須田青華 加賀、山代温泉の「青華窯」

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加賀の「精華窯」

先日、石川県金沢市の陶芸家・中村梅山の器をご紹介
しましたが、そういえばこれも同じ石川県のもの
と思い出したのがこの器、4代・須田青華の
「色絵風船向付」です。

 

こちらは石川県ですが中村梅山の梅山窯のある
金沢ではなく、加賀市の山代温泉にある窯です。

 

1906(明治39)年に青華窯を築いてから
染付や祥瑞(しょんずい)、呉須赤絵、古赤絵、
古九谷などの作品を作り出しています。

 

「須田青華
〒922-0256 石川県加賀市山代温泉東山町4
Tel. 0761-76-0008  Fax. 0761-76-0988」

 

 

 

九谷焼窯元「精華」

 

 

写真の左の建物の1階の屋根の上にある看板には
「九谷焼窯元」と、右から書いてあります。

 

そして写真ですとちょっとわかりにくいのですが
その真下のガラス戸の上にあるのが下の写真にある
看板で「青華」とこれも右側から書かれています。

 

これは北大路魯山人の作品。
一度は陶芸作家の道から離れようとした中村梅山の
御長男・中村錦平が、再び陶芸家を目指すきっかけ
ともなったのが北大路魯山人の作品でした。

 

 

 

須田青華の窯元に掲げられている看板「青華」北大路魯山人作

 

 

 

ということで北大路魯山人というと、つい陶芸家と
思ってしまいますが、彼は元々は篆刻家で、このような
篆刻文字の看板や印鑑を掘る仕事が本業でしたが、
とはいえ魯山人を説明する肩書きは1つでは足りません。

 

美食家でも有名な魯山人は、今はもうなくなってしまい
ましたが、千代田区永田町に「星丘茶寮(ほしがおか
さりょう)」という有名な料亭の顧問兼料理長
としても活躍していました。

 

「星丘茶寮」は政界、財界及び文化人の
多くの顧客をもっていた料亭。

 

料理が超一流だったのみいうにおよばず、調理場を
お客さんに公開し、料理長にネクタイ着用を
義務付けたり、仲居さんにお酌をさせないなど
当時の料亭の枠におさまらない料亭だったようです。

 

 

北大路魯山人「伊賀釉四方平鉢」

 

 

同様に、北大路魯山人自身も篆刻家や陶芸家、
料理人等々、そのどれか一つにはおさまる
ことのない芸術家でもありました。
その魯山人の陶芸の手ほどきをしたのが
初代・須田青華。

 

私はこの「青華」の看板を作ったのは魯山人、と
聞いた時に最初は陶芸を教えてもらったお礼として
魯山人が看板を作ったのかと思ったのですが
そうではなく順番が逆だったようです。

 

山代温泉の「吉野屋」の主人・吉野治郎の別荘に
滞在していた魯山人がいくつか頼まれた仕事の
うちの一つが、青華窯のこの看板でした。

 

 

北大路魯山人の篆刻看板「青華」

 

 

魯山人は1915(大正4)年の11月に、出来上がった
「青華窯」の篆刻看板を須田青華のもとに届けます。
期待にたがわない素晴らしい出来に
須田精華は大満足。

 

その御褒美として魯山人は
青華窯で学ぶことを許されます。

 

書はお手のものである魯山人も、上絵付けには苦労
したようでしたが、生来の美的感覚の素晴らしさ
で周囲を驚かせる作品を作りあげます。

 

別荘の主である吉野治郎は
「この男、ただものではない」と。

 

また初代・須田青華は、この時に魯山人の
類い稀な才能を見抜いたといわれています。

 

一方、魯山人の方はといえば後に、初代・青華を
「陶芸界における〈独歩〉の観あり」と称えたととか。

 

 

「星丘茶寮」は現在、ザ・キャピトル東急ホテルになっています

 

 

 

