「麻布」の名前の由来は? 「一の橋」 古川の橋13 

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

160906itinohasi

 

 

古川の橋

今年の最初の投稿は「一の橋」。
「二の橋」をご紹介してから随分、時間がたってしまいましたが
今日の「一の橋」で、古川に架かる橋はおしまいです。

 

港区を流れる唯一の川である古川は、渋谷区では渋谷川と
呼ばれていますが、港区に入ってからは古川と名前を変えます。

 

 

     「天現寺橋」付近 下の地図では「 o  」の付近

 

 

港区に入って最初の橋である「天現寺橋(a)」から
古川は、ほぼ直線で右(東)に進み、

 

「古河橋(J)」で直角に曲がって、方向を上(北)に変えて流れます。
そして、また直角に右(東)に進み始める起点が「一の橋(o)」です。

 

 

古川の橋天現寺橋(a)・狸橋(b)・亀屋橋(c)・養老橋(d)・青山橋(e)・五の橋(f)・
白金公園橋(g)・四の橋(h)・新古川橋(i)・古川橋(j)・三の橋(k)
南麻布一丁目公園橋(l)・二の橋(m)・小山橋(n)・一の橋(o)
一の橋公園橋(p)・新堀橋(q)・中の橋(r)・赤羽橋(s)

 

 

「一の橋」以降は、「中の橋’(r)」や「赤羽橋(s)」を
過ぎてからは港区芝に入り、芝公園や浜離宮恩賜庭園(はまりきゅう
おんしていえん)の側を通った後、浜松町で東京湾に注いでいます。

 

 

      「天現寺橋」付近  安藤広重『広尾ふる川』

 

 

 

古川の源流の一つは玉川上水

1653(承応2)年に完成した玉川上水の余水は、現在の新宿御苑内
で池を作り、そこからの流れが古川の源流となりました。

 

1657年の「明暦の大火」後の都市改造に伴ない
古川の拡張工事が計画されることとなります。

 

1675(延宝3)年には、麻布山付近に大名屋敷や
寺社仏閣を造営にあたり、江戸湊までの最後の1キロほど
が運河として再整備されることになりました。

 

新しく作られた運河は「新堀川」と名付けられ
一方、運河の終点である麻布十番から、上流の川は
「古くからある川=古川」と呼ぶようになったといいます。

 

古川の下流は現在流れている場所よりも、もう少し南に
寄っていたという説もあるようで、それによりますと
この工事の際に本流が現在の場所に付け替えられたとのことです。

 

 

  「四の橋」の向かい側  麻布御殿(白金御殿)があった付近

 

 

 

綱吉の別邸づくりのために古川を拡張

1697(元禄10)年、現在の南麻布に将軍・綱吉の別邸
「麻布御殿(白金御殿)」が造られることとなり
その建設資材を運ぶための改修工事が行われることになりました。

 

また将軍が直接、船で古川をさかのぼって麻布御殿に入ることが
できるよう川幅を広げる工事や、掘り下げも行なっています。

 

普請のための土運びや資材を運ぶ人足場を、古川の河口から「一番」、
「二番」と順に設けていき、その十番目にあたる「十番組」が
現在の麻布十番と呼ばれる近くであったことが、「麻布十番」の
地名の由来といわれています。(「渡辺淳『東京風情』」)

 

 

         川幅が広くなっている「二の橋」

 

 

1699(元禄12)年には、川幅の拡張をする際、麻布十番付近に
あった岡田将監(しょうげん)の屋敷の西側が召し上げられ
新堀堀割となって「一之橋」と「二之橋」が架けられました。

 

「麻布御殿(白金御殿)」は、綱吉が2度訪れただけで
わずか数年後には火事で焼失してしまいましたが
工事で拡張された新堀川の川沿いは賑わいを増したようです。

 

「一之橋」のたもとには1716〜1736年(享保年間)の頃から
新河岸と呼ばれる荷揚げ場ができるようになり
近隣の住宅へ、薪や炭を運ぶ役目も果たすことになりました。

 

 

160906itinohashi              「一の橋」

 

 

しかし、かつては大名屋敷を中心とした市街地が形成されて活気を
見せていた街も、明治40年代に入りトロリー電車が通るように
なると、水上交通の役割は急激に少なくなっていったようです。

 

 

 

