オランダが貿易相手として選ばれた理由 江戸時代の平戸と出島

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復刻された「デ・リーフデ号」(長崎ハウステンボス)

 

 

 

1600年、初めて日本に来たオランダ船

1602年に設立されたオランダ東インド会社は、
1609年から日本の平戸に商館を置いて
生糸や銀を中心として交易を行いました。

 

1639年以降は、ヨーロッパ諸国の中では、唯一
日本との貿易を独占する国でもありました。
「オランダ東インド会社( VOC)」

 

そんなオランダが初めて日本にやってきたのは、
1600(慶長5)年の3月、関ヶ原の戦いの5ヶ月前のこと。
豊後国臼杵沖にオランダ船の「リーフデ号」が漂着しました。

 

 

リーフデ号の航路(地図 /「青い目のサムライ」)

 

 

 

110名の乗組員は20数名に

1598年の6月にロッテルダムから出港したリーフデ号は
南アメリカ南端を回り太平洋にから東洋を目指していた
5隻のオランダ船のうちの1隻です。

 

航海の途中に嵐や、スペイン・ポルトガル船の襲撃にあい
東洋に着くことができたのはリーフデ号ただ一隻。
110人の船員は、漂着時には20数名が残るのみでした。

 

その少数の生存者の中にいたのが船長のクワケルナック、
船員のヤン・ヨーステン、イギリス人航海士だった
ウィリアム・アダムスです。

 

 

 

「ヤン・ヨーステン記念碑」
左がヤン・ヨーステン、右がリーフデ号
八重洲通り(写真/カノオミツヒサ)

 

 

 

「八重洲」と「三浦按針」

ヤン・ヨーステンとウィリアム・アダムスの二人の名が
現在に至るまで残っているのは、彼らの知識を重用した
徳川家康が召し出して働かせたからです。

 

ヤン・ヨーステンは、家康の通訳となり彼が与えられた
居住地は彼の「耶楊子(やようす)」という日本名から
「八代洲(やよす)河岸」と呼ばれ、転じて「八重洲」
と呼ばれるようになりました。

 

住所としての「八重洲(やえす)」は1872(明治5)年
からで、1954(昭和29)年には東京駅の東側が
中央区八重洲になりヤン・ヨーステンの名を残しています。

 

一方、ウィリアム・アダムスは外交顧問として働き
家康から与えられた知行地と水先案内の職務から
「三浦按針」と称されることになります。

 

 

九州の平戸藩、松浦家に伝えられていた
「婦女遊楽図屏風(ふじょゆうらくずびょうぶ)松浦屏風」
江戸時代前期 大和文華館蔵

 

 

 

ポルトガル・スペインが平戸に商館を構える

リーフデ号が豊後沖に現れる以前では、室町時代末期の
1543(天文12)年に、ポルトガル船が種子島に漂着し、

 

1550(天文19)年にはポルトガル船が来航して、領主の
松浦氏に商館の設置を認められ、交易が行われていました。

 

しかし松浦氏はキリスト教の布教を認めなかったため
ポルトガル人は1570(元亀元)年、領主の大村氏から
許可を得て長崎を寄港地とすることになります。

 

ポルトガルに遅れること十数年後の1584(天正12)年、
スペインも平戸に商館を設けました。

 

 

 

 

 

家康からオランダに朱印状が渡される

このようななか、家康は日本との貿易を許可する朱印状
をリーフデ号の船長だったクワケルナックに与えます。

 

これにより1602年に設立した東インド会社の船は
1609(慶長14)年に九州の平戸に到着し、オランダ総督の
マウリッツから家康への親書と献上品がもたらされます。

 

これを受け家康は、使節を駿府に迎え書状と通行許可書の
朱印状を託し、オランダ商館が平戸に設立されました。
1613(慶長18)年にはイギリスも平戸に商館を設けています。

 

 

「南蛮人来朝図屏風」(国立歴史民俗博物館)

 

 

 

スペイン、ポルトガルも来航禁止に

1616(元和2)年には、中国の明船を除く外国船の
入港を平戸と長崎に限定する措置が取られます。

 

イギリスは1623(元和9)年に日本との
貿易から撤退し、平戸の商館を閉鎖しました。
翌1624(寛永元)年にはスペイン船の来航が禁止されます。

 

