加賀藩3代藩主・前田利常(3/3)    「父の記憶」

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 今回は、前田利常の「1」「2」の続きです。

 

飯炊き女の介添えでひっそり出産

加賀藩3代藩主・前田利常が、金沢城の
天守下の暗い部屋でひっそりと生まれた時、
母・千代(寿福院)の介添えは、飯炊き女
ただ一人でした。

 

利常は前田利家の四男であり、十人目の
子どもでしたが、この赤ちゃんの出産に
関心をはらいう者はなく将来、藩主に
なろうとは誰一人思いもしませんでした。

 

生まれた日さえ正確にはわからなかった
ため、後に利常を加賀藩の後継として
幕府に届ける際に大慌てで介添えをした
飯炊き女を探し出して、日にちを確定
したといいます。

 

 

まつ(芳春院)

|ーーー利長(長男) 2代藩主
|ーーー利政(二男)
|ーーー幸姫(長女) 前田長種に嫁ぐ
|ーーー蕭姫(二女)
|ーーー摩阿姫(三女)
|ーーー豪姫(四女)
|ーーー与免(五女)
|ーーー千代姫(六女)

—————————————————–
*前 田 利 家(1537〜1599)1538、39年生説も
—————————————————–
 |     |     |     |
 |ー知好  |ー利常  |ー利孝  |ー利貞
 |(三男) |(四男) |(五男) |(六男)
金晴院   寿福院   明運院   逞正院

 

 

誕生した当初、利常は母の千代と暮らして
いましたが、後に前田長種のもとに嫁いで
いたまつの長女・幸姫(こうひめ)のいる
越中守山で育てられることになりました。

 

利常が6歳になった頃
関ヶ原の戦いが起こります。
とはいえ利常の生まれた年は、
1693年説と1694年説とありますので
それによって年齢表記が異なりますが。

 

ここでは1993(文禄2)年11月25日誕生説
をとり満年齢の記載にしています。

 

 

前田利常・加賀藩前田家3代藩主

 

 

 

関ヶ原の前哨戦

1600年9月の関ヶ原の戦いの直前の
8月に、関ヶ原の前哨戦ともいわれる
「浅井畷(なわて)の戦い」
が起こりました。

 

丹羽長秀の子・長重(1571・元亀2年~
1637・寛永14年)と、前田利家の
子・利長との戦いです。

 

利家の妻・まつを江戸に人質に出し東軍
についた前田家を脅威に思う、西軍の
参謀役というべき大谷吉継は、あらゆる策
をめぐらして前田家を制そうとしました。

 

丹羽長重を含む越前大名の
多くは西軍についています。

 

吉継ら西軍の動きを察した利長は
金沢を出て丹羽長重のいる小松城
(現在は石川県小松市)を包囲します。

 

 

小松城の天守台
東西20m、南北18m、高さ6.3m、傾斜は仰角82°

 

 

 

「浅井畷(なわて)の戦い」

兵の数では比較にならないほど多い前田軍
でしたが、小松城は数十年にわたって自治
を勝ち取った、加賀一向一揆の人々が作った
堅城であり、攻め取るのは容易ではありません。

 

そこで利長は、同じ西軍方の大聖寺城
(現在の石川県加賀市)に向かい勝利
しますが、吉継が利長の妹婿を巻き
込んで流した巧みな嘘に騙され
金沢に撤退を決めてしまいます。

 

その途中、利長が長重と戦ったのが
「浅井畷の戦い」ですが、小松城付近は
沼や田が多く、浅井畷という細い道で
戦ったことからつけられた名前で
「畷(なわて)」とは「細い道」の意。

 

そうこうするうちに関ヶ原の戦いは
1日で決着がつき、西軍の勝利が決定
していますので、結局のところ長重も
利長も関ヶ原の戦い自体には不参加
ということになります。

 

 

 

 

 

和議の条件は、利常の人質

西軍の処分の決定前の9月18日、利長と
長重は和議を結び穏便に事を収めます。

 

決められたのは前田家から丹羽家へ
利常を人質に出すことでした。
6歳の利常は、長重の居城小松に
送られることになります。

 

