「古九谷」 前田家と鍋島家の繋がり

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次郎左衛門雛 加賀藩前田家「成巽閣」

 

 

 

古九谷と鍋島家の関係

今回は、前回の古九谷論争に関して
触れられなかった部分をご紹介します。
「古九谷論争『古九谷の真実に迫る』から」

 

九谷焼は、加賀藩とその支藩である大聖寺藩の
二つの前田家なくして語ることはできませんが、
実はそれに加えてもう一つの家が関わっていました。

 

それは日本初の磁器、有田焼をつくりだした
ともいうべき佐賀(肥前)藩の「鍋島家」です。

 

 

 

伊万里焼「色絵蓮池翡翠文皿」
江戸時代 17世紀中葉 径36.4㎝ 日本民藝館

 

 

 

「鍋島焼」「伊万里焼」「有田焼」

この3つの名称について、混乱があるといけません
ので、最初に言葉の説明を簡単にしてみましょう。
九州の有田で焼かれているものは有田焼と呼ばれます。

 

江戸時代、有田焼は伊万里津(港のこと)から出荷
されたので「伊万里焼」ともいうようになりました。
ということで「有田焼」=「伊万里焼」ですね。

 

また有田焼の中でも、鍋島藩が商品としてではなく
将軍家へ献上等のために、藩窯で独自に焼かせた
ものを指して「鍋島焼」といいます。

 

(ただし「鍋島焼」の名称は大正時代以降にできたもの
で当時、鍋島藩内では「大河内焼(おおかわちやき)」
「大河内御磁器」といわれていたといいます)

 

現在は鍋島藩窯はありませんが
鍋島焼という名称は残り焼かれています。
今回のお話は勿論、鍋島藩窯の鍋島焼のこと。

 

 

 

鍋島焼「色絵宝尽文皿 」
ロサンジェルス・カウンティ美術館

 

 

 

磁器づくりのきっかけは鍋島直茂から

日本で初めて焼かれた磁器の有田焼は、鍋島直茂が1592年
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、捕虜として連れてきた
朝鮮人陶工・李参平(鐘ケ江三平)がつくりました。

 

佐賀藩の鍋島藩窯は、1652〜1654年(承応年間)に
有田の岩谷河内(いわやごうち)に御用窯を作り、
1661〜1672年(寛文年間)に伊万里の
大川内山(おおかわちやま)に移転しています。

 

1651(慶安4)年6月に、徳川家光の内覧を受けた後、
鍋島焼が正式に献上されていますので、その時点では
もう実質、鍋島藩窯はできていたことになります。

 

 

 

鍋島焼「青磁染付桃文皿」
元禄(1688-1704年)
口径14.7cm 高3.7cm 高台径7.4cm

 

 

 

佐賀藩 初代・勝茂、2代・光茂

朝鮮出兵の際に朝鮮人陶工を連れ帰った鍋島直茂は
肥前佐賀の領主として鍋島家の基礎を築いた「藩祖」
とされており、初代藩主は、直茂の子・勝茂。
勝茂の正室は秀吉の養女で、側室は家康の養女です。

 

勝茂の子・忠直は20代の前半に亡くなったこと
から、2代藩主は、忠直の子・光茂が継ぎました。
光茂の正室は米沢藩2代藩主・上杉定勝娘の虎姫。

 

鍋島直茂(1538-1618) 朝鮮人陶工を連れてきた
1勝茂(1580-1657) 鍋島藩窯を作った
* 忠直(1613-1635)
2光茂(1632-1700)

 

 


鍋島焼「色絵野菜文皿」
江戸時代前期 出光美術館蔵

 

 

 

初代・勝茂の娘の子「虎」が、2代藩主・光茂の妻

佐賀藩初代藩主・勝茂の娘「市」は、出羽米沢藩・2代藩主
の上杉定勝に嫁ぎ、「徳」と「虎」という娘をもうけます。
定勝には、市が母親ではない「亀」という娘もいました。