1634(寛永11)年、ポルトガル商館が
長崎に新たに築造された出島に移転した5年後の
1639(寛永16)年、ポルトガルの来航が禁止されました。

 

これは1637(寛永14)年に起きた島原の乱を重くみた幕府
がキリスト教を取り締まるために来航禁止を決定したもの。

 

1613年(慶長18)年のバテレン追放令において、すでに
キリスト教を禁教としていましたが、ポルトガルや
スペインは宣教師を密かに送り込んでいたからです。

 

 


ポルトガルから伝来したお菓子「丸ボーロ」千鳥屋本家

 

 

 

布教目的が少なかったオランダ

幕府は、ポルトガルが日本にもたらしている同量の生糸を
オランダ商館が調達することができるか等を確かめた後の
1739(寛永16)年にポルトガルとの国交断絶に踏み切ります。

 

ポルトガルは、「コショウとキリスト教徒の獲得」を大航海
時代の二大目的としていましたが、スペインも同様で植民地
としたフィリピンや南米をカトリックに改宗させていました。

 

それに対してオランダの東インド会社は、利潤追求の
ための組織でもあったことからキリスト教布教という
目的は、さほど重要ではなかったといわれています。

 

 

オランダ東インド会社(VOC)の注文
によって伊万里(有田焼)で作られたお皿

 

 

 

一時はオランダとの貿易も禁止「台湾事件」

スペイン・ポルトガルの中国生糸入手に対抗するためオランダ
は、1622(元和8)年に台湾に商館と要塞を設けますが
現地の日本人商人との間で紛争が生じてしまいました。

 

バタビアにあった東インド会社の総督は、長官のヌイツに
解決を任せますが、ヌイツは朱印船船長の浜田弥兵衛と争い、
浜田は数名のオランダ人を人質として日本に連れ去ります。

 

これにより1628(寛永5)年、オランダとの貿易は全面停止。
ヌイツが日本側に引き渡され人質と交換に幽閉されることで
解決が図られ、1633(寛永10)年に、貿易が再開されました。

 

ヌイツは1636(寛永7)年に解放されていますが、
この貿易再開を許可されたお礼として商館長の
江戸参府がこの時、義務付けられ定例となります。

 

 

 「元禄染錦写八画面取筒型花瓶」
伊万里の錦手を写したオランダ・デルフト焼

 

 

 

オランダ商館 平戸  →  出島へ

1609(慶長14)年から平戸にあったオランダ商館を
長崎の出島に移すための特使・井上筑後守政重が
1640(寛永17)年11月9日に平戸に派遣されます。

 

オランダ商館長・カロンに伝えた商館取り潰しの表向きの
理由は、キリスト教歴の年号を掲げていることというもの。
いずれにせよ幕府は流血の事態になると予測していたようです。

 

屈強な男を20人ほど陰に待機させ、カロンが拒否したら
すかさず殺すという計画で、肥前や肥後、有馬の兵士に
オランダ船を破壊する準備もさせていました。

 

 

「南蛮人来朝図屏風」(国立歴史民俗博物館)

 

 

 

一言の抗議もなく受諾したオランダ商館長

しかし、井上筑後守政重の言葉に対して商館長の
カロンは一言の抗議もすることなく平伏して受諾。
石造りのオランダ商館はたちまち壊されることになりました。

 

1619年に平戸に来て江戸参府にもしばしば同行し、日本語
も完全に話すことができたカロンは、将軍の命令には
「承知した」と答えるほかはないと知っていたのです。

 

「一言も抗議せず、将軍の命令をただちに実行したことは、
ヨーロッパ諸国の中で、オランダだけが日本との通交貿易を
許されることになる要因の一つである」
と永積洋子は書いています。
(『平戸オランダ商館日記」1981年、講談社学術文庫)

 

 

 

島原の乱での働き

これ以外には、島原の乱の際のオランダ商館の
行動もプラスに働いたように思えます。

 

オランダ商館は島原の乱の際に、大砲を搭載した商船を
差し向け、反乱軍に発泡し鎮圧に貢献したのです。

 

島原の乱の鎮圧のために派遣されていた松平信綱は
このことを大いに喜び、帰路に平戸へ
寄って
オランダ商館長を労ったという記録も残っています。

 

 

「出島」長崎和蘭陀屋舗圖 (立正大図書館収蔵)

 

 

 