初代・須田青華 1862~1927年 

初名、与三郎といった初代・須田菁華は
1862(文久2)年、金沢の商家に生まれました。
この年はペリー来航の9年後にあたります。

 

1880(明治13)年に石川県勧業試験場陶画部を
卒業後、京都に出て製陶の研究を重ね
3年後に九谷陶器会社に入社。

 

上絵付けに従事し、3年後の1885
(明治18)年には画工長となります。

 

ところが会社が解散してしまい、1891(明治24)年
に山代温泉に錦窯(きんがま)を築いた後、
1906(明治39)年には同じく山代温泉に自家用の
登窯「青華窯」を築いて独立することになりました。

 

 

 

 

 

「青華」の名前は「青花」から

須田青華の「青華」とは、白磁にコバルトで絵付け
を施した磁器の「青花」からきている名前です。
日本では「染付」と呼んでいるもののこと。

 

元代に、西方ペルシャから輸入されたコバルトを使用し
美しい白磁に酸化コバルトで絵付けをした後に
透明釉を掛け、高火度で焼成します。
鮮やかな青い色で複雑で重厚な模様が描かれています。

 

官窯の永楽、宣徳年間のものにも劣らない巧みなものを
多く残した、初代・須田青華は1927(昭和2)年に、
文久、元治、慶応、明治、大正、昭和と
6つの時代を生きた後に亡くなりました。

 

 

4代・須田青華

 

 

初代の須田青華の子である2代・青華は1892(明治25)
年に生まれ、1971(昭和46)年に亡くなっています。
本名は吉次。

 

本名は清治といった3代・青華は、1916(大正5)年
に誕生し、1981(昭和56)年に没しています。

 

「身から遠いものは移ろいで行く。
逆に口の形が人間変わらないのと同じように、
口に近いもの、食べ物は変わらないだろう。
だからこれまでもこれからも、
自分は同じものを作り続けるつもりだ」
と3代・青華は語ったといわれます。

 

 

溜池山王駅アート「色絵茄子大鉢」
ギャラリー「壷中居(こちゅきょ)」(東京)所蔵作品

 

 

 

当代、4代・青華

その3代・青華の子が現在の4代・須田青華です。
本名は千二郎、1940(昭和15)年生まれ。

 

金沢美術工芸大学の洋画家を卒業後に
祖父と父に作陶を学びました。

 

1981(昭和56)年、3代・青華の没後、4代を襲名。
4代・青華は、初代からの手仕事を
大切に引き継いでいます。

 

地元の土を使って、電動ではない足で動かす蹴轆轤
(けりろくろ)で形作ったものを、磁器では珍しい
といわれる松薪の登り窯で焼くという
古九谷発祥時の工法を、現在も守り続けています。

 

 

須田青華「色絵かぶら文茶碗」

 

 

4代・青華はこの過程を「創作」ではなく「ものづくり」
と表現し「うちの器は健康なんです。だから丈夫で
使い勝手がよく、毎日楽しめるのです」と語ります。

 

観賞用だけではなく、日々の暮らしにとけ込む
「用の美」であり「色絵かぶら文茶碗」のゆったり
とした大らかさは ,まさにその言葉通り。

 

赤い色は,紅殻を丹念にすることで
生み出される赤だといいます。

 

この他には、青、緑、黄色、紫、紺など
はっきりとした色は、溢れ出る生命力を
感じさせる九谷の色でもあります。

 

 

須田青華「色絵風船向付」

 

 

 

「色絵風船向付」

それらの九谷の色が勢揃いして
楽しげなハーモニィーを奏でているのが
かなり前に手に入れたこの色絵風船向付。
「向付(むこうづけ)」というのは、小鉢のことです。

 

今、調べてみても見つからないのですが、以前は目黒に
こじんまりとした東京店があったような記憶があります。
私はそこで「色絵風船向付」を5つ購入しました。

 

残念ながら私は、石川県加賀市の「青華窯」に
お邪魔したことはありません。

 