 

 

 鍋島直茂(1538-1618)
     |
 1勝茂(1580-1657)
     |
      _______
     |      |   米沢藩2代藩主
  忠直(1613-1635) 市ーーーー上杉定勝ーー◯
     |        | |     |
     |              
     |
     |
 2光茂(1632-1700)ーー
            |
            |
       3綱茂(1652-1707)

 

 

市の娘「虎」は、2代藩主となった光茂とは
いとこにあたりますが、光茂に嫁いでいます。
鍋島家からきた母の実家へ戻ったかたちになりますね。

 

ここまででは前田家は登場していませんが、虎の姉・徳
と、妹・亀の二人が前田家に輿入れをしているのです。

 

しかも、大聖寺藩の初代と2代藩主という兄弟に、
徳と亀の姉妹が嫁いだということになります。
それでは次に、前田家をみてみましょう。

 

 

九谷焼「百合図平鉢」
石川県九谷焼美術館蔵

 

 

 

九谷焼の窯を作った前田家

加賀藩前田家の4代藩主までの系図は以下の
通りで、前田利家の子・利長が2代藩主です。

 

3代藩主は2代藩主の弟・利常が継いでいます。
別の弟の利孝は、支藩の七日市藩の初代藩主。

 

加賀藩3代藩主の子、光高が4代で、
その弟・利次が、支藩である富山藩初代、
別の弟・利治も、支藩の大聖寺藩の初代となっています。

 

 

      1前田利家加賀
          |
          |
  ________________________________________________ 
* |   |   |    |   |   |
2利長  利政  知好  3利常  1利孝 利貞
加賀)          (加賀) 七日市
             |
             |
      _______________
     |    |    |    |
    4光高  1利次  1利治  2利明
     (加賀)    富山  (大聖寺)(大聖寺
                    |
                   3利直
                  (大聖寺

 

 

濃いブルーで表示をした、「利治」が藩主の
大聖寺藩が、古九谷を焼いた窯を作りました。

 

この大聖寺藩は、1871(明治4)年の廃藩置県で
大聖寺県となるまで(後に金沢県に編入され、
石川県と改称)14代にわたり前田家が治めています。

 

上の図から、七日市藩と富山藩を除いて、
九谷焼に関わる大聖寺藩と加賀藩のみ
を抜き出してみると下のようになります。

 

 

     1前田利家
       |
     ___________________
   |       |
   2利長    3利常 
           |
       __________
     |    |    |
    4光高  1利治  2利明
               |
              3利直

 

 

加賀藩の3代藩主・利常の子・利治が大聖寺藩の
初代となり、利治に子どもがなかったことから
2代は、利治の弟・利明が継ぎました。

 

 

 

九谷焼「莢豆図甲鉢(さやまめずかぶとばち)」
口径 18.9cm 底径 7.9cm 高さ 10.2cm
石川県九谷美術館蔵

 

 

 

加賀藩・利常の支援により大聖寺藩がつくった九谷焼

九谷焼の初期の作品、現在「古九谷」と呼ばれ
ているものが焼かれていたのは、大聖寺藩の
初代・利治と、2代・利明の兄弟の時代にあたります。

 

父である加賀3代藩主・利常の支援によって
利治、利明兄弟が関わったことになりますが
50年後に突然、窯は閉鎖。

 

その理由は不明ですが、大聖寺藩・2代藩主の利明の
死が影響したともいわれるほどで、加賀藩主の父と、
子の大聖寺藩主の利治、利明の強い関わりが伺えます。

 

 

 

「雛人形」次郎左衛門雛 佐賀藩鍋島家「徴古館」

 

 

 

「鍋島家」の二人の孫娘は「前田家」へ

古九谷の窯をつくった大聖寺藩の二人の
藩主に嫁いだのが、上杉定勝の娘でした。

 

