前田家が東インド会社を通じて注文したデルフト焼

「あぷりのお茶会」へようこそ!

 

 

 

 

 

鍋島家の献上品の一例

佐賀藩(肥前藩)鍋島家は関ヶ原の戦いで父・が
東軍、子・勝茂が西軍に属していたこともあり、
江戸幕府成立時から徳川家に対しては
ひときわ気遣いをしてふしが伺えます。

 

1616(元和2)年頃、勝茂が上府した際に
本多正信の取りなしで江戸城に登城し、
将軍・秀忠にお目見えした時の進物は
以下のようなものでした。

 

公方様へ 太刀一腰、馬代銀子三百枚、
     大巻物十端、繻珍(しゅちん)二十端

若君様へ 太刀一腰、馬代銀子五十枚、
       ひわんす十端

御台様へ 銀子五十枚、絹糸二十斤
(お江与)

お局へ  しゅちん二端

 

 

「黒地群蝶模様留袖(くろじぐんちょうとめそで)」
(写真/佐賀藩鍋島家「徴古館」)

 

 

 

将軍御成のために薩摩藩・島津家が注文

このように様々な、かつ気の利いたものを
献上するため勝茂は、長崎に来る中国船から
珍しい「とうもの」を購入する必要がありました。

 

また日本にきたものを購入するだけではなく、
時には日本から中国へ注文をすることもありました。

 

薩摩藩島津家は1627(寛永4)年の将軍御成の
ための道具類を中国で特別に誂えています。

 

 

 

「松図襖」狩野尚信 17世紀
(写真/佐賀藩鍋島家「徴古館」)

 

 

 

前田家の婚礼の際にも勝茂が助力

加賀藩主・前田利長の後継として、利常が
三代藩主になり徳川秀忠の娘・珠姫を輿入れ
させるようとの命が家康から下されました。

 

1601(慶長6)年のその慶事の際に必要なもの
を利長は鍋島勝茂に依頼したと思われます。

 

勝茂は、必要なものが記されたリストをもとに
「長崎にポルトガル船がついたらすぐに
買い調えるよう」家臣に命じでいます。

 

 

初めて日本にやってきたオランダ船
「デ・リーフデ号」を復刻したもの(長崎テンボス)

 

 

 

加賀藩の「御買物師」長崎に常駐

その後、加賀藩の3代藩主となった利常は、
1637(寛永14)年6月、長崎の平戸に海外
からの輸入品を買い付ける「御買物師」
と呼ばれる役人を常駐させています。

 

長崎などの名物を収集するよう、家臣の
矢野所左衛門(やのところざえもん)に命じ、
配下の瀬尾権兵衛に目利きの吉文字庄兵衛
(きちもじしょうべい)をつけ、糸目を
つけずに買い求めさせました。

 

幕府は、1633(寛永10)年から1639(寛永16)年
にかけて、5回にわたって鎖国令を発布して
いますが、これに合わせて加賀藩も、御買物師
を長崎に常駐させることに踏み切ります。

 

御買物師は、長崎に入港する海外からの船が積んで
きた陶磁器や織物など値を構わずに購入しました。

 

1926(大正15)年に前田家伝来の文化財を
保存して後世に伝えるために加賀家16代当主
・利為(としなり)によって設立された
「前田育徳会」に所蔵されるものの多くが
この時に求めたものだといわれています。

 

 

 

デルフト焼 アムステルダム国立美術館所蔵

 

 

 

日本で初めてデルフト焼を注文した前田家

また加賀藩前田家は、日本で初めてオランダの
デルフト焼(「デルフト焼と日本の意外な関係」
の注文をしました。

 

その時の藩主は、利常の次の4代藩主・光高
でしたが、実際は顧問を務める3代藩主・利常
の指示によるものとみられています。

 

1640(寛永17)年に、長崎御買物師を通じて
オランダインド会社(「オランダ東インド会社
(VOC)」
)経由での発注でした。

 

 

こちらはオランダの注文により、有田で作られたお皿
オランダ東インド会社の「VOC」マークが入っている
「染付芙蓉手(そめつけふようで)」
江戸時代 伊万里焼(有田焼)
高さ6.4cm 径39.5cm 神戸市立博物館所蔵
(写真/「文化遺産オンライン」)

