「中村錦平」「中村卓夫」「中村康平」  梅の庭に咲き誇る三兄弟

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

中村錦平

中村錦平、中村卓夫、中村康平三兄弟の祖父で
ある初代・中村梅山は大正初期に趣味が嵩じて
陶芸家の道に入った人でした。
その子どもが2代目・中村梅山です。

 

2代目・中村梅山の子として1935(昭和10)年に
生まれの錦平は、1956年に金沢市美術工芸大学の
彫塑科に入学したものの才能に疑問を感じ中退。

 

やきものを「作る側」ではなく、「使う側」に
立とうと考えて銀座にある日本料理の中島で
板前修行に入ります。
そこで彼は、北大路魯山人の存在に行き当たりました。

 

 

 

北大路魯山人「伊賀釉四方平鉢」

 

 

 

再び、やきものを志す

彼は父の手伝いをしながら
やきものの修行を始めます。

 

そして、1960年に現代日本陶芸展(朝日新聞社主催)
に初入選、翌1961年は、日展と日本現代美術工芸展
に入選を果たします。

 

1964年には、三菱銀行金沢支店での建築に
関する初仕事の後、1966年にソニービルで、
1998年は北陸放送会館に陶壁を作りました。

 

1969年にロックフェラー財団に
招聘されて、1年間欧米に滞在。
以後、活躍は世界的に広まっていきました。

 

 

 

中村錦平「粉引風白釉徳利」

 

 

 

「東京焼」

中村錦平は、御自身のやきものを
「東京焼」と呼んでいます。

 

やきものは普通、作る場所で採れた土を使いますが
彼は電話一本で手に入る、ビニール入りの粘土を
使って作品を作っているのだそう。

 

やきものの土台ともいうべき土がそうである
のみならず顔料や釉薬も特別なものではなく
誰でもカタログを見て簡単に取り寄せる
ことのできる市販品を使っているといいます。

 

このこだわりのなさには驚くばかりですが、一方
その無頓着さは自信の裏返しであるようにも思えます。

 

 

中村錦平(写真/「21世紀美術館」

 

 

 

「余計な遊びに徹して」

「東京焼・中村錦平展 1993〜94年」のカタログには
「東京ほど多種のテーマ、多様な素材の掘り出せる
場は他にない。
伝承なし、様式なし、愛陶家なしの地が
意欲を盛りあげる。」と。

 

また陶壁作品についてはこのように
語っていらっしゃいます。
「余計な遊びに徹して、空間を飾り、埋める事に
関心を持って、作品を作りたいと思っています」

 

「余計な遊びに徹して」という言葉が、何とも
魅力的な中村錦平は、赤坂のお隣にある
東京・青山に窯を構えています。
現在、多摩美術大学名誉教授。

 

 

 

 

 

中村卓夫(3代目・中村梅山)

中村錦平が誕生した10年後の1945年に
生まれたのが、中村卓夫です。

 

1978年、会社員を経た後の33歳になってから
父・中村梅山の元で陶芸を始めました。

 

1982年 名古屋工業試験場瀬戸分室で釉の研究
1984年 イタリア・国立ファエンツァ陶芸
   美術学校で学ぶ
1990年 和光 アートサロンにて個展を開催
2004年 WEDGWOOD「ジャパネスク」シリーズ製作
2013年 中村卓夫展 和光ホール
   「陶・もうひとつの琳派 」等々

 

作品は、ニューヨークのメトロポリタン美術館、
シカゴ美術館、金沢21世紀美術館等に、
オブジェ、花器等が所蔵されています。

 

 

中村卓夫(写真/「西福ギャラリーブログ」

 

 

 

自分の道は「壊すこと」

卓夫が長年の製作の中で見つけた「自分の道」、
それは「壊すこと」。

 

やきものの材料である粘土を、投げ、きり、
ちぎるという動作を重ね、「作るのではなく、
壊すこと」から数々の作品が生まれてゆきます。

 

他人と同じことをしても意味がないという
彼の制作は、轆轤(ろくろ)を使わずに
タタラという伝統的な技法を用いるもの。

 

「粘土に自然に起こることを、見つけるのが
私の仕事です。
自然に動く表情、おもしろい瞬間を掴むんです」
と彼は説明します。  (「REVALUE NIPPON」

 

