モーツァルトと「魔笛」

「あぷりのお茶会」へようこそ!

 

 

 

 

 

モーツァルトの一生

モーツァルトは、1756年1月27日
ザルツブルグに生まれました。

 

生誕250年の様々な記念行事が、2006年に行われた
のは、まだ皆さんの記憶に新しいのではないでしょうか。

 

ザルツブルクの宮廷作曲家でヴァイオリニスト
であった父・レオポルト・モーツァルトと、
母・アンナ・マリーア・ペルトルの七番目の
末っ子として生まれたヴォルフガング。

 

 

 

 

他の6人のきょうだいのうち成長したのは、マリーア・
アンナという五歳上のお姉さんだけでした。

 

「神童」といえばモーツァルトというくらい
彼の神童ぶりは有名ですが、3歳の時からチェンバロ
を弾き始め、5歳の時には最初の作曲をしたといいます。

 

幼くして父とともに、音楽家として宮廷に仕えながら
親子はウィーン、パリ、ロンドン等 に演奏旅行に行き
より良い就職先を探しました。

 

 

 

 

残念ながら、それは成功しませんでしたが、そんな旅行
の一つ、1762年10月13日、ウィーンのシェーンブルン
宮殿で、
マリア・テレジアの御前演奏の時のこと。

 

転んでしまったモーツァルトに手を差し出した7歳の
マリー・アントワネット(当時はマリア・アントニア)に
プロポーズをしたというのは、あまりに有名なエピソード。

 

25歳になったモーツァルトは1781年、ウィーンに
定住してフリーの音楽家となり、翌年 に
コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚をしています。

 

 

 

 

1786年5月1日、オペラ『フィガロの結婚』K.492を
ブルク劇場で初演し、翌年10月には、オペラ
『ドン・ジョヴァンニ』K.527を作曲します。

 

そして、プラハエステート劇場で初演と
大活躍をしながらも、この頃からモーツァルトは
借金の依頼を頻繁にするようになりました。

 

翌1788年には「3大交響曲」(交響曲第39番、
第40番、第41番)を作曲しています。

 

 

 

 

当時はやり出した、数曲を一緒にまとめた楽譜の
出版をしたのも、経済的な理由のためのでした。

 

ちなみにこの3曲は、たった3ヶ月間で
作曲したということです(!)。

 

晩年も近くに、借金依頼の手紙が残されて
いる事実には心が痛みます。

 

 

 

 

彼の収入の激減の理由は、彼の品行の悪さが原因とも、
彼の才能を怖れたサリエリ等の影響ともいわれています
が、両方が相まってのことだったかもしれませんね。

 

彼に問題があったことは事実でしょうし、
そして相手がサリエリかどうかは別としても
彼のような才能のある人間に対しての嫉妬、
妬みが渦巻くのも常のこと。

 

それらの渦巻きを、かたちとして現れやすく
してしまったのが、彼の品行の悪さだった
ような気がするのです。

 

 

 

 

1790年1月、オペラ『コジ・ファン・トゥッテ
(女はみなこうしたもの)』K.588を初演。

 

1791年9月30日、シカネーダーの一座のために
ジングシュピール『魔笛』K.620を作曲・初演。

 

9月にはすでに体調を崩し、薬を服用しながらも、
モーツァルトは自分の残り時間の少なさを
知っていたかのように、これ以外にも精力的に
仕事をこなしています。

 

 

 

 

そして……12月5日、死去35歳。

 

死の床でも、その日の「魔笛」上演の進行時間を
気にしていたといい、もう一度「魔笛が聞きたい」
と言ったということです。

 

6人の子のうち2人の男の子が成人しましたが、
彼らに子どもがいないので、直系の子孫はいません。

 

 

ウィーンの中央墓地にあるモーツァルトのお墓

 

 

その上、モーツァルトの本当の埋葬場所
も現在のところ、わかってはいません。

 

現在ウィーンの中央墓地にある彼のお墓は
あとから作られたものだからです。

 

 

 

 

 

ローゼンタール〈魔笛〉に遊ぶ人々
   ~天衣無縫な永遠の子どもたち~

ここではモーツァルトのオペラを中心にみてみま
したが、〈魔笛〉は本当に最後の作品なんですね。

 

しかし死の2ヶ月前に初演されたとは思えないほど
オペラ「魔笛」は明るく、軽快です。

 

