モーツァルトと「魔笛」

「あぷりのお茶会」へようこそ!

 

 

 

 

 

モーツァルトの一生

モーツァルトは、1756年1月27日
ザルツブルグに生まれました。

 

生誕250年の様々な記念行事が、
2006年に行われたのは、まだ皆
さんの記憶に新しいのではない
でしょうか。

 

ザルツブルクの宮廷作曲家でヴァ
イオリニストであった

父・レオポルト・モーツァルトと、
母・アンナ・マリーア・ペルトル

の七番目の末っ子として生まれた
ヴォルフガング。

 

 

 

 

他の6人のきょうだいのうち
成長したのは、マリーア・ア
ンナという五歳上のお姉さん
だけでした。

 

「神童」といえばモーツァルト
というくらい、彼の神童ぶりは
有名ですが、3歳の時からチェ
ンバロを弾き始め、5歳の時に
は最初の作曲をしたといいます。

 

幼くして父とともに、音楽家とし
て宮廷に仕えながら親子はウィー
ン、パリ、ロンドン等 に演奏旅行
に行き、より良い就職先を探しま
した。

 

 

 

 

残念ながら、それは成功しませ
んでしたが、そんな旅行の一つ、
1762年10月13日、ウィーンのシ
ェーンブルン宮殿で、
マリア・
テレジアの御前演奏の時のこと。

 

転んでしまったモーツァルトに
手を差し出した7歳のマリー・
アントワネット(当時はマリア
・アントニア)にプロポーズを
したというのは、あまりに有名
なエピソード。

 

25歳になったモーツァルトは
1781年、ウィーンに定住してフリ
ーの音楽家となり、翌年 にコン
スタンツェ・ヴェーバーと結婚を
しています。

 

 

 

 

1786年5月1日、オペラ『フィガ
ロの結婚』K.492をブルク劇場
で初演し、翌年10月には、オペ
ラ『ドン・ジョヴァンニ』K.527
を作曲します。

 

そして、プラハエステート劇場
で初演、と大活躍をしながらも、
この頃からモーツァルトは借金
の依頼を頻繁にするようになり
ました。

 

翌1788年には「3大交響曲」
(交響曲第39番、第40番、第41番)
を作曲しています。

 

 

 

 

当時はやり出した、数曲を一緒
にまとめた楽譜の出版をしたの
も経済的な理由のためのでした。

 

ちなみにこの3曲は、たった3ヶ
月間で作曲したということです!

 

晩年も近くに、借金依頼の手紙
が残されている事実には、心が
痛みます。

 

 

 

 

彼の収入の激減の理由は、彼の
品行の悪さが原因とも、彼の才
能を怖れたサリエリ等の影響と
もいわれています
が、両方が相
まってのことだったかもしれま
せんね。

 

彼に問題があったことは事実で
しょうし、
そして相手がサリエリかどうか
は別としても、彼のような才能
溢れる人間に対しての嫉妬、妬
みが渦巻くのも常のこと。

 

それらの渦巻きを、かたちとし
て現れやすくしてしまったのが
彼の品行の悪さだったような気
がするのです。

 

 

 

 

1790年1月、オペラ『コジ・ファ
ン・トゥッテ(女はみなこうした
もの)』K.588を初演。

 

1791年9月30日、シカネーダーの
一座のためにジングシュピール
『魔笛』K.620を作曲・初演。

 

9月にはすでに体調を崩し、薬を
服用しながらも、モーツァルトは
自分の残り時間の少なさを知って
いたかのように、これ以外にも精
力的に仕事をこなしています。

 

 

 

 

そして……12月5日、死去35歳。

 

死の床でも、その日の「魔笛」
上演の進行時間を気にしていた
といい、もう一度「魔笛が聞き
たい」と言ったということです。

 

6人の子のうち2人の男の子が
成人しましたが、彼らに子ども
がいないので、直系の子孫はい
ません。

 

 

ウィーンの中央墓地にあるモーツァルトのお墓

 

 

その上、モーツァルトの本当の
埋葬場所も現在のところ、わか
ってはいません。

 