 

 

 

前田家の1639(寛永16)年12月31日付の注文書

 茶の湯のための茶碗 18個
  (見本として木型2個、粘度型2個添え)
 大皿 200枚、小皿 3種類をそれぞれ100枚
  (見本として粘度型が添えられ、
   絵付けの模様と色も細かく指定)

 

 

同、1641(寛永18)年の注文書

 ひし形台鉢 6個
 台鉢 30個
 大台鉢 5個
 方形台鉢 30個
 円形台鉢 30個

 

というようにかなり大量の注文であることがわかります。
さすがに加賀百万石ですね。

 

現代のようにメールや写真ですぐ確認できません
ので、木型や粘度型などの実物大の見本と、模様や
色彩などの丁寧な指示がなされているようです。

 

 

 

「和蘭陀白雁香合(おらんだはくがんこうごう)」
幅 9.2cm 奥行 5.3cm 高 10.6cm
デルフト焼 江戸初期 石川県立美術館所蔵

 

 

 

前田家がデルフトに注文した「和蘭陀白雁香合」

上の香合もデルフト焼で、前田家の発注により
作られたと思われている「和蘭陀白雁香合」です。
現在は石川県立美術館の所蔵。

 

全体的に乳白色の白釉が厚くかかり、
赤の絵の具でクチバシや目、頭の付け根の
2本の線、足などを彩っています。
足と足の間は青く見えるのは水を表しているとか。

 

石川県立美術館といえば野々村仁清の
「色絵雉香炉」が有名で、こちらは以前、
訪ねた時に見ましたが、白雁の方は、多分
見ていないのではないかと……、残念です。

 

 

「色絵雉香炉(いろえきじこうろ)」
幅 48.3cm 奥行 12.5cm 高 18.1cm
野々村仁清 17世紀 石川県立美術館所蔵

 

 

キリッとした仁清の「色絵雉香炉」に対して、
ふんわりとした優しさを感じさせる
「和蘭陀白雁香合」。
類品が少ないく貴重なものだということです。

 

 

 

長崎から金沢まで運んだ廻船問屋の「高島屋」

そうそう、言い忘れてしまいました。
前田利常が、長崎に御買物師を常駐させて
購入した品物を、長崎から金沢まで運んだ
のは廻船問屋の「高島屋」でした。

 

廻船問屋とは江戸時代に、荷物を送る人と海運業者
との間で、積み荷を取り扱う業者のこと。
「回船」の字を使うこともあります。

 

この廻船問屋の高島屋、現在もデパート
として有名なあの高島屋のことだそうですよ。
「和蘭陀白雁香合」も運んだのでしょうか?

 

 (参照 / 大橋康二「将軍と鍋島・柿右衛門」
             雄山閣 2007
  宮元健次
 「加賀百万石と江戸芸術 前田家の国際交流」
               人文書院 2002 )

 

スポンサードリンク




徳川幕府は貿易相手国として、なぜオランダを選んだのか? 

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

復刻された「デ・リーフデ号」(長崎ハウステンボス)

 

 

 

1600年、初めて日本に来たオランダ船

1602年に設立されたオランダ東インド会社は、
1609年から日本の平戸に商館を置いて
生糸や銀を中心として交易を行いました。

 

1639年以降は、ヨーロッパ諸国の中では、唯一
日本との貿易を独占する国でもありました。
「オランダ東インド会社( VOC)」

 

そんなオランダが初めて日本にやってきたのは、
1600(慶長5)年の3月、関ヶ原の戦いの5ヶ月前のこと。
豊後国臼杵沖にオランダ船の「リーフデ号」
が漂着しました。

 

 

リーフデ号の航路(地図 /「青い目のサムライ」)

 

 

 

110名の乗組員、漂着時は20数名

1598年の6月にロッテルダムから出港したリーフデ号は
南アメリカ南端を回り太平洋にから東洋を目指していた
5隻のオランダ船のうちの1隻です。

 

航海の途中に嵐や、スペイン・ポルトガル船の襲撃に
あい東洋に着くことができたのはリーフデ号ただ一隻。
110人の船員は、漂着時には20数名が残るのみでした。

 

