宇和島藩麻布上屋敷の発掘調査で出土した鍋島焼

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

麻布龍土町の宇和島藩中屋敷

江戸時代の大名は江戸に複数の屋敷を構えていました。
上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷に
抱屋敷(かかえやしき)等です。

 

なかには中屋敷がなかったり、反対に中屋敷
や下屋敷が複数あったりというように
藩の大きさによってその辺りは様々なよう。

 

各大名の地位、譜代、外様の別、石高などが
考慮されて、場所や大きさが決められたものを
幕府から拝領したものです。

 

抱屋敷は、幕府から拝領した「拝領屋敷」ではなく
大名が必要に応じて土地を購入し、屋敷を作ったもので、
この抱屋敷を下屋敷にしたりという例もありました。

 

 

麻布・有栖川公園
「赤穂浅野家」から「盛岡南部家」に相対替えしたもの

 

 

 

大名間で交換も可能

このように大名の江戸藩邸は基本的には
幕府から拝領しているものですので
幕府の命令によって移転をすることもあります。

 

また、幕府の許可を得ていれさえずれば、各大名間で
屋敷を交換する「相対替え」も行われていました。

 

(このあたりについては、こちら
「『上屋敷』『中屋敷』『下屋敷』『抱屋敷』
『蔵屋敷』」
)をご覧くださいませ。

 

 

有栖川公園とドイツ大使館の間を通る「南部坂」

 

 

 

「南部坂」が2つあるわけ

その一例としては、現在の麻布の有栖川公園に
あった赤穂浅野家と、現在の赤坂6丁目にあった
盛岡南部家の屋敷の相対替えがあげられます。

 

南部家が「赤坂」→「麻布」に移ったことにより
それぞれの場所付近に「南部坂」ができたため
フィクションではありますが忠臣蔵の
「南部坂の別れ」が生まれて有名になりました。

 

忠臣蔵の南部坂は赤坂6丁目の方で、有栖川公園の
南部坂には「こちらは忠臣蔵の南部坂ではありません」
とわざわざ断り書きがあるのほど。
それほど多くの人が間違えるからでしょう。

 

 

赤坂6丁目の「南部坂」こちらが忠臣蔵の方

 

 

 

中屋敷から上屋敷になった麻布屋敷

今日、ご紹介する六本木7丁目の宇和島藩上屋敷があった
場所は、現在は国立新美術館、政策研究大学院大学、
都立青山公園、米軍ヘリポートなどになっています。

 

このように現在はいくつかに分割されては
いますが、屋敷割りはほぼ活かされているようで
当時は麻布龍土町という地名だったために
麻布屋敷と呼ばれていました。

 

実はこの麻布屋敷は、初代・伊達秀宗が拝領した直後は
上屋敷ではなく中屋敷で、各屋敷の場所はこのようでした。

  上屋敷ーー日比谷
  中屋敷ーー麻布
  下屋敷ーー恵比寿3丁目

 

ところが1681(天和元)年に、日比谷の上屋敷を
松平豊前守(親庸、丹波5万石)に引渡し
かわりに木挽町の屋敷を拝領して以降
麻布屋敷を上屋敷とすることになります。

  上屋敷ーー麻布
  中屋敷ーー木挽町
  下屋敷ーー恵比寿

 

 

四国左下の赤いあたりが宇和島藩

 

 

 

敷地を買い増しして広大な上屋敷に

火事が多かった江戸で、もしもの時の一時避難所や
嫡子や側室が住む中屋敷を、公式な行事の場となる
藩主や正妻などが暮らす上屋敷とするには
宇和島藩麻布屋敷は少々狭かったのでしょう。

 

「三浦家文書研究会」の記録には、初代・秀宗
(ひでむね)から3代・宗賢(むねよし)に至るまでに
土地を買い足していった様子が記載されています。

 

それによりますと、まず宇和島藩伊達家
初代藩主・秀宗が、晩年の1655(明暦元)年に

 

 沖津内記より26,404坪を、地代1,200両で購入、
 原宿村名主より1,265坪を、地代60両で購入、

 

1657(明暦3)年には
 原宿百姓より480坪を、47両で、

 

