イタリア大使館と、ローマで行われている日本人への式典を知っていますか?

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イタリア大使館庭園(写真/「イタリア大使館」)

 

 

 

「綱坂」の向こうはイタリア大使館

広大な8千坪もの敷地の中に英国人建築家
ジョサイア・コンドルの最高傑作といわれる
美しい建物がある「綱町三井倶楽部(C)」。
その隣に位置しているのがイタリア大使館( E)です。

 

水色の矢印がある「二の橋」から、三田通りに至る
までのかなり長い距離の中に、A、B、C、D、Eと
わずか数件しかありません。

 

というのは、一つの敷地の大きさが他と比べますと
かなり大きく、広大な面積を有しているからです。

 

もちろん今日、御紹介のイタリア大使館も同様です。
(「イタリア大使館」 〒108-8302
 港区三田2丁目5-4
 Tel.0081334535291 / 0081334535292)

 

 

水色の矢印)「二の橋」 (ピンク色の線)「日向坂
紺色の線)「綱の手引き坂」 (緑色の線)「綱坂」 
B )「オーストラリア大使館」 ( C )「綱町三井倶楽部
E )「イタリア大使館

 

 

 

松山藩中屋敷  →  松方正義  →  イタリア大使館

「オーストラリア大使館」と「綱町三井倶楽部」、
「イタリア大使館」の3つは、全て
江戸時代は大名家の江戸藩邸でした。

 

(B)の「オーストラリア大使館」は
日向佐土原藩の島津家のお屋敷。

 

(C)の「綱町三井倶楽部」は
やはり同じ日向佐土原藩、島津家の屋敷の一部と、
会津藩松平(保科)肥後守のお屋敷の一部と思われます。

 

そして今日の(E)「イタリア大使館」ですが
こちらは伊予国松山藩、15万石、
松平隠岐守の中屋敷があった場所です。

 

明治維新後には、国立西洋美術館の
「松方コレクション」として有名な松方幸次郎の父
・松方正義の手に渡っていたこの土地を
イタリア政府が1934(昭和9)に取得しました。

 

 

このあたりは大名屋敷の多い一角です

 

 

 

伊予松山藩 松平隠岐守

上の地図でも「松平姓」がたくさんありますが
以前このブログでそれを取りあげたことがあります。
「江戸切絵図に『松平家』が多いのはなぜ?」

 

松平を名乗っている家は、大きく分けて3つ。
① 徳川を名乗らない家康の子孫の松平姓
② 家康が将軍になる前からの親類の松平姓
      (十八松平、十四松平とも)
③ 報賞、名誉として与えられた松平姓

 

現在、イタリア大使館ある場所に江戸時代、お屋敷を
構えていたのは、①の徳川家康の子孫の松平家という
ことで家康の異父弟・定勝の子孫の「久松松平家」です。

 

 

 伊予松山藩・松平隠岐守の中屋敷だったイタリア大使館

 

 

 

4代藩主・定直は俳句好き

伊予松山藩は、現在の愛媛県松山市を
中心とした地域をおさめていた藩。

 

残念ながら私は松山には行ったことは
ありませんが、松山といって思い浮かぶ
のは、なんといっても俳句ですね。

 

正岡子規や高浜虚子が、現代俳句で名を残したのも、
久松松平家と全く無関係というわけでもないようです。
というのは、第4代・定直(1660〜1720年)が
徘徊を好んだ藩主だったからです。

 

定直の死後の安永年間(1772〜1781年)に
俳句は一般の庶民にまで普及してゆき
領内では徘徊が盛んになったといいます。
また正岡子規も高浜虚子も、藩士の子弟です。

 

 

イタリア大使館 緑の向こう側に池があるのでしょうか?