「ぎりぎり器」「すりぬける器」「浮遊する器」
と自由な器の個展を開催し、花器にも香炉にも、
自由自在に遊ぶことのできる「うつわ」を考えて
いたという彼は、ついに全く新しい形の
「うつわ」を見つけます。

 

 

中村卓夫「器になるコトをやめたうつわ」

 

 

 

「器になるコトをやめたうつわ」

それが「器になるコトをやめたうつわ」シリーズや
「箱になるのをやめたハコ」シリーズです。

 

「用」を離れ、作者の意図からも離れ、
「場」との関係を結んで表現することで
「うつわ」になる、新しい「うつわ」の世界。

 

「うつわはうつろに通じ、茶碗にせよ花器や皿類にせよ、
何かを保持する空隙を抱えたモノとして作られるが、
用途が一義的になるうちに、うつろは見えなくなり
姿形や意匠ばかり意識されがちになる。
器に埋められたうつろを、器を鉈で割るように
断ち切ることで、発火させた作品。平らな皿が、
下から逆転した軸物のようにじかにたれ上がる
「SUIHATSU」。
常に過去に引き摺られ、歩調を緩めがちな伝統に、
鞭を入れ、現在に跳躍させようとする。中村の俯き
加減の目の鋭角は、伝統の愛好層にも、現代美術を
好む人々にも、共に刺激的だろう。」
              大倉宏 美術評論家

 

 

中村卓夫
光琳を思わせる九谷様式の絵付けが美しい「花器」

 

 

 

3代目・中村梅山

祖父である初代・中村梅山や父、2代目梅山の
住居でもあった梅山窯には、現在「ギャラリー梅山」
があり、中村卓夫と中村康平、それぞれの住まいと
アトリエとなっているそうです。

 

「キャラリー梅山」
石川県金沢市尾張町2-16-22  Tel. 076-222-0779
営業時間は朝の10時から夕方6時までで、
お休みはないようですが、訪れる際は
事前に電話で予約が必要とのことです。

 

「ギャラリー梅山」の地図を見て、これまた驚き。
何と数日前に御紹介した、版画家のクリフトン・カーフ
の「かーふコレクション」のすぐそばではありませんか!

 

 

金沢の地図
「ギャラリー梅山」と「かーふコレクション」はこんなに近く

 

 

同じ金沢市ということは知っていましたが、
かーふコレクション(「『日本を愛し、日本人より
日本人らしく生きた青い目の版画家』クリフトン・
カーフ」)
が金沢市主計町で、

 

ギャラリー梅山は金沢市尾張町ということ
でしたので、まさかこんなに近くとは、地図を
見るまでは思ってもいませんでした。

 

主計街と尾張町の端に、それぞれが位置しているのか
否かはわかりませんが、ともあれ金沢に行った折には
是非、両方を尋ねてみたいものです。

 

ちなみに、この地図の左上の方が金沢駅で、ここの
少し下(南)の方に行きますと兼六園があります。

 

赤坂の料亭「赤坂金龍」からクリフトン・カーフに
辿り着き、同じく赤坂の料亭「浅田屋」つながりで
中村梅山からギャラリー梅山へ、そして両者は金沢で
隣町のギャラリーとは、本当におもしろいですね。

 

 

赤坂の地図
「金龍」- – – -「かーふコレクション」
「浅田屋」- – – – 「ギャラリー梅山」

 

 

 

中村康平

中村卓夫の3年後、1948年に生まれたのが中村康平。
1973年に多摩美術大学彫刻科を卒業後は
陶芸による前衛的なオブジェを次々に発表します。

 

ニューヨークのメトロポリタン美術館のコレクションに
なるなど、彼の作品は国内外で高い評価を受けました。

 

しかしその後、彼は製作の軸足を茶碗作りに移します。
茶碗づくりは古い器の「写し」から始め、先人たちの
心を汲み、茶碗の本質に迫るための精進を重ねました。

 

 

 

中村康平「赤楽茶碗」

 

 

 

「王道を歩いてみようと思った」

そこから生まれてきた茶碗の数々は、とても
魅力的ではありますが、茶陶となると
俄然お値段が張ってしまうのが常のこと。
私には手の届かないものになってしまったのは残念です。

 

前衛陶芸の八木一夫は「茶盌もオブジェでっせ」という
言葉を残しているそうですが、いわれて見ればその通り。

 

2008年に行われた「明日をつくる建築家のために」
と題するセミナーの中で、中村康平は
「王道を歩いてみようと思った」
との言葉を聴衆に伝えています。

 

