「レーベルカフェ」二の橋の袂にある素敵なカフェ 古川の橋10

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

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「二の橋」の袂

麻布通りから「二の橋」を渡って「日向坂」、
オーストラリア大使館などの写真を撮った後に
「二の橋」の袂(たもと)で見つけた「レーベル
カフェ」で一休みすることにしました。

 

「レーベルカフェ  トーキョー(Label  cafe  Tokyo)
〒108−0073 港区三田1丁目11-49
レーベルビル1階 03-5444-6677
火曜定休 9:00〜17:00)

 

「レーベルカフェ」は、水分不足で疲れた真夏の
夕方に、突然現れたオアシスという感じ。

 

「日向坂」からお店へと続く、この通路を
見ただけでも、素敵なお店という期待感で
ドキがムネムネしてしまいます。

 

 

160814lanelcafe「日向坂」からお店へと続く通路

 

 

のどの渇きももちろんですが、お腹も
すいていたので、この写真の左にある椅子の
メニューを見ましたが、残念ながら
この時間はケーキ以外はないようですね。

 

モーニングセットと、ランチセット、
それ以外はお茶の時間。

 

朝は9時からオープンしているようですが
夕方の5時に閉まってしまうというのは
ちょっと早い感じもしますが。

 

カフェでモーニングセットを頂いたのは
一体いつだったか忘れてしまったほど前ですが
今度「レーベルカフェ」で食べてみたいな。
まあ、何はともあれ今日はのどの渇きを潤しに。

 

 

 

どっしりした木のドアを開くと

壁でスペースが少し区切られているように
見える、写真の左の方に入口のドアがあります。

 

 

160814labelcafetokyo麻布「レーベルカフェ トーキョー」

 

 

う〜ん、外から見て思った雰囲気通りのお店です。
奇を衒(てら)うような派手なお洒落さではなく
落ち着いた自信を感じさせるセンスの良さという感じ。

 

入った瞬間の空気感もさることながら
私は何といっても、壁面の一面の大きな曇り
ガラスの醸し出す雰囲気に圧倒されました。

 

はっきりと見えるわけではないのですが
存在感のある木々たち。
ちょっと森みたいな感じがしますね?

 

と思うでしょ、ところ違うのですよ。
麻布十番側、麻布通りから見た
「二の橋」はこんな風です。

 

 

160729ninohasi麻布十番の方から見た「二の橋」

 

 

実は上の写真には、ほんの少しだけ
「レーベルカフェ」が写っています。

 

左上の高速道路の太い脚の左側に、5ミリほど
見えているのですが、これでは全くわかりません
ので、次の写真をどうぞ。

 

「日向坂」の方向に向かって、「二の橋」を
三分の一か半分ほど行った所で「レーベルカフェ」
方向を撮ったものです。

 

 

「二の橋」の中ほどから古川と「レーベルカフェ」を臨む

 

 

この写真では、高速道路の下の右端の中央
あたりに見える建物が「レーベルカフェ」です。

 

外からですと、先ほどのガラス一面に描かれた
ように写っていた、木々の存在はあまりわからず
あの木は、どこにあるの?という感じ。

 

でもこうして見ますと、古川は結構大きい川なのですね。
第7代将軍・徳川綱吉が「四の橋」の麻布御殿
(白金御殿)に船で行くことができるように
川幅を1間ほど大きくしたのですものね。

 

ここからでは、あんなお洒落な「レーベルカフェ」
があるとはとても思えないところも
意外性があって、隠家風でいいのかも。

 

 

160814labelcafetokyo木々が描かれたような「レーベルカフェ」の壁面ガラス

 

 

 

野菜と豚ひき肉のキーマ風カレー

訪れたこの日は8月14日、お盆期間中だったの
ですが、お休みはあくまで定休の火曜日だけ
ということで通常の営業でした。

 

さてさて、何にしましょうか?
とメニューとにらめっこ。

 

ランチは「日替わりプレートごはん」と
「野菜と豚ひき肉のキーマ風カレー」があるようです。

 

