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「あぷりのお茶会」へようこそ!

 

 

いつも「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」を
訪れてくださってありがとうございます!

 

本来、今日は更新の日なのですが現在、入院中で
思うように更新ができなくなってしまいました。

 

更新の遅れや中止もあるかもしれませんが
どうかお許しくださいませ。
でも、また遊びに来てね〜!

 

 

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オランダ東インド会社(V O C)

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

 

 

独立戦争後にスペインが貿易禁止命令

現在はベルギーに属するアントワープの地に、イタリア
から陶工がやってきてマジョリカ焼を広めていた時、
オランダではスペインとの独立戦争が始まりました。

 

アルプス以北における最大規模の都市だったアントワープは
多くの外国商人が居住し、胡椒やシナモンなどを積んだポルト
ガル船が日々、荷を降ろすといった賑わいをみせていた港。

 

しかし独立戦争の騒乱を避けようとした陶工たちは、次第
に他の地に移って行き、マジョリカ焼の中心地はアント
ワープからハールレム、デルフトへ移ることになります。
「『デルフト焼』と日本の意外な関係」

 

 

A「アントワープ」→H「ハールレム」→D「デルフト」

 

 

 

戦争の結果、1581年にオランダはネーデルランド
連邦共和国となる独立宣言をしました.

 

一方、スペインは1585年、オランダとの貿易の
全面的禁止とオランダ船拿捕の命令を出します。
これはポルトガル船から拿捕されることをも意味します。

 

何故ならば当時のポルトガルは、1580年から
スペインのフェリペ2世を国王とする同君王国で
事実上スペインに併合されていたからです。

 

 

 

スペインとポルトガル船からの拿捕の危機

この結果、リスボンやアントワープに入港する
ことができなくなったオランの商人たちは
アジアの香辛料を手に入れる術をなくします。

 

オランダ人が、1602年と1604年にポルトガル船を拿捕し
積んでいた10万点あまりの中国磁器を奪った
「『デルフト焼』と日本の意外な関係」)との事実に

 

なんと手荒なことを!と驚きましたが
それはこのような理由があったから。
オランダ船は、アジアの海でボルトガル船に
対して、公然と海賊行為を行なっていたのです。

 

 

 

 

 

1596年、ジャワに到着

リスボンやアントワープに入港できず、またスペインと
ポルトガルに拿捕される危険性があったオランダ商人は
香辛料を直接手に入れることを考えます。

 

最初は北極海を抜ける北回りでアジアに行く
ことを試みましたが、あえなく失敗。

 

1596年に、希望峰周りでアジアに向かった4隻の船が
ポルトガル船に見つかることなくジャワに到着すると
続けとばかりアジア貿易を目指す会社ができはじめます。

 

 

 

 

 

 

各国にあった「東インド会社」

これらの会社が統合されて「東インド会社」になるの
ですが、東インド会社と名乗るものはオランダだけでは
なく、イギリスやデンマーク、フランス等にもあります。

 

「オランダ東インド会社」「イギリス東インド会社」
「デンマーク東インド会社」「フランス東インド会社」
というように。

 

「東インド会社」は西洋がアジアと貿易をするために
作った会社で、世界初の株式会社といわれています。

 

オランダ東インド会社が主に扱ったのが香辛料で、
イギリス東インド会社は綿織物でした。

 

 

 

 

 

 

「インド」とは「アジア方面」を指す

「東インド会社」という名前が紛らわしいのですが、
これはインドが作った会社でも、インドのみを貿易相手
とする会社でもなく、「インド」という言葉が指すのは
「アジア方面」という程度の意味です。

 

南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海にある群島に
「西インド諸島」がありますが、これはコロンブスがそこが
インドだと勘違いをしたことから名づけられたものですし、
アメリカ大陸の人々も「インディアン」と呼ばれましたしね。

 

というわけで東インド会社の「インド」も、コロンブス
のアバウトすぎる間違えからきた名称だと思われ、それは
「地中海から東の方」や「アジア」を意味しています。

 

 

 

シナモン(桂皮)スティック

 

 

 

「西インド会社」は「アメリカ方面」

オランダの東インド会社は、希望峰からマゼラン海峡まで
のアジア地域の商業活動を行う特許を持っていました。

 

ちなみに「西インド会社」もありましたが
この場合の「西インド」とはアメリカ大陸のこと。
超ヨーロッパ中心主義ですね。

 

とはいえこの理由は差別意識ではなく無知からきたもの。
あとで勘違いに気づいた後も、名称として定着して
いたために変更しなかったのかもしれません。

 

 

 

シナモン(桂皮)の木

 

 

 

1602年設立の「V・O・C」

当時は、アジアと貿易をしよう思ってもリスクが一杯でした。
嵐などの天候の問題や、海賊の心配もあります。
そして何より莫大な資金も要します。

 

そのため出資者を募って、その資金で貿易をしようと
考えましたが、同じような考えからいくつもの会社が
しのぎを削って競争するというのもまた問題があります。

 

ということで政府から貿易をする独占権を得ることになり
オランダは1602年、貿易政策としていくつかの会社を
統合して「東インド会社」としました。

 

