「WASHOKU 蒼天 SOUTEN」ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

「ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町」
メインダイニング「蒼天」

記事にするのがちょっと遅れてしまいましたが
今年のお正月は、昨年7月末にオープンした紀尾井町
ガーデンテラスにある「蒼天」に行ってきました。

 

正式名称は「WASHOKU 蒼天 SOUTEN」という
ようですが、紀尾井町ガーデンテラス内にある
「ザ・ブリンスギャラリー東京紀尾井町」
の35階にあるメインダイニングです。

 

(「ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町」
 〒102-8585 千代田区紀尾井町1-2
  03-3234-1111)

 

「ザ・ブリンスギャラリー東京紀尾井町」
のエントランスホールは36階。

 

東京ミッドタウンにある「ザ・リッツ・カールトン
東京」もそうですが、タワーホテルは
エントランスホールもかなり上にありますね。

 

 

赤坂プリンスホテル(2011年3月31日)

 

 

 

2011年3月31日 赤坂プリンスホテル閉館

「ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町」が
建つ前にこの場所にあった、赤坂プリンスホテルは
2011年3月31日に閉館しています。
(「『ポトマック』最後の日『赤坂プリンスホテル』」)

 

桜にけるむ赤プリ最後の日の終了時間が迫る頃、
赤坂プリンスホテルの閉館を惜しむかのように
静かな雨が少しだけ落ちてきたのが印象的でした。

 

営業終了後の赤プリは、福島の被災者受け入れ
などを経て、解体作業に入りましたが、その工法は
日本で2例目という「テコレップシステム」と
呼ばれる解体方法でした。

 

 

 

静かにゆっくりと解体した赤プリ

騒音や、粉塵を抑えることができる「テコレップ
システム」は、10日毎に2階分の高さ・6.4メートル
ずつ解体して低くなっていく方法で、毎日見ていると
赤プリが小さくなっているのがわからなかったほどです。

 

しかも、解体された廃材をクレーンで下ろす
エネルギーにより発電し、照明などの電力も
まかなっているというスグレモノでもありました。

 

赤プリがだんだん小さくなっている様子が
次の3枚写真でお分かりいただけますでしょうか。

 

 

赤坂プリンスホテルの解体(2012年8月)

赤プリ、見えなくなっちゃいました……

 

 

 

「ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町」建設

こうして時間をかけて解体された赤プリ跡地は
今度は、新たに生まれ変わるための工事に入りました。

 

赤プリ跡地のタウンネーミングが
「東京ガーデンテラス紀尾井町」に決定したのは
2015年4月、ホテルの名称が
「ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町」と
発表されたのが、2016年1月21日のこと。

 

次の写真は「ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町」
建設途中のもので、右に少しだけ見えるのが
赤坂エクセルホテル東急、
真ん中手前が、赤坂見附駅の出口です。

 

 

「ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町」建設途中
右は「赤坂エクセルホテル東急」

 

こちらの写真の左端の建物は「ホテルニューオータニ」

 

 

 

2016年7月27日「ザ・プリンスギャラリー
東京紀尾井町」オープン

そして、赤プリンスホテル解体後、5年の時を経て
完成した「ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町」
のオープンは昨年7月27日。

 

私は今回が初めての訪問ですが
写真を撮り忘れてしまいましたので、
「ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町」からの
眺めは、ホテルのサイトから拝借しましょう。

 

右上の方にちょっと高く見えるのが「六本木ヒルズ」、
そのまま左に寄ると「東京タワー」、東京タワーの左に
付くように建って見えるのは「プルデンシャルタワー」
で手前で大きく交差している付近が赤坂見附。

 

 

「ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町」からの眺め
(「The Prince Gallery   Tokyo Kioicho」)

 

 

あたりまえですが、同じ敷地に建っている
とはいえ、赤坂プリンスホテルの眺めと
はかなり違った感じに見えます。

 

 

 