「日替わりプレートごはん」は、10種のおかずと
黒米ごはんに、2日毎に替わる具だくさんスープが
添えられている魅力的なメニュー。
毎日のスープの名前が小さな紙に書かれています。

 

ランチの時間(11:30〜15:00)はとうに過ぎて
いたのですが、カレーを用意してもらえる
ことになりました、感謝、感謝。

 

 

labelcafecurry「野菜と豚ひき肉のキーマ風カレー」温泉卵のせ

 

 

「野菜と豚ひき肉のキーマ風カレー」には
温泉卵かパクチーをのせてもらうことが
できるので、私は温泉卵を選択。

 

御覧の通り、お米が「日替わりプレートごはん」
同様、黒米でその他の穀物も入っていましたよ。

 

御飯はかなり柔らかめでしたが、キーマ風
カレーってこういうのなのでしょうか?

 

 

160524kurogome黒米

 

 

飲物は「レーベルカフェ」自家製の
梅シロップをソーダで割ったもの。

 

冷たいお水割りや、ホットも可能だとか。
甘すぎず、サッパリとして
暑い日にはぴったりの飲物でした。

 

 

160814labelcafeumesiroppusoda「レーベルカフェ」自家製の梅シロップソーダ割り
(ボケててごめんなさい)

 

 

この「レーベルカフェ」、何かやたらお洒落だなあ
と思っていたら、レーベルクリエーターズという
モノづくりメーカーが作ったカフェだそう。
ふ〜む、やっぱりね。

 

「レーベルカフェ」のあるビルが
レーベルビルで、上階は会社というつくり。
2004年に生まれた日本のモノづくり
衣・食・住をテーマにした会社です。

 

 

 

壁面の大きなガラスが絵画のような美しさ

「レーベルカフェ」は大阪にもあって、そちらも堂島川
に面したお店だということですが、違うのは
「レーベルカフェ OSAKA」の大きな壁面は
曇りガラスではなく普通の透明のガラスだということ。

 

 

labelcafeosaka(写真/「レーベルカフェ OSAKA」

 

 

外の景色が見えるのも開放感があって、とっても素敵
ですが、麻布の「レーベルカフェ」のガラス窓も
負けず劣らず、独特の雰囲気を醸し出していますよね。

 

もしかしたら、先ほど外からの写真をご覧いただいた
ように、曇りガラスの窓は、さほど美しくないものを
隠す目的なのかもしれません。

 

でも、そうであったらなおのこと
極上の仕上がりといった美しさですね。

 

この日は「レーベルカフェ」に、パソコンを持って
きている女性が2人いましたが、私もパソコンを持って
きて、住み着いてしまいたいほどの心地よさでした。

 

 

160814labelcafe麻布「レーベルカフェ トーキョー」

 

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うなぎ 芝・麻布・飯倉「野田岩」

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芝・麻布・飯倉「五代目  野田岩」

前回の「古川の橋5」で登場した
江戸時代のうなぎの名店「狐鰻」。

 

そこで修行をした岩次郎が作ったお店が
現在芝にある「野田岩」です。

 

ということ今回は、うなぎの老舗
「五代目  野田岩」に行ってみることにしました。

 

 

以前ご紹介した「飯倉公園」のすぐ近くです

 

 

 

今回は「芝・麻布・飯倉本店」にお邪魔しましたが
「銀座店」「下北沢店」「日本橋高島屋店」
「パリ店」と全部で5店あるようです。

 

桜田通りに面していて東京タワーの近くに
あり、最寄駅は地下鉄「赤羽橋」。

 

「飯倉公園」

 

 

「野田岩」の指定駐車場は
東京タワー地下の駐車場になっています。

 

「五代目  野田岩」
〒106-0044   港区東麻布1丁目-5-4.   03-3583-7852
営業時間 11:00~13:30 17:00~20:00
定休日  毎週日曜日のほか年末年始と夏期休暇
*      7、8月の土用の丑の日)

 

この定休日を見ただけでも「野田岩」
のこだわりがわかりますね。

 