 

 

 

赤穂義士を預かった4人の藩主

イタリア大使館といって一番有名なのは
もしかしたら忠臣蔵かもしれませんね。

 

忠臣蔵・元禄赤穂事件が起こった際に、義士のうちの
10人を屋敷に預かり、後に切腹をさせた場所の一つ。

 

1703(元禄15)年、12月15日に吉良邸討ち入りを
果たした赤穂義士は、4つのお屋敷に分けて
預けられることになりましたが、そのうちの
一つがこの松山藩・松平家です。

 

その他は以前、御紹介した現在は六本木ヒルズに
なっている長府藩・毛利家と熊本藩・細川家、
もう一つはやはり同じ三田にある岡崎藩・水野家です。

 

 

E  )の文字の下に見えるのが、イタリア大使館の池

 

 

 

伊予松山藩 第4代藩主・松平定直

伊予松山藩の中屋敷に預けられた赤穂義士の面々とは
大石内蔵助の長男である大石主税良金、堀部安兵衛武庸、
中村勘助正辰、菅谷半之丞政利、木村岡右衛門貞行、
千馬三郎兵衛光忠、岡野金右衛門包秀、大高源吾忠雄、
貝賀弥左衛門友信、不破数右衛門正種の十名。

 

最も当時、第4代藩主の定直は病に伏していて、登城
できなかったため、赤穂義士預かりの命令は、家臣を
通じて聞いたといい、定直が赤穂義士たちと面会を
したのは元禄16年の1月5日になってからのことでした。

 

定直は会見が遅くなったことを詫び、仇討への
賞賛をした後に、このように語ったといいます。

 

「もっと大歓迎をしたいところだが、
幕府からのお預かり人であるためできない。
しかし諸事不自由はさせない。
用事があれば遠慮なく家臣に申しつけてくれて構わない」と。

 

 

イタリア大使館の庭園にある池

 

 

 

毎年、赤穂義士の供養を行うイタリア大使館

イタリア大使館には、大きない池を有した美しい庭園が
あることでも有名ですが、先ほどの地図で( E  )の
文字の下に、水色で描かれていたのが庭園の池です。

 

この池は、赤穂義士の切腹の場の一部を掘り
起こしたものともいわれ、池の裏手にある築山は
池を掘り起こした時の土でできているそうです。

 

そばには当時のイタリア大使により
1939(昭和14)年、記念碑も建立。

 

記念碑はイタリア語と日本語の両方が刻まれているよう
で、日本語は徳富蘇峰が揮毫したと伝えられています。

 

そして一般には公開されていませんし、日本人もあまり
知らないことだと思うのですが、イタリア大使館では
赤穂義士の命日に、歴代のイタリア大使の手により
義士たちへの供養が行われています。

 

 

 

毎年、8月6日にパンテオン前で行われる原爆の日の式典
(写真/「藤村シシン1/7映画ミューズアカデミー」」)

 

 

 

ローマで毎年、広島・長崎への式典も

そしてこちらは、もっと知られていないように思える
のですが、実はイタリアでは毎年、8月6日の朝から
ローマのパンテオン前で、誰でも参加できる
原爆記念日の式典を行なっているそうです。

 

横断幕に書かれているのは
「Mai più HIROSHIMA」(広島を二度と繰り返すな)
という言葉。

 

この時期、ローマに沢山の日本人環境客が来ているにも
かかわらず、この式典は知られていないようで
参加してくれないことを残念がっているとか。

 

そうだったのですね……、日本人として、心から感謝を!
私もその時期にイタリアに行ってみたいなぁ。
(「藤村シシン1/7映画ミューズアカデミー」
さんのツイート, 写真も)

 

 

チェルノブイリにある福島への祈りを込めた「折り鶴の像」

 

 

 

チェルノブイリにある「折り鶴の像」

そういえば今年の初めに、チェルノブイリにある
「折り鶴の像」を御紹介したのを思い出しました。
「フクシマへの祈り「折り鶴の像」」

 

1986年4月26日に起きたチェルノブイリ原発事故
から、ちょうど25周年目にあたる
2011年に起きた福島原発事故。

 

同じ苦しみを受けた福島の人たちへの
思いを込めて建てられた像です。

 

ウクライナ政府の資金提供により、ウクライナ人
デザイナーの設計で作られたものですが、このような
像はフクシマに対してだけではなく、ヒロシマへの
同様の折り鶴の像が建てられているということです。

 

 

チェルノブイリの「折り鶴の像」のそばには
「Fukusima」の文字が

 

 

 

知らないところで……、ありがとう!

