「日向坂(振袖坂)」と「仙台坂」を繋ぐ「二の橋」 古川の橋9

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160729ninohasi

 

 

「二の橋」の欄干は矢羽根模様?

古川の橋、今日は「二の橋」の御紹介です。
冒頭の写真の手前側が麻布十番4丁目6番 で、
「二の橋」を渡った先は三田2丁目1 番 になります。

 

港区に入った古川の橋を「天現寺橋」から辿ってきて
今日の「二の橋(  m  )」は、11番目の橋。
住所が「南麻布」から、初めて「麻布十番」になりましたね。

 

 

古川に架かる橋hurukawanikakaruhasi天現寺橋(a)・狸橋(b)・亀屋橋(c)・養老橋(d)・青山橋(e)・五の橋(f)・
白金公園橋(g)・四の橋(h)・新古川橋(i)・古川橋(j)・三の橋(k)・
南麻布一丁目公園橋(l)・二の橋(m)・小山橋(n)・一の橋(o)・
一の橋公園橋(p)・新堀橋(q)・中の橋(r)・赤羽橋(s)

 

 

現在の「二の橋」は、1998(平成10)年12月に新しく架け替え
られたもので、長さは20メートル、幅は15メートルほどの橋です。
橋の様子を書こうとして、その部分の名称がわからず……。

 

「欄干」でもないですし、「手すり」とも違うし、と検索して
みましたら、「欄干(欄杆・おばしま・手すり)」とありました。
欄干でいいのですね、あるいは手すりでもいいみたい。

 

 

160729ninohasi    ↑ 「二の橋」のこのあたり矢羽根模様に見えませんか?

 

 

 

矢羽根模様は毛利家から?

とにかく「二の橋」のその手すりの部分の模様が
矢羽根を象ったようにも見えますよね。

 

と書きながら、ふっと思いました。
江戸時代、この「二の橋」を渡った場所には徳山藩毛利日向守の
屋敷があったことから「日向橋」とも呼ばれていた橋です。

 

ということは、毛利家から「三本の矢」→  矢羽根模様ということ
なのでしょうか?、調べた限りではそのような記述は見当たりませんが。

 

 

160729ninohasi      麻布十番側から見た「二の橋」はすでに坂道

 

 

 

「日向坂(ひゅうがざか)」

上の写真でもおわかりの通りに、「二の橋」は
麻布十番(手前)から三田(橋を渡った先)へと上り坂になっています。
そしてこの「二の橋」を渡ると、そこからは「日向坂」が始まります。

 

 

160814hyugazaka     「二の橋」を渡ったところから始まる「日向坂」

 

 

「日向坂」の名前の由来としては以下のように書かれています。
「江戸時代前期南側に徳山藩毛利日向守の屋敷があった。
振り袖坂ともいった。由来は不明である。誤って日なた坂とも呼んだ」

 

「由来は不明」というのは「日向坂」の方ではなく
「振袖坂」の名の由来が不明ということですよね?

 

 

 

「日向坂」の別名「振袖坂」

「振袖坂」とはこれまた美しい名前の坂ですが、同じ名前の坂が
仙台の宮城野区榴岡(つつじがおか)にもあることを知って
『flom  仙台』)また、ふっと思いました。(よくふっと思う日です)

 

「日向坂(振袖坂)」を「二の橋」まで戻り、そのまま真っすぐ
麻布十番の方に行きますと、南麻布1丁目と元麻布1丁目の間に
「仙台坂」という坂があります。

 

 

160712sendaizaka     元麻布1丁目と南麻布1丁目の間にある「仙台坂」

 

 

名前の由来は、当然のことながら仙台藩伊達家の下屋敷があった
ことによるのですが、坂に隣接している南側一帯が仙台藩下屋敷でした。
住所は南麻布1丁目2-5で、1657(明暦3)年5月14日に拝領した屋敷です。

 

 

hyugazakasendaizaka・・・)内が「仙台藩伊達家下屋敷
その北側の(———)が「仙台坂
 ↓  )の所が「二の橋(日向橋)
———)が「日向坂(振袖坂)

 

 

 

品川区にも「仙台坂」

現在は汐留の日本テレビタワーがあるあたりにも仙台藩の屋敷が
あって、近くにある坂はやはり「仙台坂」と呼ばれていました。
そちらは品川区東大井4丁目と南品川5丁目の間にあるそうです。