1675(延宝3)年、三代・宗賢の時代に
 原宿村百姓地3,916坪を、1,700両で買い求め、
これにより麻布屋敷の合計は36,051坪になりました。

 

 

宇和島市で生産される「宇和ゴールド」

 

 

 

ほぼ10倍に拡張

「三浦家文書研究会」の記載では
買い増しした坪数は記載されているのですが
最初の坪数が書いてありません。

 

当然、買い増しした坪数を、最終的な36,051坪
から引けばでてくるのですが、そうなると
最初の坪数は、わずか3,986坪 。
計算が間違っているのではと不安になるほどの差です。

 

ということで私の計算が間違っていなければ
3,986坪だった麻布屋敷の敷地を買い足して
36,051坪というほぼ十倍ほどに拡張して
広大な上屋敷にしたと思われます。

 

 

 

 地図の上部が「宇和島藩伊達家の上屋敷」36,051坪
下の方が「仙台藩伊達家の下屋敷」 21,293坪

 

 

 

麻布には、宇和島藩上屋敷(六本木7丁目)
以外にも、仙台藩下屋敷(南麻布1丁目)
と2つの伊達家がありました。

 

地図では上が宇和島藩で36.051坪、
下が仙台藩で 21,293坪。

 

もっとも仙台藩は下屋敷ではありますが、港区東新橋
にあった仙台藩伊達家の上屋敷でも25,819坪ですので
宇和島藩麻布屋敷の大きさがわかります。

 

下は南麻布にあった仙台藩伊達家の下屋敷付近の古地図。
●  ●  ●」で囲まれた「●  松平陸奥守」と
書かれている所ですが、付近の大名屋敷と
比べても一段と大きいことがわかります。

 

 

 

 

なお、「松平陸奥守」の上の「●」は
下屋敷を表しています。
屋敷に沿っている水色の「ーーー
の部分は「仙台坂」
大藩であった仙台藩を思わせる、高低差のある長い坂です。

 

「仙台坂」の少し先にあるピンク色の「ーーー」は
「振袖坂(日向坂)」で、なだらかな優しげな短い坂。

 

 

 

「宇和島藩伊達家」と「仙台藩伊達家」の家紋

次にあげたのは仙台藩と宇和島藩のそれぞれの家紋です。
上が「宇和島藩伊達家」、下が「仙台藩伊達家」の家紋。

 

 


「宇和島藩伊達家」の家紋「仙台藩伊達家」の家紋

 

 

ともに竹と向かい合う雀をモチーフとした
「竹に雀」ですが、両者は微妙に違っていますね。

 

現在、仙台藩伊達家の家紋は、商標登録されている
ために使用するにあたっては年間10000円から
50000円、事務手続き量4000円が必要だとか。

 

ちなみに宇和島藩の蔵屋敷は
大阪の北区中之島にあったそうです。
1916(大正5)年に朝日新聞社が譲り受けましたが
蔵屋敷の建物をそのまま使っていたということです。
         (「大坂の史跡を訪ねて 9」)

 

 

仙台藩伊達家の下屋敷に沿っている長い坂「仙台坂」(南麻布)
先ほどの江戸時代の地図でいうと左側から見た所で、こちらが坂の上
仙台藩伊達家の下屋敷は、坂の右側にありました

 

 

 

宇和島藩伊達家跡の発掘調査

宇和島藩伊達家の屋敷跡に、2007年1月に
国立新美術館が開館されましたが、政策研究所
大学院大学を含め、それらを建設するにあたり
屋敷の北東側半分の発掘調査が行われました。

 

2001年から2003年までに、4期にわたる
東京都埋蔵文化財センターによる発掘調査です。
江戸の発掘調査は困難を極めるといわれています。

 

土質が関東ローム層で酸性ゆえに木部が、酸性土壌に
より溶けてしまって形をとどめず、残った穴などから
想像をしていく以外にないからだそうです。

 

 

 

宇和島藩伊達家上屋敷跡にある「国立新美術館」六本木

 

 

 

大量の「鍋島焼」の出土

そのような中できっちりと残って
いたのが大量の陶器でした。

 

地下室を含める5つの場所から「鍋島焼」が64点
(資料により65点とするものもある)を出土
しましたが、この数は十万石クラスの大名家
としてはかなり多いといわれます。

 