東インド会社の正式名は「連合東インド会社
(Vereenighde OostIndische Compagnie)」。
略称を「V O C」です。

 

 

 

セイロンシナモン(桂皮) スティックとパウダー

 

 

 

「17人会」

正式な本社はありませんでしたがアムステルダム、ホールン、
エンクハイゼン、デルフト、ロッテルダム、ゼーラントの
6支社から構成され、アムステルダム支社の出資額が最も
多かったことから事実上、本社の役割を果たしました。

 

大口出資者の76名が重役となって、そのうちの
17人で取締役会を作り、会社の経営方針をを決定。

 

17人会には、条約締結や戦争の遂行、要塞の構築、
貨幣の鋳造などの権限が与えられています。

 

 

 

 

 

 

植民地経営会社

と何やら物騒な権限が並んでいますが、海賊及び他国の
妨害も考えられることから、会社とはいえ「軍隊」
も持ち、必要とあらば戦争も厭いませんでした。

 

またその際に、いちいち本国に問い合わせるのも
大変ですので「外交交渉権」をも併せ持ち
その上、現地の統治も任されています。

 

つまり東インド会社とは、貿易商社というよりは
「植民地経営会社」だったというのが実態です。

 

 

 

 

 

 

日本との貿易を独占

希望峰からマゼラン海峡までの貿易独占権を得て
1619年には現在のジャカルタであるジャワ島の
バタヴィアに東インド総督の拠点を置きました。

 

ポルトガルやイギリスを抑えて、東南アジアの香辛料
貿易に成功し、台湾、スリランカ、マラッカなども占領。

 

1609年からは日本の平戸に商館を置き、生糸や銀を
中心として交易も行ない、1639年以降はヨーロッパ諸国
の中では唯一、日本との貿易を独占することになります。

 

 

 

「染付芙蓉手大皿」江戸時代 伊万里焼
高さ6.4cm 径39.5cm 神戸市立博物館所蔵
(写真/「文化遺産オンライン」)

 

 

 

東インド会社の注文品

上の写真は、有田の伊万里焼で作られた芙蓉手の
お皿ですが、中心に「V」と、さらにその左右に
「O」と「C」がデザインされています。

 

これはオランダ東インド会社(V O C)の注文
によって作られたものと考えられています。

 

それまで磁器生産の中心だった中国が内乱で輸出禁止に
なったことから、それに代わるものとして有田で作られ
るようになったのがこのようなお皿だということです。

 

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「メディチ磁器」マイセンより100年以上前にイタリアに誕生した幻の磁器

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

 

 

「この世の至高の什宝」

マルコ・ポーロがその著書「東方見聞録」の中で
初めて中国磁器を紹介すると、中国磁器は
ヨーロッパの王侯貴族の憧れの的となりました。

 

磁器に魅せられた人々は中国磁器を
「ホワイト・ゴールド」「この世の至高の什宝」
とまで讃えられるようになったのです。

 

そして当然のことながら、ヨーロッパの人々も
この透き通るように美しい肌を持った磁器を、自らの手で
作ることができないだろうかと考えるようになりました。

 

 

「マジョリカ焼」

 

 

 

イタリアで磁器作りに挑戦

ヨーロッパで最初に磁器製造に成功したのは1709年、
マイセンのベトガーでしたが、それ以前のルネッサンス期
のイタリアでも磁器製造に取り組んだことがありました。

 

しかしこれは残念ながら成功することなく終わります。
叶わなかった磁器製造のかわりでもあるかのように
イタリアではマジョリカ陶器」が発展しました。

 

15世紀にギリシャの東ローマ帝国がオスマントルコ
によって滅ぼされると、イタリア半島では
フィレンツェを中心にルネサンスが訪れます。

 

 

「デルフト焼」

 

 

東方から科学技術が流入し、アフリカからは金が、
アメリカ大陸からは金に続いて銀がもたらされる
ようになっていたフィレンツェ。

 

そこに1000年以上前に古代ペルシャで作られスペイン
に広がっていたマジョリカ焼が、マジョリカ島経由で
シチリア、フィレンツェへと伝えられていたのです。

 

ルネッサンスの新風の中でマジョリカ焼は進歩し、
後にアントワープからデルフトへと移るとともに
それぞれの
地で創意工夫が加えられて「デルフト焼」となりました。

 

 

 

 

 

イタリアでのもう一つの試み

磁器製造は叶わずマジョリカ焼の発展へと
繋がったこの試み以外にもイタリアでは
もう一つ別の磁器製造を試みた人がいました。

 

ヨーロッパ初の白磁製造に成功したマイセン
のベトガーより100年以上も前のこと。

 

フィレンツェのメディチ大公がそれを試みました。
そしてその試みは、ある程度の成功を収めたのです。

 

 

 メディチ家の紋章

 

 

 

メディチ家

メディチ家はルネッサンス期のフィレンツェを
支配し、金融業や政治の世界で活躍した一族。
新興商人階級に属し、元々の出自はわかっていません。

 

ローマで金融業を営んでいた初代のジョバンニ・ディ・
ビッチが、1397年に本拠地をフィレンツェに移した
ことからフィレンツェでの活躍が始まります。

 