というより死の間近だったからこその
透明感のある明るさなのかもしれませんが。

 

 

 

 

屈託のない突き抜けた明るさ、軽みこそ
モーツァルトの本質だったのではないか
と私には思われます。

 

自ら指揮をした「魔笛」の初演では
シカネーダーと舞台の上でふざけあうという
やんちゃぶりも見せたといいます。

 

時にはふざけすぎる子どものような天才モーツァルト、
彼の側には支えてマネージメントをしてあげる
大人が必要だったのでしょう。

 

 

 

 

幼い頃からヴァイオリンの音高の、ほんの僅かな
違いを指摘したり、一度聴いた曲の再現性など
彼の天才ぶりは枚挙にいとまがありません。

 

彼にとっては、音楽と、音楽の才能、
それが全てだったのです。

 

本当のお墓の場所がわからないことを
もし今モーツァルトに聞いたとしたら、

「そんなことはどっちでもいいことさ。
 僕の曲が残っていることのほうが
 ずっと重要だよ。」

と言いそうな気さえします。

 

 

 

 

私は、ローゼンタール〈魔笛〉の金箔で飾られた、
レリーフの楽しげな人物を見るたびに思うのです。

 

森の中での楽しいさざめきを……。
小鳥の歌と音楽と、終止絶えることのない笑い声を。

 

子どもではないけれど、さりとて大人でもない人々。
清らかな天使たちというわけでもなく、
品行方正な人格者でもない
…..「天衣無縫な永遠の子どもたち」。

 

まるでモーツァルト、その人のようだと。

 

そしてそれは、ローゼンタール〈魔笛〉を
つくりだした、ビョルン・ビンブラッド自身
でもあるのかもしれませんね。

 

 

 

 

ローゼンタール〈魔笛〉ならではの、おしゃれな
プレートの裏にゴールドで美しく描かれたドイツ語の
歌詞は、「魔笛」第2幕、24場と29場の台詞です。

 

 

(画像は準備中です、ごめんなさい)

 

24. Auftritt:

Weib: Und wenn du mir versprichst, mir ewig treu

zu bleiben  dann sollst du sehen, wie zärtlich

dein Weib dich lieben wird.

Papageno: Ei, du zaertliches Naerrchen!

Weib: O, wie will ich dich umarmen, dich liebkosen,

dich an mein Herz druecken!

2. Aufzug 29. Auftritt:

Papageno: Nun, so sei mein liebes Weibchen!

Pagagena: Nun, so sei mein Herzenstaeubchen!

 

お皿のまわりにぐるっと、ビョルン・ビンブラッド
の筆で書かれた歌詞です。

 

そして中央の真ん中が、ローゼンタール社のマーク。
上が〈魔笛〉のドイツ語「Die Zauberflore」。
一番下はビョルン・ビンブラッドのサインです。

 

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唐津焼「中里太郎衛門」

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

 

 

唐津市北波多で生まれた唐津焼

肥前鍋島藩の鍋島軍が朝鮮出兵の際に
連れてきた朝鮮陶工により、日本初の磁器
が作られるようになる少し前に、やはり
朝鮮陶工の手によって唐津焼が作られていました。

 

こちらの唐津焼は、朝鮮出兵以前に岸岳
(きしだけ)城主の波多氏が朝鮮から連れてきた
陶工によって焼かれるようになったもので
有田焼のような磁器ではなく陶器。

 

岸岳を治めていた波多氏の、17代当主・波多親
(ちかし)は豊臣秀吉の不興を買いましたが、佐賀
鍋島藩の鍋島直茂の取りなしにより事なきを得ました。

 

しかし1594(文禄3)年、所領を没収の上、常陸に配流。
平安時代末期より戦国時代まで500年以上にわたって
活躍した波多氏は改易されることになってしまったのです。

 

 

 

 

 

金ケ江三兵衛が磁器の原料を発見

これにより岸岳古唐津の陶工たちは、秀吉の朝鮮出兵時に
連れてこられた陶工たちと一緒に仕事をすることになり
松浦古唐津、多久(たく)古唐津、武雄(たけお)古唐津、
平戸(ひらど)古唐津を形成してゆきました。

 

朝鮮からの陶工の中心的存在であった金ケ江三兵衛
(李参平・りさんぺい)は多久古唐津を焼成していました
が、1616年(元和2)年、有田泉山で磁鉱石を発見します。

 