初代藩主・利治の妻には「徳」、
2代藩主・利明には「亀」と。

 

家系図というのは、なんとも分かりづらいもの
ではありますが、前田家と鍋島家を並べて
書いてみました(余計、わからない?)。

 

 

 1前田利家
    |
    _______________
  * |      |
  2利長   3利常   
*        |
    ____________________________
*  |   |(大聖寺藩) |(大聖寺藩)
* 4光高  1利治ーー  2利明ーー
 

           
                          

 鍋島直茂             
  |                 
 1勝茂              
  |               
  忠直ーーー 市ーーーーーー上杉定勝ーー◯
  |         |  |       |
  |                  
** 
  |         
 2光茂ーー虎    

 

 

 


「雛人形」次郎左衛門雛  預玄院所縁(よげんいん)「成巽閣」
上の写真は「鍋島家」の、こちらは「前田家」のお雛様です

 

 

 

3姉妹の2人は「前田家」、1人は「鍋島家」へ

これを上杉定勝からみてみますと、娘の
徳の夫が、前田利治(大聖寺藩・初代藩主)
虎の夫が、鍋島光茂(佐賀藩・2代藩主)
亀の夫が、前田利明(大聖寺藩・2代藩主)となります。

 

 

* 鍋島勝茂の娘
  市ーーーーーーーー上杉定勝ーーーーーー◯
   |      |      |
   徳ー前田利治 虎ー鍋島光茂 亀ー前田利明

 

 

鍋島光茂からいいますと
前田利治(大聖寺藩・初代藩主)は、妻の姉の夫、
前田利明(大聖寺藩・2代藩主)は、妻の妹の夫、
ということ。

 

上杉家を間に挟んで、鍋島家と前田家の
深い繋がりが生まれることになったのです。

 

 

佐賀藩鍋島家の家紋「杏葉」

 

 

 

鍋島家と前田家と、それぞれの焼物

もっとも両家の親しい関係は、この婚姻によって
生じたというよりは、それ以前からの近い関係がこれら
の婚姻を成り立たせたという方が正確かもしれません。

 

加賀藩・2代藩主の利長の後を、利常が継ぎ
徳川秀忠の娘・珠姫を迎える際にも、前田利長は
慶事に必要な唐物を、鍋島勝茂に依頼しています。

 

前田利長とその子・利常が、鍋島勝茂と親交があった
事実に加え、複数の婚姻によって結ばれた両家の繋がり。
それは、それぞれの焼物にも影響を与えたと
考える方が、むしろ自然に思えます。

 

 

 

古九谷「青手桜花散文平鉢」
石川県立美術館所蔵

 

 

 

スタートについた「古九谷論争」

これについて中矢進一(石川県九谷焼美術館副館長)氏
は「古九谷の真実に迫る」の中でこのように述べています。
多くの方も同じお考えと思われますので
これをご紹介して終わりましょう。

 

「それぞれを領する大名同士が姻戚関係にあった
 という歴史的事実、背景といったものを踏まえた
 上での論考というものが、必ずこれから以降は
 必要になってくるんだろうというふうに
 考えております」

「この問題は短兵急に結論を出す問題ではなくして
 両産地の、いわゆる交流のもとにそういった
 ものが生まれたんではないか、そしてこの加賀
 前田家という加賀文化を育んだ前田家を抜きに
 して、最高級品である古九谷の百花手だとかは
 (略)生まれてこなかったのではないかという
 指摘もされております。
 真の意味での古九谷、それは一体何か、
 これを探る作業が色々スタートしたんだ
 というふうにいえるのではないでしょうか」

 

     (参考 /「古九谷の真実に迫る」

 

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古九谷論争 「古九谷の真実に迫る」から

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古九谷「青手桜花散文平鉢」
石川県立美術館所蔵

 

 