この色絵風船向付の広い方を二つあわせて
まさに紙風船の形にした花瓶もあるのですが
なぜか私はこちらの方が好き。
紙風船の箸置きもありますよ。

 

 

 

 

「青華窯」の窯元では、何十畳ものお部屋には沢山の
器があるようですが、それでも現在ないものを頼む
部場合は1年ほど待たなくてはならないそうです。
購入された方は、待つのもまた楽しいとおっしゃいます。

 

また4代・青華は
「手の込んだものを『これは手が込んでいるのだ』と
見せつけるようではダメ」ともおっしゃいます。
本当は凄いものを、軽やかにさりげなく作り上げる。

 

「私どもが作るのは、日常で使う手工芸。
器ばかりが立派で、気にかかるのは
本意ではありません。
伝統を継承する職人として仕事は確かにこなし
ながら、世に生み出す姿は謙虚でありたい」

 

と語る4代・青華は、古九谷が発祥した江戸前期
からの古い絵柄を参考にしつつも、新しいデザイン
を多く作り出しています。

 

「気兼ねなく自然に、今の感覚で
自由に使っていただきたいです」

 

古い伝統的な工法を大切にし、古九谷の絵柄を
参考にしながらも現代のデザインを作り出し、
日々の生活で使われることを望む作者の作り出す器。

 

「青華窯」の器は「辻留」でも
多く使われているようです。

 

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「中村錦平」「中村卓夫」「中村康平」  梅の庭に咲き誇る三兄弟

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中村錦平

中村錦平、中村卓夫、中村康平三兄弟の祖父で
ある初代・中村梅山は大正初期に趣味が嵩じて
陶芸家の道に入った人でした。
その子どもが2代目・中村梅山です。

 

2代目・中村梅山の子として1935(昭和10)年に
生まれの錦平は、1956年に金沢市美術工芸大学の
彫塑科に入学したものの才能に疑問を感じ中退。

 

やきものを「作る側」ではなく、「使う側」に
立とうと考えて銀座にある日本料理の中島で
板前修行に入ります。
そこで彼は、北大路魯山人の存在に行き当たりました。

 

 

 

北大路魯山人「伊賀釉四方平鉢」

 

 

 

再び、やきものを志す

彼は父の手伝いをしながら
やきものの修行を始めます。

 

そして、1960年に現代日本陶芸展(朝日新聞社主催)
に初入選、翌1961年は、日展と日本現代美術工芸展
に入選を果たします。

 

1964年には、三菱銀行金沢支店での建築に
関する初仕事の後、1966年にソニービルで、
1998年は北陸放送会館に陶壁を作りました。

 

1969年にロックフェラー財団に
招聘されて、1年間欧米に滞在。
以後、活躍は世界的に広まっていきました。

 

 

 

中村錦平「粉引風白釉徳利」

 

 

 

「東京焼」

中村錦平は、御自身のやきものを
「東京焼」と呼んでいます。

 

やきものは普通、作る場所で採れた土を使いますが
彼は電話一本で手に入る、ビニール入りの粘土を
使って作品を作っているのだそう。

 

やきものの土台ともいうべき土がそうである
のみならず顔料や釉薬も特別なものではなく
誰でもカタログを見て簡単に取り寄せる
ことのできる市販品を使っているといいます。

 

このこだわりのなさには驚くばかりですが、一方
その無頓着さは自信の裏返しであるようにも思えます。

 

 

中村錦平(写真/「21世紀美術館」

 

 

 

「余計な遊びに徹して」

「東京焼・中村錦平展 1993〜94年」のカタログには
「東京ほど多種のテーマ、多様な素材の掘り出せる
場は他にない。
伝承なし、様式なし、愛陶家なしの地が
意欲を盛りあげる。」と。

 

また陶壁作品についてはこのように
語っていらっしゃいます。
「余計な遊びに徹して、空間を飾り、埋める事に
関心を持って、作品を作りたいと思っています」

 

