生活苦の人々2 子どもの貧困

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

まず最初にお知らせです

「日本音楽家ユニオン 関東地方本部
2020年1月29日

インフルエンザが流行しています。
お金がなくても保険証が失効していても、
『無料低額診療施設』の届出がされて
いる病院に連絡すれば、無料か低額で
受診できます。
無理せずに病院受診してください

お金が無くても保険証が無くても病院
受診する方法!(藤田孝典) – Y!ニュース」

 

 

 

 

 

7人に1人の子どもが貧困

「但馬問屋 2020年1月16日

母と子3人、所持金200円…一家のその後
消えた命の食堂

初めて出会ったころ、梓は無職で収入
は約10万円の失業保険のみ。
小学生の子ども3人は給食以外に食べ物
を口にできない日もあり、子ども食堂
だけが頼りだった。
その子ども食堂も運営費不足で閉めて
しまったという…」

 

 

名古屋市の学校給食

 

 

「aki  2019年12月10日

子どもの7人に1人が、3食きちんと
食べられないという貧困状態にある
日本でこそ、このくらいの給食(↓)
を小中学校が無料で提供するべきだ。
政治の役割ってそういうことでしょう」

 

 


韓国の学校給食

 

 

「ゆきのちゃん 2019年10月21日

子ども食堂が3年で12倍増えて3700以上
になってんのに、これを差し置いて
途上国に9000億円を支援するとか
頭おかしいよ。
まして今回の台風で大変な被害なんだ
からさ、日本はすでに支援するのでは
なく、支援してもらう立場なんだよ。
それでもキックバックが美味しいから
外国におカネを送るんだろうね」

 

 

 

子ども食堂

2012年ごろから始まったといわれる
「子ども食堂」は、子どもの貧困対策という
イメージもありますが同時に地域の拠点との
機能を持っていることもあるようです。

 

湯浅誠さんが代表を務める「子ども食堂安全・
安心向上委員会」の調べては、全国で少なくとも
2200か所以上の子ども食堂があり、参加した
子どもは年間で、延べ100万人をこえています。

 

以前ツイッターで、子どもがお母さんを誘って
子ども食堂へ行った時のツイートを見ました。

 

 

 

 

本当はお金がないからなのですが、母親を気遣い
食事を作るのが大変だから子ども食堂に行こうと
と母親を誘って子ども食堂に行った母と子。

 

カレーを食べた後に、お母さんデザート
のナシもあるよ、と目を輝かせる子ども。
自分もできるようになったらお返しが
したいと涙ながらに話す母親。

 

小池百合子は都知事になる時に「子ども食堂の
活用」などと言っていましたし、安倍首相は
子ども食堂ではみなさんを応援する人たちが
いますよというようなことを言っていましたが。

 

 

 

 

違うでしょ!、違うでしょ!
子ども食堂がなくてもいいようにするのが
行政の役目ではないでしょうか?

 

見るみかねて手弁当、人々の善意で運営
されている子ども食堂が、貧困対策では
なく、地域の拠点、楽しい集いの場として
賑わう日が一日も早く訪れますように!

 

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「わが家のAP通信  〜天使と暮らしたいあなたへ〜」あぷり 7/7

「おやすみ、あぷ」

 

 

 

「おやすみ、あぷ」
2009年11月23日

私はそれまで 天使に会ったことがなかった

だから 初めてあなたに会った時

あなたが天使だとわからなかった……

 

 

 

やっと引越しの準備に

11月20日、私が面会に行くのを待って
いてくれたあぷりは、私の胸に抱かれて
その一生を終えました。

 

2日前に、マンションの処分を業者に連絡をし
面会の翌日には引っ越し先の家を探す予定でした。

 

やっと動き出したところでした。
でも、遅過ぎたのです。

 

 

 

 

7月末の時点で、あぷはもう限界だったのです。
すぐに引っ越すべきでした。

 

引っ越しの難しさに、ズルズルと
先延ばしにしてきたのです。
困難ではあっても、不可能なことではなかったのに。

 

家を処分しても、あぷりの一生を終えるまでの間位
生活していけないことはありませんでした。

 

 

 

 

私は、あぷりがいてくれれば何もいらない
と言いながら、あぷりの苦しみより
自分のことを優先したのです。

 