「一の橋」

赤羽川の合流口でもある「一の橋」は、三田1丁目から麻布4丁目に
かかる銅橋で、現在の橋は1983(昭和58)年に改修されたものです。

 

次の写真は、首都高一ノ橋ジャンクションの下から撮ったもので
写真の下につけた地図でいいますと「一の橋(o)」、
「一の橋公園橋(p)」のあたりになります。

 

 


 

 

 

「中の橋」でヒュースケン暗殺

なお、この地図をご覧になってもお分かりの通り、
「一の橋(o)」の右側には、まだいくつかの橋が残っていますが
「中の橋(r)」と「赤羽橋(s)」は昨年ご紹介しています。

 

中の橋(r)」(「『中の橋』で暗殺されたアメリカ公使館の通訳、
ヒュースケン」
)だけをご覧いただくつもりが、お隣の「赤羽橋(s)」
や古川を遡って「天現寺橋」というように、

 

古川に架かるいくつもの橋から昔の話を教えてもらうように
進んでいくうちに、今回の「一の橋」までたどり着きました。

 

 

              「中の橋」

 

 

 

ヒュースケンの暗殺を計画したとされる
清河八郎も「一の橋」で暗殺

なお「中の橋」で、アメリカ公使館の通訳だったヒュースケンを襲った
伊牟田尚平、樋渡八兵衛らの計画を、裏で画策したともいわれる
清河八郎自身も、後にこの「一の橋」で暗殺されています。

 

横浜の外国人居留地焼き討ちなども計画していた清河八郎が
佐々木只三郎、窪田泉太郎など8名の幕府の刺客によって
暗殺されたのは、1863年4月13日の夕暮れ時でした。

 

28歳で命を落としたヒュースケンと、34歳で暗殺された清河八郎。
「一の橋」付近は激動の幕末期の舞台となった場所でもあったようです。

 

 

        「うぐいす」と「梅」 赤坂「青野」

 

 

 

「麻布」の名前の由来は?

「麻布十番」の名の由来は、上に記したものですが、「麻布(あざぶ)」
の由来は諸説あり、はっきりしたことはわからないのだとか。

 

「麻布」という表記は、1713(正徳3)年頃からこの辺り一帯が
「町方」に指定されて町奉行の管理下に置かれた以降である旨の記述が
「文政町方書上」にみられるということです。(南麻布富士見町会)

 

麻布善福寺にある「北条氏朱印状」(1566・永禄9年)や
「豊臣秀吉朱印状」(1590・天正8年)では、「麻布」を
「阿佐布(阿左布)」「浅生」「浅府」「麻生」「麻田(あさふ)」
と記載しています。

 

 

 

 

 

色々な説

多くの麻を植えて布を織っていたことが地名となったという説が一般的
なものですが、草が浅々と(あっさりと)生えていたという説、

 

善福寺に麻が降り、そこから麻布留山(あさふるやま)
というようになって、それを省略したという説、

 

あるいはアイヌ語の「アサップル(船で渡るの意)」とするもの、
「アサム(底、奥)」から転じた、
などともいわれますが、結局のところはっきりとはわからないそうです。

 

なお、現在の「麻布」という地名は、江戸南西部のかなり広い部分を
指していますが本来は、麻布木村から善福寺周辺、現在の南麻布1丁目〜
3丁目、元麻布1丁目、2丁目あたりを「麻布」と呼んでいました。

 

 

 

 

 

芭蕉の句ではなかった「鶯を……」

ところで麻布といえば、芭蕉の「鶯を たずねたずねて 阿佐婦まで」
が有名ですが、実はこの句は芭蕉の作ではないということです。

 

しかも「鶯を たずねたずねて 阿佐婦まで」ではなく
  「鶯を たずねたずねて 阿佐婦かな」が正しいとか。

 

芭蕉のうぐいすの句では「鶯や 柳の後ろ 藪の前」
などがあるばかりで、あざぶの句はありません。

 

ちなみのこれは、薄暗いところを好んで低空飛行する落ち着きのない鶯が
柳の前にいたかと思うと、今度は藪の前にいる、という様を詠んだもので
『蕉翁句集』では1692(元禄5)年とするものの、1694(元禄7)年、
芭蕉51歳の時の作だそうです。(「伊藤洋のページ」)

 

この句がどなたの作かは今のところわかりませんが
うぐいすの鳴く、春はもうすぐですね。

 