「余計な遊びに徹して」という言葉が、何とも
魅力的な中村錦平は、赤坂のお隣にある
東京・青山に窯を構えています。
現在、多摩美術大学名誉教授。

 

 

 

 

 

中村卓夫(3代目・中村梅山)

中村錦平が誕生した10年後の1945年に
生まれたのが、中村卓夫です。

 

1978年、会社員を経た後の33歳になってから
父・中村梅山の元で陶芸を始めました。

 

1982年 名古屋工業試験場瀬戸分室で釉の研究
1984年 イタリア・国立ファエンツァ陶芸
   美術学校で学ぶ
1990年 和光 アートサロンにて個展を開催
2004年 WEDGWOOD「ジャパネスク」シリーズ製作
2013年 中村卓夫展 和光ホール
   「陶・もうひとつの琳派 」等々

 

作品は、ニューヨークのメトロポリタン美術館、
シカゴ美術館、金沢21世紀美術館等に、
オブジェ、花器等が所蔵されています。

 

 

中村卓夫(写真/「西福ギャラリーブログ」)

 

 

 

自分の道は「壊すこと」

卓夫が長年の製作の中で見つけた「自分の道」、
それは「壊すこと」。

 

やきものの材料である粘土を、投げ、きり、
ちぎるという動作を重ね、「作るのではなく、
壊すこと」から数々の作品が生まれてゆきます。

 

他人と同じことをしても意味がないという
彼の制作は、轆轤(ろくろ)を使わずに
タタラという伝統的な技法を用いるもの。

 

「粘土に自然に起こることを、見つけるのが
私の仕事です。
自然に動く表情、おもしろい瞬間を掴むんです」
と彼は説明します。  (「REVALUE NIPPON」

 

「ぎりぎり器」「すりぬける器」「浮遊する器」
と自由な器の個展を開催し、花器にも香炉にも、
自由自在に遊ぶことのできる「うつわ」を考えて
いたという彼は、ついに全く新しい形の
「うつわ」を見つけます。

 

 

中村卓夫「器になるコトをやめたうつわ」

 

 

 

「器になるコトをやめたうつわ」

それが「器になるコトをやめたうつわ」シリーズや
「箱になるのをやめたハコ」シリーズです。

 

「用」を離れ、作者の意図からも離れ、
「場」との関係を結んで表現することで
「うつわ」になる、新しい「うつわ」の世界。

 

「うつわはうつろに通じ、茶碗にせよ花器や皿類にせよ、
何かを保持する空隙を抱えたモノとして作られるが、
用途が一義的になるうちに、うつろは見えなくなり
姿形や意匠ばかり意識されがちになる。
器に埋められたうつろを、器を鉈で割るように
断ち切ることで、発火させた作品。平らな皿が、
下から逆転した軸物のようにじかにたれ上がる
「SUIHATSU」。
常に過去に引き摺られ、歩調を緩めがちな伝統に、
鞭を入れ、現在に跳躍させようとする。中村の俯き
加減の目の鋭角は、伝統の愛好層にも、現代美術を
好む人々にも、共に刺激的だろう。」
              大倉宏 美術評論家

 

 

中村卓夫
光琳を思わせる九谷様式の絵付けが美しい「花器」

 

 

 

3代目・中村梅山

祖父である初代・中村梅山や父、2代目梅山の
住居でもあった梅山窯には、現在「ギャラリー梅山」
があり、中村卓夫と中村康平、それぞれの住まいと
アトリエとなっているそうです。

 

「キャラリー梅山」
石川県金沢市尾張町2-16-22  Tel. 076-222-0779
営業時間は朝の10時から夕方6時までで、
お休みはないようですが、訪れる際は
事前に電話で予約が必要とのことです。

 

「ギャラリー梅山」の地図を見て、これまた驚き。
何と数日前に御紹介した、版画家のクリフトン・カーフ
の「かーふコレクション」のすぐそばではありませんか!