その結果として、唯一の家族、
生涯の伴侶を失ってしまいました。

 

あぷりだけではありません。
前のうさぎの「ももち」も、騒音の
せいで死なせてしまったのです。

 

 

 

 

 

ミドリガメのたーちゃん

それどころか、その前のミドリガメ
の太郎(たーちゃん)に至っては
私が殺してしまったのです、私自身が。

 

5月の連休中に,ちっちゃな透明のケースに
入った「たーちゃん」がうちに来てくれて
4か月経った時、リビングにいたたーちゃんの
頭を,私のかかとが一瞬踏んでしまいました。

 

暑い夏のお昼頃でした。
強い日差しを避けるためにカーテンをして
クーラーをかけていた部屋。

 

 

 

 

真夏の暑い日に感じたその一瞬の心の冷えを
私は今も忘れることはできません。
きっと,一生忘れることはないでしょう。

 

それからの2か月間,たーちゃんは
ほとんど寝てばかりいました。

 

11月1日に少し元気になって,泳ぐ姿を見せて
くれた時の嬉しさは,言葉にはできません。

 

 

 

 

リビングとキッチンの間のカウンターに
おいてある水槽にたーちゃんはいました。

 

中に置いてあった流木にいたーちゃんは、キッチンの
流しで仕事をしている私に対して「そばに行きたい」
というアピールをしきりにしていました。

 

右手で流木の出っ張った部分をつかみ
左手を思い切り私の方に伸ばしています。
あまりに伸ばしすぎて、体が流木から半分落ちそう。

 

 

 

 

「たーちゃん、そんなことしたらおっこっちゃうよ」
私はたーちゃんのあまりの必死さに驚き
笑いながら言いました。

 

その翌日,たーちゃんは死んでいました。
右手で流木の出っ張った部分をつかみ
左手を思い切り前に出して伸ばした
その形のままで……。

 

映画やドラマで死の直前、想いを寄せる二人が
お互いに触れるために思い切り手をのばす
ような仕草がよくあります。

 

 

 

 

たーちゃんの姿は,その仕草そのものでした。
毎日泣いて暮らす日々が,延々と続きました。

 

自分を死に至らしめた相手の手のひらいに乗りたい
と流木から体が落ちそうになるほど,手を
精一杯伸ばした形のままで死んでいた……、
この事実が私を打ちのめしました。

 

ちょうどその頃,フランスが核実験を他の国
で行ったというニュースが流れていました。

 

 

 

 

他の国で核実験をして自国を守る、というのが
万物の霊長である人間の「英知」であるならば
私は自分に死をもたらした相手を宥し、なおも
求める、その「愚かさ」に与したいと思いました。

 

その尊さに、優しさに、決して消える
ことのない悔いに、悲しみに……、
私は立ち直ることができませんでした。

 

もう一度「私のもとに,必ず来て欲しい」
それだけを強く、強く、願いました。

 

 

 

 

 

ももちは私のナイト

それから私は、うさぎのももちと暮らし
次にあぷりを迎えました。

 

ももちはパンダウサギの雑種で、あぷりより
小さい1キロちょっとの男の子でした。

 

しかし凛々し系(?)で、私を守るナイト
(騎士)を自認しているかのような
うさぎでもありました。

 

その後に来てくれたあぷりは、ももち
とは対照的に最後まで甘えん坊さん。

 

11月3日が命日の「たーちゃん」と、
1月13日が誕生日の「あぷり」です。

 

 

 

 

 

出会った時の「笑顔」

そんなあぷりに出会ったのは,こうさぎが
揃ったとの知らせを聞いてペットショップに
行った夕暮れ時のことでした。

 

うさぎたちが順番にケージから出して
もらって遊ぶ時間だったようです。
私が行った時が,ちょうどあぷりの番でした。

 

ケージの外に出られて喜んでいるあぷりは
ビンキーをしながらくるっと振り返って
「笑顔」で私を見たのです。

 

 

 

 

うちにきてからのあぷりは、とにかく
私のそばにいたがるうさぎでした。

 

私が、朝起きてあぷりの部屋へ行くと、
「ギィーッ」と,叫ぶような甘えた声を
出しながら私の元に走ってきます。

 