スカイツリーがお出迎え

「ザ・プリンスギャラリー紀尾井町」36階の
エントランスホールから、1階だけ降りて
「WASHOKU 蒼天 SOUTEN」に入った瞬間に
正面にスカイツリーが見えました。

 

赤プリからはスカイツリーは見えなかったものね、
というのは当然で、スカイツリーができたのは
2012年5月22日でしたから。

 

街がこんなにも急速に変化してしまうとは
何とも浦島たろ子状態です。

 

上の図ではちょうど切れてしまっているのですが
この左に同じような建物が3つ並んで見えたので
大きなマンションでも建ったのかな?、
と思ったら議員会館でした。
(衆議院第一、衆議院第二、参議院)

 

この3つの建物の左側に国会議事堂が見えて
初めて議員会館とわかった次第です。
いつも見上げている国会議事堂が
小さく見えたのに驚きました。

 

 

 前菜「青菜のポン酢お浸し」
「生ハムとタラの芽黄味揚げ」「トリュフムース」

 

 

 

料理長・高橋賢の思い

「WASHOKU 蒼天 SOUTEN」という名前 が示す通り
「ザ・プリンスギャラリー東京紀尾井町」のメイン
ダイニングはフレンチではなく和食。
とはいえお店の雰囲気は、和食和食してはいません。

 

それもそのはず、サイトによりますとこのお店が
目指しているのは「和食でありながら、その
カテゴリーに収まり切れない、進化する“WASHOKU”」
を提供する「コンテンポラリー空間」なのです。

 

料理長の高橋賢は、従来の和食では使用しない食材や
調味料により、新しい妙なるバランスを生み出し、
「今まで味わったことのない、“初めて”の感動と心に
響く美味しさをお届けしたい」と願っているとか。

 

 

お椀 「海老芋コンソメスープ」

 

 

高橋料理長のいきごみは、このお椀でも
確かに感じられるものでした。

 

一見、普通のお椀のようにも見えますが
実はこれは「海老芋のコンソメスープ」
(鱈場蟹、菜の花、クルトン、酢立、三ッ葉)です。

 

そう、コンソメなのです。
ですがもちろんベースには、和風だしがしっかり
きいていますので、そこはそれ和風ではありますが。

 

この他にも先ほどの前菜の「トリュフムース」とか
デザートの「干し柿とチーズのタルト」等々、
随所に工夫が垣間見えます。

 

 

 

器も「和モダン」

お店の雰囲気とともに、使っている
食器もまさにそのような感じでした。

 

特にご飯とお味噌汁が入った器など「和モダン」
とでもいいたいようなおしゃれなもの。

 

(写真がなくて申し訳ありません、一緒に行った
お友達が送ってくれるはずだったのですが……、
と完全に人頼みな私)

 

素敵な食器の中に1つだけ
少々過剰かなと思った器もありました。
それが次の写真のお造りを入れたものです。

 

 

お造り「お造り3種盛り合わせ」

 

 

趣向を凝らした飾りや見立てといったものは
和食頂く時の楽しみである一方、過ぎてしまうのは
やはり及ばざるが如しという気もします。

 

フレンチ等では経験がないのですが、和食はがんばり
過ぎてしまう感じのものが、時々ありますね。

 

お造りという生もの(いえ、生ものに限らず、例えば
揚げ物でも前菜であっても同じだと思われますが)に、
このような閉じられた感じの器は、少々息苦しくも
あり、ちょっと違うような気がしないでもありません。

 

もちろん、それらの感覚は個人差がありますので
あくまでも私の感じ方に過ぎませんが。

 

 

 

次回は、じっくり味わいに

今回、残念だったことは、私自身は充分に味わった
つもりなのですが、如何せん、おしゃべりをして
いて、味の記憶はちょっとぼやけ気味なこと。

 

1年ぶりに会ったお友達が、衝撃的な
話を聞かせてくれたりしたもので……。

 

そういえば、お料理をサービスしてくれる時に
「お楽しみ中、失礼しますが」というような言葉を
毎回、耳にしてような気もします。

 

そんなに夢中で、おしゃべりをしていたかなぁ?
(↑無自覚!)

