ナショナル麻布スーパーマーケットにフィリックスちゃんがいるわけ

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

160602nationalazabu

 

 

住所は「南麻布」 駅は「広尾」

このところ、麻布十番にある「日進ワールドデリカ
テッセン  インターナショナル  スーパーマーケット」
で買った食品の紹介が続きました。

 

麻布で外国の食品を多く扱っているお店といえば
「ナショナル麻布スーパーマーケット(National
Azabu  Supermarket )」も忘れてはいけませんね。
田園調布と広尾ガーデンヒルズにも支店があるお店です。

 

(「ナショナル麻布スーパーマーケット」
〒106-0047 東京都港区南麻布4丁目5−2
Tel.03-3442-3181
営業時間 8:00〜21:00 年始のみ休業)

 

 

arisugawaがナショナル麻布スーパーマーケット
ナショナル麻布の左上が「広尾」 地図の右上が「麻布十番」

 

 

 

「ナショナル麻布  広尾」

ナショナル麻布のある場所は、麻布十番からですと
結構離れていますので、ちょっと歩くことになります。

 

「ナショナル麻布」という名前の通り、住所は
「南麻布」ですが、駅でいいますと「広尾」が近く
歩いてほんの2.3分といったところ。

 

ネットなどでは、よく「National Azabu  広尾」
などとも書いてあります。

 

麻布十番の「成城石井」で購入したナツメヤシ

 

 

そういえば先日、海外での暮らしが長く、赤プリを
知らないと言って私を驚かせたN子ちゃんと麻布十番を
歩いていた時に「成城石井」を見た彼女が
「麻布なのに『成城』がついているの?」と聞くのです。

 

私は「『成城』はお店の名前の一部になってるのよ」
と答えたのですが、そんなこんなで
「ナショナル麻布  広尾」です。

 

アークヒルズの「成城石井」で買ったクロワッサン等

 

 

 

2012年新装オープン

ナショナル麻布スーパーマーケットは1
962年に、日本で暮らす大使館員や、外国人
ビジネスマンのためにオープンしました。

 

今年の4月には、54周年アニバーサリー
記念セールもあったそうです。

 

オープン50周年を迎える直前の、2011年
10月31日に改装のために、一時閉店、
翌2012年8月31日に新装オープン。

 

今回の改装は4回目ということですが、入口の作りを
開店当初から1983年までのお店の感じに戻したとか。

 

 

ナショナル麻布のそばにある
「ブーランルージュ  ブルディガラ」広尾店のカヌレ

 

 

 

お店全体は、日進ワールドデリカテッセンに
比べると、こじんまりしていますが、内容は
ギッシリで改装後はとてもきれいになりました。

 

2階は調理器具や食器、カード類に
ラッピング用品と盛りだくさん。

 

次の写真は、お店の裏手にあたる場所ですが
緑色の「Welcome」とある扉から中に入り
写真の左側の入口から入ります。

 

 

160602nationalazabusuperナショナル麻布スーパーマーケットの裏口(入口専用)

 

 

ここは入口専用で、出る時は正面からと
なりますが、お店というよりは知り合いの
おうちに来たような雰囲気ですね。

 

 

 

オーガニック食品が充実

ナショナル麻布のモットーは
「本当によいもの」「ヘルシー」「インターナショナル」
そして「コミュニティの場」ということで
オーガニックを多く扱っています。

 

また、去年の12月の
「ナショナル麻布スーパーマーケット」
のツイッターにはこんなお知らせもありました。

 

「もの凄いお値段ですが、白トリュフと
黒トリュフが入荷しました」

という言葉に添えられていた写真がこちら。

 

 

toryuhu白トリュフと黒トリュフ(「ナショナル麻布」)

 

 

フランス産の黒い「冬トリュフ(WINTER
TRUFFLE  MUSHROOM)」が「32,800円」で

 

イタリア・アルバ産の「白トリュフ
(WHITE  TRUFFLE MUSHROOM)」は「77,700円」!

 

たしかにすご過ぎるお値段です。
「今年も入荷しました」と書いてありますが
残念ながら私は、今年も来年も……(以下省略)
買えないでしょう(涙)。

 

 

 

フィリックスちゃんがこんなところに

ここでもう一度、ナショナル麻布の写真を
御覧いただきますと、「NATIONAL」という文字の
「L」の下あたりに、黒いネコのフィリックスちゃん
が、両手を広げているのがおわかりですか?