そして、正座をした私の膝の上に
飛びつくように抱きついてくるのです。

 

 

 

 

 

ダッキー大好き

あぷりは自分の上半身を,私の膝の上あたりに
乗せたまま抱きつき、私は両手であぷりの体を
包むように支えながらナデナデをします。

 

一歳になるくらいまでは毎日、これを
長時間していて、朝は短くても1時間、
2時間以上することも当たり前でした。

 

私はこれを「ダッキー」と呼んで、でたらめな歌
を歌っているうちに出来た「あぷりのテーマ」を
エンドレスで歌いながらナデナデをしたものでした。

 

 

 

 

夏はクーラーをつけていても、ありぷのお腹と
私の膝の上あたりが、汗でベトベトになります。

 

それでもあぷりは平気で、ダッキーを
しながらすやすや眠っていました。

 

初めは,あぷりの上半身は私の足の上に
乗っているものの、寝てしまうとあぷりの
頭がだんだん後ろに反ってきます。

 

 

 

 

 

きちんと抱っこしていて!

おんぶをしている赤ちゃんの頭が、ガクッ
となるように、あぷりの頭が後ろに
倒れそうになってしまいます。

 

私は手でそっとあぷりの頭を支えてあげました。
まさに愛しさの塊でした。

 

その間、私は本や新聞を呼んでいるのですが
ページをめくろうとして片手を離すと
あぷりは嫌がります。

 

私が片手を離すたびに、離した方の
私の手を振り返って見ながら
「手を離しちゃだめ!」という仕草をします。

 

 

 

 

私は「いいじゃない,少しくらい離したって……」
と、少しだけ口をとがらせながら言ったものでした。

 

あぷりが2年前に卵巣がんになった時など
朝といわず、昼といわず、夜といわず……
一日中、私が床に座ると
たちまちダッキーをしにきました。

 

身体の具合が悪くて不安だったのでしょう。
それは手術の日の朝まで続きましたが
手術後は傷口の関係か一切しなくなりました。

 

 

 

 

 

キャリーバックは絶対イヤ!

あぷりはキャリアーバックが大嫌いでした。
前のうさぎのももちも嫌いでしたが
一旦入った後は、大人しく座っていたものです。

 

ところがあぷりは、嫌いという言葉では
表現できないほどの激しい拒否反応。

 

単なるわがままなのか否かを見極めることは
とても難しいことですが、私はもっともっと
わがままを聞いてあげるべきでした。

 

 

 

 

うちにいた子たちで、そこまで嫌がった子は
いなかったのですから、もっと深く考えて
察してあげることが本当の愛情だったでしょう。

 

あぷりは全身全霊で拒否するものの病院には
行かなくてはならないので私も必死。
「詰める」という感じで入れます。

 

ハサミで切ろうとしても難しいほど頑丈な
素材を諦めることなく齧り続けたあぷりは
キャリーバッグを壊しました。

 

 

 

 

 

しつけという名の虐待だったのかも

木や布などをほとんど齧らないあぷりの
綺麗だった歯を痛めてしまったのは
この時だったのです。

 

キャリーに入れた日は「おとなしくなる」という
よりは「虚脱、脱力」という感じでぐったりして
いました。

 

それが家に帰ってから数時間も続くのです。
あぷりは、これも私と同様に
揺れにも弱かったのかもしれません。

 

 

 

 

 

あぷちゃんの舟

仕方なく私は、バスタオルにファスナーをつけ
キャリーバック風に作り「あぷちゃんの舟」と
名づけたもので病院に通うことにしました。

 

この時も、あぷりの顔が私の胸位の高さではダメで
私の頬あたりでないとと必死でよじ登ろうとします。
これですと人が驚くほど長時間大人いのです。

 

以前、近くの病院の待合室でキャリーバックから
出してはいけないので、ファスナーを開けあぷりの
前の両脚(手?)と私の両手をつないでいました。

 

 

 

 

本当はファスナーを閉めていなくてはいけなかった
のですが、こうしないとあぷりはダメだったので
私は、仕方なく苦肉の策という感じでしたのです。

 