スポンサードリンク




「徳島藩蜂須賀家」と「蜂須賀侯爵家」オーストラリア大使館の敷地

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

現在の建物は1990年に完成

さあオーストラリアの石鹸の花の香りに堪能したあとは、また
二の橋を渡った通り沿いにあるオーストラリア大使館に戻りましょう。

 

オーストラリア大使館
〒108-8361 東京都港区三田2-1-14 電話: 03-5232-4111 )

 

大使館が多いこの近辺でも群の抜くモダンなオーストラリア大使館の
建物ですが、この建物自体が出来たのは1990(平成2)年
といいますので、そんなに前のことではありません。

 

 

         1927年に作られた蜂須賀家の邸宅

 

 

 

1927年 蜂須賀家の屋敷が完成

オーストラリア大使館になる前は、この場所は蜂須賀家の屋敷でした。
蜂須賀正韶(まさあき)侯爵と、その子息・正氏
(まさうじ)により1927年に建てられた屋敷が上の写真。

 

蜂須賀正韶、正氏親子は共に、イギリスのケンブリッジ大学で学んだ
ことから、イギリスでの生活を想起される西洋風の邸宅を作りました。

 

1940(昭和15)年、オーストラリア政府はこのカントリーハウスを
借用し、その後の1,952(昭和27)年、この13,000平方メートルの
敷地と屋敷を購入して、初代のオーストラリア大使館としました。

 

それから30年以上の年月が経過した1988年、
新しい大使館事務棟、大使公邸、館員官舎の建設に着手。

 

オーストラリアの建設設計会社、デントン・コーカー・マーシャル社
の設計により、伝統に則りながらも建物の外壁をPVF2コーティングの
アルミ仕上げで装うモダンな建物が1990(平成2)年に完成したのです。

 

 

         990年に完成したオーストラリア大使館

 

 

 

世田谷区に残る蜂須賀家江戸屋敷の表門

蜂須賀家江戸屋敷の表門といわれるものが
現在、東京都世田谷区下馬に残っています。

 

西澄寺というお寺の山門となっているものですがその由来書によりますと
「三田にあった藩邸の門で幕末に作られたものを大正時代に移築した」
と記載されています。

 

切妻造り両出番所両潜戸附きの武家屋敷門の耕造をもち、
五万石から十万石の大名の格式を見せているこの門は、武家屋敷表門の
特徴を伝える数少ない建物として、都の有形文化財に指定されています。
                 (「江戸の武家屋敷を巡る」)

 

 

    世田谷に移築した蜂須賀家江戸藩邸表門(「歴史のバカ」

 

 

 

蜂須賀家の所有になったのはいつ?

江戸末期     蜂須賀家三田藩邸の表門造営
大正時代     世田谷に移築
1927(昭和2)    蜂須賀家欧風邸宅完成
1940(昭和15) オーストラリア政府、蜂須賀邸を借用
1952(昭和27)  敷地と屋敷を購入し、オーストラリア大使館に
1990(平成2)    現在のオーストラリア大使館及び付属施設が完成

 

ここまでの流れをまとめてみますとこのようになり
三田藩邸の表門が作られたのが幕末期ということなのですが、

 

この蜂須賀家の表門は、正確にはいつ作られたものなのか
という以前に、そもそもこの地がどの時点で蜂須賀家の所有
になったのかがよくわかりません。

 

といいますのは、以前この辺りを御紹介した時に、この場所は
蜂須賀家の屋敷はなく、他の藩の屋敷があったからです。

 

 

 

現在のオーストラリア大使館付近

現在のこの近辺の地図を見てみましょう。
次の地図の左上が麻布十番駅です。

 

麻布十番から南(下)に向かって中ほどまで行ったところの
水色の矢印で示した場所が「二の橋」になります。

 

そこから東(右)方向のピンク色の道「日向坂(振袖坂)」を行くと、
まず最初にあるのが「三田共用会議所(A)」。
そのお隣が「オーストラリア大使館(B)」となります。

 

 

水色の矢印が「二の橋」 ピンク色の道が「日向坂(振袖坂)」
A が「三田共用会議所   B が「オーストラリア大使館」

 

 

 

江戸時代の地図には蜂須賀家はない

厳密には同じ場所ではありませんが、大体この辺りを
表した江戸時代の切絵図が次のものです。
水色の矢印が指している部分は先ほどと同様「二の橋」です。

 