 

 

*          こ こ               このマーク 
160602nationalazabu                              フィリックスちゃん

 

 

立て看板を今週だけお店に置いている、
という感じではなく、建物にきっちりと
組み込まれているフィリックスちゃん。

 

また建物の上の右の方には、白い「*」に
似ている形のマークがあります。
このマークも、スーパーマーケットでは
見かけないものですよね?

 

 

feliathecatフィリックスちゃん
(「FELIX The CAT」公式サイト)

 

 

 

元和元年創業の木村酒造

その説明をするためには1615年、元和元年までさか
のぼらなくてはなりません、というのはウソですが
もともとのナショナル麻布を作ったのは
「木村酒造」という会社でした。

 

秋田県にある会社ですが、創業は1615年、元和元年!
麻布十番の「豆源」は慶応でしたが、こちらは元和。
赤坂の「虎屋」と同じくらいでしょうか?

 

この「木村酒造」と、現在は赤坂に本社のある
「東北新社」の2つの会社の間で株式取得(買収)
や合併、分社がなされたということでした。

 

 

151030tohokusinsha 中央の建物が「東北新社」(赤坂4丁目8-10)
手前は青山通り、2,3軒先は「虎屋」

 

 

 

木村酒造と東北新社の関係

     「木村酒造」     「東北新社」
________________________
1961年 「ナショナル物産  「東北新社」設立
    株式会社」設立

1962年 ナショナル麻布開店

1970年     |    「ビデオ・グラフ事業部」
                 を設立

1972年     |———→「ナショナル物産」買収

2000年           「ナショナル物産」
              「木村酒造」
                「ビスオ・グラフ」
               等の会社合併
                |   |
2013年 「木村酒造」分社化 ←—  |    ↓

 

 

東北新社のそばにある「虎屋」の和菓子「ピラミッド」
このお菓子は期間限定だったかも……

 

 

フィリックスちゃんがいるわけ

簡単にいってしまいますと、木村酒造は
「ナショナル物産株式会社」を設立後、ナショナル
麻布を作りますが「東北新社」に買収されます。

 

その後、合併会社となるも、2013年に分社。
したがってナショナル麻布は、現在
「東北新社」の子会社というわけ。

 

そのあたりのことをWikipedia.では
少々間違って記載しているようです。

 

「虎屋」の和菓子「もみじ」

 

 

2016年7月7日現在のWikipedia.では、
「木村酒造」が「ビデオ・グラフ事業部」を
設立したような記載になっていますが、

 

「ビデオ・グラフ事業部」は
「東北新社」が設立したものです。

 

もちろん、元和元年創業の酒屋さんが、全く畑違いの
映像ビジネスをはじめるということも、あり得るで
しょうが「東北新社」のサイトに記載されて
いますので、こちらが正しいと思います。

 

先ほどのナショナル麻布の写真に、白い「*」
のようなマークがついていましたが、
これは「東北新社」のマークですよ。

 

 

151030filicthecarこちらは赤坂の「東北新社」1階受付にいるフィリックスちゃん

 

 

これで、ナショナル麻布にフィリックスちゃん
(Felix the Cat)がいるという、ちょっと大人の事情も
ナショナル麻布のツイッターに「木村酒造」の日本酒
『福小町』が登場する理由もわかりました。

 

また余談ですが、ナショナル麻布に入っている
「サーティワン・アイスクリーム」は
フランチャイズ1号店で、1974年にオープン。

 

同じ頃に直営第1号店が目黒に作られましたが
現在ではないので、ナショナル麻布の「サーティワン
・アイスクリーム」が、日本の店舗としては
一番古いお店ということになるそうです。

 

 

東北新社の近くで見た夕日

 

 

ナショナル麻布というモダンなスーパーマーケットが
意外なことに、何やら古いものと縁があったのですね、
と無理矢理まとめてみました。

 

でも、フィリックスちゃんは好き!
(  ↑ここで「でも」を使うのはヘンだろう自分、
「でも」はっ!)

