「南部坂雪の別れ」の舞台は、なぜ「南部坂」なのか?

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130617youzeninjikkaityou瑶泉院の実家跡

 

 

なぜ「南部坂」を選んだのか?

前々回、「忠臣蔵」の有名な場面「南部坂雪の別れ」
の舞台である「南部坂」をとりあげました。

 

その時、大石内蔵助が討入り前に、浅野内匠頭の妻
である瑶泉院に、別れを告げるという重要な舞台に
なぜ「南部坂」が選ばれたのかということが
少々気になりました。

 

「忠臣蔵」は元禄赤穂事件をもとにした創作ですし
「南部坂雪の別れ」はフィクションですので
別に「南部坂」でなくても「氷川坂」でも
「本氷川坂」でもいいわけですから。

 

 

151212nanbuzakaue赤坂にある「南部坂」

 

 

 

瑶泉院の屋敷と南部坂の位置

まず、それぞれの位置関係を見てみましょう。
「南部坂」の回に御紹介した通り、「南部坂」の
場所は地図の右の下、首都高速道路のそばの
緑色で書いた線の部分。

 

 

右下の緑色で示した線が「南部坂」

 

 

「南部坂」という名は、陸奥盛岡藩南部家の
お屋敷が近くにあったことに由来します。

 

同じ場所が、明暦2年からは、赤穂藩浅野家の
下屋敷になっています(相対替と言います)。
地図でいいますと「A」の場所です。

 

 

asanonannbuM(三次浅野家下屋敷)A(赤穂浅野家下屋敷)
一番長い紫色の線が「氷川坂」
ピンク色で示したのが「本氷川坂」
緑色は「南部坂」

 

 

「M」は、前回御紹介した瑶泉院の実家、
三次(みよし)浅野家の下屋敷のあった場所。

 

その「M」を挟んで右上斜めに走っているのが
「氷川坂」で、左下斜めに短くあるのが
「本氷川坂」でした。

 

 

151212motohikawayoru「本氷川坂」

 

 

 

内匠頭家、瑶泉院家、南部坂は正三角形

こうして地図を見ますと、浅野内匠頭の下屋敷と、
瑶泉院の実家の下屋敷、南部坂は、ほぼ正三角形の位置。

 

忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」では、討ち入りの前日の
12月13日に、大石内蔵助が瑶泉院を
訪ねたことになっています
(これはフィクションで実際は、前年の11月)。

 

 

130312simoyasiki赤穂浅野家の下屋敷跡(赤坂6丁目)

 

 

その時には当然のことながら赤穂浅野家(A)
お取り潰し後ですので、もう屋敷はありませんので
内蔵助は、瑶泉院の実家の浅野家(M)
訪ねてきたわけです。

 

瑶泉院の実家のそばには「氷川坂」「本氷川坂」
もあるのに、なぜ「南部坂」なのでしょう?

 

 

130312ityou瑶泉院の実家、三次(みよし)浅野家の
下屋敷跡(赤坂6丁目)

 

 

 

「南部坂」を選んだ理由は……

もう一度、下の地図を御覧いただきましょう。
これは現在の地図ですが、基本的には
江戸時代と同じだそうです。

 

大石内蔵助は車を首都高に待たせてあったので
「瑶泉院の実家の屋敷」から「南部坂」を通過したのだ、
というのは冗談ですが、やはりその道から
帰ったのかもしれません。

 

 

asanonannbuM(三次浅野家下屋敷)A(赤穂浅野家下屋敷)
一番長い紫色の線が「氷川坂」
ピンク色で示したのが「本氷川坂」
緑色が「南部坂」

 

 

そこで「南部坂」が選ばれた理由を想像してみますと……

 

1 「氷川坂」や「本氷川坂」では瑶泉院の家の前後、
  地続きという感じであまりに近過ぎる。

 

2 内蔵助が瑶泉院を訪ねた時は、すでに
* 浅野家の屋敷ではないものの、「南部坂」は
* 赤穂浅野家下屋敷とゆかりのある坂だから。

 

3 「南部坂」は明治期には、歩くのが困難という
 ことから「難歩坂」ともいわれたように
 決して穏やかではなかった坂です。
 それがいかにも、内蔵助が立ち向かって、その
 身に負おうとしている困難を象徴しているから。

 

などが思い浮かびますが、実際はどうなのでしょう。
穿ち過ぎているでしょうか?

