オランダ東インド会社(V O C)

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独立戦争後にスペインが貿易禁止命令

現在はベルギーに属するアントワープの地に、イタリア
から陶工がやってきてマジョリカ焼を広めていた時、
オランダではスペインとの独立戦争が始まりました。

 

アルプス以北における最大規模の都市だったアントワープは
多くの外国商人が居住し、胡椒やシナモンなどを積んだポルト
ガル船が日々、荷を降ろすといった賑わいをみせていた港。

 

しかし独立戦争の騒乱を避けようとした陶工たちは、次第
に他の地に移って行き、マジョリカ焼の中心地はアント
ワープからハールレム、デルフトへ移ることになります。
「『デルフト焼』と日本の意外な関係」

 

 

A「アントワープ」→H「ハールレム」→D「デルフト」

 

 

 

戦争の結果、1581年にオランダはネーデルランド
連邦共和国となる独立宣言をしました.

 

一方、スペインは1585年、オランダとの貿易の
全面的禁止とオランダ船拿捕の命令を出します。
これはポルトガル船から拿捕されることをも意味します。

 

何故ならば当時のポルトガルは、1580年から
スペインのフェリペ2世を国王とする同君王国で
事実上スペインに併合されていたからです。

 

 

 

スペインとポルトガル船からの拿捕の危機

この結果、リスボンやアントワープに入港する
ことができなくなったオランの商人たちは
アジアの香辛料を手に入れる術をなくします。

 

オランダ人が、1602年と1604年にポルトガル船を拿捕し
積んでいた10万点あまりの中国磁器を奪った
「『デルフト焼』と日本の意外な関係」)との事実に

 

なんと手荒なことを!と驚きましたが
それはこのような理由があったから。
オランダ船は、アジアの海でボルトガル船に
対して、公然と海賊行為を行なっていたのです。

 

 

 

 

 

1596年、ジャワに到着

リスボンやアントワープに入港できず、またスペインと
ポルトガルに拿捕される危険性があったオランダ商人は
香辛料を直接手に入れることを考えます。

 

最初は北極海を抜ける北回りでアジアに行く
ことを試みましたが、あえなく失敗。

 

1596年に、希望峰周りでアジアに向かった4隻の船が
ポルトガル船に見つかることなくジャワに到着すると
続けとばかりアジア貿易を目指す会社ができはじめます。

 

 

 

 

 

 

各国にあった「東インド会社」

これらの会社が統合されて「東インド会社」になるの
ですが、東インド会社と名乗るものはオランダだけでは
なく、イギリスやデンマーク、フランス等にもあります。

 

「オランダ東インド会社」「イギリス東インド会社」
「デンマーク東インド会社」「フランス東インド会社」
というように。

 

「東インド会社」は西洋がアジアと貿易をするために
作った会社で、世界初の株式会社といわれています。

 

オランダ東インド会社が主に扱ったのが香辛料で、
イギリス東インド会社は綿織物でした。

 

 

 

 

 

 

「インド」とは「アジア方面」を指す

「東インド会社」という名前が紛らわしいのですが、
これはインドが作った会社でも、インドのみを貿易相手
とする会社でもなく、「インド」という言葉が指すのは
「アジア方面」という程度の意味です。

 

南北アメリカ大陸に挟まれたカリブ海にある群島に
「西インド諸島」がありますが、これはコロンブスがそこが
インドだと勘違いをしたことから名づけられたものですし、
アメリカ大陸の人々も「インディアン」と呼ばれましたしね。

 

というわけで東インド会社の「インド」も、コロンブス
のアバウトすぎる間違えからきた名称だと思われ、それは
「地中海から東の方」や「アジア」を意味しています。

 

 

 

シナモン(桂皮)スティック

 

 

 

「西インド会社」は「アメリカ方面」

オランダの東インド会社は、希望峰からマゼラン海峡まで
のアジア地域の商業活動を行う特許を持っていました。

 

ちなみに「西インド会社」もありましたが
この場合の「西インド」とはアメリカ大陸のこと。
超ヨーロッパ中心主義ですね。

 

とはいえこの理由は差別意識ではなく無知からきたもの。
あとで勘違いに気づいた後も、名称として定着して
いたために変更しなかったのかもしれません。

 

 

 

シナモン(桂皮)の木

 

 

 

1602年設立の「V・O・C」

当時は、アジアと貿易をしよう思ってもリスクが一杯でした。
嵐などの天候の問題や、海賊の心配もあります。
そして何より莫大な資金も要します。

 