 

ということで今度こそ、高橋料理長の腕を充分に
味わうために是非、もう1度行ってみたいと思います。

 

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お饅頭はいつ日本に入ってきたのか? 初めてお饅頭を作った「虎屋」と「塩瀬」

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中国からきた「おまんじゅう」

いつも私たちが美味しくいただいているおまんじゅう。
「あぷりのお茶会赤坂・麻布・六本木」でも「和菓子」
のカテゴリーに入れていますが
おまんじゅうは中国からきたものです。

 

おまんじゅうは中国生まれの「饅頭(マントウ)」が
日本でお菓子として変身したのですが、「饅頭」が
日本に入ってきた時期については現在のところ
2つの説があるようです。

 

1241年説と1349年説の二つですが、その1349年説
の方が現在の「塩瀬総本家」の初代が、日本で
初めておまんじゅうを作ったといわれるものです。

 

 

青山通りに面していた虎屋ビル(2015年10月まで)

 

 

 

日本におまんじゅうが入ってきた年
その1 1241年説「虎屋」

鎌倉時代の僧の円爾(えんに、1202年11月1日〜
1280年11月10日)が南宋から日本に帰ってきた後に
おまんじゅうの作り方を日本人に伝えたというのが
日本におまんじゅうが入ってきたとされる一番古い説。

 

1235(嘉禎元)年に宋に渡った円爾(
聖一国師)は、1241(仁治2)年に帰国した際、
福岡の博多に上陸しました。

 

現在の博多駅前にあたる辻堂付近で、円爾はいつも
お世話になっているお礼として、茶屋の主人・
栗波吉右衛門におまんじゅうの作り方を伝授します。

 

 

虎屋に伝わっている「御饅頭所」と
書かれた看板(写真/「虎屋」)

 

 

 

赤坂「虎屋」に伝わる看板

この時に円爾が、茶屋の主人に書いて与えた
という「御饅頭所」という看板が、現在
赤坂にある「虎屋」に伝わっています。

 

(「虎屋」
本店は建て替え工事のため
2015年10月7日から休業中
2018年にリニューアルオーオープンの予定
〒107-0052 東京都港区赤坂4丁目9-22

 

「東京ミッドタウン店」
〒107-0052 港区赤坂9丁目7-4  D-B 117
東京ミッドタウン  ガレリア地下1階
Tel.03-7544-6101

 

「東急プラザ赤坂店」
千代田区永田町2丁目14-3 東急ブラザ赤坂2階
Tel.050-6457-9784)

 

 

2015年10月まで営業していた「虎屋」の本店

 

 

この時のおまんじゅうは米麹を使った酒饅頭
だったそうですが、吉右衛門の茶店の屋号から
「虎屋饅頭」とも呼ばれていました。

 

とはいえ吉右衛門の茶店の屋号が「虎屋」だった
ことが現在、赤坂にある「虎屋」の名前に
つながったのかといえば、そうではないよう。

 

「虎屋」のサイトには、「吉右衛門の店と当社
との関係は不明」と記されています。

 

 

赤坂「虎屋」の最中「御代の春」

 

 

 

「虎屋」独自の「虎屋饅頭(酒饅頭)」

円爾からつくり方を伝授されたという
おまんじゅうについては現在「虎屋」のサイト
では「酒饅頭  虎屋饅頭  御膳餡入」、
「初出年代  明治39年(1906)」となっています。

 

風味のある独特の酒の香りが楽しめる「虎屋饅頭」の
元種は、長い時間をかけてもち米と麹(こうじ)を使って
作られたもので生地作りは、前の夜から始まるのだとか。

 

ひとつひとつを丹精込め、手間暇かけて作られている
「虎屋饅頭」は、工夫を加え「虎屋」独自の酒饅頭
として代々受け継がれてきたものです。

 