これをきっかけに金ケ江三兵衛は磁器の有田焼を
作るようになり、多久古唐津と平戸古唐津は消滅。

 

そして、松浦古唐津は唐津藩の御用窯として、
武雄古唐津の方は日常雑器を焼く民窯となりました。

 

 

「染付山水図大鉢( そめつけさんすいずおおばち」
初期伊万里 高  12.5cm 口径  44.8cm 底径  12.9cm
重要文化財(写真/「文化遺産オンライン」)

 

 

 

「一楽、二萩、三唐津」

その後、唐津焼は全国に流通して西日本を
代表する焼物となり、西日本では焼物を
「からつもの」と呼ぶほどまでになりました。

 

日常雑器としては勿論のこと、茶陶として古来から
茶人に愛された器でもあり、また楽焼や萩焼と並んで
「日本三大茶陶器」の一つにも数えられています。

 

お茶の世界では抹茶茶碗の格付けとして
「一楽、二萩、三唐津」という言葉があります。
「一井戸、二萩、三唐津」ともいうようですが
いずれにせよ唐津焼は抹茶茶碗としては
王道のお茶碗なのですね。

 

ろくろ、たたき、たたら、押し型等の技法で
作られた唐津焼は、掘り、刷毛目、象嵌(ぞうがん)、
搔(か)き落としの装飾が施され
釉薬をかけて約1300度の高温で焼かれます。

 

土の味わいに描かれた野趣に富む模様の唐津焼。
現在、唐津焼の窯は唐津市内に70ほどあるということです。

 

 

 「赤樂茶碗 銘熟柿」17世紀前半 本阿弥光悦
(写真/「サントリー美術館」)

 

 

 

中里太郎衛門家

唐津焼の正確な歴史はわかっていないようです。
かなり前のことになりますが、私は唐津焼の
中里太郎衛門の窯を訪れたことがありました。

 

(中里太郎衛門窯
 〒847-8171 佐賀県唐津市津田3-6-29
 tel:0955-72-8171 fax:0955-73-3284
 mail:tarouemon@nifty.com)

 

唐津焼の中里太郎衛門の家は、江戸初期に
中里又七が作陶を始めて以来、唐津焼を
作り続けている家系で、現在は14代目。

 

 

 

 

 

御用焼物師 中里家の歴史

初代の中里又七は生没年が不明ですが
肥前国唐津藩の御用焼物師でした。

 

5代目・中里喜平次が記した古文書によりますと
又七は同じ高麗人の矢作や彦右衛門達と文禄年間
(1592〜1596)に伊万里市に田代窯を作った後、
大川源窯に移ったといわれています。

 

又七達が唐津藩主・寺沢志摩守広高の御用窯に
任じられたのは1615(元和元)年のこと。
又七は椎ノ峰窯へ移って御用焼物師となりました。

 

 

「叩き唐津南蛮耳付壷」13代・中里太郎衛門

 

 

初代・又七     生没不詳
2代・太郎衛門 生没不詳
3代・甚右衛門 生年は不詳、1703(元禄16)年に没。
4代・太郎衛門 生年不詳で、1744(延享元)年に没。
5代・喜平次   1691(元禄4)年〜1757(宝暦7)年
6代・太郎衛門  生年不詳〜1786(天明6)年
7代・陶司    生年不詳〜1823(文政6)年
8代・尚徳    生年不詳〜1827(文政10)年
9代・太郎衛門  生年不詳〜1872(明治5)年
10代・一陶     生年不詳〜1879(明治12)年
11代・太郎衛門 1854(安政元)年〜1924(大正13)年
12代・太郎衛門 1895(明治28)年〜1985(昭和60)年
13代・太郎衛門 1923(大正12)年〜2009(平成21)年

 

 

 

 

 

古唐津の技法の復活

12代・太郎衛門、本名重雄が生まれたのは、唐津藩の
御用窯としての庇護を失い衰退していた時代でした。

 

そのような中、古唐津の技法を復活させる
ことに成功し、唐津焼は勢いを取り戻します。

 

1976(昭和51)年、12代・中里太郎衛門は
重要無形文化財「唐津焼」の保持者
(人間国宝)に認定されました。

 

 

 「斑唐津茶碗」12代・中里太郎衛門

 

 

 