オランダ貿易相手国として選ばれた理由

1 ポルトガルやスペインのように強硬に
 キリスト教布教を全面に出さなかった

2 また島原の乱では幕府に協力的

3 平戸の商館を直ちに破壊し出島に移る
 という将軍の命を直ちに実行した

 

これらのことが相まってオランダがヨーロッパ諸国の中で唯一
交易相手国として選ばれたのではないかという気がします。

 

こうして1641年にオランダ商館は出島に移されました。
しかし移転とともに幕府は、オランダ商館に
対して外部との接触もまた厳禁しています。

 

貿易が再開の1633(寛永10)年に義務付けられた、年一回の
将軍に拝謁の参幕旅行以外は出島を出ることは禁止。
より一層、隔離をしようとの幕府の意図が伺えます。

 

 

 

  年表

1543(天文12)年 ポルトガル船が種子島に漂着

1550(天文19)年 ポルトガル船が来航、領主の松浦氏
        の松浦氏の許可で商館を作り交易を開始

1570(元亀元)年 ポルトガルは領主の大村氏の許可
        のもと長崎を寄港地とする

1584(天正12)年 スペイン商館が平戸にできる

1600(慶長5)年  オランダ船、豊後沖に漂着
        家康が船長に朱印状(貿易許可)を与える

1609(慶長14)年 オランダ東インド会社の船が平戸に着き
         家康に親書と献上品
         家康から朱印状が託され商館設立

1613(慶長18)年 イギリスの商船が平戸に入港し、商館設立

1616(元和2)年 中国船以外入港を平戸と長崎に限定

1623(元和9)年 イギリスが撤退、商館を閉鎖

1624(寛永元)年 スペイン船の来航禁止

1628(寛永5)年 「台湾事件」オランダとの貿易は全面停止

1633(寛永10)年 オランダとの貿易が再開
        商館長の江戸参府が義務付け、定例となる

1637(寛永14)年 「島原の乱」

1639(寛永16)年 ポルトガルの来航禁止

1640(寛永17)年 オランダ商館出島に移転
         出島を出ることを禁止

 

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「柿右衛門」と「柿右衛門様式」の違い

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柿右衛門様式「色絵花鳥文皿」

 

 

肥前陶磁の様式変遷

日本で初めて磁器が作られるようになった
1610年代からの変遷を簡単な表にしてみました。

 

 

           唐津焼

1600年 _____________________

          初期伊万里

 

         初期色絵(古九谷)

1650年 _____________________

 大河内山  南川原山  内山・外山  武雄市など
  鍋島   柿右衛門    |      |
  |      |     |      |
  |        古 伊 万 里 金 蘭 手
1700年 _____________________

  |            |      |
  |            |      |
  ▽            ▽      ▽


 (「有田焼400年の歴史展 様式から見る有田焼の変遷」
 東武百貨店池袋店 2016年 「とんとん・にっき2」)

 

 

 

唐津焼については……

「唐津焼『中里太郎衛門』

 

 

唐津焼「叩き唐津南蛮耳付壷」13代・中里太郎衛門

 

 

 

初期伊万里から初期色絵については……

「伊万里焼(有田焼) 色絵の誕生」
「なぜ『色絵」を『赤絵』というのか?」

 

 

「色絵蓮池翡翠文皿」江戸時代 17世紀中頃

 

 

 

鍋島焼についてはこちら。

「関ヶ原の戦いを挟んで揺れる佐賀藩鍋島家」
「佐賀鍋島藩の御用窯完成」
「鍋島焼の種類『染付鍋島』『色鍋島』『鍋島青磁』」

 

 

色絵鍋島「色絵宝尽文皿 」
ロサンジェルス・カウンティ美術館

 

 

 

柿右衛門以前の色絵

1596(慶長元)年に生まれた初代・酒井田柿右衛門は
1643(寛永20)年頃から「赤絵」の制作をはじめて
1946(正保3)年に完成させました。

 

染付の青以外の色を使って描く色絵磁器は
柿右衛門が「赤絵」を完成する以前に、既に3カ所の
窯で焼かれていたことが発掘調査からわかっています。

 

それが上の表の「初期色絵(古九谷)」です。
初期の色絵は、緑や紫、黄色などの寒色系の絵の具を
多用して、模様を器全体にびっしり描くのが特徴。

 

 

「色絵菊文輪花大皿(青手)」16650年代
(写真/「4travel.jp 」

 

 