「利長之を延見して曰く、和議既に成る、
宜しく舊怨(長い間に積もった恨み)
を一洗せざるべからず。
是を以て我は舍弟猿千代(利常)
を出して質たらしめんとす。」

 (石川県立図書館・石川県史 第二章 )

 

 

 

 

 

父・利家と最初で最後の面会

長重は関ヶ原の処分により改易されましたが
実直な人柄や大坂の役での活躍で許され、

 

1603(慶長8)年に常陸国古渡(ひたちふっと、
現在の茨城県稲敷市)藩の1万石の大名に復帰。

 

その後は江戸崎藩(茨城県稲敷市江戸崎)、
棚倉藩(たなぐらはん、福島県東白川郡
棚倉町)そして白河藩(福島県白河市)
の初代藩主となっています。

 

 

丹羽長重(画像/WIKIpedia)

 

 

 

それのみならず、秀忠の御伽衆(おとぎしゅう、
相談相手)という重職に抜擢されることにも
なりますが、その前の利常がまだ小松城に
いる6歳の時のことです。

 

療養のために草津温泉に行く途中の利家
が、小松城にいる利常に会いに来ました。

 

 

 

 

利家を抱き上げた利家は、着衣の脇から
手を入れて背をなで、戦国武士にとって
重要な筋肉を備えもつ我が子の成長ぶり
を喜んだといいます。

 

体格が最も自分によく似た息子・利常に
利家は、金箔で飾った刀と脇差の
大小二刀を授けます。

 

翌年、利家は亡くなっていますので
これが利常と利家が会った最初で最後
の面会となりました。

 

 

「次郎左衛門雛」 前田家  成巽閣所蔵

 

 

 

珠姫の手紙

その後、3歳の秀忠の娘・珠姫を
正室に迎えた7歳の利常は、3年後の
1605(慶長10)年に3代藩主になります。

 

政略結婚でしたが、二人の仲は
睦まじかったといいます。

 

大名は、妻子を江戸に置く決まり
でしたが、加賀藩は免除され
珠姫は金沢で暮らしていました。

 

参勤で江戸にいる利常について、父である
秀忠に「お父様 利常様を早く金沢に返して
ください」と書き送った手紙が残されています。

 

 


「わたつらひ見まひとし****
て次八郎遣りし候******
ぎしよく之件(くだん)此者ニ
よくよく申候へく候、****
ゆたんなくやうやう□□***
尤ニ候、かしく*******
又此たき物なくさみ」****

(右からの縦書きを横書きにしてみたもの)
前田利常書状(野々市市
野々市デジタルデジタル資料館)

 

 

 

利常の手紙

また利常の方は、相手が珠姫かははっきり
していませんが、病身の身内の女性に
このような手紙を送っています。

 

そちらへやった家臣・喜八郎に事情を
伝えなさいとの趣旨で、たきもの(香木)
をもたせたことが添えられている
利常の優しい気遣いが感じられる書状。

 

利常との間に三男五女をもうけた
珠姫でしたが、1622(元和8)年
に、24歳で亡くなってしまいます。

 

「元和八年三月前田利常の夫人逝去す。
夫人は將軍秀忠の第二女なり」
          (石川県史)

 

 

 

 

 

隠居後、再び後見人として藩政に

利常は、1633(寛永10)年に光高に
家光の養女・阿智姫(水戸家の徳川頼房
の娘)を正室に迎え、

 

1635(寛永12)年には、満姫を家光
の養女として浅野光晟に嫁がせます。

 

次男の利次には10万石の富山藩を、
三男・利治には7万石の大聖寺藩を分封。

 

この大聖寺藩で、利常の全面的な支援の
もと大聖寺藩の藩窯が築窯され、多くの
古九谷の名品が生まれました。
これが九谷焼へと繋がって行きますので
利常は九谷焼の祖でもあるのですね。
    (「古九谷(九谷焼)」)

 

 

利常の支援により大聖寺藩藩窯で焼かれた古九谷の名品
「青手桜花散文平鉢(青い桜)」
石川県立美術館所蔵

 

 

 

1639(寛永16)年には光高に家督を譲って
隠居するも、1645(正保2)年、光高が急死。
次の藩主となる綱紀がまだ3歳でした。

 