 

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「鳥居坂」鳥居元忠は大石内蔵助の高祖父 麻布の坂1 

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160411toriizaka

 

 

都道319号線を渡ると六本木

麻布十番の絵てぬぐいのお店「麻の葉」を出て、
麻布十番駅の方に少しだけ戻った角を、左に
曲がると大きな通り(都道319号)に出ます。

 

「東京都道319号環状三号線(とうきょうとどう
319ごうかんじょうさんごうせん)といい、
港区海岸2丁目から江東区辰巳2丁目までの23,7
キロメートルの道路で「外苑東通り」もその一部。

 

「都道319号」という名前よりも「明治路通り」や
「国道6号水戸街道」「言問通り」というように
それぞれの地名で呼ばれているそうですが、今日
はその都道319をから始まる「鳥居坂」のお話です。

 

「鳥居坂下」の交差点から「鳥居坂」を上って
行くと、長い直線の道が続き、突き当たりは
六本木通りの「六本木五丁目交差点」。

 

付近には六本木ロアビルや
ドンキホーテなどがあります。

 

 

toriizaka(地図/「Mapion」に加筆)
・・・・・・」は都道319号で、「  ◉  」のあたりが「麻の葉」
 ———  」が鳥居坂です。

 

 

 

右側が「鳥居家(現在はシンガポール大使館)」

鳥居坂下交差点のそばから
「鳥居坂」を見た写真が次のもの。
木々が見えている「鳥居坂」の
右側はシンガポール大使館です。

 

 

160411toriizaka都道319号から始まっている「鳥居坂」

 

 

江戸時代、この場所に大名の鳥居(鳥井)
彦右衛門元忠のお屋敷があったことから
「鳥居坂」と名づけられました。

 

鳥居坂下交差点から六本木五丁目交差点までの間
には、麻布麻地区総合支所、フィリピン共和国
大使館、東洋英和女学院などが並んでいます。

 

 

 

「きみちゃん」と「李垠(りぎん)」

「鳥居坂」の少し先には麻布十番パティオにある
「きみちゃん」にゆかりの建物もあります。

 

 

blog_import_51535fef6677a麻布十番のパティオにある「きみちゃん」の像

 

 

童謡「赤い靴」のモデルといわれる「きみちゃん」
は、1911年(明治44年)に鳥居坂教会の運営する
孤女院(女の子だけの孤児院)で9歳で亡くなり、
現在は青山墓地で眠っています。

 

また、少し前にブログで御紹介した
李王家の邸宅があったのもここ。

 

1907年(明治40年)の12月、大韓帝国の皇太子で
あった10歳の李垠(りぎん)は、留学という名の
もとに人質として日本にきました。

 

長じた李垠はここで結婚式も挙げ、今年の夏に
赤坂プリンスクラシックハウス」として
生まれ変わる、赤坂の旧李王家東京邸に
移るまでの日々を鳥居坂で過ごしています。

 

 

rigin李垠(りぎん)

 

 

 

300年前に誕生

「鳥居坂」という名前が付けられたのは
元禄年間、1688〜1703年頃だといわれています。

 

おもしろいことに1673 ~ 1681年(延宝)の
地図には、「鳥居坂」の名前がないだけではなく、
坂そのものも見当たらないことです。

 

その後の1699年(元禄12年)の地図に
なりますと「鳥居坂」が登場します。

 

このことから、1681年から1699年までの間に、
鳥居家の敷地の一部を道にしたと考えられて
いるようです(「港区 鳥居坂物語」)。

 

 

160411toriizakaue「鳥居坂」の上から下を見た写真

 

 

 

鳥居元忠は「鳥居坂」を知らなかった!

先ほど私は「鳥居坂」の名前は、「江戸時代、
この場所に大名の鳥居彦右衛門元忠の屋敷が
あったことから名づけられた」
と一般的に言われていることを書きました。

 

徳川家の家臣で、下総香取郡矢作藩の初代藩主
である鳥居元忠(とりい  もとただ)は、
1539年(天文8年)に松平氏の家臣・鳥居忠吉
の三男として三河(愛知県岡崎市)に生まれ、

 

1600年(慶長5年)の8月1日、62歳の時に
関ヶ原の前哨戦である伏見城の戦いで
鈴木重朝との一騎打ちで討ち死をしています。

 

 

151030kinokuni

 