するとその時、夏休みで女の子2人と両親できて
いたお父さんが、びっくりした顔で言いました。
「何年たつと、そんなに慣れるのですか!?」と。

 

内心、困ったもんだと思っていた私は、思いもかけ
ない方向の質問に、何と答えたかは忘れましたが
顔と顔がついていたり、向き合って手を繋いでいたり
すれば何時間でもあぷりは大人しくしていたのです。

 

 

 

 

あぷちゃんの舟に入ったあぷりと私は
往復3時間弱の荻窪の鍼灸院と、4時間
以上の藤沢の獣医さんに通いました。

 

特に具合の悪い時は体への負担が心配でしたが
それでもあぷりを抱いての通院は楽しく
今ではかけがえのない素晴らしい思い出です。

 

入院時も、毎日、あるいは一日おきに面会に行って
いたのですが、最後の2回の入院では、騒音対策と
それが無理だとわかってからは引越しの準備のため
ほとんど行ってあげることができませんでした。

 

 

 

 

どんなに急いでも退院までに引越しが間に合わない
ので、それまでウィークリーマンションでと思って
いた11月20日のお昼頃、あぷりの面会に行きました。

 

いつものK先生は学会でお出かけで、代わりにY先生
が担当して下さいましたが、2階の入院室に行く途中
あぷりの状態がかなり悪いことを告げられました。

 

薬を与えても頭の揺れと眼振が
おさまらないとのこと。

 

 

 

 

あぷりはもう、いつものように座ることも
できずに、前と後ろの全ての脚をダラッ〜と
伸ばし、苦しそうにしていました。

 

私が来たのをわかったあぷりは、動けないながら
必死で私のそばに来ようと右の肩と右の前脚、左の肩
と左の前脚をさざ波のように交互に動かしました。

 

ですがあぷりは、もう1ミリも進むことはできないのです。
歩くことも、立つことも。

 

 

 

 

先生は酸素室の左右の窓を開けて、
「ここから撫でてあげてください」
とおっしゃいました。

 

私が「先生、抱っこされたがっています!」
とお願いすると、扉を開けてあぷりを
出して抱かせて下さいました。

 

見た瞬間から、もう長くないことがわかりました。
涙が静かに流れました。
あぷりが愛おしくて愛おしくて、申し訳なくて……。

 

 

 

 

もう、最期なんだね……

「お母さんが来たので、眼振も止まりましたね」
先生は左目、右目と確認しながらおっしゃいました。

 

「もう、今日中だと思いますので、病院ではなく
お家に帰られた方がいいと思うのですが、
おうちはには……」

 

「うちへは帰れませんので、ホテルに行きます」
あぷりを連れて行ってどのようにしたらよいかを教えて
もらい、しばらくこのまま抱かせてもらうことにしました。

 

 

 

 

それからさほどの時が経たないうちに
あぷりは息を引き取りました。

 

頭を深く下げてあぷりと私を見送って下さった
Y先生が泣いていらしたことに、私の気持ちを
言い尽くせる感謝の言葉は見つかりません。

 

なぜ、一昨日には家の処分の動きを始めたのに、
また明日はあぷと静かに暮らせるお家を探しにいく
予定だったのに、逝ってしまったののでしょうか。

 

私が行動を起こすのが遅すぎたことは
充分反省しながらも、残念でなりません。

 

 

 

 

 

身代わり

前のうさぎのももちも、あぷりも、騒音で
体を壊しているということは、私の体にとっても
良くないのでは、と多くの方にも指摘されました。

 

何より、私自身が一番感じていたのですが。
ももちとあぷりが、身をもって、命をかけて知らせ
てくれているのです、洞窟のカナリヤのように。

 

そして、やっと、本当にやっと私が動き出したのを見て
あぷりは安心して逝くことが出来たのかもしれません。

 

 

 

 

防音ルームではなく

あぷりの死の前日はペットの防音ルームを、表参道
にあるショールームに見に行ったところでした。

 

そして帰りに寄ったクレヨンハウスで思いがけなく
敬愛する方に会うことができ「あなたにあげたかったの」
とおっしゃって素敵な絵本を下さったのです。

 