 

 

151209nanbuzaka赤坂にある「南部坂」

 

 

ちなみに赤坂には、今回の瑶泉院の実家である
三次浅野家の下屋敷、赤穂浅野家の下屋敷の他にも
三次浅野家の上屋敷、広島浅野家の中屋敷と
4つの浅野家の屋敷がありました。

 

 

miyosiasanokamiyasiki130916三次(みよし)浅野家の上屋敷跡(赤坂8丁目)

 

 

 

上屋敷、中屋敷、下屋敷

少し前に御紹介の「新坂」の前にあったのは
三次浅野家の上屋敷で、「南部坂雪の別れ」
に登場するのは下屋敷です。

 

大名が江戸にお屋敷を置くようになったのは
参勤交代の制度が始まってからのことですが
お屋敷の数は藩の大きさにより様々です。

 

瑶泉院の実家の三次浅野家では、上屋敷と下屋敷
の2つがあり、内匠頭の赤穂浅野家も同様でした。

 

一方、本家の広島浅野家では、上屋敷、中屋敷、
下屋敷とありますが、中屋敷は1つではなく
2つあったそうです。

 

その中屋敷の1つがあった場所が
現在の赤坂サカスです。

 

 

140401sakasutakisakura広島浅野家の中屋敷跡「赤坂サカス」(赤坂5丁目)

 

 

 

内匠頭亡き後、下屋敷で過ごした瑶泉院

上屋敷とは、藩主が江戸滞在中に住む家で
中屋敷は、隠居や世継ぎが暮らす家といわれます。

 

下屋敷は別荘、別邸といった趣の存在だった
ようで、その他に抱(かかえ)屋敷、
蔵屋敷を持つ藩もあったそうです。

 

 

三次(みよし)浅野家の
下屋敷跡(赤坂6丁目)

 

 

ということで前々回に御紹介した「新坂」
のそばの、8丁目の三次浅野家の上屋敷
は、瑶泉院の父親が暮らす屋敷でした。

 

瑶泉院は浅野内匠頭に嫁いだ後は、赤穂浅野家の
上屋敷のある鉄砲洲で暮らしていましたが、元禄赤穂
事件で内匠頭が即日切腹になった後は、6丁目の
下屋敷で亡くなるまでの年月を過ごしています。

 

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「氷川坂」「本氷川坂」「転坂」瑶泉院の屋敷を挟んで 赤坂の坂11

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151209motohikawazaka

 

 

瑶泉院の実家、三次浅野家の下屋敷

前々回は、瑶泉院の実家の上屋敷のそばにある「新坂」
を御覧いただきましたが、今日は同じく瑶泉院の実家
ではありますが、下屋敷のそばの坂を御紹介しましょう。

 

瑶泉院の実家、三次(みよし)浅野家の下屋敷を挟んで
「氷川坂」と「本氷川坂」の二つの坂があります。

 

次の地図でいいますと「M」のあたりが瑶泉院の実家
である三次浅野家の下屋敷があった場所です。

 

 

hikawakorobiM=瑶泉院の実家藤色が「氷川坂」
ピンク色が「本氷川坂」

 

 

Mの右斜め上に藤色で描いた線が「氷川坂」
反対側のピンク色の短い線が「本氷川坂」です。

 

 

 

「氷川坂」

「氷川坂」は距離も長く、傾斜も比較的緩やかな坂。
この写真は「氷川坂」の高い方から低い方を見て、
地図でいいますと右下から左上の方を撮った写真です。

 

 

151212hikawazaka「氷川坂」を高い方から見下ろした写真

 

 

地図でもおわかりのように、距離は結構長いの
ですが、直線ですので坂の終わりまで見えます。

 

こちらは「氷川坂」の反対側から
先ほどの写真を撮った場所を見て撮ったもの。

 

 

141212hikawazaka上の写真とは反対側の端から撮った「氷川坂」

 

 

う〜ん、こうして並べてみても
建物や雰囲気が、あまりかわりばえがしませんね。
うっかりすると同じ写真に見えてしまうほど。

 

でも「氷川坂」の途中にこんなに
美しいものがありましたよ。

 

紅葉するのを計算して壁の色を決めたのでは?
と思ってしまうほどの紅葉と壁の色でした。

 

 

151212hikawazakamomiji「氷川坂」の途中の紅葉

 

 

 

「転坂」

そうそう、「氷川坂」の途中といえば
もう一つ坂がありましたっけ。
先ほどの地図をもう一度御覧いただきましょう。

 

 

hikawakorobi氷川坂」の中ほどに直角にあるのが「転坂

 

 