本店(休業中)の他は一部の店舗でしか
手に入れることができません。

 

 

赤坂「虎屋」の「虎屋饅頭(酒饅頭)」
(写真/「虎屋」)

 

 

なお「虎屋饅頭」の皮が硬くなってしまった
時は、蒸し直して頂くのもよいようです。
ちょっと意外ですが、焼いてもまた美味しいのだとか。

 

子どもの頃、大福餅が硬くなった時には、母が焼いて
くれたこともありましたが、このようなふわふわ
おまんじゅうを焼くと、どのような味になるので
しょう?、ちょっと試してみたいですね。

 

 

虎屋「ルーブルの光・白」

 

 

 

日本におまんじゅうが入ってきた年 
その2 1349年説「塩瀬」

そしてもう一つの説といわれるのは
最初の説から1世紀ほど後のこと。

 

1349(南朝ー正平4、北朝ー貞和5)年に、中国から
来朝した林浄因(りんじょういん)が、奈良に住居
を定めおまんじゅうを作ったという説です。

 

この林浄因が現在の「塩瀬総本家」の初代となった人。
(「塩瀬総本家」 本店
〒104-0044 東京都中央区明石町7-14
 Tel.03-3541-0776)

 

浄因は、中国の「饅頭(マントウ)」の中身を
肉のかわりに、小豆を煮詰めて、甘葛の甘味と
塩味を加えた餡を入れることを考え出しました。

 

 

 

 

 

小豆餡入りのおまんじゅう誕生

その頃の日本にあった甘いもの、お菓子
といえばクルミや栗、干し柿、お餅に小豆の
呉汁をつけるお汁粉の元祖のようなもの位。

 

小麦粉をこねて蒸し、十字に切れ込みを入れた
「十字」や、中身のない菜饅頭(なまんじゅう)の
ようなものはあったようですが、現在にある
小豆餡入りのおまんじゅうはありませんでした。

 

浄因の作ったおまんじゅうは、日本人の評判を呼びます。
発酵した皮の香りとふわふわの
歯ごたえに、ほのかな甘みの小豆あん。

 

豆類を多く食し、小豆好きの
日本人にとっては画期的なものでした。

 

 

「塩瀬」の元祖 林浄因(りんじょういん)
(肖像図/「塩瀬総本家」)

 

 

 

お祝い事に紅白饅頭

浄因は、おまんじゅうを後村上天皇
(1328〜1368)に献上します。
天皇は大変喜ばれ、浄因に官女を賜ったといいます。

 

当時は一商人が官女を下賜(!)されるという
ことは特別な栄誉だそうで、結婚に際し
浄因は、紅白饅頭を諸方に配りました。

 

これが現在のお祝い事に際し
紅白饅頭を配る習慣の始まりだそうです。

 

 

 

 

浄因はその後、中国に戻ったということですが
子孫は残り、幾代か経たあとの店主・紹絆の時代のこと。
紹絆は中国の宮廷菓子を学ぶために中国に渡ります。

 

帰国した紹絆は、山芋をこねて作る
おまんじゅうを売り出しました。

 

これが今も「塩瀬総本家」の看板商品の一つで
ある、「薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)」
の元となったおまんじゅうです。

 

 

一口薯蕷饅頭「塩瀬総本家」

 

 

 

「塩瀬」の屋号は三河塩瀬村から

以来、その子孫は饅頭屋と称し京都に移りましたが
応仁の乱(1467〜1478年)の戦火を逃れて、
三河国設楽郡塩瀬村(現在の愛知県新城市)に行き
後に城主の娘を妻に迎えることになります。

 

その折、塩瀬姓を受けて「塩瀬」を
屋号とすることになりました。

 

東山文化が栄え始めた頃、再び京都に戻った
「塩瀬」は引きも切らぬほどの賑わいで
お店の所在地は「饅頭屋町」と呼ばれるほどの大繁盛。

 