18日 水 家の処分の動きを始める

19日 木 あぷの防音ルームを見に行く
    「おやすみ、ぼく」の絵本をいただく

20日 金 あぷ息を引きとる

21日 土 家探しの予定(あぷの死により延期)

22日 日 ももちの祥月命日忌  あぷ火葬

 

 

 

 

眠りに入るあぷりに

19日に防音ルームを見に行きましたが、もうその時の
あぷりは、防音ルームより安らかな眠りに入る時に
かけてあげる言葉の方が必要だったのでしょう。

 

そして、まさにそれをいただいたのです。
「母に読んであげたかった絵本なの」と
おっしゃりながら手渡してくださった本は、

 

赤ちゃんオラウータンが、自分の「あしさん」や
「みみさん」に「ありがとう」「おやすみ」の言葉を
優しくかけた後に、優しい眠りにつく絵本でした。

 

 

 

 

「おやすみ、ぼく (Good Night, Me)」
アンドリュー・ダッド/文   エマ・クエイ/絵
落合恵子/訳  クレヨンハウス/刊  2009年

 

表紙の裏に落合恵子さんはこんな風に書いています。

「おやすみ、ぼく」
「おやすみ、ぼく」
 眠たい子も もう眠ってしまった子も
 まだ眠くない子も まだまだ眠れない子も
 今夜 あなたが みる夢が
 おだやかで しずかな夢でありますように!(略)                 」

 

 

 

 

 

「おやすみ、あぷ」

おやすみ、あぷ。
ありがとう、あぷ!
本当にごめんね。

 

あぷりと暮らせて信じられないくらい幸せだったよ。
あぷりがいないなら引っ越しをしなくてもいいかなあ。

 

と思ってしまいますが、そうしたら命をかけて伝え
てくれた、ももちとあぷりに申し訳ありませんよね。
ちゃんと引っ越そうと思っています。

 

あぷり、ゆっくりやすんでくださいね。
もう、音に苦しめられることはありませんから。

 

そして安らかな眠りで充分な休息をとった後、
優しい朝が訪れて、再び目覚めたら……
あぷ また会おうね、きっと!

 

 

 

 

 

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

コメント

plopp
2009年11月26日 8:14 AM 編集
途中まで頑張って泣かないよう
読んだのですがやっぱりダメです。
もう、たーちゃんの所から先、

 

 あぷり
 2009年11月27日 5:07 AM 編集
 フロスティのploppさんの可愛さに目が止まり、
 あぷと同じ頃に病気をしていると知って、
 思わずお話をせずにはいられませんでした。
 そうしたら……

 

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「イスラム教の信仰を捨てたために家族に殺される」とツイートした女性    「BBC」と「TBS」

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

2019年1月12日(土)BBC News JAPAN

「家族の元に戻ったら殺されてしまう」

ツイッターでは数日前から、サウジアラビア人
女性のツイートが話題になっています。

 

その女性とは、ラハフ・ムハンマド
・アルクヌンさん18歳。

 

彼女はクウェートに住む家族の元から脱出して
タイにやってきて、バンコク空港のホテルの
一室からツイートを発していました。

 

「家族の元に戻されたら殺されてしまう。
私はタイに逃げてきました。
サウジ大使館が帰国させようとしているの
今、本当に危険な状態です」

 

 

 

 

 

フォロワーは4日で、24人から9万人へ

このツイートをしたのは、アカウントを
開いた1月5日のこと。
その日、フォロワーは24人でした。

 

しかし、「#SaveRahaf(ラハフを救え)」
のハッシュタグのついたツイートは、瞬く間に
多くの人の間を飛び交うことになります。

 

5日の24人の翌日は、すでに17000人に増え、
7日は57000人、8日には90000人にまで増え、
彼女が亡命を希望していたオーストラリアでも
トレンド入りを果たします。

 

 

ラハフ・ムハンマド・アルクヌン(18)さん
(写真/「 BBC  JAPAN」)

 

 

オーストラリアへ難民申請

タイとサウジアラビア両国の当局者が
彼女の難民申請を協議しました。
サウジ総領事はこのように言ったということです。

 

「タイ当局は、旅券ではなく
電話を取り上げるべきだった」と。

 

ツイッターでの多くの声に押されるように、
国連難民高等弁務官事務所が、オーストラリア
への難民申請の仲介をすることになります。

 