2016年の初めと終わりにはからずも私たち、と
いってはいけないのかもしれませんが、少なくとも私は
知らなかった、外国から日本に対してのあたたかい
思いを記すことができたことをとても嬉しく思います。

 

血の繋がりや国境を越え、人々が心を砕いて
くださっていることを決して忘れることなく
今度は私たちができることをしてさしあげたい。

 

2016年、ありがとう!
そして、ブログを訪れてくださった
皆様へ、ありがとうございます!

 

 

 

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「徳島藩蜂須賀家」と「蜂須賀侯爵家」オーストラリア大使館の敷地

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

現在の建物は1990年に完成

さあオーストラリアの石鹸の花の香りに堪能
したあとは、また二の橋を渡った通り沿い
にあるオーストラリア大使館に戻りましょう。

 

(オーストラリア大使館
〒108-8361 東京都港区三田2-1-14
 電話: 03-5232-4111 )

 

大使館が多いこの近辺でも、群の抜くモダンな
オーストラリア大使館の建物ですが、この建物
自体が出来たのは1990(平成2)年といいます
ので、そんなに前のことではありません。

 

 

1927年に作られた蜂須賀家の邸宅

 

 

 

1927年 蜂須賀家の屋敷が完成

オーストラリア大使館になる前は
この場所は蜂須賀家の屋敷でした。

 

蜂須賀正韶(まさあき)侯爵と、その子息・正氏
(まさうじ)により1927年に建てられた屋敷が
上の写真です。

 

蜂須賀正韶、正氏親子は共に、イギリスの
ケンブリッジ大学で学んだことから、イギリス
での生活を想起される西洋風の邸宅を作りました。

 

 

 

 

1940(昭和15)年、オーストラリア政府は、このカン
トリーハウスを借用し、その後の1952(昭和27)年、
この13,000平方メートルの敷地と屋敷を購入して
初代のオーストラリア大使館としました。

 

それから30年以上の年月が経過した1988年、
新しい大使館事務棟、大使公邸、館員官舎の建設に着手。

 

オーストラリアの建設設計会社、デントン・コーカー・
マーシャル社の設計により、伝統に則りながらも
建物の外壁をPVF2コーティングのアルミ仕上げで装う
モダンな建物が1990(平成2)年に完成したのです。

 

 

 1990年に完成したオーストラリア大使館

 

 

 

世田谷区に残る蜂須賀家江戸屋敷の表門

蜂須賀家江戸屋敷の表門といわれるものが
現在、東京都世田谷区下馬に残っています。

 

西澄寺というお寺の山門となっている
ものですが、その由来書によりますと

 

「三田にあった藩邸の門で幕末に
作られたものを大正時代に移築した」
と記載されています。

 

「切妻造り両出番所両潜戸附きの武家屋敷門の耕造を
もち、五万石から十万石の大名の格式を見せている
この門は、武家屋敷表門の特徴を伝える数少ない
建物
として、都の有形文化財に指定されています。」
        (「江戸の武家屋敷を巡る」)

 

 

世田谷に移築した蜂須賀家江戸藩邸表門
(「歴史のバカ」)

 

 

 

蜂須賀家の所有になったのはいつ?

江戸末期     蜂須賀家三田藩邸の表門造営

大正時代     世田谷に移築

1927(昭和2)   蜂須賀家欧風邸宅完成

1940(昭和15) オーストラリア政府、
        蜂須賀邸を借用

1952(昭和27) 敷地と屋敷を購入し、
        オーストラリア大使館に

1990(平成2)   現在のオーストラリア大使館
         及び付属施設が完成

 

ここまでの流れをまとめてみますと
このようになり、三田藩邸の表門が作られた
のが幕末期ということなのですが、

 

この蜂須賀家の表門は、正確にはいつ作られたもの
なのかという以前に、そもそもこの地がどの時点で
蜂須賀家の所有になったのかがよくわかりません。

 

といいますのは、以前この辺りを御紹介
した時に、この場所は蜂須賀家の屋敷は
なく、他の藩の屋敷があったからです。

 

 

 

 

 

現在のオーストラリア大使館付近

現在のこの近辺の地図を見てみましょう。
次の地図の左上が麻布十番駅です。

 