現在ウィーンの中央墓地にある
彼のお墓は、あとから作られた
もののようです。

 

 

 

 

 

〈魔笛〉の森で戯れる
 天衣無縫の永遠の子どもたち

ここではモーツァルトのオペラ
を中心にみてみましたが、
〈魔笛〉は本当に最後の作品
なんですね。

 

しかし、死の2ヶ月前に初演さ
れたとは思えないほど、オペラ
「魔笛」は明るく、軽快です。

 

というより死の間近だったから
こその、透明感のある明るさな
のかもしれませんが。

 

 

 

屈託のない突き抜けた明るさ、
軽みこそがモーツァルトの本質
だったのではないか、と私には
思えます。

 

自ら指揮をした「魔笛」の初演
では、シカネーダーと舞台の上
でふざけあうという、やんちゃ
ぶりも見せたそう。

 

時にはふざけ過ぎる子どもの
ような天才モーツァルト、彼の
側には支えてマネージメントを
してあげる大人が必要だったの
でしょう。

 

 

 

 

幼い頃からヴァイオリンの音高
の、ほんの僅かな違いを指摘し
たり、一度聴いた曲の再現性な
ど、彼の天才ぶりは枚挙にいと
まがありません。

 

彼にとっては、音楽と、音楽の
才能、それが全てだったのです。

 

本当のお墓の場所がわからない
ことを、もし今モーツァルトに
聞いたとしたら、

 

「そんなことはどっちでもいい
ことさ。
僕の曲が愛されて生きている
ことの方がずっと重要だよ」

 

笑いながら、そんなことを言い
そうな気さえします。

 

 

 

 

私は、ローゼンタール〈魔笛〉
の金箔で飾られた、レリーフ
の楽しげな人物を見るたびに
思うのです。

 

森の中での楽しいさざめきを……。
小鳥の歌と音楽と、終止絶える
ことのない笑い声を。

 

子どもではないけれど、さりとて
大人でもない人々。
清らかな天使たちというわけでも
なく、品行方正な人格者でもない
…..「天衣無縫な永遠の子どもたち」。

 

まるでモーツァルト、その人の
ようだと。

 

そしてそれは、ローゼンタール
〈魔笛〉をつくりだした、ビョ
ルン・ビンブラッド自身でも
あるのかもしれませんね。

 

 

 

 

ローゼンタール〈魔笛〉ならで
はの、おしゃれなプレートの裏
に、ゴールドで美しく描かれた
ドイツ語の歌詞は、「魔笛」
第2幕、24場と29場の台詞です。

 

 

(画像は準備中です、ごめんなさい)

 

 

24. Auftritt:

Weib: Und wenn du mir versprichst, mir ewig treu

zu bleiben  dann sollst du sehen, wie zärtlich

dein Weib dich lieben wird.

Papageno: Ei, du zaertliches Naerrchen!

Weib: O, wie will ich dich umarmen, dich liebkosen,

dich an mein Herz druecken!

2. Aufzug 29. Auftritt:

Papageno: Nun, so sei mein liebes Weibchen!

Pagagena: Nun, so sei mein Herzenstaeubchen!

 

お皿のまわりにぐるっと、ビョ
ルン・ビンブラッドの筆で書か
れた歌詞です。

 

そして中央の真ん中が、ローゼン
タール社のマーク。

上が〈魔笛〉のドイツ語
「Die Zauberflore」。

一番下はビョルン・ビンブラッド
のサインです。

 

 

 

 

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オランダ東インド会社(V O C)

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独立戦争後にスペインが貿易禁止命令

現在はベルギーに属するアントワープの地に、イタリア
から陶工がやってきてマジョリカ焼を広めていた時、
オランダではスペインとの独立戦争が始まりました。

 

アルプス以北における最大規模の都市だった
アントワープは、多くの外国商人が居住し、
胡椒やシナモンなどを積んだポルトガル船が
日々、荷を降ろすといった賑わいをみせていた港。

 

しかし独立戦争の騒乱を避けようとした陶工たちは
次第に他の地に移って行き、マジョリカ焼の中心地
は、アントワープからハールレム、デルフトへ
移ることになります。
「『デルフト焼』と日本の意外な関係」

 

 

A「アントワープ」→H「ハールレム」→D「デルフト」

 

 

 

戦争の結果、1581年にオランダはネーデルランド
連邦共和国となる独立宣言をしました.