14代・中里太郎衛門

当代の14代・中里太郎衛門は、1957(昭和32)年に
13代・太郎衛門の長男として佐賀に生まれました。
本名は忠寛。

 

1979(昭和54)年に武蔵野美術大学造形学部彫刻学科を
卒業、1981(昭和56)年、同大学院を卒業しました。

 

1983(昭和58)年に、多治見陶磁器意匠研究所釉薬科、
国立名古屋工業技術試験所釉薬科を修了後に
13代・中里太郎衛門陶房で作陶に入り、

 

1990(平成2)年の日展での特選を受賞を
はじめ数々の賞を受賞しています。
2002(平成14)年、14代・中里太郎衛門を襲名。

 

また、12代・太郎衛門の三男の中里重利(1930〜2015)、
同じく12代・太郎衛門の五男の中里隆(1937〜)、
中里重利の長男である中里嘉孝(1958〜)という
一族の方が陶芸家として活躍していらっしゃいます。

 

 

「唐津藍紋様二彩掻落し 馬上杯」14代・中里太郎衛門

 

 

 

生まれた時からの宿命

幼い頃から粘土遊びなどに親しんで、
「陶芸家になることは、生まれたときからの宿命でした」
と語る14代・中里太郎衛門さんですが、この「宿命」とは
逃れがたい重い定めという意味ではないそうです。

 

14代を継ぐというプレッシャーは「全然ありません」、
「作陶をやっていて、つらいと感じたことはない。
むしろ楽しいことばかりです」と続けます。

 

中国で焼物と限らずに絵画、彫刻などの素晴らしい作品に
触れた時の感想を、このように伝えてくれました。
「技術とかではなく、見る者に訴える力が画然と違う」
「昔の物に負けるものかという意気込みがわきます」
              (技見聞録「佐賀新聞」

 

 

「松図襖」狩野尚信 17世紀 佐賀藩鍋島家・徴古館

 

 

 

「窯もの」と「作家もの」

ところで、私が中里太郎衛門陶房に行った時のことですが、
残念ながら作品は一つも手にすることができませんでした。

 

陶房には何人もの職人さんたちが器を作っていますが、
それらは「中里太郎衛門窯のもの」と呼びます。
器の裏には中里太郎衛門窯で作られたという窯印
である「三ツ星」の商標がついています。

 

それに対して太郎衛門さんご自身の作品は「作家もの」
と呼んで区別していますが、欲しかった「作家もの」
のお抹茶茶碗にはとても手が届きませんでした。

 

 

「銹絵染付松樹文茶碗」18世紀前半 尾形乾山
(写真/「サントリー美術館」)

 

 

 

中里太郎衛門陶房で頂いた大きなお土産

ただ品物としては1つも手にすることはできません
でしたが、実は大きなお土産をいただきました。
それは、陶房の庭の様子です。

 

私が訪れたのは数十年前のことですので
現在はまた違っているのかもしれませんが
その当時は、一般の私たちが入れるお庭には
松の木が植えられていました。

 

松の木もではなく、松の木だけが植えられて
いるその潔い美しさに私は心を奪われました。

 

もし自分の庭を持つことが叶うならば、大好きな松に梅に
桜にクチナシ……、と夢と妄想は果てし無く膨らみます。

 

ですが、中里太郎衛門陶房のお庭を拝見して
私も松だけの庭にする、と心に決めました。

 

 

 

 

 

「花のほかには 松ばかり」

能楽の「道成寺」の「花のほかには松(待つ)ばかり」
という謡を思い出します。
「器のほかには松ばかり、器の庭には松ばかり」

 

もちろんこの決意(?)は誰にも告げたことはありません。
何十年もの月日が過ぎた今、自分に突っ込んでみましょう。

 

「固い決意をしたって意味なかったじゃない!
お庭持てなかったのだから」と。

 

でもあの美しさは今でも目と心に残っているからいいかな。
夢は実現せずに、松(待つ)ばかり……。

 

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須田青華 加賀、山代温泉の「青華窯」

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加賀の「精華窯」

先日、石川県金沢市の陶芸家・中村梅山の器をご紹介
しましたが、そういえばこれも同じ石川県のもの
と思い出したのがこの器、4代・須田青華の
「色絵風船向付」です。

 

こちらは石川県ですが中村梅山の梅山窯のある
金沢ではなく、加賀市の山代温泉にある窯です。

 