麻布十番から南(下)に向かって
中ほどまで行ったところの、水色の矢印で
示した場所が「二の橋」になります。

 

そこから東(右)方向のピンク色の道
「日向坂(振袖坂)」を行くと、まず最初に
あるのが「三田共用会議所(A)」。
そのお隣が「オーストラリア大使館(B)」となります。

 

 

水色の矢印が「二の橋」 ピンク色の道が「日向坂(振袖坂)」
A が「三田共用会議所   B が「オーストラリア大使館」

 

 

 

江戸時代の地図には蜂須賀家はない

厳密には同じ場所ではありませんが、大体この
辺りを表した江戸時代の切絵図が次のものです。
水色の矢印が指している部分は先ほどと
同様「二の橋」。

 

 

水色の矢印の位置が「二の橋」で、そこから2つめの
「島津淡路守忠寛」が、現在オーストラリア大使館の場所

 

 

現代の地図で「三田共用会議所(A)」にあたる部分は
「丹波柏原藩(兵庫)二万石 織田出雲守信民」
と書かれています。

 

お隣の現在、オーストラリア大使館が建っていると
思われる場所は、「日向国佐土原藩(宮崎)
二万七千七十石余 島津淡路守忠寛」と、

 

ちなみにその下にある広大な敷地は
「陸奥会津藩(福島)二十三万石松平肥後守容保
(まつだいら  ひごのかみ  かたもり)」とあります。

 

 

 

 

この地図は、江戸の末期の藩主名を書いて
ありますので、幕末期、現在のオーストラリア
大使館になっている場所には、日向佐渡原藩
(ひゅうがさどわら)の藩邸があったと思われます。

 

島津忠寛(しまづ ただひろ)は、日向国佐土原藩の
第11代、最後の藩主で、1828(文政11)年に、
第10代・島津忠徹の三男として三田藩邸で生まれ
1839(天保10)年の父の死により藩主となり
1896(明治29)年に没。

 

次の江戸時代の切絵図も同様で
「三田共用会議所」にあたる部分は「織田出雲守」と、
オーストラリア大使館の場所は「島津淡路守」
と記載されています。

 

 

こちらも同様、左のほぼ中央にある「二の橋」の右には
「織田出雲守」と「島津淡路守」が並んでいます

 

 

 

オーストラリア大使館HPの記載

蜂須賀家の江戸屋敷は、上屋敷が東京駅のそば
千代田区丸の内鍛冶町に三田四国町(現在の
港区芝2〜5丁目)と南八丁堀に中屋敷、
目黒に下屋敷があったそうです。

 

オーストラリア大使館のHPの「大使館の敷地の歴史」
には次のような記載が見えます。

 

「在京オーストラリア大使館は、東京都三田にあります。
13,000平方メートルの敷地は、徳川時代、
将軍が定めた参勤交代の制度に従い、
蜂須賀家が所有していた
ものです」

 

 

 

 

「将軍が定めた参勤交代の制度に従い、
蜂須賀家が所有していた」という部分を見ますと
徳島藩蜂須賀家の江戸屋敷が、オーストラリア
大使館ののある場所にあったように読めます。

 

ですがそうではなく、幕末以降に
蜂須賀侯爵家となってからの蜂須賀家が
この地を使用したのではないでしょうか?

 

(1884(明治17)年に爵位を授けられ、
1945(昭和20)年、爵位返上)

 

 

 

1896(明治29)年には蜂須賀邸が

下の地図はちょっと見づらくて申しわけありませんが
オーストラリア大使館があった場所の1896〜1909年
(明治42年測図 大正4年製版)の地図です。

 

 

 

 

水色の縦線を引いた右側に
「蜂須賀邸」と書かれています。
これは私の推測に過ぎず確かなことではありませんが、

 

ひょっとしたら、世田谷に移築した蜂須賀家の表門が
あったのはここではなく、三田四国町にあった
中屋敷のもので、それを「三田藩邸から移した」
と表記したのかもしれないという気もします。

 

 

この表門のあったのは「三田四国町の蜂須賀家中屋敷」?
あるいは「現在、オーストラリア大使館のある場所」?