 

 

 

 

「あなたの翼を折らせないで」

この短期間での展開に一役も二役も
かったツイッター。

 

ラハフ・ムハンマド・アルクヌンさんは
「ツイッターのおかげで全てが変わった」
と言い、こう続けました。

 

「あなたの翼を、誰かにおられてはダメ!
(Don’t  let  anyone  break  your  wings,
you’re  free,  fight  and  your RIGHTS!)」

 

 

 

 

むか〜し、「翼をください」という曲がありました。
その歌詞も切ないほどに美しいものでしたが
今回のラハフ・ムハンマド・アルクヌンさんは、

 

「あなたの翼を、誰かに折られてはダメ」
と言います。

 

あなたもあなたのお友達も、そのお友達の
あまり好きではない人も含めて、全ての人の翼を
誰かに折らせてはいけない、のですね。

 

 

 

 

翼を折らせないための彼女の必死の願いは、
ツイッターの、そして多くの人の力を得て叶いました。
新しい年にふさわしい素敵なお話ですね。

 

 

 

 

追記

2019年1月13日(日) TB系S(JNN)

上記のBBCの記事の後に、新しい情報が
入りましたので、付け加えたいと思います。

 

前の情報では、国連難民高等弁務官事務所が
オーストラリアへの難民申請の仲介をする
ということでしたが、カナダ政府が、彼女を難民
として受け入れることを決めたということです。

 

ラハフ・ムハンマド・クヌンさんは、12日
トロント空港に着き、カナダのフリーランド外相
から、花束を受け取ったとあります。

 

 

 

 

(名前の表記も「ラハフ・ムハンマド・アルクヌン」
から「ラハフ・ムハンマド・クヌン」になっています)

 

フリーランド外相は、

 

「新しくカナダ人になる勇敢なクヌンさんを
新しい生活の地に迎えられて嬉しく思います。
彼女は私にカナダの寒さについて話しましたが、
これから暖かくなると伝えました」

 

と述べ、クヌンさんが疲れているため今はコメント
できないが、のちに改めてする旨を説明。

 

 

 

 

TBS系( JNN)のこの記事の、最終更新(1月13日
・日 18:43)では、次のような文でしめています。

 

「サウジアラビアでは、旅行するのに父や兄、夫と
いった男性親族の許可が必要とされるなど女性の
権利に対する制限は厳しく、クヌンさんの決断は
SNSを通じて国際的に注目されていました」

 

BBCの記事にあった「イスラム教」「家族に殺される」
という文字は消えて「家族の虐待などから逃れるため」
という表現になり、最後の文章で、「女性の権利に
対する制限」の厳しさと説明しています。

 

 

 

ツイッター上では今年の5日から、私たちの目に見える
ようになったこの問題ですが、ラハフ・ムハンマド・
クヌンさんにとっては数年前か、あるいは物心ついて
以来の問題なのかもしれません。

 

しばらくは安全な場所でゆっくりと羽を休めて
その後、彼女の望む人生に向かって、思い切り
羽ばたけますようにと願わずにはいられません。

 

 

 

再び追記

2019年1月14日(月)BBC News   JAPAN

    15日(火)   〃

昨日、一昨日の記事に追記をしたばかりですが
今日もまた、新しい情報がありましたので
付け加えておきたいと思います。

 

最初の記事は12日(土)、「BBC 」、
昨日(13日・日)の追加記事は、「TBS」、
そして14日・15日(月・火)は、再び「BBC」。

 

 

 

 

 

より詳細になったBBC報道

今日の BBCの記事は、最初の報道よりかなり長い
もので、14日のタイトルは
「SNSで助け求めたサウジ少女、難民認定先の
カナダに到着」

 

なお名前の記載の仕方ですがBBCは、一昨日と同じく
「ラハフ・ムハンマド・アルクヌン」です。
TBSでは「ラハフ・ムハンマド・クヌン」。

 

昨日のTBSでは、全く触れられていない
「イスラム教を捨てた」ことに関しては、14日、
15日のBBCは、より詳しく説明がされています。

 