そのため出資者を募って、その資金で貿易をしようと
考えましたが、同じような考えからいくつもの会社が
しのぎを削って競争するというのもまた問題があります。

 

ということで政府から貿易をする独占権を得ることになり
オランダは1602年、貿易政策としていくつかの会社を
統合して「東インド会社」としました。

 

東インド会社の正式名は「連合東インド会社
(Vereenighde OostIndische Compagnie)」。
略称を「V O C」です。

 

 

 

セイロンシナモン(桂皮) スティックとパウダー

 

 

 

「17人会」

正式な本社はありませんでしたがアムステルダム、ホールン、
エンクハイゼン、デルフト、ロッテルダム、ゼーラントの
6支社から構成され、アムステルダム支社の出資額が最も
多かったことから事実上、本社の役割を果たしました。

 

大口出資者の76名が重役となって、そのうちの
17人で取締役会を作り、会社の経営方針をを決定。

 

17人会には、条約締結や戦争の遂行、要塞の構築、
貨幣の鋳造などの権限が与えられています。

 

 

 

 

 

 

植民地経営会社

と何やら物騒な権限が並んでいますが、海賊及び他国の
妨害も考えられることから、会社とはいえ「軍隊」
も持ち、必要とあらば戦争も厭いませんでした。

 

またその際に、いちいち本国に問い合わせるのも
大変ですので「外交交渉権」をも併せ持ち
その上、現地の統治も任されています。

 

つまり東インド会社とは、貿易商社というよりは
「植民地経営会社」だったというのが実態です。

 

 

 

 

 

 

日本との貿易を独占

希望峰からマゼラン海峡までの貿易独占権を得て
1619年には現在のジャカルタであるジャワ島の
バタヴィアに東インド総督の拠点を置きました。

 

ポルトガルやイギリスを抑えて、東南アジアの香辛料
貿易に成功し、台湾、スリランカ、マラッカなども占領。

 

1609年からは日本の平戸に商館を置き、生糸や銀を
中心として交易も行ない、1639年以降はヨーロッパ諸国
の中では唯一、日本との貿易を独占することになります。

 

 

 

「染付芙蓉手大皿」江戸時代 伊万里焼
高さ6.4cm 径39.5cm 神戸市立博物館所蔵
(写真/「文化遺産オンライン」)

 

 

 

東インド会社の注文品

上の写真は、有田の伊万里焼で作られた芙蓉手の
お皿ですが、中心に「V」と、さらにその左右に
「O」と「C」がデザインされています。

 

これはオランダ東インド会社(V O C)の注文
によって作られたものと考えられています。

 

それまで磁器生産の中心だった中国が内乱で輸出禁止に
なったことから、それに代わるものとして有田で作られ
るようになったのがこのようなお皿だということです。

 

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「メディチ磁器」マイセンより100年以上前にイタリアに誕生した幻の磁器

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「この世の至高の什宝」

マルコ・ポーロがその著書「東方見聞録」の中で
初めて中国磁器を紹介すると、中国磁器は
ヨーロッパの王侯貴族の憧れの的となりました。

 

磁器に魅せられた人々は中国磁器を
「ホワイト・ゴールド」「この世の至高の什宝」
とまで讃えられるようになったのです。

 

そして当然のことながら、ヨーロッパの人々も
この透き通るように美しい肌を持った磁器を、自らの手で
作ることができないだろうかと考えるようになりました。

 

 

「マジョリカ焼」

 

 

 

イタリアで磁器作りに挑戦

ヨーロッパで最初に磁器製造に成功したのは1709年、
マイセンのベトガーでしたが、それ以前のルネッサンス期
のイタリアでも磁器製造に取り組んだことがありました。

 

しかしこれは残念ながら成功することなく終わります。
叶わなかった磁器製造のかわりでもあるかのように
イタリアではマジョリカ陶器」が発展しました。

 

15世紀にギリシャの東ローマ帝国がオスマントルコ
によって滅ぼされると、イタリア半島では
フィレンツェを中心にルネサンスが訪れます。

 

 

「デルフト焼」

 

 

東方から科学技術が流入し、アフリカからは金が、
アメリカ大陸からは金に続いて銀がもたらされる
ようになっていたフィレンツェ。

 

そこに1000年以上前に古代ペルシャで作られスペイン
に広がっていたマジョリカ焼が、マジョリカ島経由で
シチリア、フィレンツェへと伝えられていたのです。

 