その少数の生存者の中にいたのが船長のクワケルナック、
船員のヤン・ヨーステン、イギリス人航海士だった
ウィリアム・アダムスです。

 

 

 

「ヤン・ヨーステン記念碑」
左がヤン・ヨーステン、右がリーフデ号
八重洲通り(写真/カノオミツヒサ)

 

 

 

「八重洲」と「三浦按針」

ヤン・ヨーステンとウィリアム・アダムスの二人の名が
現在に至るまで残っているのは、彼らの知識を重用した
徳川家康が召し出して働かせたからです。

 

ヤン・ヨーステンは、家康の通訳となり彼が与えられた
居住地は彼の「耶楊子(やようす)」という日本名から
「八代洲(やよす)河岸」と呼ばれ、転じて「八重洲」
と呼ばれるようになりました。

 

住所としての「八重洲(やえす)」は1872(明治5)年
からで、1954(昭和29)年には東京駅の東側が,中央区
八重洲になりヤン・ヨーステンの名を残しています。

 

一方、ウィリアム・アダムスは外交顧問として働き
家康から与えられた知行地と水先案内の職務から
「三浦按針」と称されることになります。

 

 

九州の平戸藩、松浦家に伝えられていた
「婦女遊楽図屏風(ふじょゆうらくずびょうぶ)松浦屏風」
江戸時代前期 大和文華館蔵

 

 

 

ポルトガル・スペインが平戸に商館を構える

リーフデ号が豊後沖に現れる以前では、室町時代末期の
1543(天文12)年に、ポルトガル船が種子島に漂着し、

 

1550(天文19)年にはポルトガル船が来航して、領主の
松浦氏に商館の設置を認められ、交易が行われていました。

 

しかし松浦氏はキリスト教の布教を認めなかったため
ポルトガル人は1570(元亀元)年、領主の大村氏から
許可を得て長崎を寄港地とすることになります。

 

ポルトガルに遅れること十数年後の1584(天正12)年、
スペインも平戸に商館を設けました。

 

 

 

 

 

家康からオランダに朱印状が渡される

このようななか、家康は日本との貿易を許可する朱印状
をリーフデ号の船長だったクワケルナックに与えます。

 

これにより1602年に設立した東インド会社の船は
1609(慶長14)年に九州の平戸に到着し,
オランダ総督のマウリッツから家康への親書と
献上品がもたらされます。

 

これを受け家康は、使節を駿府に迎え書状と通行許可書
の朱印状を託し、オランダ商館が平戸に設立されました。
1613(慶長18)年にはイギリスも
平戸に商館を設けています。

 

 

「南蛮人来朝図屏風」(国立歴史民俗博物館)

 

 

スペイン、ポルトガル来航禁止に

1616(元和2)年には、中国の明船を除く外国船の
入港を平戸と長崎に限定する措置が取られます。

 

イギリスは1623(元和9)年に日本との
貿易から撤退し、平戸の商館を閉鎖しました。
翌1624(寛永元)年にはスペイン船の
来航が禁止されます。

 

1634(寛永11)年、ポルトガル商館が
長崎に新たに築造された出島に移転した5年後の
1639(寛永16)年、ポルトガルの来航が禁止されました。

 

これは1637(寛永14)年10月に起きた島原・天草の乱
を重くみた幕府が、キリスト教を取り締まる目的
から来航禁止を決定したもの。

 

1613年(慶長18)年のバテレン追放令において、すでに
キリスト教を禁教としていましたが、ポルトガルや
スペインは宣教師を密かに送り込んでいたからです。

 

 


ポルトガルから伝来したお菓子「丸ボーロ」千鳥屋本家

 

 

布教目的が少なかったオランダ

幕府は、ポルトガルが日本にもたらしている
同量の生糸を、オランダ商館が調達することが
できるか等を確かめた後の1739(寛永16)年に
ポルトガルとの国交断絶に踏み切ります。

 

ポルトガルは、「コショウとキリスト教徒の獲得」
を大航海時代の二大目的としていましたが、
スペインも同様で植民地としたフィリピンや
南米をカトリックに改宗させていました。

 

それに対してオランダの東インド会社は、利潤追求の
ための組織でもあったことからキリスト教布教という
目的は、さほど重要ではなかったといわれています。

 

 