加賀百万石の前田家上屋敷跡でさえ4点、御三家の一つで
ある尾張藩徳川家の上屋敷跡でも2点しか出土していません。

 

「鍋島焼」は佐賀藩鍋島家の藩窯で焼かれた、
高度は技術をもつ江戸時代最高級の焼物です。
写真は、若松模様の染付けの小皿や大皿。

 

 

宇和島藩伊達家の上屋敷跡で出土された「鍋島焼」
東京都教育委員会蔵
(写真/「愛媛県歴史文化博物館  学芸員ブログ『研究室から』)

 

 

 

貴重な鍋島焼

関ヶ原の戦いで西軍についた佐賀藩鍋島家は、徳川家との
関係修復に苦慮していた様子が伺え、将軍家や大名家への
贈答用に特別に焼かせたのが「鍋島焼」といわれています。

 

佐賀藩が鍋島焼の窯を直接に管理していて、地元での
使用を別にすると市場に出回ることもあまりなく、
絶対数そのものが少ない焼物でもありました。

 

にもかかわらず宇和島藩伊達家の上屋敷後
から大量に発掘された理由の一つには
鍋島家との婚姻関係があげられます。

 

(そうでない藩邸からの多量出土例もあるため
必ずしもそうとは言い切れないようでもありますが)

 

 

 

 

 

「宇和島藩伊達家」と「佐賀藩鍋島家」はお隣同士

宇和島藩伊達家9代の藩主のうち、

 5代・村候(むらとき)
 7代・宗紀(むねただ)
 8代・宗城(むねなり)

の3代の藩主が鍋島家から正室を迎えています。

 

下の古地図は東西南北が現在のものとは
少々異なっていますが藤色で囲んだ三角形に
見える敷地が宇和島藩伊達家の上屋敷。

 

「伊達遠江守」とありますが、宇和島藩伊達家は
2代・宗利(むねとし)が「大膳大夫」を
名乗った以外は全て「遠江守」。
その右側の緑色で囲んだ四角形に
見える敷地が佐賀藩鍋島家です。

 

 

(地図/「三浦家文書研究会  コラム  Toshio  Yuyama」に加筆)

 

 

地図では「鍋島甲斐守」と逆立ちをして書かれていますが、
これは名前の上の方が玄関ということを示していて、
名前の上に家紋が書かれているのは「上屋敷」を表します。

 

なお「鍋島甲斐守」の上部の敷地も「鍋島鍋島熊二郎」
と「鍋島」文字が見えますが、こちらは肥前鹿島藩、
鍋島熊二郎(2万石)の上屋敷で別の家。

 

宇和島藩伊達家と佐賀藩鍋島家は、上屋敷がお隣同志と
いうこともあり、3代にわたり婚姻関係が結ばれました。
鍋島焼もともにお輿入れしたのかもしれませんね。

 

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宇和島藩初代藩主・伊達秀宗は、伊達政宗の長男

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六本木にあった宇和島藩・上屋敷

前回、愛媛県西予市の「山田まんじゅう」を
ご紹介しましたが江戸時代、西予市は
宇和島藩の宿場町として栄えた町です。
その宇和島藩の江戸藩邸・上屋敷は、麻布にありました。

 

当時は麻布龍土町という地名でしたので
「宇和島藩麻布屋敷」と呼ばれていましたが
今の住所でいうと六本木7丁目。

 

現在その場所には、国立新美術館、
政策研究大学院大学などが建っています。

 

 

宇和島藩伊達家の上屋敷があった「国立新美術館」六本木

 

 

麻布には仙台藩伊達家の下屋敷もありましたので、
江戸時代、麻布には宇和島藩伊達家の上屋敷と、
仙台藩伊達家の上屋敷があったことになります。

 

下の地図では、上の方が宇和島藩の上屋敷、
下が仙台藩の下屋敷。

 

宇和島藩伊達家があるのは、東京ミッドタウン
の正面あたりで、六本木ヒルズを挟み
宇和島藩伊達家が上で、仙台藩伊達家が下です。

 

宇和島藩伊達家の上屋敷は、36,051坪の広い
敷地であるのに対し港区南麻布1丁目にあった
仙台伊達家の下屋敷は、21,293坪。
東新橋にあった仙台藩伊達家の上屋敷でも
25,819坪だったそうです。