 

 

 

徳島藩蜂須賀家

蜂須賀氏は織田氏の配下から、正勝が秀吉の
与力として活躍し正勝の子・家政とともに
秀吉の直臣となり阿波の大名となりました。

 

秀吉の死後は、家政の子・至鎮が東軍となり
徳島藩の外様大名として、将軍から松平の
姓を与えられ、明治維新まで続いた家です。

 

とはいっても8代・蜂須賀宗鎮は水戸徳川家の御連枝
からの養子であり、13代・蜂須賀斉裕の実父は11代
将軍・徳川家斉ということもあり、いわゆる蜂須賀家
の血筋としては絶えているということができます。

 

 

 

 

 

蜂須賀侯爵家

また侯爵になった後の蜂須賀家は
屈指の富豪華族ともいわれ、北海道の大規模
農場経営に手を染めましたが、失敗しています。

 

最初のオーストラリア大使館となった邸宅を作った
18代当主・蜂須賀正氏は、世界的な鳥類学者として
有名な一方、犯罪にも度々関係し「華族の品位を落とす」
ということから、1946(昭和20)年7月には爵位を返上。

 

その上、正氏の死後は暴力団絡みの相続争いも起こり
財産の多くを失って没落、というように蜂須賀家は
ドラマチックな経緯をたどっているということです。

 

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「総本家 更科堀井」麻布十番 

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160919sarasinahoriisoba

 

 

創業227年「総本店  更科堀井」

「エッグシェル  kaori」という卵の殻のように薄い
ぐい飲みのお店「はせがわ酒店(G)の通りを麻布
十番駅とは反対の六本木ヒルズの方に、少し行った
ところにあるのが「総本家更科堀井(H)」です。

 

(「総本家  更科堀井」
 港区元麻布3丁目11-4  03-3403-3401
 営業時間:11:30〜20:30   年中無休)

 

「総本家  更科堀井」については、少し前に
「麻布にある3つの更科そば『総本家  更科堀井』
『永坂更科布屋太兵衛』『麻布永坂更科本店』」

書きましたのでここでは簡単な御紹介にしましょう。

 

 

azabu「総本家  更科堀井」(H)

 

 

 

1875(明治8)年 「布屋」→「堀井」

二の橋の近くにあった飯野藩保科家上屋敷に逗留して
いた信州出身の布屋太兵衛の打つ蕎麦が、美味しいと
評判になり、藩主のすすめにより1789(寛政元)年、
麻布永坂に「信州更科蕎麦処  布屋太兵衛」を開店。

 

1941(昭和16)年、戦時下の金融恐慌などのあおりを
うけ、一度は休業を余儀なくされたものの1984
(昭和59)年に復活し現在に至っています。

 

現在の「総本家  更科堀井」の当主は
9代目の堀井良教さん。

 

 

 

 

「布屋」が「堀井」に変わったのは
1875(明治8)年の名字必称の令により
屋号「布屋」を「堀井」に改めたことによります。

 

こちらの本店の他に、立川伊勢丹内
に支店があるそうです。

 

私は大学が立川にありましたので、伊勢丹
には随分行きましたが、その当時(大昔)
はありませんでした。
いつ出来たのでしょうね。

 

 

sarasisnahorii明治10年頃の「永坂更科布屋太兵衛」
現在の「総本家  更科堀井」

 

 

 

脚気によいお蕎麦は江戸で人気に

そんな私のことはどうでもいいのですが
「総本家  更科堀井」が創業された江戸時代、
お蕎麦は今に劣らず人気の食べ物で、江戸市中
には、3,4百軒ものお蕎麦屋さんがあったそう。

 

ビタミンB1の不足で起こる脚気(かっけ)は
白米を主食にすることが出来た階層の人に多い
症状で、「江戸患い」とも呼ばれる病気でした。

 

そこで脚気に効くというお蕎麦が
食べられるようになったのです。

 

男性の多かった江戸では、すぐに食べることの
出来るお蕎麦は、今でいうとファーストフード
のような感じだったかもしれませんね。

 

しかも美味しくて栄養があるとなったら
流行らないわけがありません。

 

 

160713gozensoba

 

 

 