「古九谷の真実に迫る」

「石川県の九谷焼の初期の古九谷は佐賀県の有田で
焼かれていた」という「古九谷論争」は、昭和20年代
に始まり現在に至るまで続いているようです。

 

有田と九谷双方での発掘調査により、古九谷は有田で
焼かれたもの、という説が有力になりました。

 

これに疑問を感じる人々の意見として今日は
「古九谷の真実に迫る」というサイトから
いくつかの視点をご紹介したいと思います。

 

 

 

有田焼(伊万里焼)
「色絵菊文輪花大皿」青手 1650年代

 

 

 

定説となっている「伊万里焼古九谷様式」

まずその前に、伊万里焼の流れを簡単に見てみますと、
朝鮮出兵の際に鍋島直茂が連れて来た朝鮮人陶工・李参平が
陶石を発見し、日本で初めて磁器を焼いたのが1610年頃。

 

最初は藍色のみで模様が描かれていたものに色が加わって
後に「鍋島」「柿右衛門」「古伊万里金襴手」と発展するの
ですが、問題は緑色の「初期色絵(古九谷)」の部分です。

 

古九谷は「有田焼の初期色絵」との位置付けになっていて
「伊万里焼古九谷様式」(「有田古九谷様式」ともいう)
研究者の間では定説なっているということなのですが。

 

 

1600年 _____________________

          初期伊万里

         初期色絵(古九谷)

1650年 _____________________

 大河内山  南川原山  内山・外山  武雄市など
  鍋島   柿右衛門    |      |
  |      |     |      |
  |       古 伊 万 里 金 蘭 手
1700年 _____________________

 

 

「古九谷の真実に迫る」は全部で10人の方との対談形式で
まとめられていますが、詳しくはサイトをご覧いただくと
しまして、私が面白いと思った点を箇条書きにしてみました。

 

 

 

「古九谷の真実に迫る」

1 意外なことに、古九谷論争は、有田と九谷の
 産地間の論争ではないということ

 

二羽 喜昭(『古九谷論争の真実』著者)

「ひとつおかしいのは、この古九谷論争って
 いうのは、石川県の産地と、有田の産地で
 争ったものじゃないんです。
 これはいわゆる、石川県と学会の対決というか、
 あるいは伊万里焼の研究者のグループとの対決
 と言ってもいいものだったんですよね」

 

 

初期伊万里「染付山水図大鉢」江戸時代
重要文化財 (写真/「文化遺産オンライン」)

 

 

 

2 最初から「古九谷は全て有田焼であった」との
 結論ありきで行われた学会だったとの指摘

 

二羽 喜昭(『古九谷論争の真実』著者)

「1991(平成3)年に九州の陶磁文化会館で
 学会が2日間にわたって行われたんですけど、
 これはもうすでに古九谷を伊万里焼にする
 という前提のもとで華々しく行われたんです」

 

 

伊万里焼「色絵蓮池翡翠文皿」
江戸時代 17世紀中葉

 

 

 

3 有田の登り窯で色絵磁器の破片が発見された
 ことから古九谷=有田になったそうですが
 そもそも九谷焼の絵付けは登り窯では焼かない

 

二羽 喜昭(『古九谷論争の真実』著者)

「実はあの色絵というのは登り窯で焼くというのは
 あり得ないんですね。(略)九谷焼の特徴の上絵
 というのは登り窯で焼かないんですね。
*  (略)伊万里でも上絵窯をやってきた人はたくさん
 おるわけですから、その人たちがその理論の中に
 加わっておれば、決して、今問題になっておる、
 伊万里焼古九谷論争っていうのは生まれなかった
 だろう。
 というのは、実体験の人がおいでるわけですから、
 そんなあんた、登り窯で焼くのなんかおかしいん
 じゃないかと言ってストップかければそれで
 終わったはずですね。
 ところが、それがなかったばっかりに、これだけ
 エスカレートした。
 それで、なんか発言されている人たちの人選を見ても、
 色絵がわかったと言う人はおいでないんですね。
 だから、そういう支持に回ったんだろうと思います」