 

中村康平

 

 

 

「もし文化のない街に育っていたら」

つい1カ月前の2017年の2月に出版された
松任谷由実の本『ユーミンとフランスの秘密の関係』
(Cccメディアハウス)には中村康平の
こんな言葉が載っています。

 

「僕は長らく現代美術をやっていました。
が、真なるアヴァンギャルドとは、インター
ナショナルであるためには、と考えたとき、
伝統あるものに立ち返る必然性に迫られました。
それでこの街に戻り、茶の湯の茶碗を
つくり始めたのです」

 

また、父である中村梅山からは何も受け継がなかったが、
もし文化のない街に育っていたら、ものをつくることは
してなかった、ともおっしゃっていらしたそうです。

 

 

中村康平「赤楽茶碗」

 

 

 

「父からは何も受け継がなかった」

父親から陶芸を学ぶことはもちろん、大人になるまで
父の仕事にはあまり興味もなかったのかもしれませんし
何より彼の作品は、父親の模倣ではありません。

 

中村康平の「父である中村梅山からは何も
受け継がなかった」という言葉は
確かに事実には違いないのでしょう。

 

ではありますが、親の顔も知らずに育ったような
事情があれば別ですが、一つの家で家族として
暮らしていた時間の中で、何らかの影響は受けて
いたのではないだろうかという気もします。

 

 

 

 

それは単に遺伝子ということではありません。
手先の器用さや性格は遺伝すると思っていますが、
残念ながら才能は遺伝しないのではないか
と私は考えています。

 

そういえば、父親も祖父も陶芸家という友達がいますが
彼女は「親子だからといって才能が伝わるものではない」
という言葉をよく口にしていました。

 

遺伝ではないけれど、環境という言葉とも
ちょっと違うような気がする何か。

 

もっと軽くもあり、同時に決定的でもある空気のように
存在しているものの中で、彼ら三兄弟は育ったのでは
ないかと思うのは、穿ち過ぎているでしょうか。

 

 

 

 

 

親子なの?

おそらく10年以上前のことだったと思うのですが、
友人が「先週、中村卓夫の展覧会を見て来た」
と言ったことがありました。
(実はちょっと自信がないのですが、多分)

 

私が「中村卓夫のお父さんが作った器がこれよ、
中村梅山」というと彼女はかなり驚いた顔をしながら
私が手にした器を凝視していました。

 

その器と展覧会で見た作品が、彼女の中では
あまり結びつかないようでした。

 

その時に見た中村卓夫の作品が、少なくとも
父・中村梅山の個性をなぞったようなものでは
なかったことは、彼女の表情から明らかでした。

 

 

 

 

 

梅の庭

祖父も父も、三人兄弟の全てが陶芸家。
門外漢の私にはよくわからないことではありますが、
恵まれた環境といえる一方、かなり厳しい状況
ともいえるような気もします。

 

梅の木のたくさんある庭に作られた梅山窯。
そこで初代・梅山が生まれ、2代目・梅山が育ってゆき、
そして今、枝分かれした梅山の御子息が、
それぞれの個性で思う存分咲き誇っている。

 

「売り家と唐様で書く三代目」などと揶揄されたりする
ほど、三代目というのは難しいようですが、梅山家の
三代目である三兄弟は、それぞれがご自分の道を
見つけて極めていらっしゃる様は驚くばかりです。

 

馥郁とした香りを放ちつつ、気品のある
清楚な佇まいの梅の花。

 

梅の庭で育まれた「中村錦平」「中村卓夫」
「中村康平」は21世紀の初め
三者三様の作品を花開かせています。

 

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2代目・中村梅山

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金沢の料亭旅館「浅田屋」

前回、赤坂にある金沢料理の料亭「浅田屋」の御紹介を
した際に、金沢の料亭旅館「浅田屋」について調べて
いると、1枚の写真が目に入りました。

 

金沢市旅館ホテル協同組合の「金沢 おもてなしの宿」
というサイトに載っていた「浅田屋」で供される
お料理を紹介した写真。

 

手前が「治部煮」で、向こう側が
「ゴリ」との説明がありました。

 

治部煮は頂いたことがあるのですが、「ゴリ」は初耳。
調べてみましたら、こちらも治部煮と同様
金沢の郷土料理だとか。

 

 

 