オランダ東インド会社(VOC)の注文
によって伊万里(有田焼)で作られたお皿

 

 

 

一時はオランダとの貿易も禁止「台湾事件」

スペイン・ポルトガルの中国生糸入手に対抗するため
オランダは、1622(元和8)年に台湾に商館と要塞を
設けますが、現地の日本人商人との間で
紛争が生じてしまいました。

 

バタビアにあった東インド会社の総督は、長官の
ヌイツに解決を任せますが、ヌイツは朱印船船長の
浜田弥兵衛と争い、浜田は数名のオランダ人を
人質として日本に連れ去ります。

 

これにより1628(寛永5)年、
オランダとの貿易は全面停止。

 

ヌイツが日本側に引き渡され人質と交換に
幽閉されることで、解決が図られ
1633(寛永10)年に、貿易が再開されました。

 

ヌイツは1636(寛永7)年に解放されていますが、
この貿易再開を許可されたお礼として商館長の
江戸参府がこの時、義務付けられ定例となります。

 

 

 「元禄染錦写八画面取筒型花瓶」
伊万里の錦手を写したオランダ・デルフト焼

 

 

 

オランダ商館 平戸  →  出島へ

1609(慶長14)年から平戸にあったオランダ商館を
長崎の出島に移すための特使・井上筑後守政重が
1640(寛永17)年11月9日に平戸に派遣されます。

 

オランダ商館長・カロンに伝えた商館取り潰しの
表向きの理由は、倉庫に記された建設年が
キリスト教歴の年号だからというものでした。

 

これをオランダ商館長がすぐに受け入れると
思わなかった幕府は、いずれにせよ流血の事態
は避けられないと予測していたようです。

 

屈強な男を20人ほど陰に待機させ、カロンが拒否したら、
すかさず殺すという計画で、肥前や肥後、有馬の兵士に
オランダ船を破壊する準備もさせていました。

 

 

「南蛮人来朝図屏風」(国立歴史民俗博物館)

 

 

 

一言の抗議もなく受諾したオランダ商館長

しかし、井上筑後守政重の言葉に対して商館長の
カロンは一言の抗議もすることなく平伏して受諾。
石造りのオランダ商館は、たちまち
壊されることになりました。

 

1619年に平戸に来て江戸参府にもしばしば同行し、
日本語も完全に話すことができたカロンは、
将軍の命令には「承知した」と答えるほかは
ないと知っていたのです。

 

「一言も抗議せず、将軍の命令をただちに実行した
ことは、ヨーロッパ諸国の中で、オランダだけが日本
との通交貿易を許されることになる要因の一つである」
と永積洋子は書いています。
(『平戸オランダ商館日記」1981年、講談社学術文庫)

 

 

 

島原の乱での働き

これ以外には、島原の乱の際のオランダ商館の
行動もプラスに働いたように思えます。

 

オランダ商館は島原の乱の際に、大砲を搭載した商船を
差し向け、反乱軍に発泡し鎮圧に貢献したのです。

 

島原の乱の鎮圧のために派遣されていた松平信綱は
このことを大いに喜び、帰路に平戸へ
寄って
オランダ商館長を労ったという記録も残っています。

 

 

「出島」長崎和蘭陀屋舗圖 (立正大図書館収蔵)

 

 

 

オランダ貿易相手国として選ばれた理由

1 ポルトガルやスペインのように強硬に
 キリスト教布教を全面に出さなかった

2 また島原の乱では幕府に協力的だった

3 平戸の商館を直ちに破壊し出島に移るという将軍の
 命に一言の抗議をすることもなく直ちに実行した

 

これらのことが相まって、オランダがヨーロッパ諸国
の中で唯一、交易相手国として選ばれたのでは
ないかという気がします。

 

こうして1641年にオランダ商館は出島に移されました。
しかし移転とともに幕府は、オランダ商館に
対して外部との接触もまた厳禁しています。

 

貿易が再開の1633(寛永10)年に義務付けられた
年一回の将軍に拝謁の参幕旅行以外は出島を出る
ことは禁止。
より一層、隔離をしようとの幕府の意図が伺えます。

 

 

 