 

 

金沢の地図
「ギャラリー梅山」と「かーふコレクション」はこんなに近く

 

 

同じ金沢市ということは知っていましたが、
かーふコレクション(「『日本を愛し、日本人より
日本人らしく生きた青い目の版画家』クリフトン・
カーフ」)
が金沢市主計町で、

 

ギャラリー梅山は金沢市尾張町ということ
でしたので、まさかこんなに近くとは、地図を
見るまでは思ってもいませんでした。

 

主計街と尾張町の端に、それぞれが位置しているのか
否かはわかりませんが、ともあれ金沢に行った折には
是非、両方を尋ねてみたいものです。

 

ちなみに、この地図の左上の方が金沢駅で、ここの
少し下(南)の方に行きますと兼六園があります。

 

赤坂の料亭「赤坂金龍」からクリフトン・カーフに
辿り着き、同じく赤坂の料亭「浅田屋」つながりで
中村梅山からギャラリー梅山へ、そして両者は金沢で
隣町のギャラリーとは、本当におもしろいですね。

 

 

赤坂の地図
「金龍」- – – -「かーふコレクション」
「浅田屋」- – – – 「ギャラリー梅山」

 

 

 

中村康平

中村卓夫の3年後、1948年に生まれたのが中村康平。
1973年に多摩美術大学彫刻科を卒業後は
陶芸による前衛的なオブジェを次々に発表します。

 

ニューヨークのメトロポリタン美術館のコレクションに
なるなど、彼の作品は国内外で高い評価を受けました。

 

しかしその後、彼は製作の軸足を茶碗作りに移します。
茶碗づくりは古い器の「写し」から始め、先人たちの
心を汲み、茶碗の本質に迫るための精進を重ねました。

 

 

 

中村康平「赤楽茶碗」

 

 

 

「王道を歩いてみようと思った」

そこから生まれてきた茶碗の数々は、とても
魅力的ではありますが、茶陶となると
俄然お値段が張ってしまうのが常のこと。
私には手の届かないものになってしまったのは残念です。

 

前衛陶芸の八木一夫は「茶盌もオブジェでっせ」という
言葉を残しているそうですが、いわれて見ればその通り。

 

2008年に行われた「明日をつくる建築家のために」
と題するセミナーの中で、中村康平は
「王道を歩いてみようと思った」
との言葉を聴衆に伝えています。

 

 

中村康平

 

 

 

「もし文化のない街に育っていたら」

つい1カ月前の2017年の2月に出版された
松任谷由実の本『ユーミンとフランスの秘密の関係』
(Cccメディアハウス)には中村康平の
こんな言葉が載っています。

 

「僕は長らく現代美術をやっていました。
が、真なるアヴァンギャルドとは、インター
ナショナルであるためには、と考えたとき、
伝統あるものに立ち返る必然性に迫られました。
それでこの街に戻り、茶の湯の茶碗を
つくり始めたのです」

 

また、父である中村梅山からは何も受け継がなかったが、
もし文化のない街に育っていたら、ものをつくることは
してなかった、ともおっしゃっていらしたそうです。

 

 

中村康平「赤楽茶碗」

 

 

 

「父からは何も受け継がなかった」

父親から陶芸を学ぶことはもちろん、大人になるまで
父の仕事にはあまり興味もなかったのかもしれませんし
何より彼の作品は、父親の模倣ではありません。

 

中村康平の「父である中村梅山からは何も
受け継がなかった」という言葉は
確かに事実には違いないのでしょう。

 

ではありますが、親の顔も知らずに育ったような
事情があれば別ですが、一つの家で家族として
暮らしていた時間の中で、何らかの影響は受けて
いたのではないだろうかという気もします。

 

 

 

 

それは単に遺伝子ということではありません。
手先の器用さや性格は遺伝すると思っていますが、
残念ながら才能は遺伝しないのではないか
と私は考えています。

 

そういえば、父親も祖父も陶芸家という友達がいますが
彼女は「親子だからといって才能が伝わるものではない」
という言葉をよく口にしていました。

 

遺伝ではないけれど、環境という言葉とも
ちょっと違うような気がする何か。

 

もっと軽くもあり、同時に決定的でもある空気のように
存在しているものの中で、彼ら三兄弟は育ったのでは
ないかと思うのは、穿ち過ぎているでしょうか。

 

 

 

 

 

親子なの?