 

水色の矢印の位置が「二の橋」で、そこから2つめの
「島津淡路守忠寛」が、現在オーストラリア大使館の場所

 

 

現代の地図で「三田共用会議所(A)」にあたる部分は
「丹波柏原藩(兵庫)二万石 織田出雲守信民」と書かれています。

 

お隣の現在、オーストラリア大使館が建っていると思われる場所は
「日向国佐土原藩(宮崎)二万七千七十石余 島津淡路守忠寛」と、

 

ちなみにその下にある広大な敷地は
「陸奥会津藩(福島)二十三万石
松平肥後守容保(まつだいら  ひごのかみ  かたもり)」とあります。

 

この地図は、江戸の末期の藩主名を書いてありますので
幕末期、現在のオーストラリア大使館になっている場所には
日向佐渡原藩(ひゅうがさどわら)の藩邸があったと思われます。

 

島津忠寛(しまづ ただひろ)は、日向国佐土原藩の第11代、最後の藩主で
1828(文政11)年に、第10代・島津忠徹の三男として三田藩邸で生まれ
1839(天保10)年の父の死により藩主となり、1896(明治29)年に没。

 

次の江戸時代の切絵図も同様で
「三田共用会議所」にあたる部分は「織田出雲守」と、
オーストラリア大使館の場所は「島津淡路守」と記載されています。

 

 

こちらも同様、左のほぼ中央にある「二の橋」の右には
「織田出雲守」と「島津淡路守」が並んでいます

 

 

 

オーストラリア大使館HPの記載

蜂須賀家の江戸屋敷は、上屋敷が東京駅のそば、千代田区丸の内鍛冶町に
三田四国町(現在の港区芝2〜5丁目)と南八丁堀に中屋敷、
目黒に下屋敷があったそうです。

 

オーストラリア大使館のHPの「大使館の敷地の歴史」
には次のような記載が見えます。

 

「在京オーストラリア大使館は、東京都三田にあります。
13,000平方メートルの敷地は、徳川時代、将軍が定めた
参勤交代の制度に従い、蜂須賀家が所有していたものです」

 

「将軍が定めた参勤交代の制度に従い、蜂須賀家が所有していた」
という部分を見ますと、徳島藩蜂須賀家の江戸屋敷が
オーストラリア大使館ののある場所にあったように読めます。

 

ですがそうではなく、幕末以降に蜂須賀侯爵家となってからの
蜂須賀家がこの地を使用したのではないでしょうか?
(1884(明治17)年に爵位を授けられ、1945(昭和20)年、爵位返上)

 

 

 

1896(明治29)年には蜂須賀邸が

下の地図はちょっと見づらくて申しわけありませんが
オーストラリア大使館があった場所の
1896〜1909年(明治42年測図 大正4年製版)の地図です。

 

 

 

 

水色の縦線を引いた右側に「蜂須賀邸」と書かれています。
これは私の推測に過ぎず確かなことではありませんが、

 

ひょっとしたら、世田谷に移築した蜂須賀家の表門があったのは
ここではなく、三田四国町にあった中屋敷のもので、それを
「三田藩邸から移した」と表記したのかもしれないという気もします。

 

 

この表門のあったのは「三田四国町の蜂須賀家中屋敷」?
あるいは「現在、オーストラリア大使館のある場所」?

 

 

 

徳島藩蜂須賀家

蜂須賀氏は織田氏の配下から、正勝が秀吉の与力として活躍し
正勝の子・家政とともに秀吉の直臣となり阿波の大名となりました。

 

秀吉の死後は、家政の子・至鎮が東軍となり徳島藩の外様大名として
将軍から松平の姓を与えられ、明治維新まで続いた家です。

 

とはいっても8代・蜂須賀宗鎮は水戸徳川家の御連枝からの養子であり、
13代・蜂須賀斉裕の実父は11代将軍・徳川家斉ということもあり
いわゆる蜂須賀家の血筋としては絶えているということができます。

 

 

 

 

 

蜂須賀侯爵家

また侯爵になった後の蜂須賀家は、屈指の富豪華族ともいわれ
北海道の大規模農場経営に手を染めましたが、失敗しています。

 

最初のオーストラリア大使館となった邸宅を作った18代当主・蜂須賀正氏
は世界的な鳥類学者として有名な一方、犯罪にも度々関係し「華族の品位
を落とす」ということから、1946(昭和20)年7月には爵位を返上。