  年表

1543(天文12)年 ポルトガル船が種子島に漂着

1550(天文19)年 ポルトガル船が来航、
         領主の松浦氏の松浦氏の
        許可で商館を作り交易を開始

1570(元亀元)年 ポルトガルは領主の大村氏の許可
        のもと長崎を寄港地とする

1584(天正12)年 スペイン商館が平戸にできる

1600(慶長5)年  オランダ船、豊後沖に漂着
       家康が船長に朱印状(貿易許可)を与える

1609(慶長14)年 オランダ東インド会社の船が
        平戸に着き、家康に親書と献上品
        家康から朱印状が託され商館設立

1613(慶長18)年 イギリスの商船が平戸に入港し
        商館設立

1616(元和2)年 中国船以外入港を平戸と長崎に限定

1623(元和9)年 イギリスが撤退、商館を閉鎖

1624(寛永元)年 スペイン船の来航禁止

1628(寛永5)年 「台湾事件」オランダとの貿易は
        全面停止

1633(寛永10)年 オランダとの貿易が再開
         商館長の江戸参府が義務付け、
        定例となる

1637(寛永14)年 「島原の乱」

1639(寛永16)年 ポルトガルの来航禁止

1640(寛永17)年 オランダ商館出島に移転
         出島を出ることを禁止

 

スポンサードリンク




「柿右衛門」と「柿右衛門様式」の違い

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

柿右衛門様式「色絵花鳥文皿」

 

 

肥前陶磁の様式変遷

日本で初めて磁器が作られるようになった
1610年代からの変遷を簡単な表にしてみました。

 

 

           唐津焼

1600年 ____________________

          初期伊万里

 

         初期色絵(古九谷)

1650年 ____________________

大河内山   南川原山    内山・外山   武雄市など
 鍋島    柿右衛門    |        |
 |       |     |        |
 |        古 伊 万 里 金 蘭 手
1700年 ____________________

 |             |      |
 |             |      |
 ▽             ▽      ▽


 (「有田焼400年の歴史展 様式から見る有田焼の変遷」
東武百貨店池袋店 2016年 「とんとん・にっき2」)

 

 

 

唐津焼については……

「唐津焼『中里太郎衛門』

 

 

唐津焼「叩き唐津南蛮耳付壷」13代・中里太郎衛門

 

 

 

初期伊万里から初期色絵については……

「伊万里焼(有田焼) 色絵の誕生」
「なぜ『色絵」を『赤絵』というのか?」

 

 

「色絵蓮池翡翠文皿」江戸時代 17世紀中頃

 

 

 

鍋島焼についてはこちら

「関ヶ原の戦いを挟んで揺れる佐賀藩鍋島家」
「佐賀鍋島藩の御用窯完成」
「鍋島焼の種類『染付鍋島・色鍋島・鍋島青磁』」

 

 

色絵鍋島「色絵宝尽文皿 」
ロサンジェルス・カウンティ美術館

 

 

 

柿右衛門以前の色絵

1596(慶長元)年に生まれた初代・酒井田柿右衛門は
1643(寛永20)年頃から「赤絵」の制作をはじめて
1946(正保3)年に完成させました。

 

染付の青以外の色を使って描く色絵磁器は
柿右衛門が「赤絵」を完成する以前に、既に3カ所の
窯で焼かれていたことが発掘調査からわかっています。

 

それが上の表の「初期色絵(古九谷)」です。
初期の色絵は、緑や紫、黄色などの寒色系の絵の具を
多用して、模様を器全体にびっしり描くのが特徴。

 

 

「色絵菊文輪花大皿(青手)」16650年代
(写真/「4travel.jp 」)

 

 

この「色絵菊文輪花大皿」は「青手」と
呼ばれるもので、赤は使用せずに、模様の輪郭
を黒い線で描き、黄色、緑、紫などの色絵の具
を使って隙間を作らずに描き込んだお皿です。

 

 

 

柿右衛門の「赤絵」

それに対して酒井田柿右衛門の「赤絵」は
余白を充分にいかして明るく繊細な構図を
特徴とする色絵磁器でした。

 

初期の赤絵は、お手本としていたものが中国明朝
の磁器だったことから、中国的な「花鳥図」や
「鳳凰図」などの絵柄が多かったということです。

 

 

「色絵花鳥文皿」柿右衛門様式
1670〜1690年代

 

 