おそらく10年以上前のことだったと思うのですが、
友人が「先週、中村卓夫の展覧会を見て来た」
と言ったことがありました。
(実はちょっと自信がないのですが、多分)

 

私が「中村卓夫のお父さんが作った器がこれよ、
中村梅山」というと彼女はかなり驚いた顔をしながら
私が手にした器を凝視していました。

 

その器と展覧会で見た作品が、彼女の中では
あまり結びつかないようでした。

 

その時に見た中村卓夫の作品が、少なくとも
父・中村梅山の個性をなぞったようなものでは
なかったことは、彼女の表情から明らかでした。

 

 

 

 

 

梅の庭

祖父も父も、三人兄弟の全てが陶芸家。
門外漢の私にはよくわからないことではありますが、
恵まれた環境といえる一方、かなり厳しい状況
ともいえるような気もします。

 

梅の木のたくさんある庭に作られた梅山窯。
そこで初代・梅山が生まれ、2代目・梅山が育ってゆき、
そして今、枝分かれした梅山の御子息が、
それぞれの個性で思う存分咲き誇っている。

 

「売り家と唐様で書く三代目」などと揶揄されたりする
ほど、三代目というのは難しいようですが、梅山家の
三代目である三兄弟は、それぞれがご自分の道を
見つけて極めていらっしゃる様は驚くばかりです。

 

馥郁とした香りを放ちつつ、気品のある
清楚な佇まいの梅の花。

 

梅の庭で育まれた「中村錦平」「中村卓夫」
「中村康平」は21世紀の初め
三者三様の作品を花開かせています。

 

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2代目・中村梅山

「あぷりのお茶会赤坂・麻布・六本木へようこそ!

 

 

 

金沢の料亭旅館「浅田屋」

前回、赤坂にある金沢料理の料亭「浅田屋」の御紹介を
した際に、金沢の料亭旅館「浅田屋」について調べて
いると、1枚の写真が目に入りました。

 

金沢市旅館ホテル協同組合の「金沢 おもてなしの宿」
というサイトに載っていた「浅田屋」で供される
お料理を紹介した写真。

 

手前が「治部煮」で、向こう側が
「ゴリ」との説明がありました。

 

治部煮は頂いたことがあるのですが、「ゴリ」は初耳。
調べてみましたら、こちらも治部煮と同様
金沢の郷土料理だとか。

 

 

 

金沢の料亭旅館「浅田屋」のお料理
手前が「治部煮」で、向こう側が「ゴリ」
(写真/「金沢おもてなしの宿」)

 

 

 

「ゴリ」とは魚(鰍、カジカ)のこと

「ゴリ」というのは魚の名前で、「鰍(カジカ)」
のことだそうで、ゴリで作ったお料理を
ゴリ料理、ゴリと呼ぶのだそう。

 

金沢を流れる犀川や、先日、御紹介したクリフトン・
カーフギャラリーのそばを流れる浅野川の上流の川底に
へばりつくように生息している魚だということです。

 

ちなみに「ゴリ」という名前は、とる時に川底を削る
ようにしないと、捕獲できないため、その様子を「
ゴリ押し」といい、そこから「ゴリ押しをする」
などと使われるようになったそうですよ。

 

 

こちらは我が家の中村梅山のお皿
乗っているのは「塩瀬」の薯蕷饅頭

 

 

ゴリが載っている金沢の料亭旅館「浅田屋」の
写真を見て驚いたのは、使われていたお皿が
うちのものと同じだったからです。

 