後見人になるように家光からの命じられた
利常は、5代藩主・綱紀の後見時代に、
「改作法」などの優れた施策を打ち出しています。

 

また、綱紀の正室には、家光の弟でもある
保科正之の娘・麻須姫を迎えています。

 

 

(図/「余湖くんのホームページ」)

 

 

 

隠居城「小松城」

利常は後年、自らの隠居城
として小松城を選びました。

 

「浅井畷の戦い」の時に攻める
ことのできなかった堅城である
小松城は、その時はすでに破城。

 

1615(元和元)年の「一国一城令」よる
破城でしたが、利常の隠居に伴い、1639
(寛永16)年に幕府に工事を願い出ます。

 

利常は桂離宮の造営等に尽力し、京風文化
を取り入れて金沢文化を開花させた藩主
ですので、利常の美意識の結晶ともいえる
お城だったのでしょう。

 

 

小松城天守台(写真/「日本の城」)

 

 

 

「小松の浮城」

小松城は、梯川の水を引き入れて何重にも
堀を巡らせた水城「小松の浮城」と呼ばれる
城でしたが、現在はほとんど埋め立てられて
残っているのは天守台等ごくわずか。

 

この石垣は、金沢城と同様に隙間のない
「切り込みはぎ」と呼ばれる石の組み方で
作られた美しいものです。

 

この上に建っていた天守は、屋根も桧皮葺きで
一見、茶室のような建物で、隠居城であること
から戦闘的なものではなく、望楼のような
洒脱なものだったということです。

 

 

こちらは毛利家の下屋敷だった
現在東京ミッドタウンの石垣
発掘で出てきたものを再現したそうですが
確かに石の組み方違いますね

 

 

 

ニックネームは「お猿」

利常が隠居城として選んだのは、生涯にたった
一度、父と会うことのできた小松城でした。

 

利家は、利常の幼名・猿千代から利常を
「御さる」と呼んでいましたが、初めて
出会った御さるは、満足のいく息子でした。

 

その記憶は、利家にとっても利常にとっても
忘れられないものだったに違いありません。

 

 

 

 

 

梨をむいてくれた長重

しかし利常には、小松城での出来事
でもう一つ、忘れることのできない
思い出があったといいます。

 

それは人質として小松城にいた時
に、城主である丹羽長重が利常に
自ら梨をむいてくれた思い出。
当時、長重はまだ子どもをもつ前でした。

 

利常は隠居後の小松城に、裏千家の
創始者・仙叟宗室を招いて、三の丸に
住まわせるほど茶道に通じた人でした
が、長重もまた茶を嗜む人。

 

 

 

 

関ヶ原の戦いで改易された後に、大名に
復帰したのも、長重の誠実な人柄が
評価されたためということです。

 

そもそも「浅井畷の戦い」の当事者である
前田利家と丹羽長重の間に私怨はなく
立場上争うことになった相手にすぎません。

 

利常を人質にすることで事を穏便
に済ませたことを、長重は気にし
利常に気遣いをしていたともいいます。

 

 

 

 

 

もう一つの「父の記憶」

誕生の日は、はっきりわからない利常
に死が訪れたのは、1658(万治元)年
11月7日、66歳の時でした。

 

梨を食べる時に利常は、いつも
小松城で長重が梨をむいてくれた話
を、周りの人に語ったといいます。

 

私はこの話を何度読んでも、その度ごとに
幼い利常と梨をむいている長重の姿が
彷彿として涙が溢れそうになります。

 

長重に美味しいかと問われた時に利常は
映画のシーンのように、満面の笑みで応えた
のではなく、むしろ心とは裏腹に
無表情に頷いたような気がしたりして……。

 

 

 

 

長重のむいてくれた梨の話は、利常の心
を生涯あたため続けてくれた、もう一つ
の忘れることのできない父の記憶だった
のかもしれません。

 

 

*   (参考/宮元健次「加賀百万石と江戸芸術
*     前田家の国際交流」人文書院 2002
     磯田道史『殿様の通信簿」新潮社2006
       石川県立図書館・石川県史)