藤色の「氷川坂」の真ん中当たりに
直角に水色の短い線がありますが
これは「転坂(ころびざか)」という坂です。

 

「氷川坂」から「転坂」を撮った写真がこれ。

 

 

151212korobizaka「転坂(ころびざか)」

 

 

よく人が転んだので「転坂」なのだそうですが
それでは他の坂は転ばなかったのかなぁ、
などと余分なことも考えたりして……。

 

この写真で「転坂」の全部が写って
しまうほどの短い坂です。

 

 

 

「本氷川坂」

さてさて、もう一方の「本氷川坂」ですが(何故か力が
入ります)「氷川坂」が三次浅野家・下屋敷の正面に
あたり「本氷川坂」は裏手にあたるのだそうです。

 

距離こそ「氷川坂」の半分ほどと短いものの、道が
クネクネとして傾斜もそれなりにある個性的な坂。

 

 

hikawakorobiM=瑶泉院の実家藤色が「氷川坂」
ピンク色が「本氷川坂」

 

 

地図でいいますと、ピンク色の「本氷川坂」の
左上から撮った写真が次のものです。

 

 

151212motogikawazakaここが「本氷川坂」の一番低いところ

 

 

坂の始まりの時点で既に道が曲がっている
のがおわかりでしょうか?

 

「本氷川坂」の標識のある石垣の
右奥方向に坂は続きます。

 

ほんの少し歩くとこんな風景が出現。

 

 

151212motohikawazaka

 

 

傾斜は結構ありますね。
そして道の白線が示しているように
また右側へ曲がっています。

 

次の写真は、今回ではなく2.3年前に撮ったもの
ですが、正面の白い建物のそばに咲いていた椿の花。

 

 

130312tubaki「本氷川坂」の途中に咲いていた椿の花

 

 

と寄り道をしているうちに、そろそろ坂の上に到着。
今度は赤い紅葉がお出迎え。

 

 

151212motohikawa「本氷川坂」の上り部分はここで終了

 

 

この写真の坂を上りきった直後に左に曲がります。
そして、短いけれど結構急な「本氷川坂」は終わります。

 

 

151209motohikawazaka鬱蒼とした木と風情のある塀が続く「本氷川坂」

 

 

 

一番好きな坂なので

電柱がなかったら「もしかしたら江戸?」
と思ってしまいそうな雰囲気のある佇まいです。

 

とはいえ、この写真の右の方向に
少し行きますと今、ニュースに度々登場
しているシリアの大使館があります。

 

瑶泉院の実家のお屋敷の正面だった「氷川坂」は正面
だった故に開け、「本氷川坂」は裏手で坂の傾斜も
あったため静かな趣を残す坂となったのだろうか
と考えてしまうほど、両者は全く表情の違う坂です。

 

 

151212motohikawayoru

 

 

実は「本氷川坂」は私の大好きな坂なので
ついつい写真も多くなってしまいました。

 

前回の「南部坂」で書き残したことを書くつもり
だったのですが今回も、またかなり長くなって
しまいましたので、次回に書かせていただきます、
本当にごめんなさい。

 

そんなに引っ張るほどのたいしたことではない
のですが、今回は「あぷりのお茶会 赤坂・麻布
・六本木」史上初の一度に3つの坂の御紹介
でしたので、さすがに無理でしたね。

 

なお今回、御紹介した3つの坂は
全て赤坂6丁目にある坂です。

 

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忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」はフィクション 「南部坂」赤坂の坂10

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151212nanbuzakaue

 

 

有名ですがフィクションです

前回の赤坂の坂は、忠臣蔵・元禄赤穂事件で
お馴染みの瑶泉院の実家の上屋敷のそばの「新坂」
を御紹介しました。

 

赤坂で瑶泉院に因む坂で一番有名な坂は
今日、御紹介する「南部坂」でしょう。

 

ドラマや映画では元禄14年の討ち入りの前日に
大石内蔵助が瑶泉院を訪れた「南部坂雪の別れ」
というシーンがあるそうです。

 

 

151209nanbuzakahyousiki 南部坂の標識

 

 

内蔵助は瑶泉院に会ったものの、廊下で吉良方の
スパイと思しき女中が聞き耳を立てているのがわかり、
討ち入りの話を伝えるどころか、討ち入りの意志など
ないと瑶泉院に告げるという切ない場面だとか。

 

ですが、これはフィクションです。
実際は討ち入り前年の11月に、内蔵助は預かって
いた拝領金を、「大事」のために使う許可を
瑶泉院から得るために訪れています。

 