 

一方、スペインは1585年、オランダとの貿易の
全面的禁止とオランダ船拿捕の命令を出します。
これはポルトガル船から拿捕されることを意味します。

 

何故ならば当時のポルトガルは、1580年から
スペインのフェリペ2世を国王とする同君王国で
事実上スペインに併合されていたからです。

 

 

 

スペインとポルトガル船からの拿捕の危機

この結果、リスボンやアントワープに入港する
ことができなくなったオランの商人たちは
アジアの香辛料を手に入れる術をなくします。

 

オランダ人が、1602年と1604年にポルトガル船を
拿捕し、積んでいた10万点あまりの中国磁器を奪った
「『デルフト焼』と日本の意外な関係」)との事実に

 

なんと手荒なことを!と驚きましたが
それはこのような理由があったから。
オランダ船は、アジアの海でボルトガル船に
対して、公然と海賊行為を行なっていたのです。

 

 

 

 

 

1596年、ジャワに到着

リスボンやアントワープに入港できず、またスペイン
とポルトガルに拿捕される危険性があったオランダ
商人は、香辛料を直接手に入れることを考えます。

 

最初は北極海を抜ける北回りでアジアに行く
ことを試みましたが、あえなく失敗。

 

1596年に、希望峰周りでアジアに向かった
4隻の船がポルトガル船に見つかることなく
ジャワに到着すると、続けとばかりアジア
貿易を目指す会社ができはじめます。

 

 

 

 

 

 

各国にあった「東インド会社」

これらの会社が統合されて「東インド会社」になるの
ですが、東インド会社と名乗るものはオランダだけでは
なく、イギリスやデンマーク、フランス等にもあります。

 

「オランダ東インド会社」「イギリス東インド会社」
「デンマーク東インド会社」「フランス東インド会社」
というように。

 

「東インド会社」は西洋がアジアと貿易をするために
作った会社で、世界初の株式会社といわれています。

 

オランダ東インド会社が主に扱ったのが香辛料で、
イギリス東インド会社は綿織物でした。

 

 

 

 

 

 

「インド」とは「アジア方面」を指す

「東インド会社」という名前が紛らわしいのですが、
これはインドが作った会社でも、インドのみを貿易
相手とする会社でもなく、「インド」という言葉が
指すのは「アジア方面」という程度の意味です。

 

南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海にある群島に
「西インド諸島」がありますが、これはコロンブス
が、そこがインドだと勘違いをしたことから名づけ
られたものですし、アメリカ大陸の人々も
「インディアン」と呼ばれましたしね。

 

というわけで東インド会社の「インド」も
コロンブスのアバウトすぎる間違えからきた
名称だと思われ、それは「地中海から東の方」
や「アジア」を意味しています。

 

 

 

シナモン(桂皮)スティック

 

 

 

「西インド会社」は「アメリカ方面」

オランダの東インド会社は、希望峰から
マゼラン海峡までの、アジア地域の
商業活動を行う特許を持っていました。

 

ちなみに「西インド会社」もありましたが
この場合の「西インド」とはアメリカ大陸のこと。
超ヨーロッパ中心主義ですね。

 

とはいえこの理由は差別意識ではなく無知からきた
もので、あとで勘違いに気づいた後も、名称として
定着していたために変更しなかったのかもしれません。

 

 

 

シナモン(桂皮)の木

 

 

 

1602年設立の「V・O・C」

当時は、アジアと貿易をしよう思っても、リスクが一杯。
嵐などの天候の問題や、海賊の心配もあります。
そして何より莫大な資金も要します。

 

そのため出資者を募って、その資金で貿易をしようと
考えましたが、同じような考えから、いくつもの会社が
しのぎを削って競争するというのもまた問題があります。

 

ということで、政府から貿易をする独占権を得ること
になり、オランダは1602年、貿易政策としていくつか
の会社を統合して「東インド会社」としました。

 