しかし三代、四代と柿右衛門も代を重ねてゆく
につれ「秋草」や「波千鳥」といった日本画
に多い文様が描かれるようになります。

 

 

 

ヨーロッパ向けの柿右衛門

1659(万治2)年、オランダ東インド会社( VOC)に
よる磁器輸出が本格化してから、伊万里焼はヨーロッパ
向けの製品を作り出すようになりました。

 

この「色絵花鳥文八角共蓋壺 」は、高さが
61.5cmもある大きな沈香壺(じんこうつぼ)で
世界最大級の柿右衛門壺といわれるものです。

 

 

「色絵花鳥文八角共蓋壺 」酒井田柿右衛門
江戸時代前期
出光コレクション – 出光美術館  総高61.5cm

 

 

蓋が紛失していないのは珍しいそうで、イギリス
から里帰りして現在は出光コレクションの収蔵品。

 

写真が小さくて見にくいのですが、蓋と肩の部分に
藍色と赤で牡丹唐草文を配してあり、胴には
梅や牡丹、竹に菊と戯れる小鳥が描かれています。

 

写真ですと胴の部分は六面体のように見えますが
実際は八面に面取りしてあるようです。

 

繊細な模様を纏った堂々とした立派な作品に
ヨーロッパの王侯貴族は心を奪われたことでしょう。
            (参照「出光美術館」)

 

 

 

 

 

「沈香壺」の使い方

ちなみに「沈香壺」とは沈香を入れて
おく壺という名前の通りの物なのですが
私はこれには驚きました。

 

まさかこの巨大な壺の中に沈香を
入れておいたということはなかろう、
と勝手に思っていたからです。

 

同じ重さの金よりも高いといわれる
沈香をこの壺いっぱいに入れたら
一体どれほどの価格になるのかと……。
でも王様だったら全然、普通なのかもしれませんが。

 

沈香壺は沈香の容れ物というだけではなく
お客様がみえると、普段は被せている蓋を
開けて、芳しい香りを室内に漂わせる
という、容れ物兼香炉でもあったようです。

 

 

細川家所蔵の香木「白菊」

 

 

 

「沈香壺」があっても

実は私は、昔からこの壺は何を入れる
ものなのか皆目、見当もつきませんでした。
単なる飾り、オブジェとも思っていたのです。

 

「沈香壺」という名前を知った後でさえ
なぜそう呼ばれるのかの意味がわからなくて。

 

ところがこれは飾りではなく
本当に沈香入れでした!
万が一、億が一、私が沈香壺をプレゼント
されたとしても入れる沈香がないですね……。

 

ヨーロッパ向けに作られて海を渡っていった
これらの作品は、欧州貴族達に愛され「柿右衛門」
あるいは「柿右衛門手」と呼ばれてきました。

 

ところで沈香壺は「酒井田柿右衛門」作ですが
その前に紹介したお皿には「柿右衛門様式」と
記載されていますね。
両者の違いは何なのでしょう?

 

 

 

 

 

「柿右衛門」と「柿右衛門様式」の違い

ヨーロッパ向けの磁器製品は、当然のことながら
国内にはあまり数がなかったようですが、先ほどの
沈香壺のように里帰りする作品が増えてきました。

 

一方、ヨーロッパの東洋陶磁コレクションの
実態も明らかになりつつあるなか、国内の
窯跡の発掘調査も行われるようになって
様々なことが明らかになってきたようです。

 

「戸栗美術館」のサイトによりますと、従来
「柿右衛門」と呼ばれてきたものの全てが柿右
衛門個人の作品ではないと説明されています。

 

「現在では柿右衛門個人の作品ではなく、
柿右衛門窯が牽引した伊万里焼の一様式で
あると考えられるようになり、『柿右衛門様式』
と呼ばれるようになりました」とのこと。

 

 

 

 

ちょうど今、東京渋谷の戸栗美術館では
「17世紀の古伊万里  逸品再発見! 展」
が開催中です。

 

会期は、2017年5月27日(土)〜9月2日(土)。
午前10時から午後5時までで、月曜日が休館。

 

「戸栗美術館(TOGURI  MUSEUM  ART)」
150-0046東京都渋谷区松濤1丁目-11-3
tel.03(3465)0070

 

スポンサードリンク