 

 

 

古伊万里「色絵荒磯文鉢」金襴手
江戸時代 18世紀 根津美術館蔵

 

 

 

4 放射化分析により、素地、絵付け共に
 九谷と証明されたものが存在する事実

 

北出 不二雄(元金沢美術工芸大学学長)

「(微量しか含まない元素を分析する、放射化分析
 という分析によって)九谷と伊万里との素地を
 判別することができるという話がありまして
 (東京理科大学の中井泉教授により)

 九谷であるということが分析の結果証明された」

 

 

 

鍋島焼「色絵野菜文皿」
江戸時代前期 出光美術館所蔵

 

 

 

5 有田焼の作家も、古九谷と認定された作品を見て
 「有田で焼かれたものではない」と言っている

 

徳田 八十吉(重要無形文化財い 人間国宝)

「有田焼の作家も言っているんですよ、はっきりと、
 最近古九谷と認定されているものの中に、どう考え
 ても有田でないものが入っていると、柿右衛門さん
 も、言っているし、井上萬二さんも言っている。
 だって彼らちゃんと見りゃ分かりますからね」

 

 

 

有田焼 柿右衛門様式「色絵花鳥文皿」

 

 

 

6 有田と九谷では描かれるもの、描き方が異なる

 

北出 不二雄(元金沢美術工芸大学学長)

「(古九谷の色絵の特色は)写実性の強い絵を描いておる。
 模様というよりは、絵を描いているというところが、
 非常に九谷の特色として大きなものだと。
 では柿右衛門はどうだといいますと、柿右衛門も確かに
 絵を描いております、たとえば岩に鳥が止まって、
 そこに花木が生えておって赤いきれいな花が咲いている、
 というような模様のあり方、一つのパターンとなった
 ものは全く柿右衛門様式といわれる、一つの独特の
 雰囲気といいますか、そういうものを持っておりますね。
 ところが九谷の場合(略)模様というのは、一つ一つ
 違う訳です。
 いかにも絵画、その当時の絵画からとってきたような
 模様が描かれておる。
 時代に応じていくらか違ってくるけれども、そういう
 模様構成のあり方というものは、九谷独特のものが
 あるというふうに思っております」

 

 

 

「青い桜」と呼ばれる古九谷「青手桜花散文平鉢」
石川県立美術館所蔵

 

 

 

7 古九谷は一枚一枚が絵画

 

高田 宏(石川県九谷焼美術館館長)

「(有田焼は)もっと様式化されたもの、そして
 従来の周辺にある美意識と深くつながっている。
* 『青い桜』は伊万里の伝統美意識の中に生まれて
 くるはずがない、またそういうものをあれも
 初期伊万里とか伊万里の古九谷様式だとか
 言おうとするのは、言うも愚かなばかばかし
 すぎて、論争する気にもならない。
 たとえばピカソとゴッホが違うということすら
 分からないような意識でしかないんじゃないか
 という、そういう気がしますね、
 だから古九谷とりわけ九谷焼全体の中で、
 古九谷しかも青手古九谷は、ぼくはこれは
 すぐれて絵画だと思いますね。
 たまたま、描く場所が磁器の上だったわけで、
 作品の本質としては絵画作品だと思っています」

 

 

 

九谷焼 吉田屋窯「百合図平鉢」
石川県九谷焼美術館所蔵

 

 

 

8 有田で、1640年から20年間だけで消え不自然さ

 

二羽 喜昭(『古九谷論争の真実』著者)