同じ中村梅山のものというだけではなく
お皿の形そのものも一緒。

 

そういえばこのお皿の作家・中村梅山は
金沢の陶芸家でした。
うちにある梅山の器も、金沢に
行った時に買い求めてきたものです。

 

手前の治部煮が入っているのは、輪島塗だと思われます
ので、二つとも石川県の器を使用しているのでしょう。
このお椀も、とっても素敵ですね。

 

お皿の作者である2代目・中村梅山は、1907
(明治40)年生まれの昭和を代表する金沢の陶芸家
で、1997(平成9)年に90歳で亡くなっています。

 

 

 

 

 

初代・中村梅山

初代・梅山は大正の初期に、道楽が嵩じて陶芸家に
なってしまったというユニークな経歴を持っている方。

 

陶芸一筋にひたすら修行を重ねた人生、というのも
もちろん、素晴らしいものではありますが、他の
お仕事で成功しているにもかかわらず、止むに
止まれぬ作陶への思いを、遂に実現してしまう、

 

そんな一生もまた、勝るとも劣らない
魅力的な生き方ですね。

 

骨董品などを見るにつけ、自分ならばこんな風に
表現したい、などと思っていらしたのでしょうか。

 

彼は京都から京焼きの職方を招き
屋敷の庭に登窯を築きます。

 

庭にたくさんの梅の木があったことから「梅山窯」と
呼ばれるようになり、梅山を名乗るようになりました。

 

 

 

 

 

2代目・中村梅山

自らの夢を実現させた初代梅山の子が
2代目、中村梅山です。

 

彼は、梅山窯があった屋敷の庭の梅の花が咲く
情景や、熟れた梅の実の味と香りについての
鮮やかな記憶を、晩年近くに語っています。

 

2代目・梅山は、独創性と技術を思う存分展開した作家
で作風は、仁清風・南蛮手・象嵌と多岐にわたります。
「浅田屋」と我が家のお揃いの
長方形のお皿は、象嵌の作品です。

 

「象嵌(ぞうがん)」とは、工芸技法の一つで
「象」は「象(かたどる)る」、
「嵌」は「嵌(は)める」の意味。
ある素材に、別の素材を嵌め込んだものを指します。

 

 

 

 

 

陶器と磁器が奏でるハーモニィ

黒い漆に光る貝殻をはめ込んだものなどは
よく見かけますが、中村梅山の象嵌のように
陶器(茶色い部分)に、磁器(模様のある部分)
を嵌め込んだ器は、初めて見るものでした。

 

既成観念にとらわれることのない
何という自由な作陶なのでしょう。

 

対照的とも思われる、土ものの荒々しいまでの力強さに
繊細で嫋やかな模様と色使いの磁器を合わせた匠さ。

 

しかも、実験的過ぎる専門家向けの難解な作品では
なく、私のような素人にもわかる、この上ない美しさ。

 

 

中村梅山の器 象嵌の部分をアップしたもの

 

 

梅山自身は、「火は魔物 土は曲者なり」
とおっしゃったようですが、私には、その両者を
巧みに操る猛獣の使い手のようにも見えます。

 

また「兎にも角にも土を練り、技を練り
心を練って、火心に挑んだ果てに、たまたまの
品が自分の予想の埒をこえて、しかも情熱
との融合を見つけた時の醍醐味は無上です」

 

との言葉には、作陶をしない私でさえ思わず共感し
その感動が伝わってくるような気がするほど。

 

 

2代目・中村梅山「ぐい呑」

 

 

本当は、茶陶の名手といわれた中村梅山のお抹茶
茶碗が欲しかったのですが、それは桁が一つ上なので
はなから諦め、お皿とぐい呑を金沢から連れて
帰ったのは、もうかれこれ20年以上前のことでした。

 

2代目・中村梅山には錦平・廉平・卓夫と3人の
御子息がおありで、3人とも陶芸家として
それぞれ大活躍をしていらっしゃいます。

 

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