 

伊達家は外様大名の伊達政宗が樹立し、明治になって廃藩置県を
迎えるまでの長い間、途切れることなく仙台を統治した大名です。

 

 

140915satumaimotakikomigohan

 

 

 

諸藩中、第3位の石高

石高は、表高62万56石4升4合で、諸藩のなかで第3位を誇ります。
実高は、支藩であった一関藩を含めて18世紀初頭には
100万石を超えていたといいます。

 

江戸の人々が食べていたお米も、仙台藩でとれたものだったそう。
また、干しアワビやフカヒレも長崎俵物として外貨も得ていたとか。

 

伊達本家は大広間詰国持大名で代々、将軍家より松平姓を許された
家でもあり、歴代藩主のほぼ全てに、陸奥守の官位が与えられています。

 

伊達家は地方知行により多くの陪臣を抱えており、直属家臣が約7千人
(江戸中期では約1万人)、陪臣を合わせますと2万数千人から
3万人(江戸中期は約3万5千人)という兵力を抱えていました。

 

 

150503hakkogenmai

 

 

 

「陪臣」とは、家来の家来

ここで「陪臣」という言葉が出てきましたが
「陪臣(ばいしん)」とは「又者(またもの)」ともいわれ
主従関係において家臣の、そのまた家臣を指す言葉です。

 

たとえば将軍の家臣といえば
大名や旗本、御家人であり「直臣(じきしん)」。
大名を除いた旗本、御家人は「直参(じきさん)」と呼びます。

 

その大名や旗本、御家人の家臣は、将軍から見れば「陪臣」となります。
「陪」は重なるの意味で、「陪臣」は家来の家来、またげらいのこと。

 

ちょっと話はそれますが前回、書きました
寺坂吉右衛門
のことを陪臣という人がいます。
寺坂が、浅野内匠頭の家臣・吉田忠左衛門の足軽だったからです。

 

確かに最初はそうでしたが後に、浅野内匠頭の足軽になっていますので
寺坂吉右衛門は浅野内匠頭の陪臣ではなく、れっきとした家臣です。

 

 

150528teapothuji

 

 

 

仙台の「振袖坂」もなだらかな坂

話を戻しまして家臣で1万人、陪臣を合わせると3万人以上という伊達家
の家臣のうち、どれほどの人が麻布の仙台藩伊達家下屋敷にいたかは
わかりませんが、かなりの数だったことは想像に難くありません。

 

そこで暮らす多くの人たちも、当然この辺りを歩いたことでしょう。
「仙台坂」の方は、長さも長く傾斜がきつい坂然とした坂(?)
ですが、「日向坂(振袖坂)」はおっとりとした短い坂。

 

次の地図でもおわかりの通り「日向坂(振袖坂)」は「仙台坂」の
半分ほどの長さですが、仙台の宮城野区榴岡(つつじがおか)に
ある「振袖坂」もなだらかで短い坂だということです。

 

 

 

hyugazakasendaizaka仙台藩伊達家下屋敷沿いにある「仙台坂」の
少し先の「二の橋」を渡ると「日向坂(振袖坂)

 

 

 

仙台の「振袖坂」の名の由来

「郷土史『仙台耳ぶくろ』三原良吉  宝文堂刊」には
「振袖坂」の名の由来としてこのように記されているそうです。

 

享保(1716〜1735)の改革で知られる第8代将軍・徳川吉宗の時代。
信仰心が厚く、参詣することを願いながらも病死した仙台の呉服屋
の娘の魂が、死後お寺に行き巡礼者に自分の振袖の片袖を託します。

 

娘の四十九日にあたる日に巡礼者は片袖を親元に届け、片袖を埋めた
塚のそばにあった坂を「振袖坂」と呼ぶようになったというお話です。

 

 

150528thicpukikkou

 

 

 

「振袖坂」命名の一考察(?)

