村康平、それぞれの住まいとアトリエとなっているそうです。

 

「キャラリー梅山」
石川県金沢市尾張町2-16-22  Tel. 076-222-0779
営業時間は朝の10時から夕方6時までで、お休みはないようですが
訪れる際は事前に電話で予約が必要とのことです。

 

「ギャラリー梅山」の地図を見て、これまた驚き。
何と数日前に御紹介した、版画家のクリフトン・カーフの
「かーふコレクション」のすぐそばではありませんか。

 

 

金沢の地図
「ギャラリー梅山」と「かーふコレクション」はこんなに近く

 

 

同じ金沢市ということは知っていましたが、かーふコレクション
(「『日本を愛し、日本人より日本人らしく生きた青い目の版画家』
クリフトン・カーフ」)
が金沢市主計町で、

 

ギャラリー梅山は金沢市尾張町ということでしたので、まさか
こんなに近くとは、地図を見るまでは思ってもいませんでした。
主計街と尾張町の端に、それぞれが位置しているのでしょうか?

 

ともあれ金沢に行った折には是非、両方を尋ねてみたいものです。
ちなみに、この地図の左上の方が金沢駅で、ここの少し下(南)
の方に行きますと兼六園があります。

 

赤坂の料亭「赤坂金龍」からクリフトン・カーフに辿り着き、
同じく赤坂の料亭「浅田屋」つながりで中村梅山からギャラリー梅山へ
そして両者は金沢で隣町のギャラリーとは、本当におもしろいですね。

 

 

赤坂の地図
「金龍」- – – -「かーふコレクション」
「浅田屋」- – – – 「ギャラリー梅山」

 

 

 

中村康平

中村卓夫の3年後、1948年に生まれたのが中村康平。
1973年に多摩美術大学彫刻科を卒業後は
陶芸による前衛的なオブジェを次々に発表します。

 

ニューヨークのメトロポリタン美術館のコレクションに
なるなど、彼の作品は国内外で高い評価を受けました。

 

しかしその後、彼は製作の軸足を茶碗作りに移します。
茶碗づくりは古い器の「写し」から始め、先人たちの
心を汲み、茶碗の本質に迫るための精進を重ねました。

 

 

 

中村康平「赤楽茶碗」

 

 

 

「王道を歩いてみようと思った」

そこから生まれてきた茶碗の数々は、とても魅力的ではありますが
茶陶となると、俄然お値段が張ってしまうのが常のこと。
私には手の届かないものになってしまったのは残念です。

 

前衛陶芸の八木一夫は「茶盌もオブジェでっせ」という
言葉を残しているそうですが、いわれて見ればその通り。

 

2008年に行われた「明日をつくる建築家のために」
と題するセミナーの中で、中村康平は
「王道を歩いてみようと思った」との言葉を聴衆に伝えています。

 

 

中村康平

 

 

 

「もし文化のない街に育っていたら」

つい1カ月前の2017年の2月に出版された松任谷由実の本
『ユーミンとフランスの秘密の関係』(Cccメディアハウス)
には中村康平のこんな言葉が載っています。

 

「僕は長らく現代美術をやっていました。
が、真なるアヴァンギャルドとは、インターナショナルであるため
には、と考えたとき、伝統あるものに立ち返る必然性に迫られました。
それでこの街に戻り、茶の湯の茶碗をつくり始めたのです」

 

また、父である中村梅山からは何も受け継がなかったが、
もし文化のない街に育っていたら、ものをつくることはしてなかった
ともおっしゃっていらしたそうです。

 

 

中村康平「赤楽茶碗」

 

 

 

「父からは何も受け継がなかった」

父親から陶芸を学ぶことはもちろん、大人になるまで
父の仕事にはあまり興味もなかったのかもしれませんし
何より彼の作品は、父親の模倣ではありません。

 

中村康平の「父である中村梅山からは何も受け継がなかった」
という言葉は確かに事実には違いないでしょう。

 

ではありますが、親の顔も知らずに育ったというような事情が
あれば別ですが、一つの家で家族として暮らしていた時の中で
何らかの影響は受けていたのではないだろうかという気もします。

 

 

 

 

それは遺伝子ということではありません。
手先の器用さや性格は遺伝すると思っていますが、残念ながら
才能は遺伝しないのではないかと私は考えています。

 

そういえば、父親も祖父も陶芸家という友達がいるのですが
彼女は「親子だからといって才能が伝わるものではない」
という言葉をよく口にしていました。

 

遺伝ではないけれど、環境という言葉ともちょっと違うような。
もっと軽くもあり、同時に決定的でもある空気のように存在しているもの
の中で彼らは育ったのではないかと思うのは穿ち過ぎているでしょうか。

 

 

 

 

 

親子なの?

おそらく10年以上前のことだったと思うのですが、友人が
「先週、中村卓夫の展覧会を見て来た」と言ったことがありました。
(実は中村卓夫だったかちょっと自信がないのですが、多分)

 

私が「中村卓夫のお父さんが作った器がこれよ、中村梅山」というと
彼女はかなり驚いた顔をしながら、私が手にした器を凝視。
その器と展覧会で見た作品が彼女の中であまり結びつかないようでした。

 

その時に見た中村卓夫の作品が、少なくとも父・中村梅山の個性を
なぞったようなものではなかったことは、彼女の表情から明らかでした。

 

 

 

 

 

梅の庭

祖父も父も、三人兄弟の全てが陶芸家。
門外漢の私にはよくわからないことではありますが、恵まれた環境
といえる一方、かなり厳しい状況ともいえるような気もします。

 

梅の木のたくさんある庭に作られた梅山窯。
そこで初代・梅山が生まれ、2代目・梅山が育ってゆき、そして今、
枝分かれした梅山の子息が、それぞれの個性で思う存分咲き誇っている。

 

「売り家と唐様で書く三代目」などと揶揄されたりするほど三代目と
いうのは難しいようですが、梅山家の三代目である三兄弟はそれぞれが
ご自分の道を見つけて極めていらっしゃる様は驚くばかりです。

 

馥郁とした香りを放ちつつ、気品のある清楚な佇まいの梅の花。
梅の庭で育まれた「中村錦平」「中村卓夫」「中村康平」は
21世紀の初め、三者三様の作品を花開かせています。

 

スポンサードリンク