 

 

 

(地図の上の方) 宇和島藩伊達家 上屋敷 36,051坪
(地図の下の方) 仙台藩伊達家 下屋敷  21,293坪

 

 

 

仙台藩主・伊達政宗の長男と生まれながら

伊予宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗は
仙台藩の初代藩主である伊達政宗の長男として
生まれ、当初は2代仙台藩主にと目されていた
ものの、諸事情からそれは叶いませんでした。

 

その理由としては、秀宗の母親が正室ではなく
側室だったからといわれていましたが
実はそうではなく別の事情だともいいます。

 

1591(天正19)年に、兵五郎という幼名の秀宗が
陸奥国の村田城で生まれた時、政宗の正室・愛姫
(めごひめ)には男子が長い間無生まれなかった
ために、待ち望まれた世子誕生でした。

 

しかしわずか3歳の1594(文禄3)年、父・政宗に
伴われて秀吉に拝謁した後、人質として秀吉に差し
出された兵五郎は伏見城で暮らすことになります。

 

 

 

 

 

秀次事件

秀吉が甥である秀次に、跡を託した後の1593
(文禄2)年、淀殿が秀頼を出産すると
秀吉はことのほか喜びようでした。

 

前田利家夫妻を仲人にして、生まれた
ばかりの秀頼を後継者・秀次の1歳の娘と
婚約をさせるなどと考え出す始末。

 

そして翌1595(文禄4)年、突如秀次に謀反の
嫌疑がかけられ、瞬く間に秀次の切腹と
妻子等39名の処刑という事件が発生します。

 

この処刑は京都の三条河原に40メートル四方の堀が
掘られた中で、秀次の子の遺体の上に、その母、侍女,
乳母等の遺体が次々と無造作に折り重なっていく
という酷いものだったといいます。

 

 

 

 

 

 

秀吉のもとで元服し「豊臣」秀宗に

この秀次事件の後、秀吉は伊達政宗に
起請文を出させています。
「もし政宗に逆位があれば、直ちに隠居して兵五郎を
当主に立てる」という内容の誓約でした。

 

1696(文禄5)年9月、兵五郎は
豊臣秀吉の猶子となり元服。

 

秀吉から偏諱(へんき、名前の一時をもらうこと)を受け
「秀宗」と名乗るとともに、従五位下侍従に叙位、任官。
3歳の秀頼のお側小姓となります。

 

 

 

 

 

そのわずか2年後の1698(慶長3)年、秀吉が死去、
1600(慶長5)年には、五奉行の石田三成等が五大老の
徳川家康に対して挙兵し、関ヶ原の戦いが始まりました。

 

秀宗は、石田三成方の宇喜多秀家のもとで人質となり、
1602(慶長7)年には、徳川氏の人質になることに。

 

いくら戦国の世とはいえ、現在でいえば小学校を卒業する
までに、3度も人質として各地を転々とさせられたのです。

 

 

 

 

 

異母弟・忠宗が誕生

その頃、父・伊達政宗と正室の間に男子が誕生しました。
後の仙台藩2代藩主となる伊達忠宗、幼名・虎菊丸です。
翌年の1月、政宗は虎菊丸を家康に拝謁させています。

 

一方、秀宗は家康に、徳川四天王の一人で重臣であった
井伊直弼の娘・亀を正室するよう命じられます。

 

1611(慶長16)年、弟の虎菊丸が江戸城で
元服し、将軍・秀忠から忠の字をもらい
忠宗と名乗ることになりました。

 

 

 

 

 

 

理不尽な藩主除外

豊臣秀吉から「秀」をもらい一時は豊臣姓を名乗り
秀頼に仕えた秀宗は、伊達家の長男とはいえ
徳川の世で仙台藩主となるのはふさわしくない、
これが藩主になれなかった理由だといいます。

 

しかし私は、これに大いに疑問を感じざるをえません。
人質となった秀宗が、親の反対をおして勝手に伏見城に
行ったわけではなく、親の命令に従ったまでです。

 

当時、兵五郎はわずか3歳、
仙台を離れたくはなかったでしょう。

 

今でいう小学校1年生で既に小姓として秀頼に
仕えていますがそれらも全て、政宗をはじめ
周囲の大人が決定したこと。

 

 

 

 

同じ「秀」だし、ってダメ?