 

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加賀藩3代藩主・前田利常(2/3)    「肥後殿のおどけ」  

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

    前回(「加賀藩3代藩主・前田利常」
    の続きです。

 

 

再び謀反の嫌疑

利常の代にも前田家は、家光から
謀反の嫌疑をかけられたことがありました。
幕府の許可なく金沢城の修復をしたり、軍船を
多数買い入れたりした等のことがその理由。

 

家光に弁明を願い出るも拒否された利常は
加賀藩で最も弁の立つ家老・横山康玄(やすはる)
を江戸に送り、全てを認めた上で、
しかし謀反とは無関係であるとの説明をします。

 

すると驚くべきことに、これが受け入れられました。

 

 

 

 

お取り潰しになった他藩より、はるかに疑われても仕方
のない状況にもかかわらず受け入れられたのは、一説
には賄賂ともいわれますが、証拠はなく不明です。

 

そしてこの時も、幕府から一つの条件がつけられました。
それは利常の次の4代藩主・光高に、家光の養女・大姫
(水戸藩・徳川頼房の娘)を迎えるようにとのこと。

 

この後も、光高の子・綱紀には家光の弟・保科正之の
娘を正室にというように、歴代藩主の正室を徳川家
から迎えることが多く重ねられています。

 

 

 

 

 

「空から謡が降ってくる」といわれた金沢

加賀藩のとった文化政策は、幕府の警戒心を
解くためともいわれますが、それはさておき
結果としては素晴らしい工芸作品等を生みました。

 

2代・利長の代に作られた「御細工所(おさいくしょ)」
と呼ばれる武具管理用の藩のお抱え作業所を、利常は
美術工芸品製作所に変え、京都から優れた工芸作家
を招聘します。

 

手がけられたものは、絵細工、漆工、象眼、鍛冶、
各種金具など多岐にわたり、「加賀宝生」とも
いわれるように、宝生流のお能も盛んでした。

 

 

 

 

 

「改作法」

また塩の専売制をしいて塩の生産を高めたり、1651
(慶安4)年から1656(明暦2)年にかけて利常は
「改作法」と呼ばれる藩政改革にも取り組みました。

 

実はこの時期、藩主は5代・綱紀だったのですが
4代・光高が早世したため、利常が幼い綱紀の
後見をしていた当時の施策です。
後に、成人した綱紀が引き継ぐことになりました。

 

「改作法」は、窮乏していた百姓に、藩庫の
米銀を貸し与え、他から借りることを禁じ、
今まで家臣たちが行なっていた年貢米の取り立て
を、藩が直接に行うという画期的なものです。

 

こうした優れた利常の治政から、加賀藩は
「政治は一加賀、二土佐」
といわれるまでになりました。

 

 

 

 

 

「鼻毛大名」「〇〇大名」

「政治一は加賀」といわれた利常ですが、当時
「もっとも奇行の激しい殿様」あるいは
「江戸城内でも常に変人扱いされていた」といいます。

 

家臣が止めるのも聞かずに鼻毛をのばしていることから
「鼻毛大名」と呼ばれたり、長期間下屋敷から出仕
せず、久しぶりに登城した際に、咎められた利常は、

 

殿中であるにもかかわらず突如、袴をめくって
「年をとるとお〇〇の調子が悪くなって仕方ない」
と言い訳をしたことから「〇〇大名」と
あだ名がついたほどでした。

 

 

 

 

 

「馬鹿殿様」を演じて

この他にも頭巾着用禁止の室内で平然とかぶっていたり、
「小用禁止、罰金を科す」と書いてあるところで
堂々と用を足した後に小判を投げて去るといった具合。

 

このような数限りない「馬鹿殿」ぶりは様々な文献
に記録され「肥後殿のおどけ」と呼ばれていました。

 

『微妙公直言』には、利常は常に髪の毛を乱して
目を白黒動かしながら早口で話してみせた、
とも記されています。

 

 

 

 

 

「傾奇者(かぶきもの)」

しかしもちろん、これは利常の演技。
鼻毛の件を注意された時に利常はこう答えています。

 