麻布の「仙台坂」の先にあった「日向坂」は、「仙台坂」とは異なり
おだやかな坂で、まるで故郷、仙台の「振袖坂」を思わせる坂、

 

その坂を通る時に、仙台の「振袖坂」の片袖のように、今すぐここから
懐かしい故郷、仙台へ飛んで帰りたいと思っていたのかもしれません。

 

そうした人たちが「仙台坂」の少し先に位置する「日向坂」を
故郷の「振袖坂」と同じ名で呼ぶようになったのではあるまいか、
との妄想が湧いてきてしまったというわけです。

 

 

160814hyugazakaue       ここで「日向坂(振袖坂)」は終わり

 

 

 

明暦の大火、振袖火事絡みではない

最初に「振袖坂」と聞いた時に、1657(明暦3)年の江戸の
大火、振袖火事に関連する名前なのかなと思いました。
(その話を書くと長くなりますので、また今度)

 

ところが「振袖坂」の名はそれとは無関係のよう。
振袖火事絡みでしたら、坂の名の由来として残っているでしょう。
ということは振袖火事とは関係のないところから来ているのではと。

 

暑い日差しの中を歩いていて、ちょっと考え過ぎてしまったのかも。
そうそう「二の橋」の袂(たもと!)に
素敵なカフェがありましたので、行ってみましょうか。

 

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赤坂の「南部坂」の後にできた麻布の「南部坂」 麻布の坂2

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「有栖川公園」「南部坂」「ナショナル麻布」

前回は有栖川公園を、その前の回は有栖川公園と道を隔てた反対側に
ある、ナショナル麻布スーパーマーケットを御覧いただきました。

 

今日は、その有栖川公園とナショナル麻布スーパーマーケット
の間にある「南部坂」を御紹介しましょう。

 

次の地図で黄緑色の三角形が有栖川公園で、ナショナル麻布(
との間を通っているピンク色が「南部坂」です。

 

 

arisugawa中央左の三角形の黄緑色が「有栖川公園」(地図/Mapionnに加筆)
が「ナショナル麻布スーパーマーケット」
その中間に通っている道が「南部坂」

 

 

有栖川公園は南麻布5丁目にあり、ナショナル麻布は南麻布4丁目。
また有栖川公園の地形は東側(地図でいうと右側)が高く、
西に向かって低くなっています。

 

ということは地図の上下左右ででいいますと
「南部坂」の右の方が高くて、左は低地、
「南部坂」の上は南麻布5丁目で下は4丁目ということになります。

 

 

 

「南部坂」の下から上を見る

次の写真は、有栖川公園の入口あたりから
「南部坂」を少しのぼり、坂の上の方を撮った写真です。

 

 

160602nanbuzaka         「南部坂」の左側は有栖川公園

 

 

この写真ですと、あまり坂の高低差がわかりにくく
平地のような感じがしてしまいますが、実際は結構
上り坂になっていて、勾配は7パーセントということ。

 

「南部坂」の左に見えるのは、有栖川公園の木々。
写真を撮った時は、びわがたくさんなっていましたよ。

 

 

 

「南部坂」の上から下を見る

それでは次は今の写真とは反対に、坂の上から見てみましょう。
写真ではなく奥村土牛の絵画。
季節も今とは反対のようで、木々の葉が全て落ちています。

 

 

okumuratogyu           奥村土牛『麻布南部坂』

 

 

タイトルは『麻布南部坂』。
「南部坂」は2つあるので、ちゃんと「麻布」が入っていますね。

 

奥村土牛は、1889(明治22)年に生まれ、1990(平成2)年
に101歳で亡くなった画家ですが、『麻布南部坂』は大正期に
描かれた初期の作品ということです。

 

個人の所有であまり展覧会にはでないようですが、今年3月から
5月にかけて開催された、東京・渋谷の「山種美術館」での
「奥村土牛展」に16年ぶりで公開されました。(「サライ」2016.3.17)

 

 

 

標識の断り書

港区が設置した「南部坂」の標識にはこのように書かれています。
(影になって見づらくてごめんなさい)

 

 

160602nanbuzakaazabu          「南部坂」(麻布)の標識

 

 

「有栖川宮記念公園の場所が、赤坂からうつってきた盛岡城主
南部家の屋敷があったため名づけられた。(忠臣蔵の南部坂は赤坂)」

 

「南部坂」といえば、やはり多くの人には「南部坂雪の別れ」の
『忠臣蔵』がすぐに思い起こされるのでしょう。

 

そこであらかじめ「こちらはあの『南部坂』ではありませんのでお間違い
ないように」という感じで書かれているのが、ちょっとおかしいです。

 

 

 