その時に瑶泉院は、内蔵助に
茶縮緬の丸頭巾を渡しました。
内蔵助はその頭巾を討ち入りに持っていきます。
「最後の面会」

 

 

151212nanbuzakaここから「南部坂」が始まります

 

 

 

2つの「南部坂」

「南部坂」という名前の坂は、赤坂と麻布の
2つありますが、「南部坂雪の別れ」の
舞台は勿論、赤坂の方。

 

次の地図でいいますと下の右の当たり
首都高速道路の六本木二丁目の信号付近から
赤坂駅の方に向かっているピンク色の部分が
「南部坂」です。

 

 

nanbuzakaakasaka下の右寄りのピンク色が「南部坂
(地図/Mapionに加筆)

 

 

陸奥盛岡藩南部家のお屋敷がそばにあった
ため、「南部坂」と名づけられました。

 

現在の住所では、赤坂2丁目と六本木2丁目の境目に
ある坂で、首都高を渡ると、ANAインターコンチ
ネンタルホテルや、サントリーホールのある
アークヒルズがすぐそばにあります。

 

 

151212nanbuzaka

 

 

上の写真の右端の真ん中当たりに見えるのは
「南部坂」の石の標識。
アップしたものがこちらです。

 

 

151209nanbuzakasekihi石でできた「南部坂」の標識

 

 

これまで、いくつも赤坂の坂を見てきましたが
石でできた標識は初めて見ました。

これも忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」人気ゆえ
なのでしょうか?

 

この石の標識には「昭和四十五年十一月八日」
「永冨太道建立」と書かれているようです。

 

 

 

浅野家は 笠間藩  →  赤穂藩

南部家が麻布に移転する前、その地には
瑶泉院の夫の家である、播州赤穂藩の
浅野家の下屋敷がありました。

 

もっとも忠臣蔵・元禄赤穂事件で有名な
浅野内匠頭の浅野家が播州赤穂藩になったのは
南部家が麻布に来るほぼ十年前のこと。

 

それ以前は日立笠間藩でしたが、正保2(1645)年
に、赤穂に領地替え(転封)になっていました。

 

ちなみに麻布の浅野家の下屋敷のあった場所は
現在は有栖川宮記念公園(ありすがわみや
きねんこうえん 港区南麻布5-7)。

 

 

151212nanbuzakaue「南部坂」の上から 正面はアークヒルズの森ビル

 

 

 

浅野家と南部家のお屋敷を交換(相対替)

というわけで明暦2(1656)年2月に
赤穂藩と南部藩が、それぞれの下屋敷を
交換することになりました。
この等価交換を「相対替」というそうです。

 

明暦2(1656)年
陸奥盛岡藩南部家  赤坂 → 麻布
播州赤穂藩浅野家  麻布 → 赤坂

 

赤坂から麻布へ移った南部家のそばの坂も
また「南部坂」と呼ばれるようになったために
二つの「南部坂」が生まれたのです。

 

 

nanbuzaka2上の右にある 南部家→浅野家 ピンク色が赤坂の「南部坂」
下の左にある 浅野家→南部家 ピンク色が麻布の「南部坂」

 

 

なお1701(元禄14)年の、元禄事件で浅野内匠頭は
切腹を命じられ、赤穂浅野家は断絶しましたので
お屋敷もなくなっています。

 

しばらくは空き地だったようですが、後に5千石の旗本
柴田家のお屋敷となり、明治まであったということです。
(「江戸坂見聞録」松本崇男)

 

 

 

明治期には「難歩坂」とも

赤坂の方の「南部坂」は明治の一時期には
坂が急で歩くのが大変、という意味で
「難歩坂」ともいったそうです。

 

ちなみに現在は、「南部坂」の坂上の西側は
アメリカ大使館宿舎になっていますが、今
もしこの坂に名前をつけるとしたら、さしずめ
「アメリカ坂」とでも命名するのでしょうか。

 

アメリカ大使館宿舎は「南部坂」に隣接して
いますが、南部家のお屋敷はここから
少し離れた場所にあったようです。

 

 

151209nanbuzaka 前の写真と同じ場所を夜に撮ったもの

 

 

「南部坂」と南部家の屋敷が離れていたことは
ともかく、私には少々気になることがあります。

 

フィクションなのですから他の坂にすることも
できたのに、「南部坂雪の別れ」の舞台を
なぜ「南部坂」にしたのかということ。

 

長くなりましたので、それについては
次回お話ししましょうね。

 

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