金沢の料亭旅館「浅田屋」のお料理
手前が「治部煮」で、向こう側が「ゴリ」
(写真/「金沢おもてなしの宿」)

 

 

 

「ゴリ」とは魚(鰍、カジカ)のこと

「ゴリ」というのは魚の名前で、「鰍(カジカ)」
のことだそうで、ゴリで作ったお料理を
ゴリ料理、ゴリと呼ぶのだそう。

 

金沢を流れる犀川や、先日、御紹介したクリフトン・
カーフギャラリーのそばを流れる浅野川の上流の川底に
へばりつくように生息している魚だということです。

 

ちなみに「ゴリ」という名前は、とる時に川底を削る
ようにしないと、捕獲できないため、その様子を「
ゴリ押し」といい、そこから「ゴリ押しをする」
などと使われるようになったそうですよ。

 

 

こちらは我が家の中村梅山のお皿
乗っているのは「塩瀬」の薯蕷饅頭

 

 

ゴリが載っている金沢の料亭旅館「浅田屋」の
写真を見て驚いたのは、使われていたお皿が
うちのものと同じだったからです。

 

同じ中村梅山のものというだけではなく
お皿の形そのものも一緒。

 

そういえばこのお皿の作家・中村梅山は
金沢の陶芸家でした。
うちにある梅山の器も、金沢に
行った時に買い求めてきたものです。

 

手前の治部煮が入っているのは、輪島塗だと思われます
ので、二つとも石川県の器を使用しているのでしょう。
このお椀も、とっても素敵ですね。

 

お皿の作者である2代目・中村梅山は、1907
(明治40)年生まれの昭和を代表する金沢の陶芸家
で、1997(平成9)年に90歳で亡くなっています。

 

 

 

 

 

初代・中村梅山

初代・梅山は大正の初期に、道楽が嵩じて陶芸家に
なってしまったというユニークな経歴を持っている方。

 

陶芸一筋にひたすら修行を重ねた人生、というのも
もちろん、素晴らしいものではありますが、他の
お仕事で成功しているにもかかわらず、止むに
止まれぬ作陶への思いを、遂に実現してしまう、

 

そんな一生もまた、勝るとも劣らない
魅力的な生き方ですね。

 

骨董品などを見るにつけ、自分ならばこんな風に
表現したい、などと思っていらしたのでしょうか。

 

彼は京都から京焼きの職方を招き
屋敷の庭に登窯を築きます。

 

庭にたくさんの梅の木があったことから「梅山窯」と
呼ばれるようになり、梅山を名乗るようになりました。

 

 

 

 

 

2代目・中村梅山

自らの夢を実現させた初代梅山の子が
2代目、中村梅山です。

 

彼は、梅山窯があった屋敷の庭の梅の花が咲く
情景や、熟れた梅の実の味と香りについての
鮮やかな記憶を、晩年近くに語っています。

 

2代目・梅山は、独創性と技術を思う存分展開した作家
で作風は、仁清風・南蛮手・象嵌と多岐にわたります。
「浅田屋」と我が家のお揃いの
長方形のお皿は、象嵌の作品です。

 

「象嵌(ぞうがん)」とは、工芸技法の一つで
「象」は「象(かたどる)る」、
「嵌」は「嵌(は)める」の意味。
ある素材に、別の素材を嵌め込んだものを指します。

 

 

 

 

 

陶器と磁器が奏でるハーモニィ

黒い漆に光る貝殻をはめ込んだものなどは
よく見かけますが、中村梅山の象嵌のように
陶器(茶色い部分)に、磁器(模様のある部分)
を嵌め込んだ器は、初めて見るものでした。

 

既成観念にとらわれることのない
何という自由な作陶なのでしょう。

 

対照的とも思われる、土ものの荒々しいまでの力強さに
繊細で嫋やかな模様と色使いの磁器を合わせた匠さ。

 

しかも、実験的過ぎる専門家向けの難解な作品では
なく、私のような素人にもわかる、この上ない美しさ。

 

 

中村梅山の器 象嵌の部分をアップしたもの

 

 

梅山自身は、「火は魔物 土は曲者なり」
とおっしゃったようですが、私には、その両者を
巧みに操る猛獣の使い手のようにも見えます。

 

また「兎にも角にも土を練り、技を練り
心を練って、火心に挑んだ果てに、たまたまの
品が自分の予想の埒をこえて、しかも情熱
との融合を見つけた時の醍醐味は無上です」

 