白いお蕎麦「さらしな」

当時のお蕎麦はどこでも、そば粉
100パーセントで打っていましたので
お店の味の特徴といえば蕎麦つゆ。

 

どのお店でも同じような蕎麦という中で
「総本家  更科堀井」の前身「信州更科蕎麦処
永坂更科布屋太兵衛」は、そばの実の芯の粉で
打つ、白い蕎麦「さらしな」を編み出します。

 

素麺と見紛うような白さと、やさしい舌触りの
「さらしな」は、そばの実の芯(胚乳)
が割れたものを、細かくふるったさらしな粉
と小麦粉で作られたお蕎麦です。

 

 

sarasinahoriisakisai 秋菜(あきさい)「総本家  更科堀井」

 

 

 

「色変わりそば」

当時は江戸城や大名屋敷にも出入りを許されて
御前に供する名誉も賜る一方、そば好きの
江戸っ子達にも親しまれていたお店でした。

 

お蕎麦を目籠に詰めたお土産が大人気となり
同様のものがあちらこちらで売り出され
各地に「更科」が増えていったといいます。

 

また、さらしなそばに旬の素材を打ち込んで
四季折々の味を作り出した「色変わりそば」
も忘れてはならないもの。

 

9月22日から10月9日は「菊切」、
10月10日から31日までは「くこ切」と
「総本家  更科堀井」のサイトにありますが
あのお薬のような「クコ(枸杞)」が
どのようなお蕎麦に変身するのでしょう?

 

 

blog_import_515365eaa68d4お薬チックな「クコ(枸杞)」

 

 

 

江戸時代から来た人?

先月の末に「総本家  更科堀井」へ行ったときのこと。
強い雨が降りしきるわけではないのですが
一日中はっきりしないお天気の夕暮れ時でした。

 

そのような日でも「更科堀井」は
お客さんがたくさんいます。

 

私はお店で蕎麦を頂かずに持ち帰ることが
多いのですが、その日もそれをお願いして
注文のおそばが出来るのを待っていました。

 

 

広重「麻布古川、相模殿橋、広尾之原 四の橋」

 

 

お店には、普通のテーブル席の他に、中央
にはお花が飾られた大きな丸いテーブルがあり
それを取り囲む形でお客さんが座ります。

 

それぞれ一人ずつきていると思われる
お客さんの間の空席に、私はつきました。

 

二人とも男性で外国の人。
「総本家  更科堀井」には、外国のお客さんも
多いためなのでしょう、英語で書かれた
「お蕎麦の食べ方ガイド」なるものもあります。

 

 

160919sobatabekata 英語で書かれた「お蕎麦の食べ方」

 

 

私の両側の席の二人の外国人男性は、共に
スマホを片手にお蕎麦を食べていました。
驚いたのはその雰囲気です。

 

板についているといいますか、何とも自然な感じ。
思わず江戸の人ではないのかしら?、と
見紛うばかりのお蕎麦の召し上がり方でした。

 

「箸の使い方が上手ですね」などとは
冗談にも言えないほどの箸さばきで、その仕草
は日本人よりもはるかに様になっていたほど。

 

 

160919sarasinahoriisobaもりそば「総本家  更科堀井」

 

 

これは絶対、昨日今日、お蕎麦を食べた
というビギナーではありません。

 

まあ、外国人といっても日本で生まれ育った方も
いらっしゃるでしょうからで、子どもの頃から
「更科堀井」に通っていたということもありえますが。

 

右側の男性は温かいお蕎麦で、左はそうでないお蕎麦。
見ない振りを装いつつも、両方の視界に入る彼等を
見ているうちに私のお蕎麦ができあがってきました。

 

 

広重「赤坂桐畑雨中夕けい」

 

 

最初から最後まで、極々普通の蕎麦好きの
江戸っ子が、薄い鼠色になりつつある雨催いの
夕暮れ時、いつものようにおそばを食べている
といった風情の、何と様になっていたことか!

 

いうまでもなく、彼等は私より数十倍も
お蕎麦が似合っていたのです。

 

驚きが心の中で飛び跳ねている私は
来る時と違って、何とはなしに
嬉しい雨の帰り道となりました。

 

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