「柿右衛門様式というのは、だいたい1660年から、
 ヨーロッパのほうへどんどん輸出されたんですね。
 ところが、その輸出されていくものの中に、
 いわゆる古九谷様式というものはないんです。(略)
 それでどうしてもその前に入れる必要があって
 入れたんだろうと。
 それから、そのいわゆる古九谷が制作された
 という期間ですけれども、1640年から1660年
 という20年の間なんですよね。
 で、この間にあのすばらしい古九谷が栄えて、
 途絶えて、そして新しい柿右衛門様式が生まれた、
 というのは、これはどうも説明がつかないことが
 ありますね」

 

 

    〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

なおここで、有田の初期色絵について、最初にあげたもの
とは異なり、初期色絵を「古九谷」と表示しないものが
陶磁器の本にありましたので、参考に載せておきます。

 

「有田焼の流れ」
           初期伊万里
          (17世紀前半)
             ↓   染付磁器
 初期色絵        ↓   色絵の誕生
(17世紀半ば)
   ↓       柿右衛門様式
   ↓       (1670〜90)
鍋島焼             ↓
 ↓               ↓   海外へ輸出
 ↓ 日本風の作風     金蘭手様式
 ↓ 拘った絵柄  (17世紀末〜18世紀)
 ↓ 精巧な作り        ↓
               有田焼
          (19世紀 明治以降)

(じゅわ樹「日本の陶磁器の鑑賞のコツ70」メイツ出版)

 

    〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 

 

9 加賀藩と大聖寺藩の前田家の大きな関わり

 

荒川 正明(出光美術館主任学芸員)

「加賀と大聖寺の前田家がおそらく、かなり関わりの
 中で作っていったのだと私も考えています。
 特に前田藩邸から出ました五彩手の最高クラスですね、
 百花手、幾何学手、九角手、そういったものがほかの
 大名家には出ておりません。
 おそらく前田家の注文のもとに作られた可能性が
 高いのではないかと思っております。
 そのような日本の陶芸史における金字塔と言われる
 ような古九谷という器を作らせていった前田家、
 その美意識と熱意には本当に驚くべきものがある
 かと思います。

 

 

 

      1前田利家加賀
          |
          |
  ________________________________________________ 
* |   |   |    |   |   |
2利長  利政  知好  3利常  利孝  利貞
加賀)          (加賀
             |
             |
       _______________
       |   |    |    |
      4光高  利次  1利治  2利明
      (加賀)    (大聖寺)(大聖寺
                     |
                    3利直
                   (大聖寺

 

    (利家の子・利孝は七日市支藩の初代藩主に、
     利常の子・利次は富山支藩の初代藩主になって
     いますが、煩雑なりますので記載していません)

 

 

 

まとめ

以上の事柄を簡単まとめてみますと
「そもそも九谷論争は九谷と有田の産地間ではなく
石川県と学会、伊万里焼の研究者のグループとの対決」
であり「最初から『古九谷は全て有田焼であった』
との結論ありきで行われた学会」。

 

産地間の争いでなかったからこそ
「有田の登り窯で色絵磁器の破片が発見された
ことから古九谷=有田になったものの、
そもそも九谷焼の絵付けは登り窯では焼かない」
という重要な視点も抜け落ちてしまった。

 

 

 

九谷焼 吉田屋窯「莢豆図甲鉢(さやまめずかぶとばち)」
石川県九谷美術館所蔵

 

 

 

「放射化分析により、素地、絵付け共に
九谷と証明された」ものが存在し、
「有田焼の作家も古九谷と認定された作品を見て
有田で焼かれたものではないと言っている」上に、

 

描かれた絵についても、中国磁器がお手本だった
伊万里の柿右衛門様式と、1つ1つが絵画のような
描き方をする古九谷とは根本的に異なっている。

 

しかも伊万里で1640年から1660年というわずか
20年間のみ作られただけで終わり、柿右衛門様式
へと変わっていったという流れはかなり不自然
ということになるでしょうか。

 

 

古九谷「青手土坡に牡丹図大平鉢
(あおてどはにぼたんずおおひらばち )」
石川県九谷美術館所蔵

 

 