 

つまり亡くなったのは1600年ということで、
「鳥居坂」が作られた100年近く前に、すでに
亡くなっているのですから、元忠自身は
「鳥居坂」の存在は全く知らなかったはずです。

 

となりますと「江戸時代、この場所に大名の
鳥居彦右衛門元忠の屋敷があったことから
名づけられた」というよりは、

 

「この場所の近くにあった大名屋敷『鳥居家』から
名づけられた」と表現する方が、より正確で、
かつ誤解がないようにも思えますね。

 

 

toriizakaピンク色の部分が「鳥居坂」

 

 

 

「鳥居坂」が出来た当時の当主は?

ここで、鳥居家の歴代当主を見てみましょう。
鳥居家は元忠が初代ではありませんが、ここでは
わかりやすく元忠を①として数えることにします。

 

 

*  歴代当主の名        当時の領地
________________________
① 元忠(もとただ)
 1539〜1600

 

② 忠政(ただまさ)    1590年〜1600年
元忠の二男       下総矢作藩(4万石)
* 1566〜1628

1566〜1628*         1600年〜1622年
              陸奥磐城平藩(10万石)

             1622年〜1636年
             出羽山形藩(22→24万石)

 

③ 忠恒(ただつね)        ↓
忠政の長男             断絶
 1628〜1636
末期養子が認められず、山形藩没収

                  再興
④ 忠春(ただはる)    1636年〜1689年
忠政の三男、忠恒の異母弟  信濃高遠藩(3万2千石)
 1624〜1663

 

⑤ 忠則(ただのり)         改易
忠春の長男
 1646〜1689
                  再興
⑥ 忠英(ただてる)    1689年〜1695年
忠則の次男           能登下村藩(1万石)
 1665〜1716

             1695年〜1712年
             近江水口藩(2万石)

             1712年〜1871年
             下野壬生藩(3万石)

 

⑦ 忠瞭(ただあきら)1681〜1735 忠則の五男
⑧ 忠意(ただおき)1717〜1794 忠瞭の長男
⑨ 忠見(ただみ)1750〜1794 忠意の四男
⑩ 忠熹(ただてる)1776〜1821 忠見の次男
⑪ 忠威(ただあきら)1809〜1826 忠熹の次男
⑫ 忠挙(ただひら)1815〜1857 忠威の弟
⑬ 忠宝(ただとみ)1845〜1885 忠挙の三男

          1869年(明治2年)版籍奉還

 

 

120px-Japanese_Crest_Torii_Sasa.svg鳥居氏 家紋「鳥居笹」

 

 

1681年には記載がなかった「鳥居坂」が地図に現れた
のは、1699年からですので、その間の当主といいます
と、⑤忠則か、⑥忠英ということになるでしょうか。

 

 

 

「三河武士の鑑」といわれた元忠

なお「③忠恒」から「⑥忠英」の時代、右の領地の
記載には「断絶」と「再興」の言葉が見えます。

 

断絶した家がなぜすぐ再興したのか不思議に思い
ますが、これには「三河武士の鑑」と謳われた
鳥居元忠の活躍が関係しているのです。

 

元忠は、今川氏の人質として「松平竹千代」
と呼ばれていた徳川家康のもとに
13歳の時から仕えていました。

 

人質だった家康は3歳上の元忠に、主従を越えて
共に育った兄弟のような感情さえ
抱いていたのではないでしょうか。

 

 

130617gekkabijin

 

 

会津征伐に出兵する家康は、伏見城
に残して行く元忠に言います。

 

手勢不足のため伏見にわずかな
人数しか残せず苦労をかける、と。
すると元忠は、このように答えたのです。

 

「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば
自分と松平近正両人で事足りる。
将来殿が天下を取るには、一人でも多くの
家臣が必要である。
もし変事があって大坂の大軍が包囲した時は
城に火をかけ討死するほかないから、人数を
多くこの城に残すことは無駄である。
一人でも多くの家臣を城から連れ出して欲しい」と。

 

家康と元忠はその夜、おそくまで
酒を酌み交わしたといいます。

 

元忠が10歳の家康に仕えてから
50年の歳月が流れていました。

 

 

140222koke470

 

 