うなぎ屋さんなのに
7、8月の土用丑の日は休業です。
土用の丑の日は、よいうなぎが提供できないからだそう。

 

 

150808nodaiwa桜田通りに面している「野田岩」、右の方に東京タワー

 

 

 

創業200年 ミシュラン1つ星

第11代将軍・徳川家斉の寛政年間に創業して以来、
200年近くも変わらぬ味を守り続けている
「野田岩」の現在の当主は5代目。

 

日本人はうなぎを食べる習慣が、かなり古くから
あったようで、『万葉集』にも大伴家持が
「むなぎ」として歌っています。

 

江戸時代に徳川家康が江戸を開発する際、干拓工事
などでできた泥炭湿地にうなぎが住みつき、それを
蒲の穂のようにぶつ切りにし焼いて食したそう。

 

その後、1716〜1736(享保)年間頃に、江戸で
作られるようになった濃口醤油を、今度は開いた
うなぎにつけて焼くようになる、というように
蒲焼はだんだんと進化していきました。

 

 

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原点は、江戸前の「狐うなぎ」

その時に使用されたうなぎは
前回もお話した通りに江戸前のうなぎで、
その姿から「狐うなぎ」と呼ばれました。
「野田岩」のサイトにはこのような説明があります。

 

「原点は『狐うなぎ』
飯倉本店の看板にある
『狐うなぎ』とは

遠く利根川の上流で蟹などを食して育ち
狐のように口が細く

精悍な顔立ちと整ったかたちをした
希少な天然うなぎのこと

 

江戸時代  一級品の代名詞とされた
その『狐うなぎ』を丁寧な手作業で
最高の美味しさに仕上げていく

それが鰻専門の老舗それが鰻専門の老舗
野田岩の原点でございます」

 

 

120813hagiうなぎの旬は萩の花の最盛期から終わりの頃
(「萩」溜池山王駅アート)

 

 

 

晩秋から初冬がうなぎの旬

「五代目   野田岩」は、天然うなぎの入手のために
アイルランドにも仕入れに行く、というほどの
こだわりだといいますが、江戸時代とは環境も
異なっている現在は養殖うなぎも使われています。

 

「野田岩」の箸袋には
「天然うなぎ使用期間 4月〜12月」、
「天然鰻のお吸物のきも、又はきも焼に
釣針が入っていることがあります
ので、お気をつけ下さいませ。」
と書かれています。

 

うなぎは冬から春にかけては冬眠をしている
そうで、冬眠直前の晩秋から初冬にかけてが
一番美味しい時期だそう。

 

土用の丑の日あたりの真夏は
味が落ちている時期だといいます。

 

しかも、栄養価が高いものを普段から食している
現代人にとっては、とりたてて夏バテ防止に
うなぎを食べるというのは、医学的根拠によるもの
というよりは、殆ど風物詩なのかもしれませんね。

 

 

140222koke470

 

 

 

待ちたくない人は、要予約

老舗の「野田岩」は超人気店でもあります
ので、いつもお客さんが一杯。
予約をしていない場合は、名前を書いて
椅子に座って待つのが普通です。

 

本店は1階が椅子席、2階が座敷、3階は個室
だそうですが、それ以外にも、本店別館
として、少し離れた所にお店があります。

 

それでも入りきらないで
お客さんが待っているという状態です。

 

 

 

 

私は1階の椅子席でしたが、内装は飛騨高山から
合掌造りの建材を取り寄せて造られたという
だけあり、重厚な雰囲気が漂っています。

 

 

 

待っても、感動の美味しさ

お茶を頂いていると、さほど
待つこともなくうなぎが登場。
まず目を引いたのは、うなぎの「焼き」の美しさ。

 

ムラなく焦がさず、しかも
香ばしく焼き上げる技にしばし感動。
私が今までいただいていたうなぎは
もうちょっと黒っぽっかったかな。

 

 

unagiうなぎ 芝・麻布・飯倉「五代目  野田岩」

 

 

ここまでの焼きができない(といっても普通の
レベルでは充分合格点ですが)職人さんは、

 