九谷焼に関しては、加賀藩と大聖寺藩の前田家が深く
関わっていたことはよく知られていますが、実はそれ
のみならず鍋島藩との関係も重要だということです。

 

今日は長くなりすぎましたので、そちらは
次回にご紹介することにしましょう。

 

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九谷焼 その色と工程

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

古九谷「青手老松図平鉢」

 

 

 

九谷焼ができるまで

1 専用の土を作った後に成形して乾燥させる

 

2 素焼き(800度)

 

3 呉須(ごす 酸化コバルトを主成分とする青い顔料で
 焼成前は黒)を使って線描き(骨描き)をする

 

 

4 施釉(釉薬をかけると、表面がガラス質で覆われる)

 

5 本焼き(1300度)

 

6 絵の具を線描き(骨描き)の上に
 のせるように置いて上絵を描く

 

 

7 上絵窯(800度前後)で焼成
 すると絵の具が美しく発色する

 

 _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _

8 金彩、銀彩を施し錦窯(400度)で焼く

          (写真/「能美市九谷資料館」)

 

 

 

赤絵「赤地金襴手花唐草文鉢」
永樂和全作 明治4年(1871)

 

 

 

「赤絵(金襴手)」

赤い絵の具で器全体に「細描」と呼ばれる細かい
描き込みをしたものを「赤絵」と呼びます。
金彩が多いことも特徴の一つです。

 

上の写真(「赤地金襴手花唐草文鉢」)のように
赤で背景を塗り埋めた上に、金で絵付けをした
ものは「金襴手」といわれています。

 

職人の高い技術により出来上がる「細描」の
もっとも細いものは1ミリに3本描けるといいます
ので、その細さは想像を絶します(しかも筆書きで)。

 

 

 

赤絵の「細描」(写真/「NHK美の壷」)

 

 

 

赤絵は、1807(文化4)年に加賀藩が金沢で
築窯した「春日山窯」に京都から招かれた
青木木米の指導により作られ始めました。

 

その後、1832(天保3)年に開かれた「宮本屋窯」
の飯田屋八郎右衛門(いいだや はちろうえもん)
が細描の様式を確立したといわれています。

 

 

 

焼成による絵の具の変化

「6 上絵付け」に使う絵の具の焼成前と
焼成後の色がこちらの写真です。
左から「紺青」「紫」「緑」「黄」「赤」。

 

 

「群青」 ・ 「紫」 ・ 「緑」 ・ 「黄」 ・ 「赤」
(写真/「九谷 満月」)

 

 

焼成前のものは全てトーンが同じように見えて、私には
イメージが全く湧きませんが、専門家にはこの時点で
すでに出来上がりの色が見えているのでしょうね。

 

この五色を用いて作られる九谷焼を
「九谷五彩」あるいは「五彩手」と呼びます。

 

古九谷はこれらの色彩を駆使して動物や植物、風景
などを巧みな筆さばきで写実的に描写しています。

 

 

 

「青手」

この写真の古九谷「青手老松図平鉢」のように緑の
色絵の具を印象的に配したものは「青手」と呼ばれます。

 

 

古九谷「青手老松図平鉢(あおておいまつずひらばち)」
江戸(17世紀) 口径 42.8cm 底径 17.2cm  高 9.7cm
石川県立美術館所蔵

 

 

地紋に花小紋を埋めて紫と緑、黄の三色であしらい、
その上に豪快な老松をダイナミックに描き出したもの。

 

裏は(右の写真)、二段の波状渦形の雲文が描かれて
いますが、こちらを表にしたいほどの美しさです。

 

青手は、素地の余白を残さずに器全体に絵の具
を塗る、「塗り埋め」と呼ばれる方法で仕上げます。

 

上の「青手老松図平鉢」ですと地の色が黄色ですので
さほど塗り埋めを感じませんが、次のやはり古九谷の
「青手桜花散文平鉢」ですと、塗り埋めの迫力は圧倒的。

 