この「色絵菊文輪花大皿」は「青手」と呼ばれるもので
赤は使用せずに、模様の輪郭を黒い線で描き、黄色、緑、紫
などの色絵の具を使って隙間を作らずに描き込んだお皿です。

 

 

 

柿右衛門の「赤絵」

それに対して酒井田柿右衛門の「赤絵」は
余白を充分にいかして明るく繊細な構図を
特徴とする色絵磁器でした。

 

初期の赤絵は、お手本としていたものが中国明朝の
磁器だったことから、中国的な「花鳥図」や
「鳳凰図」などの絵柄が多かったということです。

 

 

「色絵花鳥文皿」柿右衛門様式 1670〜1690年代

 

 

しかし三代、四代と柿右衛門も代を重ねてゆくにつれ
「秋草」や「波千鳥」といった日本画に多い
文様が描かれるようになります。

 

 

 

ヨーロッパ向けの柿右衛門

1659(万治2)年、オランダ東インド会社( VOC)による
磁器輸出が本格化してから、伊万里焼はヨーロッパ向けの
製品を作り出すようになりました。

 

この「色絵花鳥文八角共蓋壺 」は、高さが
61.5cmもある大きな沈香壺(じんこうつぼ)で
世界最大級の柿右衛門壺といわれるものです。

 

 

「色絵花鳥文八角共蓋壺 」酒井田柿右衛門 江戸時代前期
出光コレクション – 出光美術館  総高61.5cm

 

 

蓋が紛失していないのは珍しいそうで、イギリス
から里帰りして現在は出光コレクションの収蔵品。

 

写真が小さくて見にくいのですが、蓋と肩の部分に
藍色と赤で牡丹唐草文を配してあり、胴には
梅や牡丹、竹に菊と戯れる小鳥が描かれています。

 

写真ですと胴の部分は六面体のように見えますが
実際は八面に面取りしてあるようです。

 

繊細な模様を纏った堂々とした立派な作品に
ヨーロッパの王侯貴族は心を奪われたことでしょう。
             (参照「出光美術館」)

 

 

 

 

 

「沈香壺」の使い方

ちなみに「沈香壺」とは沈香を入れておく壺、という名前
のまんまなのですが、私はこれにはちょっと驚きました。
まさかこの巨大な壺の中に沈香を入れておいたという
ことはなかろう、と勝手に思っていたからです。

 

同じ重さの金よりも高いといわれる沈香を、この壺
いっぱいに入れたら一体どれほどの価格になるのかと。
でも王様だったら平気なのですね。

 

沈香壺は沈香の容れ物というだけではなく、お客様が
みえると普段はしている蓋を開けて、芳しい香りを室内に
漂わせるという、容れ物兼香炉でもあったようです。

 

 

細川家所蔵の香木「白菊」

 

 

 

「沈香壺」があっても

私は昔からこの壺に何を入れるのか見当もつきませんでした。
単なる飾り、オブジェだったのかとも思っていたのです。
沈香壺という名前を知った後でも、意味がわからなくて。

 

ところがこれは飾りではなく本当に沈香入れでした。
万が一、億が一、私が沈香壺をプレゼントされた
としても入れる沈香がないですね。

 

ヨーロッパ向けに作られて海を渡っていったこれらの
作品は、欧州貴族達に愛され「柿右衛門」あるいは
「柿右衛門手」と呼ばれてきました。

 

ところで沈香壺は「酒井田柿右衛門」作ですが、その前に
紹介したお皿には「柿右衛門様式」と記載されています。
両者の違いは何なのでしょう?

 

 

 

 

 

「柿右衛門」と「柿右衛門様式」の違い

ヨーロッパ向けの磁器製品は、当然のことながら
国内にはあまり数がなかったようですが、先ほどの
沈香壺のように里帰りする作品が増えてきました。

 

一方。ヨーロッパの東洋陶磁コレクションの実態も明らか
になりつつあるなか、国内の窯跡の発掘調査も行われる
ようになって様々なことが明らかになってきたようです。

 

「戸栗美術館」のサイトによりますと、従来「柿右衛門」
と呼ばれてきたものの全てが柿右衛門個人の作品ではない
と説明されています。

 

「現在では柿右衛門個人の作品ではなく、柿右衛門窯が
牽引した伊万里焼の一様式であると考えられるようになり、
『柿右衛門様式』と呼ばれるようになりました」とのこと。