仕事で得た莫大な財産でボッティチェリ、レオナルド・
ダ・ヴィンチ、ミケランジェロという芸術家のパトロン
となりルネッサンス文化を育てたことでも有名ですね。

 

「メディチ(Medici)」という名前は「メディカル
(Medical)」からきていて、紋章についている
プチプチは丸薬を表しているともいわれますが、薬種業
を営んでいたという裏付けとなる資料はないそうです。

 

 

 

メディチ家家系図「that blog-ish thingy」

                                 ↑ 下から2番目が
                                 フランチェスコ1世

 

 

 

フランチェスコ1世・デ・メディチ

初代から数えて7代目のフランチェスコ1世・デ・
メディチ(Francesco Ⅰ de Medici、1541年〜1587年)
が、ヨーロッパで最初の磁器に取り組みました。

 

磁器製造に関わった期間は、1575年頃から1583年
までの短い期間といわれていますが、これについて、
松本典昭「マニエリスム期におけるメディチ家の宝物
コレクション」
では、

 

「ヴァザーリは,『美術家列伝』第2版(1568年)で,
* フランチェスコ 1 世が1560年代から磁器工房を開いて
* 試作の 実験に乗り出したと伝えている」

 

と記されていますので、一般的に伝えられているよりは
かなり早い時期から取り組んでいたのかもしれません)

 

 

フランチェスコ1世・デ・メディチ
(Francesco de’ Medici 、1541年〜1587年)

 

 

 

1575年「メディチ磁器( Medici porcelain )」完成

1574年、フィレンツェで、フランチェスコ1世の命
により始められた研究は、レヴァント人の協力のもと、
翌1575年には「メディチ磁器」を完成します。

 

一説にはマジョリカ焼の陶工が焼いたともいわれて
いますが、できた作品のほとんどが染付であり
マジョリカ焼独特のおおらかな派手さはありません。

 

「メディチ磁器」という名前ではあっても
正確には磁器ではなかったのですが、外観が
かなり磁器に似ていたためにそう呼ばれています。

 

 

中国磁器「染付芙蓉手蓮池水禽文輪花大皿」
景徳鎮窯 1590~1630年代 九州陶磁文化館所蔵

 

 

 

材料に「カオリン」を含まない

メディチ磁器は、硅(ケイ)砂、ガラス、水晶粉に、
ファエンツァの白陶土、ビセンツァ粘土を混合した素地に、
錫(スズ)釉を掛けた陶器で、中国磁器をお手本に
マジョリカ焼の技法も取り入れたものです。

 

釉薬は比較的厚めで気泡が多いために
コバルトが少し滲んだように見えるそうです。

 

材料には、磁器作りといえば欠かせない
「カオリン」を
使用していませんので、正確にいうと磁器ではなく
陶器ですが、かなり磁器に近づいた「軟質磁器」です。

 

 

「メディチ磁器」(Baby’s bottle in Medici porcelain.
Soft Paste Porcelain ca. 1575–87.)
(写真/「Jelly Angel」

 

 

 

フランチェスコ1世もともに

フランチェスコ1世は磁器製作を命じるのみでなく、
カジーノ・ディ・サン・ マルコの工房で多くの錬金術師と
一緒に一日中、磁器製造に没頭したといいます。

 

錬金術が好きで科学に明るいということが
磁器作りへの意欲を一層かきたてたのかもしれません。

 

マイセンでベトガーに磁器製造を命じたザクセン強王は
秘密の漏洩を恐れてベトガーを監視付きの部屋に閉じ込め
外界との接触を一切たったそうですが、フランチェスコ
1世は自ら実験に勤しんでいたということですね。

 

 

メディチ磁器(©RMN, Sèvres,
cité de la Céramique, Martine Beck-Coppola)

 

 

 

ヴァザーリも絶賛!

その甲斐あって、正確には磁器ではないものの美しい
軟質磁器の「メディチ磁器」が生まれました。

 

イタリアの画家であり建築家、美術史家でもある
ヴァザーリは、メディチ磁器について

 

「素晴らしい技術から生まれる完全な作品であり、
しかも芸術的にも最高の到達点である」と絶賛しています。

 

 

「メディチ磁器」皿 1575年〜1587年
大英博物館所蔵(写真/「やきもの色々」

 

 

 

つかのまの煌き

しかし1587年、毒殺とも噂されたフランチェスコ1世の
死とともにメディチ磁器の歴史も終わることになります。

 

この後、イタリアで磁器が作られるのは100年以上後の
ウィーンからの硬質磁器を受け継ぐヴェッツィ窯で
作られる1720年のことです。

 

短い製造期間だったこともあり、現在残っている
メディチ磁器はごくわずかなものです。

 

フランチェスコ1世の亡くなった年、1587年の財産目録
によれば
「メディチ磁器」は820点を数えていますが、
現存するのは60点ほどにすぎません。

 

セーヴル国立陶芸美術館に9点、
ヴィクトリア&アルバート美術館に9点、
ルーブル美術館に6点、
大英博物館に4点、
メトロポリタン美術館4点、などです。

 

 

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