との言葉には、作陶をしない私でさえ思わず共感し
その感動が伝わってくるような気がするほど。

 

 

2代目・中村梅山「ぐい呑」

 

 

本当は、茶陶の名手といわれた中村梅山のお抹茶
茶碗が欲しかったのですが、それは桁が一つ上なので
はなから諦め、お皿とぐい呑を金沢から連れて
帰ったのは、もうかれこれ20年以上前のことでした。

 

2代目・中村梅山には錦平・廉平・卓夫と3人の
御子息がおありで、3人とも陶芸家として
それぞれ大活躍をしていらっしゃいます。

 

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「日本を愛し、日本人より日本人らしく生きた青い目の版画家」クリフトン・カーフ

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

 

「赤坂  金龍」とクリフトン・カーフ

諸事情から一度は閉店した赤坂の「料亭金龍」が
日本の伝統文化発信の「赤坂  金龍」として再出発を
するきっかけの一つとなったのは今日、御紹介する
クリフトン・カーフさんの影響だったということです。

 

彼の作品はどのようなものだろうと
検索をしてみて驚きました。

 

かなり前のことですが、彼の作品をカード
(だったか正確には忘れましたが)にした何点かを
友人から頂いたことがあったからです。

 

建物や路地、お茶室の中など、日本の美しい
風景を版画にした作者を、私は当然のように
日本人だと思い込んでいました。

 

その作者が「赤坂  金龍」と御縁のあった
版画家だったとは……。

 

 

 

料亭金龍」は2009年、「赤坂  金龍」として再出発

 

 

 

1955年に再来日

フィンランドに生まれ、後にアメリカに移住した
祖父母を持つクリフトン・カーフ( Clifton  Karhu)は
1927年にアメリカのミネソタ州ダールズで誕生しました。

 

彼が初めて日本を訪れたのは1946年、18歳の時のこと。
最初は、なんと軍人として長崎県の佐世保にいらした
そうですが、軍人といっても任務は、軍隊付きの画家。

 

家族の全てが絵を描くという環境で育った
クリフトン・カーフはその時すでに、日本の文化や
町並みに興味をもち、帰国後の1950年〜1952年
には、ミネアポリス美術学校に通います。

 

 

 

「桂離宮と月」クリフトン・カーフ

 

 

 

京都から金沢に

卒業後、23歳だった1955年に再来日し
最初は滋賀県に、そののち京都に移ります。
初めての個展が大成功を収めたのは1961年、
34歳の時でした。

 

それからは国内はもとより、香港、オーストラリア、
ヨーロッパ、アメリカで個展を次々に開催し、版画集
(「カーフ画集」「京都再見」「京都発見」)を刊行。

 

59歳になった1986年からは、生まれ故郷のアメリカ、
ミネソタ州で、2年後には当時拠点であった京都で
またその2年後には、彼のルーツともいうべき
フィンランドで、それぞれ回顧展を開催しています。

 

 

クリフトン・カーフさんと、愛猫・マイト君

 

 

京都のアトリエ兼住居を1995年、
68歳の時に金沢に移します。

 

九谷焼きの仕事で訪れた際に金沢に魅かれ
何度か通ったのちに購入した家は、内外装とも
金沢の茶屋文化の伝統的な様式に整えました。

 

金沢に移ってからも版画集を刊行し、フィンランド、
スウェーデン、アメリカでの個展を開催していた
クリフトン・カーフは、今から10年前の
2007年3月24日、80歳で永眠。

 

このようにみていきますと、「赤坂  金龍」との
繋がりはどのあたりに位置するのでしょうか?
できることならば、秋葉佳宣さんに
伺ってみたいところです。

 

 

秋葉佳宣さん「赤坂  金龍」
(写真/「『WELCOM港区』vol.630」)

 

 

 

うさぎがお出迎え「カーフこれくしょん」

金沢の浅野川沿いの主計町(かづえまち)にあった
彼の自宅兼アトリエだった茶屋を改装した建物は
現在クリフトン・カーフ作品の展示、販売
をするギャラリーになっています。

 

Yanis   Art  japan   ltd.(株式会社
ヤニスアート・ジャパン)

(代表取締役 香川寿幸
 〒920-0908 石川県金沢市主計町3-19
 Tel.076-255-3928(代)   Fax.076-255-3926
 メールアドレス       info@cw-karhu.jp)

 