 

 

 

 

ちょうど今、東京渋谷の戸栗美術館では
「17世紀の古伊万里  逸品再発見! 展」が開催中です。
会期は、2017年5月27日(土)〜9月2日(土)。
午前10時から午後5時までで、月曜日が休館。

 

「戸栗美術館(TOGURI  MUSEUM  ART)」
150-0046東京都渋谷区松濤1丁目-11-3
tel.03(3465)0070

 

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なぜ「色絵」を「赤絵」というのか? 何十年来のナゾが氷解

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色絵磁器の完成

日本で磁器が作られるようになったのは1610年代でした.
最初は呉須を使った青い色の「染付」が作られましたが
1630年代になると青磁の焼成も可能になります。

 

有田では初期の頃は、景徳鎮で焼かれていた
ような色絵磁器はできなかったのですが
1646(正保3)年、初代・酒井田柿右衛門が色絵を完成。

 

中国人に色絵の秘術を教えてもらい呉須権兵衛と共に
試行錯誤を繰り返してようやく色絵磁器を完成させた後
この技術は有田周辺に瞬く間に広がっていきました。

 

 

「色絵魚介文鮑形鉢」天啓赤絵 明時代 17世紀前半
幅27.0㎝ 日本民藝館

 

 

 

初代・柿右衛門

1646(正保3)年に色絵を完成させた初代・柿右衛門
(喜三右衛門)は、1596(慶長元)年に生まれ、1620年代に
豊臣秀吉の御用焼物師だった高原五郎七に作陶を習います。

 

鍋島藩が有田の窯場を13か所に整理統合したのは
1637(寛永15)年のことでしたが、初代・柿右衛門は
1643(寛永20)年頃から赤絵の製作に取り組みました。

 

初代・柿右衛門が、完成した製品を長崎で売り
始めたのが、1647(正保4)年といわれています。

 

 

「染付山水図大鉢( そめつけさんすいずおおばち」
初期伊万里 高 12.5cm 口径 44.8cm 底径 12.9cm
重要文化財(写真/「文化遺産オンライン」)

 

 

 

色絵(赤絵)

色絵磁器「色絵」のことを「赤絵」といいます。
この理由については、

 

「呉須の青だけではなく複数の色を使って模様を
描く時に主に赤い色を多用するため赤絵と呼ぶ」
と説明されるのが常です。

 

上絵付けをする人を「赤絵屋」といい、それを焼く窯は
「赤絵窯」、その町は「赤絵町」と呼ばれていました。

 

 

「青磁 瓶」 龍泉窯 元時代(14世紀)高27.6㎝
芸州浅野家旧蔵

 

 

 

「色絵」という単語は事実上の禁句?

以前、有田では「色絵」という言葉は事実上禁句で
正々堂々と使いづらい単語だった、と発掘調査に関わった
と思われる方がブログに書いていらっしゃいました。
  (「有田町歴史民俗資料館ブログ『泉山日録』)

 

発掘調査時も「色絵」という言葉を使うと
「有田に『色絵』はない。『赤絵」だ」と叱られたとか。

 

そのような中で行われた発掘調査でしたが初代・柿右衛門が
初めて赤絵を焼いた窯が「楠木谷窯跡(泉山)」の可能性が
高いこと等、数々の有意義なことがわかりました。

 

 


「色絵葵文皿 (いろえあおいもんざら)」鍋島焼
東京国立博物館

 

 

 

初代・柿右衛門以前に色絵ができていた!

驚くべきことは、上絵付けの技術は柿右衛門の窯1つだけ
ではなく、3カ所の窯場(岩谷川内山、黒牟田山、年木山
[泉山]  )で別々に誕生していたことがわかった事実です。

 

その上、初代・柿右衛門が赤絵を焼く以前に、楠木谷窯跡
で、すでに別の種類の上絵付けが完成していたといいます。

 

初代・柿右衛門の赤絵が、余白を生かした構図に暖色系の
絵の具を多用しているのに対して、それ以前にできていた
色絵磁器は緑や紫、黄色などの寒色系の絵の具を多用し
文様がびっしりと描かれていたそうです。

 

 

「色絵花鳥文皿(いろえかちょうもんざら)」
柿右衛門様式 1670〜1690年代 直径24.8cm

 

 

 