室町幕府の8代将軍・足利義政(1435〜1490)
からは、「日本   第一番   本饅頭所   塩瀬」との
看板を授かったり、時の帝・後土御門天皇
からは、「五七桐」の家紋も拝領しています。

 

「塩瀬」はその後も天皇や、豊臣秀吉、徳川家康
などの権力者の寵愛を受け、塩瀬宗味が千利休の
孫娘を妻としたこともあり、おまんじゅうは
茶菓子として洗練を増してゆきました。

 

 

「塩瀬総本家」の看板(写真/「塩瀬総本家」)
桐の紋と共に「日本   第一番   本饅頭所   塩瀬」の文字

 

 

 

京都から江戸へ

徳川家康が関ヶ原の戦いを制し、江戸に築城するにあたり
京都の「塩瀬」は家康に従い、江戸に移ることになります。

 

皮が薄くて柔らかい「塩瀬」の
おまんじゅうは江戸っ子にも大評判。

 

江戸での繁盛ぶりは『紫の一本』(1674年)、
『元禄江戸名物』(1688年)、『江戸名物詩選』
(1836 年)などに記されています。

 

 

 

 

そして明治初年、「塩瀬総本家」は
宮内庁御用達となりました。
創業660年を誇る「塩瀬」の35代目の
現在の店主は川島一世さん。

 

35代店主の母親である川島英子さんは
34代目の店主だった方で、90歳を過ぎた今も
元気でお仕事をしていらっしゃるそうです。

 

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赤坂の「南部坂」の後にできた麻布の「南部坂」 麻布の坂2

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160602arisugawakoen

 

 

「有栖川公園」「南部坂」「ナショナル麻布」

前回は有栖川公園を、その前の回は有栖川公園
と、道を隔てた反対側にある、ナショナル麻布
スーパーマーケット
を御覧いただきました。

 

今日は、その有栖川公園とナショナル麻布スーパー
マーケットの間にある「南部坂」を御紹介しましょう。

 

次の地図で黄緑色の三角形が有栖川公園で
ナショナル麻布()との間を通っている
ピンク色が「南部坂」です。

 

 

arisugawa中央左の三角形の黄緑色が「有栖川公園」(地図/Mapionnに加筆)
が「ナショナル麻布スーパーマーケット」
その中間に通っている道が「南部坂」

 

 

有栖川公園は南麻布5丁目にあり
ナショナル麻布は南麻布4丁目。

 

また有栖川公園の地形は東側(地図でいうと右側)
が高く、西に向かって低くなっています。

 

ということは地図の上下左右ででいいますと
「南部坂」の右の方が高くて、左は低地、
「南部坂」の上は南麻布5丁目で
下は4丁目ということになります。

 

 

 

「南部坂」の下から上を見る

次の写真は、有栖川公園の入口あたりから
「南部坂」を少しのぼり、坂の上の方を撮った写真です。

 

 

160602nanbuzaka「南部坂」の左側は有栖川公園

 

 

この写真ですと、あまり坂の高低差がわかりにくく
平地のような感じがしてしまいますが、実際は結構
上り坂になっていて、勾配は7パーセントということ。

 

「南部坂」の左に見えるのは、有栖川公園の木々。
写真を撮った時は、びわがたくさんなっていましたよ。

 

 

 

「南部坂」の上から下を見る

それでは次は、今の写真とは反対に
坂の上から見てみましょう。

 

写真では面白くないので、奥村土牛の絵画。
季節も今とは反対のようで
木々の葉が全て落ちていますね。

 

 

okumuratogyu奥村土牛『麻布南部坂』

 

 

タイトルは『麻布南部坂』。
「南部坂」は赤坂にもあるので
ちゃんと「麻布」が入っていますね。

 

奥村土牛は、1889(明治22)年に生まれ、
1990(平成2)年に101歳で亡くなった画家ですが
『麻布南部坂』は大正期に描かれた初期の作品とのこと。

 