東インド会社の正式名は「連合東インド会社
(Vereenighde OostIndische Compagnie)」。
略称を「V O C」です。

 

 

 

セイロンシナモン(桂皮) スティックとパウダー

 

 

 

「17人会」

正式な本社はありませんでしたが、アムステルダム、
ホールン、エンクハイゼン、デルフト、ロッテルダム、
ゼーラントの6支社から構成され、

 

アムステルダム支社の出資額が最も多かった
ことから事実上、本社の役割を果たしました。

 

大口出資者の76名が重役となって、そのうちの
17人で取締役会を作り、会社の経営方針をを決定。

 

17人会には、条約締結や戦争の遂行、要塞の構築、
貨幣の鋳造などの権限が与えられています。

 

 

 

 

 

 

植民地経営会社

と何やら物騒な権限が並んでいますが、海賊及び他国
の妨害も考えられることから、会社とはいえ「軍隊」
も持ち、必要とあらば戦争も厭いませんでした。

 

またその際に、いちいち本国に問い合わせるのも
大変ですので「外交交渉権」をも併せ持ち
その上、現地の統治も任されています。

 

つまり東インド会社とは、貿易商社というよりは
「植民地経営会社」だったというのが実態です。

 

 

 

 

 

 

日本との貿易を独占

希望峰からマゼラン海峡までの貿易独占権を得て
1619年には現在のジャカルタであるジャワ島の
バタヴィアに東インド総督の拠点を置きました。

 

ポルトガルやイギリスを抑えて
東南アジアの香辛料貿易に成功し
台湾、スリランカ、マラッカなども占領。

 

1609年からは日本の平戸に商館を置き
生糸や銀を中心として交易も行ない
1639年以降はヨーロッパ諸国の中では唯一
日本との貿易を独占することになります。

 

 

 

「染付芙蓉手大皿」江戸時代 伊万里焼
高さ6.4cm 径39.5cm 神戸市立博物館所蔵
(写真/「文化遺産オンライン」)

 

 

 

東インド会社の注文品

上の写真は、有田の伊万里焼で作られた芙蓉手の
お皿ですが、中心に「V」と、さらにその左右に
「O」と「C」がデザインされています。

 

これはオランダ東インド会社(V O C)の注文
によって作られたものと考えられています。

 

それまで磁器生産の中心だった中国が内乱で輸出禁止に
なったことから、それに代わるものとして有田で作られ
るようになったのがこのようなお皿だということです。

 

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唐津焼「中里太郎衛門」

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唐津市北波多で生まれた唐津焼

肥前鍋島藩の鍋島軍が朝鮮出兵の際に
連れてきた朝鮮陶工により、日本初の磁器
が作られるようになる少し前に、やはり
朝鮮陶工の手によって唐津焼が作られていました。

 

こちらの唐津焼は、朝鮮出兵以前に岸岳
(きしだけ)城主の波多氏が朝鮮から連れてきた
陶工によって焼かれるようになったもので
有田焼のような磁器ではなく陶器。

 

岸岳を治めていた波多氏の、17代当主・波多親
(ちかし)は豊臣秀吉の不興を買いましたが、佐賀
鍋島藩の鍋島直茂の取りなしにより事なきを得ました。

 

しかし1594(文禄3)年、所領を没収の上、常陸に配流。
平安時代末期より戦国時代まで500年以上にわたって
活躍した波多氏は改易されることになってしまったのです。

 

 

 

 

 

金ケ江三兵衛が磁器の原料を発見

これにより岸岳古唐津の陶工たちは、秀吉の
朝鮮出兵時に連れてこられた陶工たちと一緒に
仕事をすることになり、松浦古唐津、多久(たく)
古唐津、武雄(たけお)古唐津、平戸(ひらど)
古唐津を形成してゆきました。

 

朝鮮からの陶工の中心的存在であった
金ケ江三兵衛(李参平・りさんぺい)は多久
古唐津を焼成していましたが、1616年(元和2)年、
有田泉山で磁鉱石を発見します。

 