「赤絵」のナゾの解明

先ほどのブログの筆者は、初代・柿右衛門が
完成する以前に作られていた色絵の発掘陶片を見て
このような感想を述べていらっしゃいます。

 

「やはり『赤絵』というイメージには合わないのです」

 

「つまり、喜三右衛門の『赤絵』が、当時の複数の
上絵付けの技術の中で、後の有田へと伝承される
主たる後継技術となったのです。
本来『赤絵』は『色絵』と同義語ではなく、
『色絵』の一つの種類であったと推測されます。
しかし、有田の後継技術となったことで『色絵』と同義語
として使われるようになったのではないかと思われます」

 

これを読んで私は本当にすっきりしました。
赤を使用していないのになぜ赤絵なのか?、という何とは
無しにもやもやしていたものが解消されて、とても納得。

 

 

「色絵蓮池翡翠文皿」 江戸時代 17世紀中葉
日本民藝館   径36.4㎝

 

 

 

景徳鎮にかわり有田焼(伊万里焼)がヨーロッパに

中国の内乱により磁器が入らなくなったヨーロッパに
日本の磁器が初めて輸出されるようになったのは
色絵磁器が完成してすぐの1647(正保4)年から。

 

これらの色絵磁器の一部は東南アジアへも輸出されて
いましたが、1659(万治2)年、オランダ東インド会社
( VOC)による磁器輸出が本格化します。

 

西欧の生活様式に合わせた食器類の他、景徳鎮窯で作られた
製品を写した芙蓉手(ふようで)と呼ばれるお皿や
装飾品として使われる大きな壺や瓶なども作られました。

 

 

「色絵花鳥文八角共蓋壺 」酒井田柿右衛門 江戸時代前期
出光コレクション – 出光美術館  総高61.5cm

 

 

 

中国磁器の輸出再開

有田磁器の輸出は、1660〜1670年代にピークを迎え
1690年からは減少してゆくことになります。

 

これは1644年に輸出禁止となっていた中国磁器が
再び輸出されるようになったからでした。
1684年、中国で貿易を許可する「展海令」が出されます。

 

ただ有田磁器の輸出量が減った理由は、これだけではなく
国内需要が増えたために価格が高騰して、中国磁器との価格
競争において不利になっていたという事情もあったようです。

 

このように、途中からは減少したとはいうものの
有田からの磁器輸出は、1757(宝暦7)年に
打ち切られるまでほぼ100年間続きました。

 

 

 「 色絵宝尽文皿(いろえたからづくしもんざら) 」
鍋島焼 ロサンジェルス・カウンティ美術館

 

 

 

大名家御用達

1668(寛文8)年、仙台藩主・伊達陸奥守綱宗の御用で
江戸の陶器商人・伊万里屋五郎兵衛(名前がすごい!)
は有田に食器を探しに来ました。

 

ですが納得のいくものが見つかりません。
そこで辻喜右衛門という名陶家を教えてもらい注文。

 

2年後、噂に違わぬ見事な食器を入手することができた
伊万里屋五郎兵衛は、伊達家にこれらを収めたということです。
        (木本真澄「 ARITA   EPISODE2」

 

 

 

 

 

大名だけではなく町人も

元禄時代(元禄年間 1688〜1704年)といえば
華やかな町人文化が栄えたことでも有名です。

 

ちなみに私が元禄という言葉を初めて聞いたのは、多分
長唄の「元禄花見踊り」だったと思われ、元禄と聞くと
パブロフの犬よろしく華やかな舞台が思い浮かんで来ます。

 

そんな元禄時代、それまでは大名などの限られた人
だけのものであった磁器が、町人たちの生活の場にも
登場するようになりました。

 

お皿や向付(むこうづけ)と呼ばれる
小ぶりの鉢などの高級食器も作られています。

 

 

 

 

 

江戸と共に歩んだ有田磁器

中国磁器の突然の輸出禁止により技術の向上をみた
有田焼は海外に輸出されて西欧の王侯貴族に愛されます。
あまりの熱中ぶりに「「磁器病(porcelain sickness)」
という言葉が生まれたほどだったとか。

 

国内でも特権階級だけではなく町人の暮らしにも
身近になってきた有田磁器の発展の様子は
まさに江戸時代と重なっています。

 

お料理の器である有田焼のみならず
またお料理自体も、そしてそれを頂く時のマナーも
同じく江戸時代に確立されたということです。

 

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