名前についてですが、彼女の名前は
「ラルフ・ムハンマド・アル=クヌン」ですが、
家族に勘当されたため「アル=クヌン」の使用をやめ
今は「ラルフ・ムハンマド」を名乗っているそうです。

 

 

 

 

 

イスラム教を捨てるのは死刑に処せられる罪

ラハフさんは、イスラム教を捨てたと話していますが
これはサウジアラビアでは死刑に罰せられる罪に
あたるということです。

 

続いてラハフさんは、「自分の国では盤踞も就職も
できない。だから自由になってやりたいように
勉強と仕事がしたい」とも話しています。

 

AFPの取材によりますと、ラハフさんは髪を
切ったことにより6ヶ月間も自室に閉じ込められ
家族から心身に虐待を受けたそうです。

 

彼女の家族の代理人によれば、
家族はコメントするつもりはなく、ただラハフさん
の安全を気にしていると述べたそうです。

 

 

 

 

 

サウジアラビアの女性は……

「大事な事柄を自分で決められない
父親や兄弟、夫や息子など男性保護者の許可が必要だ」

 

「就職:政府機関・企業は男性保護者の同意を求める」

「教育:女性の入学には男性保護者の許可が必要」

「結婚:女性は男性保護者の許可がないと結婚できない」

「旅行:
 旅券や身分証の入手には男性保護者の同意が必要」

「刑務所:
 男性保護者が出迎えなければ女性は釈放されない」

 

というBBCのビデオが添えられていました。

 

特に最後の刑務所から保釈されない、というのが
なんとも……、まあ、該当する人は少ないでしょうが
何ともいえない理不尽さが胸をつきました。

 

 

 

赤坂のカナダ大使館

 

 

「カナダは、常に世界中の人権と女性の権利の

ために立ち上がることを明白にしてきた」

また、昨日の築城でご紹介したカナダのクリスティア
・フリーランド外相の言葉に加えて、ジャスティン
・トルドー首相の言葉も紹介されています。

 

「カナダは国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)
の要請を受けて難民として認定した」とし、

 

「カナダは、常に世界中の人権と女性の権利の
ために立ち上がることを明白にしてきた」
とも述べています。

 

 

 

 

国連難民高等弁務官事務所は、ラハフさんを
合法的な難民だと認識しており、カナダが
難民認定を下したことを歓迎するとしています。

 

フィリッポ・グランディ難民高等弁務官は、
『国際難民法と、何よりも重要な人権の勝利だ」
と語りました。

 

実はカナダは以前にも、サウジアラビアに女性の
権利活動家を解放するよう求めたことがあります。

 

その時、怒ったサウジアラビアは、駐サウジ・
カナダ大使を強制送還した上、新規貿易案件を
全面的に凍結するという報復措置をとりました。

 

 

前カナダ・ペン会長
キャサリン・ゴヴィエの「北斎と応為」

 

 

 

バンコクにいた理由

15日の記事では、最初にこのことを知った時に
なぜラハフさんはバンコクにいたのか?
という疑問についても説明されていました。

 

ラハフさんは本来、家族と共にクウェートへ行く予定
でしたが、バンコク行きの便に逃げ込みます。

 

しかし、バンコクで飛行機を降りたところでサウジの
外交官にパスポートを没取され立ち往生してしまいます。

 

ただし、バンコクのサウジ領事館は、ラハフさん
の拘束に関わったことを否定しています。

 

 

 

 

タイ当局は当初、ラハフさんの件を「家族の問題」と
しており、翌日にもラハフさんをクウェートへ
強制送還する予定だったといいます。

 

確かに、13日のTBSの報道ですと
まさに彼女の「家族の問題」と読めますね。

 

そこで彼女は、ツイッターで助けを求めました。
その後、タイはラハフさんの滞在を認め、国連が
彼女の難民申請を検討することになったのです。

 

 

カナダ大使館で飾られていたお花

 

 

ラハフさんは、カナダ紙、トロント・スターに対して
「失うものは何もなかった」と話しています。

 

「私たちはもの扱いされている、奴隷のように」、
「私の話と、サウジの女性がどういう目に逢うか、
大勢に話したかった」

 

「こういう展開になる確率は1%だと思っていた」
また、「カナダにいて、とても安心している。
カナダは人権を尊重する国なので」とも語りました。

 

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