これをきっかけに金ケ江三兵衛は磁器の有田焼を
作るようになり、多久古唐津と平戸古唐津は消滅。

 

そして、松浦古唐津は唐津藩の御用窯として、
武雄古唐津の方は日常雑器を焼く民窯となりました。

 

 

「染付山水図大鉢( そめつけさんすいずおおばち」
初期伊万里 高  12.5cm 口径  44.8cm 底径  12.9cm
重要文化財(写真/「文化遺産オンライン」)

 

 

 

「一楽、二萩、三唐津」

その後、唐津焼は全国に流通して西日本を
代表する焼物となり、西日本では焼物を
「からつもの」と呼ぶほどまでになりました。

 

日常雑器としては勿論のこと、茶陶として古来から
茶人に愛された器でもあり、また楽焼や萩焼と並んで
「日本三大茶陶器」の一つにも数えられています。

 

お茶の世界では抹茶茶碗の格付けとして
「一楽、二萩、三唐津」という言葉があります。
「一井戸、二萩、三唐津」ともいうようですが
いずれにせよ唐津焼は抹茶茶碗としては
王道のお茶碗なのですね。

 

ろくろ、たたき、たたら、押し型等の技法で
作られた唐津焼は、掘り、刷毛目、象嵌(ぞうがん)、
搔(か)き落としの装飾が施され
釉薬をかけて約1300度の高温で焼かれます。

 

土の味わいに描かれた野趣に富む模様の唐津焼。
現在、唐津焼の窯は唐津市内に70ほどあるということです。

 

 

 「赤樂茶碗 銘熟柿」17世紀前半 本阿弥光悦
(写真/「サントリー美術館」)

 

 

 

中里太郎衛門家

唐津焼の正確な歴史はわかっていないようです。
かなり前のことになりますが、私は唐津焼の
中里太郎衛門の窯を訪れたことがありました。

 

(中里太郎衛門窯
 〒847-8171 佐賀県唐津市津田3-6-29
 tel:0955-72-8171 fax:0955-73-3284
 mail:tarouemon@nifty.com)

 

唐津焼の中里太郎衛門の家は、江戸初期に
中里又七が作陶を始めて以来、唐津焼を
作り続けている家系で、現在は14代目。

 

 

 

 

 

御用焼物師 中里家の歴史

初代の中里又七は生没年が不明ですが
肥前国唐津藩の御用焼物師でした。

 

5代目・中里喜平次が記した古文書によりますと
又七は同じ高麗人の矢作や彦右衛門達と文禄年間
(1592〜1596)に伊万里市に田代窯を作った後、
大川源窯に移ったといわれています。

 

又七達が唐津藩主・寺沢志摩守広高の御用窯に
任じられたのは1615(元和元)年のこと。
又七は椎ノ峰窯へ移って御用焼物師となりました。

 

 

「叩き唐津南蛮耳付壷」13代・中里太郎衛門

 

 

初代・又七     生没不詳
2代・太郎衛門 生没不詳
3代・甚右衛門 生年は不詳、1703(元禄16)年に没。
4代・太郎衛門 生年不詳で、1744(延享元)年に没。
5代・喜平次   1691(元禄4)年〜1757(宝暦7)年
6代・太郎衛門  生年不詳〜1786(天明6)年
7代・陶司    生年不詳〜1823(文政6)年
8代・尚徳    生年不詳〜1827(文政10)年
9代・太郎衛門  生年不詳〜1872(明治5)年
10代・一陶     生年不詳〜1879(明治12)年
11代・太郎衛門 1854(安政元)年〜1924(大正13)年
12代・太郎衛門 1895(明治28)年〜1985(昭和60)年
13代・太郎衛門 1923(大正12)年〜2009(平成21)年

 

 

 

 

 

古唐津の技法の復活

12代・太郎衛門、本名重雄が生まれたのは、唐津藩の
御用窯としての庇護を失い衰退していた時代でした。

 

そのような中、古唐津の技法を復活させる
ことに成功し、唐津焼は勢いを取り戻します。

 

1976(昭和51)年、12代・中里太郎衛門は
重要無形文化財「唐津焼」の保持者
(人間国宝)に認定されました。

 