「利巧面(りこうづら)をしていては、またどんな
無理難題をふっかけられるかもしれぬ。無能な顔をして
人々が安心するからこそ百万石は安泰なのだ」と。

 

金沢城の改築等で謀反の嫌疑をかけられた時に
幕府が得ていた情報の正確さは、加賀にスパイ
を置いていることを物語っています。

 

 

 

 

利常が藩主として有能であればあるほど、幕府に
目をつけられるのは必定、であるならばいっそ逆に
悪目立ちをしてしまおうと考えたのかもしれません。

 

とはいえ、いやいや馬鹿殿を演じた
わけでもないでしょう。

 

これらのことは「傾奇者(かぶきもの)」
としての利常の傾(かぶ)き方だった
のではないかという気もします。

 

 

 

 

 

世が世ならば

「肥後殿のおどけ」といわれた利常は、このような
本音を、側近・藤田安勝に漏らしてもいます。

 

「太閤時代には徳川家と前田家は同格だった。
たまたま家康が長生きして天下をとっただけだ」と。
              (『微妙公卿直言』)

 

 1598(慶長3)年 豊臣秀吉死去
 1599(慶長4)年 前田利家死去
 1600(慶長5)年 関ヶ原の戦い

 

死を間近にした家康の気がかりは、有力外様大名の
ことでしたが、秀吉のそれはまだ幼い秀頼のことでした。

 

「かえすがえす秀頼の事頼み申しそうろう」と書き残した
秀吉が、秀頼の補佐役として選んだ五大老が前田利家、
徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家の有力大名。

 

 

 

「唐物茄子茶入れ  富士(からものなすちゃいれ  ふじ)」
高5.5cm 口径3.7cm 胴径7.1cm 底径3.0cm
南宋(1101〜1300) 前田育徳会所蔵

 

 

 

五大老の筆頭

中でも信頼していたのは前田利家といわれています。
秀吉は死の前年に、信長から伝えられた「富士茄子」
と呼ばれる茶入れを利家に贈っています。

 

足利将軍・義輝の所持していたと伝えられる大名物で
曲直瀬道三(1507〜1595)、織田信長(1534〜1582)、

 

を経て秀吉(1536〜1598)のもとにあった
この天下人から天下人へ伝えられた「富士茄子」
を渡した相手は利家でした。

 

 

 

 

秀吉が、1598年8月に死去した翌年の元旦、
伏見城には秀吉の後継である秀頼への
新年の挨拶のために、諸大名が集まりました。

 

病をおして出席した利家が、6歳の秀頼を抱いて
現れ、秀頼の後見としてともに着席したさまは、

 

「諸大名はまさに利家に拝謁しているようであった」
と『関ヶ原集』には記されています。

 

 

 

 

たまたま徳川の世になり、たまたま藩主となった利常。
好むと好まざるとにかかわらず、利常が藩主と
なった前田家は、たまたま大大名でした。

 

現世で巡り合わせた、このたまたまの必然を
利常はもって生まれた能力を全力で駆使し
最期の時に向かって駆け抜けたように思えます。

 

時には忍辱の衣を着、
ある時は、濡れ衣を晴らすために誠実に弁明をし、
すぐれた施作を打ち出しては
「政治一は加賀」と言わしめ、
また別の時はおどけた変人の傾奇者(かぶきもの)
として振る舞う。

 

 

 

 

そのどの瞬間のを掬いとったとしても、
そこに見えるのは紛れもない前田利常その人。

 

 また長くなってしまったので次回に続きます。
 ごめんなさい、次回で終わりますので。

 

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加賀藩3代藩主・前田利常(1/3)

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ

 

 

 

関ヶ原の戦いの数年前に生まれた前田利家の四男

加賀藩3代藩主の前田利常は、息子の大聖寺藩・
初代藩主の前田利治に九谷焼の窯を築窯させ
現在も残る多くの古九谷を焼かせたり、
長崎に御買物師の常駐を任じた大名でした。

 

長崎の御買物師を通じて、オランダのデルフト焼を
日本で初めて注文したのも利常です。

 

もっとも注文は4代藩主の光高の名で行われた
ようですが、実際のところは顧問を務めていた利常の
指図のもとで行われ、利常は手に入れたデルフト焼
の意匠を九谷焼の参考にしたともいわれています。