 

古九谷「青手桜花散文平鉢」
石川県立美術館所蔵

 

 

私自身はこの力があまりに強すぎて、思わず一歩下がって
しまうような感じでしたが、じっと見つめているうちに
真の迫力と美しさに気づくようになりました。

 

青手は古九谷をはじめ、再興九谷である「吉田屋窯」や
「松山窯」など、江戸時代の大聖寺藩領内を中心に数多く
作られ、九谷焼を代表する絵付けとして知られています。

 

 

 

たっぷりの絵の具が作るガラスの立体感

また「6 上絵付け」ですが、九谷焼の特徴として
絵の具の役割をする釉薬をたっぷりと、この写真の
ように線が見えなくなるほど盛り上がるように置きます。

 

 

(写真/「 NHK美の壷」)

 

 

すると焼成後にこの部分が色ガラスとなり
絵が透けて美しく立体的になるそうです。

 

私はこれを知って、九谷の個性的な色は単に色遣いだけに
あるのではなく、この厚塗りによる不思議な立体感が
独特の色合いを生み出しているのだと納得しました。

 

 

 

九谷焼のサイズ表示

九谷焼は「号数」で作品の大きさを表示しますが、
「1号が3センチ」で、5号は15センチ、8号では24センチ。
種類により図る場所がこの図のように決まっています。

 

 

九谷焼のサイズ表示(図/「九谷焼彩匠会」)

 

 

「3センチ」の基準がどこからきているのかは
わかりませんが、尺貫法で一尺の  1/10  の
一寸のことなのでしょうか?

 

一寸は「3,03センチ」ですので、ちょっと大きいですが。
いずれにせよ「大・中・小」などという規定より
はるかにわかりやすく便利ですね。

 

 

 

こちらは金沢主計町茶屋街にある「かーふコレクション 」
外は雪ですがこちらは街中、九谷の窯があったのは
これよりはるかに鄙びた寂しい場所だったでしょう
(写真/「かーふコレクション」)

 

 

 

雪国だからこそ生まれた鮮やかな色彩

九谷焼の五彩の中でも、鮮やかで力強い「緑」と「黄」で
作りあげる世界は、九谷焼ならではという気がします。

 

この2色について石川県九谷焼美術館副館長の中矢進一さんは
「植物の色ですよね。そういったものを想起させますよね」と、

 

九谷焼作家の武腰潤さんは
「雪国に育ったばかりに、色彩に飢えているということはあり
ました。南の方へ行けば色があるんじゃないかなと思って、
鹿児島へ出かけたことがあります」ともおっしゃいます。

 

 

 

九谷焼・吉田屋窯「莢豆図甲鉢(さやまめずかぶとばち)」
口径 18.9cm 底径 7.9cm 高さ 10.2cm 石川県九谷美術館所蔵

 

 

 

また、石川県九谷焼美術館の高田宏さんは、古九谷の再興
志し、吉田屋窯を開いた豊田伝右衛門(とよたでんえもん)
に思いを馳せてこのように述べています。

 

「一番大本にあるのは、やはり雪深くてそして雪解けに
なれば一気に春が、若葉が芽吹き、若草が生えてくる、
そして花が開いてくるといった。(略)
雪の深い世界というのは、そして深い雪の中で今度は精神的
にずうと集中している時間がある、そういうサイクルの中で
古九谷の名品は作られてきたと思うし、そして古九谷の
名品の中の真髄を吉田屋は受け継ごうとしたんだと思う」

 

日本の色絵磁器の中でも異彩を放つ独特な様式として知られる
九谷焼のその濃厚な色は、雪に閉ざされ全てが眠りについて
いるような色のない世界から生まれたものだったのですね。

 


 (参照/矢部良明監修「日本のやきもの史」美術出版社
 「 NHK・美の壷」「能美市九谷資料館」「九谷満月」)

 

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