 

 「斑唐津茶碗」12代・中里太郎衛門

 

 

 

14代・中里太郎衛門

当代の14代・中里太郎衛門は、1957(昭和32)年に
13代・太郎衛門の長男として佐賀に生まれました。
本名は忠寛。

 

1979(昭和54)年に武蔵野美術大学造形学部彫刻学科を
卒業、1981(昭和56)年、同大学院を卒業しました。

 

1983(昭和58)年に、多治見陶磁器意匠研究所釉薬科、
国立名古屋工業技術試験所釉薬科を修了後に
13代・中里太郎衛門陶房で作陶に入り、

 

1990(平成2)年の日展での特選を受賞を
はじめ数々の賞を受賞しています。
2002(平成14)年、14代・中里太郎衛門を襲名。

 

また、12代・太郎衛門の三男の中里重利(1930〜2015)、
同じく12代・太郎衛門の五男の中里隆(1937〜)、
中里重利の長男である中里嘉孝(1958〜)という
一族の方が陶芸家として活躍していらっしゃいます。

 

 

「唐津藍紋様二彩掻落し 馬上杯」14代・中里太郎衛門

 

 

 

生まれた時からの宿命

幼い頃から粘土遊びなどに親しんで、
「陶芸家になることは、生まれたときからの宿命でした」
と語る14代・中里太郎衛門さんですが、この「宿命」とは
逃れがたい重い定めという意味ではないそうです。

 

14代を継ぐというプレッシャーは「全然ありません」、
「作陶をやっていて、つらいと感じたことはない。
むしろ楽しいことばかりです」と続けます。

 

中国で焼物と限らずに絵画、彫刻などの素晴らしい作品に
触れた時の感想を、このように伝えてくれました。
「技術とかではなく、見る者に訴える力が画然と違う」
「昔の物に負けるものかという意気込みがわきます」
              (技見聞録「佐賀新聞」)

 

「松図襖」狩野尚信 17世紀 佐賀藩鍋島家・徴古館

 

 

 

「窯もの」と「作家もの」

ところで、私が中里太郎衛門陶房に行った時のことですが、
残念ながら作品は一つも手にすることができませんでした。

 

陶房には何人もの職人さんたちが器を作っていますが、
それらは「中里太郎衛門窯のもの」と呼びます。
器の裏には中里太郎衛門窯で作られたという窯印
である「三ツ星」の商標がついています。

 

それに対して太郎衛門さんご自身の作品は「作家もの」
と呼んで区別していますが、欲しかった「作家もの」
のお抹茶茶碗にはとても手が届きませんでした。

 

 

「銹絵染付松樹文茶碗」18世紀前半 尾形乾山
(写真/「サントリー美術館」)

 

 

 

中里太郎衛門陶房で頂いた大きなお土産

ただ品物としては1つも手にすることはできません
でしたが、実は大きなお土産をいただきました。
それは、陶房の庭の様子です。

 

私が訪れたのは数十年前のことですので
現在はまた違っているのかもしれませんが
その当時は、一般の私たちが入れるお庭には
松の木が植えられていました。

 

松の木もではなく、松の木だけが植えられて
いるその潔い美しさに私は心を奪われました。

 

もし自分の庭を持つことが叶うならば、大好きな松に梅に
桜にクチナシ……、と夢と妄想は果てし無く膨らみます。

 

ですが、中里太郎衛門陶房のお庭を拝見して
私も松だけの庭にする、と心に決めました。

 

 

 

 

 

「花のほかには 松ばかり」

能楽の「道成寺」の「花のほかには松(待つ)ばかり」
という謡を思い出します。
「器のほかには松ばかり、器の庭には松ばかり」

 

もちろんこの決意(?)は誰にも告げたことはありません。
何十年もの月日が過ぎた今、自分に突っ込んでみましょう。

 

「固い決意をしたって意味なかったじゃない!
お庭持てなかったのだから」と。

 

でもあの美しさは今でも目と心に残っているからいいかな。
夢は実現せずに、松(待つ)ばかり……。

 

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