 

利常が前田利家の四男として、利家の正妻・まつ
(芳春院)の侍女だった千代(寿福院)から
生まれた時、将来利常が藩主になろうとは
誰一人思いませんでした。

 

 

まつ(芳春院)

|ーーー利長(長男) 2代藩主

|ーーー利政(二男) 七尾城主

|ーーー幸姫(長女) 前田長種に嫁ぐ

|ーーー蕭姫(二女) 中川光重に嫁ぐ

|ーーー摩阿姫(三女)秀吉の側室、後に
|          万里小路充房に嫁ぐ

|ーーー豪姫(四女) 秀吉の養女となり
|          宇喜多秀家に嫁ぐ

|ーーー与免(五女) 浅野幸長と婚約するも
|          若くして亡くなる

|ーーー千代姫(六女) 細川忠隆に嫁ぎ、
|           後に村井長次に嫁ぐ

—————————————————–
*前 田 利 家(1537〜1599)1538、39年生説も
—————————————————–
 |     |     |     |
 |ー知好  |ー利常  |ー利孝  |ー利貞
 |(三男) |(四男) |(五男) |(六男)
 |     |     |     |
金晴院   寿福院   明運院   逞正院

 

 

利常が生まれた時、父・利家は56歳。
誕生のしばらく後、利常はまつ(芳春院)の
長女・幸姫と夫の前田長種のいる越中守山で
養育されることになりました。

 

利常が父と初めて会ったのは、長種の
もとにいた1598(慶長3)年、5歳の時。
その翌年に、利家は亡くなりなっています。

 

 

利常がオランダのデルフトに注文したといわれる
「和蘭陀白雁香合(おらんだはくがんこうごう)」
石川県立美術館

 

 

 

前田利常(まえだとしつね 1593〜1658)

幼名は「猿千代」、初名は「利光」。
1605(慶長10)年、2代・利長が隠居し、利常が藩主に。

 

1623(元和9)年に、3代将軍・家光が就任後、
1626(寛永3)年、家光の「光」の字が
自分の名前の下になるのは無礼ということから
諱(いみな)を「利常」に改めます。

 

 

同年、従三位権中納言。
1639(寛永16)年に小松城で隠居。

 

1645年(正保2)年に、4代・光高が急死。
5代・綱紀が3歳だったことから、家光の命令で後見人に。
綱紀の正室に家光の弟の保科正之の娘・摩須姫を迎える。

 

1658(万治元)年、66歳で死去。
法号は微妙院。

 

 

 

 

謀反の嫌疑をかけられ、まつは人質に

1599(慶長4)年の利家の死後、半年ほど経った頃、
2代藩主となっていた利長が家康の暗殺を企てていると
の密告により、家康は前田家征伐の意思を表明します。

 

これに驚いた利長は、嫌疑を晴らすために使者を家康
のもとに送り、母のまつを人質として家康のいる江戸へ
送るということで解決をみました。(『前田家雑録』)

 

「(慶長五年)三月利長、横山長知及び有賀直政を
大阪に遣り家康に謁して和親を締せしめ、遂に芳春院
を徳川氏に質たらしめ、これに代ふるに秀忠の女を
利長の弟利常の配として迎へ、以て二氏の親眤を
繋がんことを約し、芳春院も亦家門の存亡に關する
大事なるが故に、敢えて関東に赴かんことを諾せり。
是を以て五月二十日芳春院は村井長頼をs
従へて伏見を発し、六月六日江戸に入る。
これより前田氏の死命全く徳川氏に制せらる。
諸侯の妻子を証人として江戸に置くの例、
亦是を以て權輿となす。」

(石川図書館 石川県史・第二編 加賀藩治創始期)

 

 

 

 

 

利長の死去後、人質を解かれる

まつは翌1600(慶長5)年に
「侍は家を立てることが第一。されば我を捨てよ」
              (『加賀藩史料』)
と言い残して江戸にたち15年間の人質生活を過ごします。

 