自らの意思で秀吉の家臣だった武将達が、全て遠ざけ
られたというわけでもないのに、親の意思に
幼児の時から従った子が父・政宗の跡を継ぐ
ことができないとは、なんとも理不尽です。

 

確かに弟の名前は、秀忠から一字を
もらったものではあります。

 

徳川秀忠から「忠」の字を賜り
    虎菊丸 (弟) →「忠宗」に対し
豊臣秀吉から「秀」の字を賜り
    兵五郎  (兄)→「秀宗」と。

 

ですが幸い(?)といってもはなんですが
秀吉も秀忠もともに「秀」の字ががついている
のですから、ここはひとつ「『秀宗』の『秀』は
『秀忠』の『秀』から賜ったことにする」
などという新しい解釈にするとかなんとか……。

 

 

 

 

 

例えば現在の日本に目を転じてみても、離婚後も
結婚していた時の氏を使う人もいます。

 

この時、結婚していた時の氏である「伊達」は
離婚後に名乗っている氏の「伊達」とは、
「民法上の氏は異なる」などという、わけのわからない
説明が、21世紀の日本でもなされているわけですし。

 

秀宗は、秀吉の人質であり、家康の人質でもありました。
であるならば「秀」の一字の解釈など、いかようにも
できそうなものなどと思うのですがね。

 

 

 

 

 

参陣の功として

そのような中、秀宗は父とともに1
614(慶長19)年、大阪冬の陣に参陣。
いくさ後、徳川から政宗に伊予宇和島10万石が与えられます。

 

政宗はそれを秀宗に譲りたいと申し出て許されたこと
から秀宗は、10万石の伊予宇和島藩主となりました。
仙台藩の支藩ではなく、国主格(国持)大名としての扱い。

 

秀忠からは、西の伊達、東国の伊達と相並ぶよう
命じられたといいますが、これは有力外様大名である
伊達家の東西分断、かつ豊臣家に近い秀宗を
四国に遠ざけるためだったともいいます。

 

 

 

 宇和島藩伊達家の家紋

 

 

 

仙台伊達家からの「家臣」と「借財」が紛糾の元に

政宗は伊予宇和島に向かう秀宗につける家臣を
仙台藩伊達家家中から選び出し、また藩主交代が
続いて藩の財政が疲弊していた宇和島藩の
ための初期の資金として6万両を用意します。

 

一説には3万両ともいいますが、何れにせよ
大金には違いなく、それらの返済に関して
宇和島藩では紛糾の原因となりました。

 

1615(慶長20)年の3月18日、伊達秀宗が宇和島城に
入城したことにより、宇和島藩が正式に成立しました。

 

仙台伊達家からの多額の借財とともに
仙台藩からきた家臣と、そうでない藩士との間で
揉め事が生じ、殺人にまで至ります。
一時、政宗は激怒して秀宗を勘当したそうですが後に和解。

 

このことがあり、父子の関係はかえって
良好になったといいます。
長男でありながら家督を継げなかったこと、
また長期にわたる人質生活のことなどを、
父・政宗に訴えることができたからです。

 

 

 

 

 

伊達政宗の長子

秀宗は仙台藩の支藩と扱われることを嫌いました。
将軍・家光と御成之間での対面の折には
弟の忠宗より上座に着席したともいわれます。

 

石高は少なくとも忠宗より年長であるとの
意思表示でしょう。

 

父・政宗から「唐物小茄子茶入」や、秘蔵の伽羅の
名香「芝舟」を贈られた秀宗は、父と同様に
和歌の才に秀でていたことから、和解後は
和歌の交歓をしながらも藩政に力を注ぎます。

 

1622(元和8)年に遠江守を叙任し、
1626(寛永3)年には従四位下に昇位。
そして1636(寛永13)年、政宗死去。

 

 

こちらは細川家所蔵の香木「白菊」ですが、実はこれ
「一木四銘香」といい四つの名前を持っている香木で
政宗から秀宗に贈られた「芝舟」と同じ香木です

 

 

 