金沢に移ってからもカーフは、国内はもとより
香港、オーストラリア、ヨーロッパ、アメリカで
個展を次々に開催し、版画集(「カーフ画集」
「京都再見」「京都発見」)を刊行。

 

会社名についている「ヤニス(Yanis)」とは
フィンランド語で「うさぎ」という意味だそうです。
カーフさんも社長さんも、卯年生まれだからとのこと。

 

 

(写真/「金沢主計町茶屋街『かーふコレクション』 」)

 

 

というわけで、ギャラリーの格子戸には
うさぎさんがいっぱい。

 

写真はギャラリーの内側から見たものですが外は
ボタン雪が降っていて、カーフさんの版画のようですね。

 

 

 

水に映る風景を版画に

クリフトン・カーフは、雨上がりの
茶屋街を好んだといいます。
雨に濡れた道路に映った電線を見ていると
一瞬、版画であるのを忘れてしまうほど。

 

 

クリフトン・カーフが雨上がりの友人宅を書いた版画
(写真/「カーフこれくしょん」

 

 

奥の蛇の目傘が、道に溜まった雨におぼろげに映り
ちょっと強めの風に煽られた暖簾が翻っている雨上がり。
がっしりとした黒の直線に添えられた
嫋やかな曲線が美しい。

 

数十年前にクリフトン・カーフの作品をプレゼント
してくれた友人に、見せてあげたい版画です。
ちなみにこちらはクリフトン・カーフ
の金沢の友人宅だそう。

 

次の写真は、3年前の赤坂サカスの「ホワイトサカス」
の様子ですが、間に水が入ることにより
風景は不思議な美しさに彩られます。

 

 

並べてごめんなさい、こちらは雨の赤坂サカスの写真

 

 

 

洒脱な筆使いの墨絵

クリフトン・カーフといえば、このような京都や金沢の
町並みや、「桂離宮と月」のような版画が最も有名だと
思われますが実は私は、カーフさんの墨絵が大々好きです。

 

 

クリフトン・カーフの版画「桂離宮と月」

 

 

大胆で生き生きとした自由な筆づかいが
生み出す線を見ていると、楽しくて、嬉しくて。
何もこわいものはないぞ!、という気になっちゃいます。

 

こちらは「二兎を追う者は一兎をも得ず」の
「二兎無兎」のうさぎさん。(逃げられてよかったね)

 

 

クリフトン・カーフの「二兎無兎」
(写真/「カーフこれくしょん」)

 

 

左に書かれているのは
「RUN  AFTER  TWO  RABBITS  AND  YOU’LL
CATCH  NONE」というアルファベットの英文ですが
なんとも絵になっている字(!)。

 

その左には「佳風」とサインがありますが
この「かーふ」のサインは、初期には「夏風」
という文字で書かれていたようです。
夏の風、も「佳風」に劣らず素敵です。

 

小説家のヘンリー・ミラーも、クリフトン・カーフ
のユーモラス墨絵を愛したようですよ。

 

 

 

 

 

鮎を売って生計を立てた頃を思い

クリフトン・カーフさんが、最後の12年間の住まいを
金沢主計町に決めたのは、再来日して岐阜にいらした頃
の郷愁に駆られたことも、理由の一つだったとか。

 

再来日して滋賀に住んでいた頃は、プロ級の
腕前をいかして趣味の釣りで得た鮎を売って
生計を立てていたこともあったのだそう。

 

金沢主計町にたゆたう浅野川を見て
その頃を思い出されたといいます。

 

常に着物を着て仕事をし、愛した金沢
の街を散策するクリフトン・カーフは
金沢の人々からも愛されていました。

 

「かーふコレクション」の香川寿幸さんは
こんな言葉を記しています。

 

「日本を愛し、日本人より
日本人らしく生きた青い目の版画家」。

 

 

「マイト」はフィンランド語で「ミルク」の意味

 

 

カーフさん御自身も、自画像を描くときは
目の色を青く描かれたそうですが、実際は
ブルーグリーンの目をおもちだったそうです。

 

上の写真でカーフさんと一緒に写っている
彼によく似たもはもはのネコちゃんの名前は
「マイト」君といいます。
これはフィンランド語で「ミルク」を意味する言葉。

 

今から10年前の2007年3月24日にカーフさんが
お亡くなりになってから、3年ほどの月日を経た
2010年4月に、マイト君は11歳で死んでいます。
マイト君の目の色は、何色だったのでしょう?

 

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