「これでは使いものにならない」と叱られるのでは
ないかなどと、我が身に当てて、いらぬ妄想をして
しまうほどの、パーフェクトな焼き色でした。

 

肝吸いもそうですが、コクがありながらも、基本は
さっぱりの美味しさで、うなぎというと連想され
がちな脂感はまったくない、あっさり川魚。

 

肝吸いなど、それはもうはかないほど……、
といってももちろん味はしっかりと主張して
いるのですが、あくまで出過ぎない。

 

 

 

広重「東都名所 芝赤羽橋之図」

 

 

 

肝以外は三つ葉と柚子という過不足のない
品の良いお吸い物に、ふと何十年も前に
母が作ってくれたお正月のお雑煮を思い出しました。

 

「裂いて串を打った鰻を、素焼きしじっくり
蒸して余分な脂をのぞき、身をふっくらさせる。
さらに味醂と醤油のほかは何も入っていない
タレにつけ備長炭で焦げ目をつけることなく、
繰り返し焼いて仕上げていく。
時間と手間を惜しまない。
丁寧な作業が鰻の老舗野田岩の基本です」

 

基本に忠実に、決して手を抜かずに丁寧な仕事を
続ける、「野田岩」のサイトには
そんな伝統の技の自負が垣間見えます。

 

 

160808unsagiうちの食器にうつしかえた「野田岩」のうなぎ

 

 

 

大名家御用達、今でも出前をします

驚いたことに「野田岩」のうなぎは
出前もしてくれるのだそうです。

 

江戸時代、飯倉界隈には大名屋敷が多くあり
出前で楽しまれたそうで、「野田岩」は
江戸市中で評判の「山手の味」となっていきました。

 

その流れから今でも出前をしてくれるのですが
範囲はどこまで可能なのかは、サイトに記載されて
いませんでしたが、どこまでなのでしょう?
出前の料金が200円というのも良心的ですね。

 

 

 

広重「東都名所芝赤羽根之雪」

 

 

 

上の写真は出前ではありませんが、持ち帰った
「野田岩」のうなぎを、うちの食器に入れ替えたもの。
少し時間がたってしまっても
本当に美味しいうなぎでした。

 

次は、うなぎの一番おいしい時期に、これ
よりちょっとだけ上のものを食べたいな。
今回は一番お安いうなぎだったから。

 

とはいっても「野田岩」のうなぎの
お値段は、あくまでも量の違いであって
うなぎ自体は同じ品質のものだそうです。

 

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ふぐの薄造り「春帆楼」東京店 

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

160109shunpanro     籠盛り御膳「春帆楼」東京店(写真/N子ちゃん)

 

 

「春帆楼」東京店

お正月も終わって少したった頃に、久しぶりに会ったお友達と
これまた久しぶりのふぐ料理を楽しんできました。

 

お店は初めて行った「春帆楼」東京店。
2012年(平成24)にできたお店です。
住所は千代田区平河町になりますが、赤坂見附駅から歩いてもすぐ。

 

春帆楼(しゅんぱんろう)東京店
千代田区平河町2-7-9 JA共済ビル内 03-5211-2941)

 

ふぐのコースはちょっと無理でしたので、ふぐの薄造りのついた
籠盛り御膳に、日本酒の地酒が楽しめるメニューを選択しました。

 

 

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大吟醸「東洋美人」

地酒はお友達のN子ちゃんが選んでくれた大吟醸を冷やで頂くことに。
名前は「東洋美人」というだけあって、ほんのりと甘くて優しいお酒。

 

「なんといっても『東洋美人』だからね」とわけのわからない
ことを言いあいつつ頂きましたが、私は日本酒は本当に久しぶり。

 

軽くてジュースのように飲めてしまう口当たりのよい日本酒でした。
大きめのワイングラスに入ってきましたよ。

 

 

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「河豚禁食令」

今回訪れたのは「春帆楼」東京店ですが本店は言わずと知れた下関。
ふぐといえば「春帆楼」というほど有名ですね。
なんといっても日本のふぐ料理公許第一号というお店ですから。

 

「春帆楼」がふぐ料理公許第一号店となったのは1888(明治21)年の
ことでしたが、それ以前は豊臣秀吉以来の河豚禁食令がありました。

 

とはいってもふぐを食する人は絶えず、ふぐ中毒が増加したため
法律で「河豚食ふ者は拘置科料に処す」と定められていたとか。

 

 

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「春帆楼」の始まりは目医者さん?!