そして元忠は伏見城で討死し、京極口に晒されて
いた首級は、知人の商人が葬ったということです、
元忠の忠節は「三河武士の鑑」と称されました。

 

生涯、家康への忠義を貫いた元忠は、秀吉からの度々
の官位推挙の話も受け入れることはありませんでした。

 

元忠の最期の場である伏見城の「血染めの畳」を
江戸城の伏見櫓の階上に置かせた家康は
途城する大名たちに元忠を偲ばせたといいます。

 

 

130815hasunohana

 

 

 

元忠の功績により

さてここで先ほどの「断絶」に戻りますと、
元忠の孫にあたる忠恒は子どもがなく、
33歳で亡くなる直前の養子縁組に関してルール違反
をしたということでお家断絶になってしまいます。

 

しかし大政参与(幕府の職制の1つ)の井伊直孝
の反対にも関わらず、祖父・元忠の功績により
鳥居家は存続されることになったのです。

 

亡くなった忠恒の異母弟にあたる
忠春が信濃高遠藩主となりました。

 

それにとどまらず忠春の子、忠則も問題を
起こして閉門中に急死し(自害したと
いわれている)、再び領地没収。

 

2度目の不祥事ではありましたが、ここでも
元忠の功績により忠則の子・忠英は能登下村藩
(1万石)の藩主となることができたのです。

 

 

130312simoyasiki赤穂浅野家 下屋敷跡(赤坂6丁目)

 

 

「血染めの畳」も凄まじいですが、元忠の忠臣
ぶりは、しばしば子孫を救うことになりました。

 

忠臣といえば、鳥居元忠の四男である鳥居忠勝の
娘は、赤穂藩家老・大石良欽に嫁いでいます。

 

そしてその孫が大石良雄(内蔵助)ですので
元忠は、内蔵助のひいひいおじいちゃん
(高祖父)にあたるのですね。

 

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「南部坂雪の別れ」の舞台は、なぜ「南部坂」なのか?

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130617youzeninjikkaityou瑶泉院の実家跡

 

 

なぜ「南部坂」を選んだのか?

前々回、「忠臣蔵」の有名な場面「南部坂雪の別れ」
の舞台である「南部坂」をとりあげました。

 

その時、大石内蔵助が討入り前に、浅野内匠頭の妻
である瑶泉院に、別れを告げるという重要な舞台に
なぜ「南部坂」が選ばれたのかということが
少々気になりました。

 

「忠臣蔵」は元禄赤穂事件をもとにした創作ですし
「南部坂雪の別れ」はフィクションですので
別に「南部坂」でなくても「氷川坂」でも
「本氷川坂」でもいいわけですから。

 

 

151212nanbuzakaue赤坂にある「南部坂」

 

 

 

瑶泉院の屋敷と南部坂の位置

まず、それぞれの位置関係を見てみましょう。
「南部坂」の回に御紹介した通り、「南部坂」の
場所は地図の右の下、首都高速道路のそばの
緑色で書いた線の部分。

 

 

右下の緑色で示した線が「南部坂」

 

 

「南部坂」という名は、陸奥盛岡藩南部家の
お屋敷が近くにあったことに由来します。

 

同じ場所が、明暦2年からは、赤穂藩浅野家の
下屋敷になっています(相対替と言います)。
地図でいいますと「A」の場所です。

 

 

asanonannbuM(三次浅野家下屋敷)A(赤穂浅野家下屋敷)
一番長い紫色の線が「氷川坂」
ピンク色で示したのが「本氷川坂」
緑色は「南部坂」

 

 

「M」は、前回御紹介した瑶泉院の実家、
三次(みよし)浅野家の下屋敷のあった場所。

 

その「M」を挟んで右上斜めに走っているのが
「氷川坂」で、左下斜めに短くあるのが
「本氷川坂」でした。

 

 

151212motohikawayoru「本氷川坂」

 

 

 

内匠頭家、瑶泉院家、南部坂は正三角形

こうして地図を見ますと、浅野内匠頭の下屋敷と、
瑶泉院の実家の下屋敷、南部坂は、ほぼ正三角形の位置。

 

忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」では、討ち入りの前日の
12月13日に、大石内蔵助が瑶泉院を
訪ねたことになっています
(これはフィクションで実際は、前年の11月)。

 

 

130312simoyasiki赤穂浅野家の下屋敷跡(赤坂6丁目)

 

 

その時には当然のことながら赤穂浅野家(A)
お取り潰し後ですので、もう屋敷はありませんので
内蔵助は、瑶泉院の実家の浅野家(M)
訪ねてきたわけです。

 

瑶泉院の実家のそばには「氷川坂」「本氷川坂」
もあるのに、なぜ「南部坂」なのでしょう?