 

その上、正氏の死後は暴力団絡みの相続争いも起こり
財産の多くを失って没落、というように蜂須賀家は
ドラマチックな経緯をたどっているということです。

 

スポンサードリンク




もう一つの「保科家」は麻布のお蕎麦屋さんの生みの親? 「二の橋」古川の橋12

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

160814ninohashi

 

 

保科正之の方ではない「保科家」

「三の橋」のそばには保科正之が初代会津藩主となった会津藩保科家の
下屋敷がありましたが、今日は「二の橋」のそばの保科家の御紹介です。

 

下の江戸切絵図の緑色の矢印が「三の橋」で、その矢印がある藤色の
●  ●  ●」で囲った場所が会津藩保科家の下屋敷「三田藩邸」でした。

 

切絵図では
「陸奥会津藩(福島) 松平肥後守容保 二十三万石」とあります。
(松平肥後守は、会津藩保科家のことで、容保は会津藩最後の藩主)

 

 

aiduhoshina緑色の  ←「二の橋」 「 ● ● ● 」は会津藩松平肥後守の下屋敷
水色の  ←「三の橋」 「———」が飯野藩保科弾正忠の上屋敷

 

 

会津藩保科家の上に見える水色の矢印は「二の橋」を指していますが
「二の橋」の左(西側)に水色の線で囲った場所が、もう一つの保科家。

 

家紋(並び九曜紋)とともに
「上総飯野藩 保科弾正忠正益」と記されています。
現在の住所では麻布十番3丁目、以前は網代町と呼ばれていた場所です。

 

 

160729ninohasi「二の橋」を渡った先の右奥の方が保科正之の屋敷で
橋の手前、左の方にあったのが保科弾正忠の保科家

 

 

「二の橋」から飯野藩の保科家の屋敷があった方を写したのが次の写真。
右のビルの後の方、またはるか右の方まで保科家の敷地でした。

 

 

160814ninohashi      右の建物あたり一帯が「保科家弾正忠の上屋敷」

 

 

 

「弾正忠」は何と読む?

ところで保科家の後に続く「弾正忠」が読めません……。
保科家の敷地の中には、家紋と一緒に
「上総飯野藩(千葉) 保科弾正忠正益 二万石」とあります。

 

 

aiduhoshina

 

 

この江戸切絵図は復刻版ですので「上総飯野藩」の説明として
(千葉)と加えられており、版籍奉還をした最後の藩主の
「正益(まさあり)」の名前が記されています。

 

そして問題の「弾正忠」の読み方ですが、これは
律令制の官位だということは前々回に書きましたが、

 

官位とは「官職」と「位階」を組み合わせた言葉で
国の機関で働く人に割り当てられた職場のことです。
「位階」とは地位や身分の序列を表したものです。

 

 

hyugazakasendaizaka       この切絵図では「家紋 保科弾正忠」とのみ

 

 

 

「弾正忠(だんじょうのじょう)」

「弾正台」というのは、今でいう警察のような働きをしていて
「弾正台」の長官を「尹(いん、かみ)」といい、「弾正尹」と書いて
「だんじょうのいん」あるいは「だんじょうのかみ」と読みます。

 

続いて、「大弼(だいひつ、だいすけ)」「小弼(しょうひつ、
しょうすけ)」「大忠(だいじょう)」「小忠(しょうじょう)」
「大疏(だいそ、だいさかん)」「小疏(しょうそ、しょうさかん)」。

 

ということで保科正益は「弾正忠(だんじょうのじょう)」と
なるのですが、「だんじょうのちゅう」と書いてあるものが多く
見られますが、正しくは「ちゅう」ではなく「じょう」だとか。

 

ですから「保科弾正忠正益」は
「ほしなだんじょうのじょうまさあり」となります。

 

織田信長の家も「弾正忠」を代々名乗り、また米沢上杉家当主は代々、
「弾正大弼(だいひつ、だいすけ)」を叙位されて名乗っていました。

 

 

aiduaoi          会津藩保科家の家紋「会津葵」

 

 

 

正之の養子により廃嫡

こちらの保科家は、保科正貞が初代藩主となる飯野藩保科家です。
初代高遠藩主の保科正直の三男として生まれましたが
7歳の時に子どものいない兄・正光の猶子となります。

 