人質生活中に2代藩主・利長が亡くなると、まつは
利長亡き今、私は人質として江戸にいる意味がないので
願わくば、現藩主・利常の母を金沢から江戸に呼び
私を国に返してくださいとの意を願い出て許可されます。

 

 

 

 

「利長の薨じたる後、六月上旬芳春院は將軍秀忠
に請ひて曰く、今や利長已に空しく、妾にして江戸
江戸に在るも質として何等の價値あることなし。
願はくは今侯利常の生母壽福院を金澤より出府、
せしめ、妾に暇を賜ひて國に就かしめよと。」
                 (同上)

 

金沢にまつが戻ったのは、1614(慶長19)年、
68歳の時、代わりに利常の母・千代(寿福院)
が江戸上屋敷に到着。

 

まつは、1615(元和元)年に豊臣氏が滅亡た
2年後の1617(元和3)年に、秀頼の妻に
会った後、71歳で亡くなりました。

 

 

 

 

 

利常は丹羽長重の人質に

1600(慶長5)年9月、関ヶ原の戦い直前に起きた
前田利長(東軍)と丹羽長重(西軍)の「浅井畷
(なわて)の戦い」の後、敗北した長重は、東軍
との講和を望んだだめ、利常は人質として
長重のもとに送られることとなりました。

 

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、利長は東軍、
弟の利政は西軍でしたが、利長が東軍についたことを
重くみた家康は、前田家を32万石から120万石へに加増。

 

家康はその際、利長に条件をつけたといいます。
「利長は隠居し、家督は利常に譲る」ことと、
「利常は家康の孫娘を正室とする」ことを。

 

 

 

 

 

家康の孫娘との婚姻、3代藩主になる

1601(慶長6)年、利常は兄・利長の嗣子となり、名を
「利光」と改め、家康の孫娘である秀忠の娘を迎えます。
その時、利常は7歳、珠姫にいたってはわずか3歳。

 

そして4年後の1605(慶長10)年6月、利長は
10歳を過ぎた利常に家督を譲り、自らは
20万石の富山城主として隠居しました。

 

大坂冬の陣の前年にあたる1614(慶長19)年、
利長は豊臣方に、味方につくよう説得されます。

 

 

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その時、利長は「自分は味方するが、利常は徳川の婿に
あたるので味方できない」と繰り返し答えたといいます。

 

徳川から正室を迎えた藩主の立場を配慮する
利長は、幕府から再び謀反の嫌疑をかけられる
ことを恐れて、20万石も自ら返上しています。

 

また冬の陣の直前には、らい病で身動きすらできない体
をおし、自らの身柄を京都所司代に預けようとした利長は
冬の陣の直前、1614(慶長19)年5月に亡くなりました。

 

 

 

 

 

家康の気がかりは有力外様大名

1614(慶長19)年の大坂冬の陣、翌1615
(元和元)年の夏の陣によって豊臣家は
滅亡します。

 

1616年には天下統一を果たした家康が
死を迎える際に気がかりだったのは
有力な外様大名のこと。
利常を臨終の床に呼び寄せた
家康はこう言ったといいます。

 

「お前をなんども殺してやろうと思ったが
利常に嫁いだ珠姫の父・秀忠が
反対するので助けてやったのである。
これを恩義に思って秀忠に使えるように」と。
           (『拾纂名言記』)

 

 

 

 

この時に利常と同じ豊臣の家臣であった外様大名の
肥後藩主・加藤忠弘と、安芸藩主・福島正則も
家康に呼ばれて同様の言葉を伝えられています。

 

二代将軍の秀忠の時代に、52万石の加藤忠弘が、
三代将軍の家光の代には、50万石の福島正則が
それぞれ改易されていますので、120万石の
前田家が、心穏やかならぬ日々を過ごしていた
のは想像にかたくありません。

 

そして案の定といいますか、三代・家光の代になり
前田家に再び謀反の嫌疑がかけられてしまうのですが
長くなりましたので、それは次回にお話ししましょうね。

 

   (参考/宮元健次「加賀百万石と江戸芸術
     前田家の国際交流」人文書院 2002
    磯田道史『殿様の通信簿」新潮社2006
    石川県立図書館・石川県史)

 

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