維新まで続いた宇和島藩

1657(明暦4)年7月21日に、秀宗は世子の
宗利に家督を譲って隠居し、8月16日には
五男の宗純に伊予吉田藩を分知。
これにより宇和島藩は7万石、吉田藩は3万石となります。

 

翌1658(明暦4)年、6月8日江戸藩邸にて死去、68歳。
死後の翌日、宮崎八郎兵衛、高島太郎衛門が、
18日は神尾勘解由、23日には渡辺左衛門が
殉死したといいます。

 

 

 

 

秀宗後は、2代・宗利(むねとし)、
3代・宗賢(むねよし)、
4代・村年(むらとし)、5代・村候(むらとき)、
6代・村寿(むらなが)、7代・宗紀(むねただ)、
8代・宗城(むねなり)、9代・宗徳(むねえ)
と宇和島藩伊達家は、江戸末期まで存続しました。

 

多くの家がそうであるように、血縁としては
途中で耐えたため、3代は仙台藩主家から
宗賢(むねよし、秀宗の弟)を迎えています。

 

また8代藩主・宗城は、土佐の山内容堂、福井の
松平春獄、薩摩の島津斉彬とともに
「幕末四賢侯」と称され活躍しました。

 

 次回は、六本木の宇和島藩伊達家上屋敷跡
  からの出土品についてです、また見てね〜!

 

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山田屋まんじゅう

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金沢ではなく愛媛のお菓子

ちょっと小ぶりの可愛いおまんじゅうは
愛媛の「山田屋まんじゅう」。

 

ご覧の通りに包んである紙に梅鉢紋がついて
いたので、てっきり加賀のお菓子かと思って
いたのですが、今見たら愛媛のものでした。

 

(「山田屋まんじゅう」 本店
〒797-0015 愛媛県西予市宇和町卯之町3-288
Tel./Fax.  0894-62-0030
サイト yamadayamanju.jp
営業時間 9:00〜18:00 年中無休
お休みは1月1日だけだそう)

 

直営店は愛媛県に5店舗と、2015年8月には
東京の恵比寿にもお店をオープンしたほかは
高島屋でも扱っているようです。

 

 

 

 

この「山田屋まんじゅう」はいただいた
もので、初めて頂くお菓子だったのですが
とても美味しくて驚きました。

 

その味を説明するのは、私の貧困なボキャブラリー
ではちょっと難しいのですが、強く前面でアピール
する美味しさというより、控えめな慎ましやかな
美味しさとでもいったらよいでしょうか。

 

縦二つに切ったものがこちら。
いってみれば、おまんじゅうの全体が「皮」
であり「餡」でもあるような感じで
境目が優しく溶け合っています。

 

 

「山田屋まんじゅう」を縦二つに切ったところ

 

 

おまんじゅうの全体の構成員(?)が
皮のようなさっぱり感と、あんこのような
まったり感を持ち合わせて絶妙なバランス。
(と言っていることが意味不明になってきましたが)。

 

全体が餡のような感じというと、いかにも甘すぎる
と思いがちですがさにあらず、ほのかな甘さは
くどくなくて、もうホント幾つでも食べられて
しまうという感じのおまんじゅうでした。

 

 

 

宿のお礼に教えてくれたレシピ

小ぶりの丸っとしたかわいい「山田屋まんじゅう」が
生まれたのは1867年、慶応3年のことといいますから
今からちょうど150年前。
かわいいけど誕生したのは結構、昔なのですね。

 

商いをしていた高辻源蔵は、ある日
旅人に一夜の宿を提供します。
そのお礼にと、旅人が作り方を教えて
くれたのがこのおまんじゅう。

 

作ってみると大評判だったことから
源蔵はそのおまんじゅうを商うことになりました。

 

以来、親から子へ、子から孫へと受け継がれ
一子相伝の製法として高辻家当主に伝わった
おまんじゅう作りも現在は、5代目を数えます。

 

 

 

 

 

1つ22グラム

現在は、名水しるこ「きら」という製品もある
ようですが、山田屋はただ一種類のこのおまんじゅう
作りにこだわり続けてきたといいます。

 

わずか22グラムの小さなおまんじゅうに、入手しうる
最良の小豆と砂糖を選んで作り続け、「これでいい」
という到達点はないと言い切る姿勢に、誇りと自負と
飽くなき精進を心に秘めた作り手の姿勢を感じます。