1906(明治39)年に青華窯を築いてから
染付や祥瑞(しょんずい)、呉須赤絵、古赤絵、
古九谷などの作品を作り出しています。

 

「須田青華
〒922-0256 石川県加賀市山代温泉東山町4
Tel. 0761-76-0008  Fax. 0761-76-0988」

 

 

 

九谷焼窯元「精華」

 

 

写真の左の建物の1階の屋根の上にある看板には
「九谷焼窯元」と、右から書いてあります。

 

そして写真ですとちょっとわかりにくいのですが
その真下のガラス戸の上にあるのが下の写真にある
看板で「青華」とこれも右側から書かれています。

 

これは北大路魯山人の作品。
一度は陶芸作家の道から離れようとした中村梅山の
御長男・中村錦平が、再び陶芸家を目指すきっかけ
ともなったのが北大路魯山人の作品でした。

 

 

 

須田青華の窯元に掲げられている看板「青華」北大路魯山人作

 

 

 

ということで北大路魯山人というと、つい陶芸家と
思ってしまいますが、彼は元々は篆刻家で、このような
篆刻文字の看板や印鑑を掘る仕事が本業でしたが、
とはいえ魯山人を説明する肩書きは1つでは足りません。

 

美食家でも有名な魯山人は、今はもうなくなってしまい
ましたが、千代田区永田町に「星丘茶寮(ほしがおか
さりょう)」という有名な料亭の顧問兼料理長
としても活躍していました。

 

「星丘茶寮」は政界、財界及び文化人の
多くの顧客をもっていた料亭。

 

料理が超一流だったのみいうにおよばず、調理場を
お客さんに公開し、料理長にネクタイ着用を
義務付けたり、仲居さんにお酌をさせないなど
当時の料亭の枠におさまらない料亭だったようです。

 

 

北大路魯山人「伊賀釉四方平鉢」

 

 

同様に、北大路魯山人自身も篆刻家や陶芸家、
料理人等々、そのどれか一つにはおさまる
ことのない芸術家でもありました。
その魯山人の陶芸の手ほどきをしたのが
初代・須田青華。

 

私はこの「青華」の看板を作ったのは魯山人、と
聞いた時に最初は陶芸を教えてもらったお礼として
魯山人が看板を作ったのかと思ったのですが
そうではなく順番が逆だったようです。

 

山代温泉の「吉野屋」の主人・吉野治郎の別荘に
滞在していた魯山人がいくつか頼まれた仕事の
うちの一つが、青華窯のこの看板でした。

 

 

北大路魯山人の篆刻看板「青華」

 

 

魯山人は1915(大正4)年の11月に、出来上がった
「青華窯」の篆刻看板を須田青華のもとに届けます。
期待にたがわない素晴らしい出来に
須田精華は大満足。

 

その御褒美として魯山人は
青華窯で学ぶことを許されます。

 

書はお手のものである魯山人も、上絵付けには苦労
したようでしたが、生来の美的感覚の素晴らしさ
で周囲を驚かせる作品を作りあげます。

 

別荘の主である吉野治郎は
「この男、ただものではない」と。

 

また初代・須田青華は、この時に魯山人の
類い稀な才能を見抜いたといわれています。

 

一方、魯山人の方はといえば後に、初代・青華を
「陶芸界における〈独歩〉の観あり」と称えたととか。

 

 

「星丘茶寮」は現在、ザ・キャピトル東急ホテルになっています

 

 

 

初代・須田青華 1862~1927年 

初名、与三郎といった初代・須田菁華は
1862(文久2)年、金沢の商家に生まれました。
この年はペリー来航の9年後にあたります。

 

1880(明治13)年に石川県勧業試験場陶画部を
卒業後、京都に出て製陶の研究を重ね
3年後に九谷陶器会社に入社。

 

上絵付けに従事し、3年後の1885
(明治18)年には画工長となります。

 

ところが会社が解散してしまい、1891(明治24)年
に山代温泉に錦窯(きんがま)を築いた後、
1906(明治39)年には同じく山代温泉に自家用の
登窯「青華窯」を築いて独立することになりました。

 

 

 

 

 

「青華」の名前は「青花」から

須田青華の「青華」とは、白磁にコバルトで絵付け
を施した磁器の「青花」からきている名前です。
日本では「染付」と呼んでいるもののこと。

 