 

 

130312ityou瑶泉院の実家、三次(みよし)浅野家の
下屋敷跡(赤坂6丁目)

 

 

 

「南部坂」を選んだ理由は……

もう一度、下の地図を御覧いただきましょう。
これは現在の地図ですが、基本的には
江戸時代と同じだそうです。

 

大石内蔵助は車を首都高に待たせてあったので
「瑶泉院の実家の屋敷」から「南部坂」を通過したのだ、
というのは冗談ですが、やはりその道から
帰ったのかもしれません。

 

 

asanonannbuM(三次浅野家下屋敷)A(赤穂浅野家下屋敷)
一番長い紫色の線が「氷川坂」
ピンク色で示したのが「本氷川坂」
緑色が「南部坂」

 

 

そこで「南部坂」が選ばれた理由を想像してみますと……

 

1 「氷川坂」や「本氷川坂」では瑶泉院の家の前後、
  地続きという感じであまりに近過ぎる。

 

2 内蔵助が瑶泉院を訪ねた時は、すでに
* 浅野家の屋敷ではないものの、「南部坂」は
* 赤穂浅野家下屋敷とゆかりのある坂だから。

 

3 「南部坂」は明治期には、歩くのが困難という
 ことから「難歩坂」ともいわれたように
 決して穏やかではなかった坂です。
 それがいかにも、内蔵助が立ち向かって、その
 身に負おうとしている困難を象徴しているから。

 

などが思い浮かびますが、実際はどうなのでしょう。
穿ち過ぎているでしょうか?

 

 

151209nanbuzaka赤坂にある「南部坂」

 

 

ちなみに赤坂には、今回の瑶泉院の実家である
三次浅野家の下屋敷、赤穂浅野家の下屋敷の他にも
三次浅野家の上屋敷、広島浅野家の中屋敷と
4つの浅野家の屋敷がありました。

 

 

miyosiasanokamiyasiki130916三次(みよし)浅野家の上屋敷跡(赤坂8丁目)

 

 

 

上屋敷、中屋敷、下屋敷

少し前に御紹介の「新坂」の前にあったのは
三次浅野家の上屋敷で、「南部坂雪の別れ」
に登場するのは下屋敷です。

 

大名が江戸にお屋敷を置くようになったのは
参勤交代の制度が始まってからのことですが
お屋敷の数は藩の大きさにより様々です。

 

瑶泉院の実家の三次浅野家では、上屋敷と下屋敷
の2つがあり、内匠頭の赤穂浅野家も同様でした。

 

一方、本家の広島浅野家では、上屋敷、中屋敷、
下屋敷とありますが、中屋敷は1つではなく
2つあったそうです。

 

その中屋敷の1つがあった場所が
現在の赤坂サカスです。

 

 

140401sakasutakisakura広島浅野家の中屋敷跡「赤坂サカス」(赤坂5丁目)

 

 

 

内匠頭亡き後、下屋敷で過ごした瑶泉院

上屋敷とは、藩主が江戸滞在中に住む家で
中屋敷は、隠居や世継ぎが暮らす家といわれます。

 

下屋敷は別荘、別邸といった趣の存在だった
ようで、その他に抱(かかえ)屋敷、
蔵屋敷を持つ藩もあったそうです。

 

 

三次(みよし)浅野家の
下屋敷跡(赤坂6丁目)

 

 

ということで前々回に御紹介した「新坂」
のそばの、8丁目の三次浅野家の上屋敷
は、瑶泉院の父親が暮らす屋敷でした。

 

瑶泉院は浅野内匠頭に嫁いだ後は、赤穂浅野家の
上屋敷のある鉄砲洲で暮らしていましたが、元禄赤穂
事件で内匠頭が即日切腹になった後は、6丁目の
下屋敷で亡くなるまでの年月を過ごしています。

 

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