有栖川公園の反対側にはドイツ大使館

先ほどの「南部坂」の下から上を撮った写真ですが
この写真の少し手前の右側には、ドイツ大使館があります。

 

 

160602nanbuzaka     「南部坂」の左側は有栖川公園、右はドイツ大使館

 

 

地図でいいますと三角形の黄緑色が「有栖川公園」で
オレンジ色の()が「ナショナル麻布スーパーマーケット」、
その右側緑色の()が「ドイツ大使館」になります。

 

 

arisugawa        「南部坂」周辺の地図(Mapionに加筆)

 

 

ドイツ大使館()の写真がこちらです。

 

 

160602deutschebotschaft       「南部坂」に面しているドイツ大使館

 

 

右の方が入口になりますが、左は坂になっているのがわかりますね。
坂に面した壁には、かつてドイツが東西に分かれていたことや
ベルリンの壁などについて書かれています。

 

 

160602nanbuzakadoitu   「南部坂」に面した壁面にはドイツに関することを提示

 

 

はからずもということなのでしょうが、壁面展示が「南部坂」
の坂で斜めになっているのが、何かお洒落に見えるような気もします。

 

 

 

赤坂の「南部坂」

ちなみに赤坂の「南部坂」はこんな感じの坂です。
「忠臣蔵の『南部坂雪の別れ』はフィクション 赤坂の坂10」

 

右側の高台はアメリカ大使館宿舎で、正面の高い建物は
アークヒルズにあるANAインターコンチネンタルホテル。

 

 

151212nanbuzakaue          こちらは赤坂の「南部坂」

 

 

ほぼ同じ場所の夜の写真がこちら。

 

 

151209nanbuzaka           赤坂の「南部坂」(夜)

 

 

当然といえば当然ですが、
赤坂と麻布の「南部坂」は全く雰囲気が違いますね。

 

違いといえば、麻布の「南部坂」は名前の由来となった南部家
(有栖川公園)に隣接しているのに対して、赤坂の「南部坂」は南部家
の近くということではありますが、隣接していたわけではありません。

 

赤坂の南部家下屋敷があった場所と、「南部坂」は
100メートル以上離れていたということです。

 

 

nanbuzaka2上の右にある 南部家→浅野家 ピンク色が赤坂「南部坂」
下の左にある 浅野家→南部家 ピンク色麻布が「南部坂」
              (地図/Mapionに加筆)

 

 

地図の右上あたりにある()が、最初は南部家で後に浅野家の下屋敷に
なった場所で、そのそばにあるピンク色の線が赤坂の「南部坂」です。

 

左下の有栖川公園()は、反対に浅野家・下屋敷から南部家・下屋敷に
なった場所で、隣接しているピンク色の線が麻布の「南部坂」。

 

そして現在の赤坂の「南部坂」はアメリカ大使館宿舎に面していて、
麻布の「南部坂」はドイツ大使館に隣接しているというわけですね。

 

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「鳥居坂」鳥居元忠は大石内蔵助の高祖父 麻布の坂1 

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160411toriizaka

 

 

都道319号線を渡ると六本木

麻布十番の絵てぬぐいのお店「麻の葉」を出て、麻布十番駅の方に
少しだけ戻った角を左に曲がると大きな通り(都道319号)に出ます。

 

「東京都道319号環状三号線(とうきょうとどう319ごうかんじょう
さんごうせん)といい、港区海岸2丁目から江東区辰巳2丁目までの
23,7キロメートルの道路で「外苑東通り」もその一部。

 

「都道319号」という名前よりも「明治路通り」や「国道6号水戸街道」
「言問通り」というようにそれぞれの地名で呼ばれているそうですが
今日はその都道319をから始まる「鳥居坂」のお話です。

 

「鳥居坂下」の交差点から「鳥居坂」を上って行くと、長い直線
の道が続き突き、当たりは六本木通りの「六本木五丁目交差点」。
付近には六本木ロアビルやドンキホーテなどがあります。

 

 

toriizaka(地図/「Mapion」に加筆)
・・・・・・」は都道319号で、「  ◉  」のあたりが「麻の葉」
 ———  」が鳥居坂です。

 

 

 

右側が「鳥居家(現在はシンガポール大使館)」

鳥居坂下交差点のそばから「鳥居坂」を見た写真が次のもの。
木々が見えている「鳥居坂」の右側はシンガポール大使館です。

 

 