今でこそふぐの「春帆楼」ですが、もともとは医院でだったそうです。
江戸時代の末に、豊中中津奥平藩’(大分県)の御殿医だった
藤野玄洋は自由な研究をするために御殿医を辞して、医院を開業。

 

医院での長期療養患者のために、薬湯風呂や娯楽休憩棟が用意され
藤野玄洋の妻のみちが食事を采配することになりました。

 

玄洋は1877(明治10)年には別の地に「月波楼医院」を開業。
玄洋が亡くなった後の明治15年頃、伊藤博文の勧めにより
みちは「月波楼医院」を改装して割烹旅館を開きます。

 

 

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命名は伊藤博文

「月波楼医院」を改装した割烹旅館は、それまでの
「月波楼」から「春帆楼」に名を改めました。
名前を付けたのは伊藤博文。

 

「春帆楼」は伊藤博文、高杉晋作、山縣有朋などの
維新の志士達に愛されたお店でもあります。

 

「春帆楼」の名前の由来は
春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様
から名づけられたそうです。

 

 

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場所が全然違いますが…… 歌川広重「隅田川葉桜之景」
(絵/「ウィスコンシン大学マディソン校」

 

 

 

打ち首覚悟でふぐ料理

1887(明治20)年の暮れ、当時総理大臣であった
伊藤博文が「春帆楼」に宿泊します。

 

その日は海が大時化で漁ができず、困り果てた
女将のみちは打ち首覚悟で禁制のふぐをお膳に……。

 

伊藤博文は、すでにふぐを食した経験がありましたが
あたかもその時初めてという顔で「こりゃ美味い」と賞賛します。

 

そして翌年、山口県令(知事)に命じて禁を解かせ
「春帆楼」はふぐ料理公許第一号となりました。

 

 

daa4bb27下関の前田砲台を占拠したフランス陸戦隊
(写真/「面白きこともなき世を面白く」

 

 

 

下関戦争

1853年6月3日にアメリカ海軍提督ペリーが浦賀に来航、
翌年の日米和親条約締結、と日本は開国への道を歩み出します。
そしてそれは尊王攘夷の討幕運動へと進むことでもありました。

 

開国以来、攘夷運動の気運のたかまる長州藩は
下関海峡を渡る米国商船を砲撃しましたが翌月、アメリカ・
イギリス軍艦から報復攻撃を受けてあえなく敗退。

 

翌年には米、仏にイギリス、オランダも加わった四カ国連合軍から
砲撃を受けて、長州藩はわずか1時間で壊滅状態となります。

 

その後、下関戦争の講和会議がもたれましたが
正史に抜擢されたのが高杉晋作、副史が杉孫七郎、
そして通史(通訳)が伊藤博文という面々でした。

 

 

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左が高杉晋作、右が伊藤俊輔(博文)
(写真/「面白きこともなき世を面白く」)

 

 

 

日清講和条約会議の舞台にも

そして時代は明治に変わり1896(明治28)年4月17日、
「春帆楼」は日清講和条約締結の会議の場として選ばれています。
全権大使としてこの条約の締結に尽力したのは伊藤博文。

 

その後、1937(昭和12)年に、日清講和会議を後世に伝えるために
下関「春帆楼」の隣りに日清講和記念館がつくられました。
講和会議が行われた部屋を当時の調度のまま再現してあるそうです。

 

伊藤博文とともに下関戦争の講和会議の副史として活躍した
杉孫七郎は、討幕運動に獅子奮迅の働きをした後、
明治政府の高官として千代田区の平河町に居を構えました。

 

現在「春帆楼」東京店のある場所は、明治大正期に活躍した
山口県出身の政治家、杉孫七郎の屋敷跡だということです。

 

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