 

そして贅沢な材料を使って丹念に作られた
「山田屋まんじゅう」は控えめなのに美味しい
というよりは控えめだからこそ美味しいのでしょうね。

 

 

 

 

 

十勝産の選りすぐり小豆を使用

小豆は北海道の十勝産のものだけを使用
していますが同じ十勝産でも場所により
またその年によって作柄は異なります。

 

そこで山田屋は毎年、北海道の十勝産小豆の上質な
ものを数種類選んだ後に、実際に食べる食味実験を
した後、最も良いものを選ぶといったこだわりよう。

 

使用する「二等級」と呼ばれる小豆は、味だけでは
なく形も揃っていて主に高級粒あん、また和菓子や
洋菓子のトッピング用に使うものです。

 

つまり味だけではなく、本来は大きく美しい形を
要求されるお菓子に使用するランクの小豆なのです。
それを全て潰して、こしあんにしてしまうという贅沢さ。

 

 

西予市のお隣、宇和島市吉田町で作られる柑橘類「宇和ゴールド」

 

 

 

天野祐吉「贅沢な時間に出会う」

この「山田屋のおまんじゅう」に添えられていた
天野祐吉のエッセイがとても素敵で全部を書きたい
くらいなのですがそうもいきませんので
一部分だけご紹介しましょう。

 

「むかし、友人に連れられてここを訪ねたとき、
家並みのはずれに
お茶ふうの店があった。
ガラスのケースのなかに、小さなまんじゅうが
並んでいる。
赤い毛氈を引いたその店の床几(しょうぎ)に腰掛けて

ぼくらはそのまんじゅうを食べた。あまりに
おいしかったので、ぼくは
三つ食べた。
 そのまんじゅうは、ひと口で食べてしまえるような
小さな形(なり)を
していたが、その小さな形(なり)
のなかには、家並みと同じように
たっぷりの時間が
つまっていて、口に入れてそっと噛むと、その時間が

口のなかいっぱいに、ゆったりひろがっていく。

 たしか店のどこかに、「一子相伝」「慶応三年創業」
と書いてあったが、
時間がたっぷり詰まっている
というのは、そんな歴史の長さだけではない。

薄い皮につつまれた漉し餡のちょっと例を見ない
洗練と品位のなかに、
このまんじゅうを黙々と
つくりつづけてきた人たちの時間が、ぎっしりと
つまっている感じがしたのだ。
 山田屋のまんじゅうのなかには、二十一世紀の
いまも、そんな豊かな
時間が息づいている。たぶん、
本当のぜいたくというのは、こんな
さりげないところに、
ひっそり隠れているものなんだろう。」

 

 

四国の左端、赤い線で囲んだ部分が宇和島市
その上に隣接するのが「西予市」

 

 

 

西予市(せいよし)

エッセイのこの部分の前には「山田屋まんじゅう」
の創業の地である伊予・卯之町(うのまち)の
家並みの様子が描写されていて、卯之町の
こじんまりとしながらも美しい様子が伺えます。

 

四国の愛媛県西南部に位置する伊予・卯之町は
現在、西予市といいますが、実は私「西予市」が
読めませんでした(!)。
「さいよし」?「にしよし」?と、思ったら
「せいよし」だそう。

 

西予市は、以前ブログでご紹介した柑橘類の
「宇和ゴールド」が算出される宇和島市の
お隣の市のようですね。

 

赤い線で囲ってあるのが宇和島市で
西予市はその上に隣接しています。

 

 

卯之町にある西日本最古の小学校「開明学校」

 

 

 

西日本最古の開明学校

西予市は宇和島藩の宿場町として栄え、江戸時代中期
から昭和初期までに造られた商家が現在も並んでいる、
白壁、うだつ、出格子といった伝統的な
美しい街並みが続いている町で有名だとか。

 

残念ながら私は行ったことはありませんが
1882(明治15)年に造られた、西日本最古の
小学校である「開明学校」は有名ですね。

 

アーチ状の窓枠やドイツ製のガラスを使用して
いる「擬洋風建築」です。

 

開明小学校は現在、重要伝統的建造物保存地区として
指定されている宇和文化の里の施設の一つとなり
1997年5月には、国の重要文化財に指定されています。

 

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