160411toriizaka       都道319号から始まっている「鳥居坂」

 

 

江戸時代、この場所に大名の鳥居(鳥井)彦右衛門元忠の
お屋敷があったことから「鳥居坂」と名づけられました。

 

鳥居坂下交差点から六本木五丁目交差点までの間には
麻布麻地区総合支所、フィリピン共和国大使館、
東洋英和女学院などが並んでいます。

 

 

 

「きみちゃん」と「李垠(りぎん)」

「鳥居坂」の少し先には麻布十番パティオにある
「きみちゃん」にゆかりの建物もあります。

 

 

blog_import_51535fef6677a      麻布十番のパティオにある「きみちゃん」の像

 

 

童謡「赤い靴」のモデルといわれる「きみちゃん」は1911年
(明治44年)に鳥居坂教会の運営する孤女院(女の子だけの
孤児院)で9歳で亡くなり、現在は青山墓地で眠っています。

 

また、少し前にブログで御紹介した李王家の邸宅があったのもここ。
1907年(明治40年)の12月、大韓帝国の皇太子であった10歳の李垠
(りぎん)は、留学という名の元に人質として日本にきました。

 

長じた李垠はここで結婚式も挙げ、今年の夏に赤坂プリンス
クラシックハウス」として生まれ変わる、赤坂の旧李王家東京邸
に移るまでの日々を鳥居坂で過ごしています。

 

 

rigin              李垠(りぎん)

 

 

 

300年前に誕生

「鳥居坂」という名前が付けられたのは
元禄年間、1688〜1703年頃だといわれています。

 

おもしろいことに1673 ~ 1681年(延宝)の地図には、「鳥居坂」の
名前がないだけではなく、坂そのものも見当たらないことです。

 

その後の1699年(元禄12年)の地図になりますと「鳥居坂」が登場。
このことから、1681年から1699年までの間に、鳥居家の敷地の一部を
道にしたと考えられているようです(「港区 鳥居坂物語」)。

 

 

160411toriizakaue        「鳥居坂」の上から下を見た写真

 

 

 

鳥居元忠は「鳥居坂」を知らなかった!

先ほど私は「鳥居坂」の名前は、「江戸時代、この場所に大名の
鳥居彦右衛門元忠の屋敷があったことから名づけられた」
と一般的に言われていることを書きました。

 

徳川家の家臣で下総香取郡矢作藩の初代藩主である鳥居元忠
(とりい  もとただ)は、1539年(天文8年)に松平氏の
家臣・鳥居忠吉の三男として三河(愛知県岡崎市)に生まれ、

 

1600年(慶長5年)の8月1日、62歳の時に関ヶ原の前哨戦である
伏見城の戦いで鈴木重朝との一騎打ちで討ち死をしています。

 

 

151030kinokuni

 

 

つまり亡くなったのは1600年ということで、「鳥居坂」が作られた
100年近く前にすでに亡くなっているのですから、元忠自身は
「鳥居坂」の存在は全く知らなかったはずです。

 

となりますと「江戸時代、この場所に大名の鳥居彦右衛門元忠
の屋敷があったことから名づけられた」というよりは

 

「この場所の近くにあった大名屋敷『鳥居家』から名づけられた」
と表現する方がより正確で、かつ誤解がないようにも思えますね。

 

 

toriizaka           ピンク色の部分が「鳥居坂」

 

 

 

「鳥居坂」が出来た当時の当主は?

ここで、鳥居家の歴代当主を見てみましょう。
鳥居家は元忠が初代ではありませんが、ここでは
わかりやすく元忠を①として数えることにします。

 

 

*  歴代当主の名              当時の領地
_______________________________ 

① 元忠(もとただ)1539〜1600

 

② 忠政(ただまさ)1566〜1628      1590年〜1600年
 元忠の二男              下総矢作藩(4万石)

                    1600年〜1622年
                    陸奥磐城平藩(10万石)

                    1622年〜1636年
                    出羽山形藩(22→24万石)

 

③ 忠恒(ただつね)1628〜1636          ↓
 忠政の長男                   断絶
 末期養子が認められず、山形藩没収

                         再興
④ 忠春(ただはる)1624〜1663      1636年〜1689年
* 忠政の三男、忠恒の異母弟       信濃高遠藩(3万2千石)

 