個人の所有であまり展覧会にはでないようですが
今年3月から5月にかけて開催された、東京・渋谷
の「山種美術館」での「奥村土牛展」に16年ぶり
で公開されました。(「サライ」2016.3.17)

 

 

 

標識の断り書

港区が設置した「南部坂」の標識には
このように書かれています。
(影になって見づらくてごめんなさい)

 

 

160602nanbuzakaazabu「南部坂」(麻布)の標識

 

 

「有栖川宮記念公園の場所が、赤坂からうつって
きた盛岡城主南部家の屋敷があったため
名づけられた。(忠臣蔵の南部坂は赤坂)」

 

「南部坂」といえば、やはり多くの人には
「南部坂雪の別れ」の『忠臣蔵』がすぐに
思い起こされるのでしょう。

 

そこであらかじめ「こちらはあの『南部坂』では
ありませんのでお間違いないように」という感じで
書かれているのが、ちょっとおかしいですね。

 

 

 

有栖川公園の反対側にはドイツ大使館

先ほどの「南部坂」の下から上を撮った写真
ですが、この写真の少し手前の右側には
ドイツ大使館があります。

 

 

160602nanbuzaka「南部坂」の左側は有栖川公園、右はドイツ大使館

 

 

地図でいいますと三角形の黄緑色が「有栖川公園」で

オレンジ色の()が
 「ナショナル麻布スーパーマーケット」、

その右側緑色の()が
 「ドイツ大使館」になります。

 

 

arisugawa「南部坂」周辺の地図(Mapionに加筆)

 

 

ドイツ大使館()の写真がこちらです。

 

 

「南部坂」に面しているドイツ大使館
左に見えるのが「南部坂」

 

 

右の方が入口になりますが
左は坂になっているのがわかりますね。
坂に面した壁には、かつてドイツが東西に分かれていた
ことや、ベルリンの壁などについて書かれています。

 

 

「南部坂」に面した壁面にはドイツに関することを提示

 

 

はからずもということなのでしょうが
壁面展示が「南部坂」の坂で斜めになっているのが
なんとなくお洒落に見えるような気もします。

 

 

 

赤坂の「南部坂」

ちなみに赤坂の「南部坂」はこんな感じの坂です。
「忠臣蔵の『南部坂雪の別れ』は
フィクション 赤坂の坂10」

 

右側の高台はアメリカ大使館宿舎で、正面の高い建物は
アークヒルズにあるANAインターコンチネンタルホテル。

 

 

151212nanbuzakaueこちらは赤坂の「南部坂」

 

 

ほぼ同じ場所の夜の写真がこちら。

 

 

151209nanbuzaka赤坂の「南部坂」(夜)

 

 

当然といえば当然ですが、
赤坂と麻布の「南部坂」は全く雰囲気が違いますね。

 

違いといえば、麻布の「南部坂」は、名前の由来
となった南部家(有栖川公園)に隣接しているのに
対して、赤坂の「南部坂」は南部家の近くということ
ではありますが、隣接していたわけではありません。

 

赤坂の南部家下屋敷があった場所と、「南部坂」は
100メートル以上離れていたということです。

 

 

nanbuzaka2上の右にある 南部家→浅野家 ピンク色が赤坂「南部坂」
下の左にある 浅野家→南部家 ピンク色麻布が「南部坂」
              (地図/Mapionに加筆)

 

 

地図の右上あたりにある()が、最初は南部家で
後に浅野家の下屋敷になった場所で、そのそばに
あるピンク色の線が赤坂の「南部坂」です。

 

左下の有栖川公園()は、反対に浅野家・下屋敷
から南部家・下屋敷になった場所で、隣接している
ピンク色の線が麻布の「南部坂」。

 

そして現在の
赤坂の「南部坂」は
 アメリカ大使館宿舎に面していて、
麻布の「南部坂」は
 ドイツ大使館に隣接している、
というのも面白いといえば面白いでしょうか。

 

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