猶子(ゆうし)というのは、養子より少し緩やかな親子関係を
指しますが正貞の他に、親類の左源太という養子もいたそうです。

 

 

               |———— 左源太
        高遠藩主   |
保科正直 ——— 正光 ———|———— 正貞(正光の弟)
       (1561〜1631) |     (1588〜1661)
               |
               |———— 正之
                     (1611〜1673)
                       ↑
                         |
   徳川家康 ——— 徳川秀忠 ——— 幸松(保科正之)

 

 

15歳で実父・正直、養父・正光と同じ「甚四郎」に改名して秀忠に仕え、
18歳で諸大夫、従五位下弾正忠を叙任し、大坂冬の陣、夏の陣と活躍。

 

1617(元和3)年、30歳の時に、正光が秀忠の子・正之
(当時は幸松)を養子として迎えたために廃嫡。

 

 

narabukuyo         保科家の家紋「並び九曜(角九曜)」

 

 

 

43歳で3千石の旗本

養父の正光と不仲だったともいう正貞は35歳で高遠を去り、親類の
いた伊勢桑名藩などに寄宿したあとに、1624(寛永元)年、江戸に移り
43歳で下総香取両群内に3000石を与えられ旗本になりました。

 

1631(寛永8)年には、大坂定番になっていますが、この大坂定番
(おおさかじょうばん)とは、大阪城での警護を主とする仕事で
2万石前後の譜代大名が任じられたようです。

 

仕事は大阪城の警備に限らず、大坂東西町奉行、堺奉行の監督、
直領の徴祖と訴訟や裁判、西日本の大名の監視と多岐にわたりました。

 

 

160814ninohashi     保科正貞の亡くなった保科弾正忠の麻布上屋敷跡

 

 

 

保科家の本家に

同じ年に、保科正之から保科家代々伝来の家宝文物を
譲り受け、ここで保科正貞の保科家は本家となりました。

 

その後、7000石を領していた正貞は1648(慶安元)年、1万石を加増
され、上総国飯野(千葉県富津市)と摂津国豊島群浜村(大阪府豊中市)
に陣屋を設け、1万7000千石の大名として飯野藩を立藩。

 

1680(万治3)年11月22日に、年齢を感じ大坂定番を辞した翌年、
1661(寛文元)年11月1日、74歳で江戸藩邸で亡くなっています。

 

 

iinojinyakohun       飯野陣屋の敷地の中にあった古墳(千葉県富津市)

 

 

 

飯野藩藩主

保科正貞の飯野藩は、現在の千葉県富津市の藩で
お城はなく飯野陣屋に藩庁が置かれていました。

 

このあたりは転封が頻繁に行われた地ですが、1648(慶安元)年の
立藩以来、1868年の明治維新にいたる223年間、一度の国替えもなく
藩主の保科家が10代に亘って治めています。

 

富津市飯野にあった飯野陣屋は、長州徳山陣屋、越前敦賀陣屋
とともに、日本三代陣屋の一つにも数えられる陣屋。

 

東西は約350メートル、南北は約280メートルに及び、陣屋の内邸
(うちやしき)の面積は41,000坪(東京ドームの3倍ほど)で、
周囲にある藩士の邸宅、外邸を合わせますと71,000坪にもなりました。

 

保科正貞は大坂定番として、死去の前年まで大坂城に詰めていたので
この立派な陣屋で長い時を過すということはなかったそうです。

 

 

160919sarasinahoriisoba

 

 

 

7代藩主がいなかったら、麻布の有名な
お蕎麦屋さんはなかったかも?

時は移って寛政年間、上総飯野藩藩主は第7代藩主
・保科正率(まさのり 1752〜1815)になっていました。

 

保科家ゆかりの信州からきた信濃布を商う清右衛門は、元禄の初め頃
飯野藩の江戸麻布上屋敷の長屋に逗留することを許されます。
清右衛門は「布屋太兵衛」という商号で晒布の行商をしていました。

 

こちらも第を重ね、8代清右衛門になっていた1789(寛政元)年。
本業は布屋の清右衛門は、蕎麦を打つのがめっぽう上手。
藩主・正率のすすめにより清右衛門は蕎麦屋になってしまったのです。

 

この流れを汲むお蕎麦屋さんが、現在も麻布にあります。
さて、どのお蕎麦屋さんでしょうか?、次回をお楽しみに!

 

スポンサードリンク