元代に、西方ペルシャから輸入されたコバルトを使用し
美しい白磁に酸化コバルトで絵付けをした後に
透明釉を掛け、高火度で焼成します。
鮮やかな青い色で複雑で重厚な模様が描かれています。

 

官窯の永楽、宣徳年間のものにも劣らない巧みなものを
多く残した、初代・須田青華は1927(昭和2)年に、
文久、元治、慶応、明治、大正、昭和と
6つの時代を生きた後に亡くなりました。

 

 

4代・須田青華

 

 

初代の須田青華の子である2代・青華は1892(明治25)
年に生まれ、1971(昭和46)年に亡くなっています。
本名は吉次。

 

本名は清治といった3代・青華は、1916(大正5)年
に誕生し、1981(昭和56)年に没しています。

 

「身から遠いものは移ろいで行く。
逆に口の形が人間変わらないのと同じように、
口に近いもの、食べ物は変わらないだろう。
だからこれまでもこれからも、
自分は同じものを作り続けるつもりだ」
と3代・青華は語ったといわれます。

 

 

溜池山王駅アート「色絵茄子大鉢」
ギャラリー「壷中居(こちゅきょ)」(東京)所蔵作品

 

 

 

当代、4代・青華

その3代・青華の子が現在の4代・須田青華です。
本名は千二郎、1940(昭和15)年生まれ。

 

金沢美術工芸大学の洋画家を卒業後に
祖父と父に作陶を学びました。

 

1981(昭和56)年、3代・青華の没後、4代を襲名。
4代・青華は、初代からの手仕事を
大切に引き継いでいます。

 

地元の土を使って、電動ではない足で動かす蹴轆轤
(けりろくろ)で形作ったものを、磁器では珍しい
といわれる松薪の登り窯で焼くという
古九谷発祥時の工法を、現在も守り続けています。

 

 

須田青華「色絵かぶら文茶碗」

 

 

4代・青華はこの過程を「創作」ではなく「ものづくり」
と表現し「うちの器は健康なんです。だから丈夫で
使い勝手がよく、毎日楽しめるのです」と語ります。

 

観賞用だけではなく、日々の暮らしにとけ込む
「用の美」であり「色絵かぶら文茶碗」のゆったり
とした大らかさは ,まさにその言葉通り。

 

赤い色は,紅殻を丹念にすることで
生み出される赤だといいます。

 

この他には、青、緑、黄色、紫、紺など
はっきりとした色は、溢れ出る生命力を
感じさせる九谷の色でもあります。

 

 

須田青華「色絵風船向付」

 

 

 

「色絵風船向付」

それらの九谷の色が勢揃いして
楽しげなハーモニィーを奏でているのが
かなり前に手に入れたこの色絵風船向付。
「向付(むこうづけ)」というのは、小鉢のことです。

 

今、調べてみても見つからないのですが、以前は目黒に
こじんまりとした東京店があったような記憶があります。
私はそこで「色絵風船向付」を5つ購入しました。

 

残念ながら私は、石川県加賀市の「青華窯」に
お邪魔したことはありません。

 

この色絵風船向付の広い方を二つあわせて
まさに紙風船の形にした花瓶もあるのですが
なぜか私はこちらの方が好き。
紙風船の箸置きもありますよ。

 

 

 

 

「青華窯」の窯元では、何十畳ものお部屋には沢山の
器があるようですが、それでも現在ないものを頼む
部場合は1年ほど待たなくてはならないそうです。
購入された方は、待つのもまた楽しいとおっしゃいます。

 

また4代・青華は
「手の込んだものを『これは手が込んでいるのだ』と
見せつけるようではダメ」ともおっしゃいます。
本当は凄いものを、軽やかにさりげなく作り上げる。

 

「私どもが作るのは、日常で使う手工芸。
器ばかりが立派で、気にかかるのは
本意ではありません。
伝統を継承する職人として仕事は確かにこなし
ながら、世に生み出す姿は謙虚でありたい」

 

と語る4代・青華は、古九谷が発祥した江戸前期
からの古い絵柄を参考にしつつも、新しいデザイン
を多く作り出しています。

 

「気兼ねなく自然に、今の感覚で
自由に使っていただきたいです」

 

古い伝統的な工法を大切にし、古九谷の絵柄を
参考にしながらも現代のデザインを作り出し、
日々の生活で使われることを望む作者の作り出す器。

 

「青華窯」の器は「辻留」でも
多く使われているようです。

 

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