⑤ 忠則(ただのり)1646〜1689           改易
 忠春の長男
                         再興
⑥ 忠英(ただてる)1665〜1716       1689年〜1695年
 忠則の次男              能登下村藩(1万石)

                    1695年〜1712年
                    近江水口藩(2万石)

                    1712年〜1871年
                    下野壬生藩(3万石)

 

⑦ 忠瞭(ただあきら)1681〜1735 忠則の五男
⑧ 忠意(ただおき)1717〜1794 忠瞭の長男
⑨ 忠見(ただみ)1750〜1794 忠意の四男
⑩ 忠熹(ただてる)1776〜1821 忠見の次男
⑪ 忠威(ただあきら)1809〜1826 忠熹の次男
⑫ 忠挙(ただひら)1815〜1857 忠威の弟
⑬ 忠宝(ただとみ)1845〜1885 忠挙の三男

                   1869年(明治2年)版籍奉還

 

 

120px-Japanese_Crest_Torii_Sasa.svg            鳥居氏 家紋「鳥居笹」

 

 

1681年には記載がなかった「鳥居坂」が地図に現れたのは
1699年からですので、その間の当主といいますと
⑤忠則か、⑥忠英ということになるでしょうか。

 

 

 

「三河武士の鑑」といわれた元忠

なお「③忠恒」から「⑥忠英」の時代、右の領地の
記載には「断絶」と「再興」の言葉が見えます。

 

断絶した家がなぜすぐ再興したのか不思議に思いますが、これには
「三河武士の鑑」と謳われた鳥居元忠の活躍が関係しているのです。

 

元忠は、今川氏の人質として「松平竹千代」と呼ばれていた
徳川家康のもとに、13歳の時から仕えていました。

 

人質だった家康は3歳上の元忠に、主従を越えて共に育った
兄弟のような感情さえ抱いていたのではないでしょうか。

 

 

130617gekkabijin

 

 

会津征伐に出兵する家康は、伏見城に残して行く元忠に言います。
手勢不足のため伏見にわずかな人数しか残せず苦労をかける、と。

 

すると元忠は、このように答えたのです。

 

「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で
事足りる。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要である。
もし変事があって大坂の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死する
ほかないから、人数を多くこの城に残すことは無駄である。
一人でも多くの家臣を城から連れ出して欲しい」と。

 

家康と元忠はその夜、おそくまで酒を酌み交わしたといいます。
元忠が10歳の家康に仕えてから、50年の歳月が流れていました。

 

 

140222koke470

 

 

そして元忠は伏見城で討死し、京極口に晒されていた
首級は知人の商人が葬ったということです、
元忠の忠節は「三河武士の鑑」と称されました。

 

生涯、家康への忠義を貫いた元忠は、秀吉からの度々の
官位推挙の話も受け入れることはありませんでした。

 

元忠の最期の場である伏見城の「血染めの畳」を
江戸城の伏見櫓の階上に置かせた家康は
途城する大名たちに元忠を偲ばせたといいます。

 

 

130815hasunohana

 

 

 

元忠の功績により

さてここで先ほどの「断絶」に戻りますと、元忠の孫にあたる
忠恒は子どもがなく、33歳で亡くなる直前の養子縁組に関して
ルール違反をしたということでお家断絶になってしまいます。

 

しかし大政参与(幕府の職制の1つ)の井伊直孝の反対にも関わらず
祖父・元忠の功績により鳥居家は存続されることになったのです。
亡くなった忠恒の異母弟にあたる忠春が信濃高遠藩主となりました。

 

それにとどまらず忠春の子、忠則も問題を起こして閉門中に
急死し(自害したといわれている)、再び領地没収。

 

2度目の不祥事ではありましたが、ここでも元忠の功績により忠則
の子・忠英は能登下村藩(1万石)の藩主となることができたのです。

 

 

130312simoyasiki        赤穂浅野家 下屋敷跡(赤坂6丁目)

 

 

「血染めの畳」も凄まじいですが、元忠の忠臣ぶりは
しばしば子孫を救うことになりました。

 

忠臣といえば、鳥居元忠の四男である鳥居忠勝の娘は
赤穂藩家老・大石良欽に嫁いでいます。

 

そしてその孫が大石良雄(内蔵助)ですので、元忠は
内蔵助のひいひいおじいちゃん(高祖父)にあたるのですね。

 

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