ルネッサンスの新風の中でマジョリカ焼は進歩し、
後にアントワープからデルフトへと移るとともに
それぞれの
地で創意工夫が加えられて「デルフト焼」となりました。

 

 

 

 

 

イタリアでのもう一つの試み

磁器製造は叶わずマジョリカ焼の発展へと
繋がったこの試み以外にもイタリアでは
もう一つ別の磁器製造を試みた人がいました。

 

ヨーロッパ初の白磁製造に成功したマイセン
のベトガーより100年以上も前のこと。

 

フィレンツェのメディチ大公がそれを試みました。
そしてその試みは、ある程度の成功を収めたのです。

 

 

 メディチ家の紋章

 

 

 

メディチ家

メディチ家はルネッサンス期のフィレンツェを
支配し、金融業や政治の世界で活躍した一族。
新興商人階級に属し、元々の出自はわかっていません。

 

ローマで金融業を営んでいた初代のジョバンニ・ディ・
ビッチが、1397年に本拠地をフィレンツェに移した
ことからフィレンツェでの活躍が始まります。

 

仕事で得た莫大な財産でボッティチェリ、レオナルド・
ダ・ヴィンチ、ミケランジェロという芸術家のパトロン
となりルネッサンス文化を育てたことでも有名ですね。

 

「メディチ(Medici)」という名前は「メディカル
(Medical)」からきていて、紋章についている
プチプチは丸薬を表しているともいわれますが、薬種業
を営んでいたという裏付けとなる資料はないそうです。

 

 

 

メディチ家家系図「that blog-ish thingy」

                                 ↑ 下から2番目が
                                 フランチェスコ1世

 

 

 

フランチェスコ1世・デ・メディチ

初代から数えて7代目のフランチェスコ1世・デ・
メディチ(Francesco Ⅰ de Medici、1541年〜1587年)
が、ヨーロッパで最初の磁器に取り組みました。

 

磁器製造に関わった期間は、1575年頃から1583年
までの短い期間といわれていますが、これについて、
松本典昭「マニエリスム期におけるメディチ家の宝物
コレクション」
では、

 

「ヴァザーリは,『美術家列伝』第2版(1568年)で,
* フランチェスコ 1 世が1560年代から磁器工房を開いて
* 試作の 実験に乗り出したと伝えている」

 

と記されていますので、一般的に伝えられているよりは
かなり早い時期から取り組んでいたのかもしれません)

 

 

フランチェスコ1世・デ・メディチ
(Francesco de’ Medici 、1541年〜1587年)

 

 

 

1575年「メディチ磁器( Medici porcelain )」完成

1574年、フィレンツェで、フランチェスコ1世の命
により始められた研究は、レヴァント人の協力のもと、
翌1575年には「メディチ磁器」を完成します。

 

一説にはマジョリカ焼の陶工が焼いたともいわれて
いますが、できた作品のほとんどが染付であり
マジョリカ焼独特のおおらかな派手さはありません。

 

「メディチ磁器」という名前ではあっても
正確には磁器ではなかったのですが、外観が
かなり磁器に似ていたためにそう呼ばれています。

 

 

中国磁器「染付芙蓉手蓮池水禽文輪花大皿」
景徳鎮窯 1590~1630年代 九州陶磁文化館所蔵

 

 

 

材料に「カオリン」を含まない

メディチ磁器は、硅(ケイ)砂、ガラス、水晶粉に、
ファエンツァの白陶土、ビセンツァ粘土を混合した素地に、
錫(スズ)釉を掛けた陶器で、中国磁器をお手本に
マジョリカ焼の技法も取り入れたものです。

 

釉薬は比較的厚めで気泡が多いために
コバルトが少し滲んだように見えるそうです。

 

材料には、磁器作りといえば欠かせない
「カオリン」を
使用していませんので、正確にいうと磁器ではなく
陶器ですが、かなり磁器に近づいた「軟質磁器」です。

 

 

「メディチ磁器」(Baby’s bottle in Medici porcelain.
Soft Paste Porcelain ca. 1575–87.)
(写真/「Jelly Angel」

 

 

 

フランチェスコ1世もともに

フランチェスコ1世は磁器製作を命じるのみでなく、
カジーノ・ディ・サン・ マルコの工房で多くの錬金術師と
一緒に一日中、磁器製造に没頭したといいます。

 

錬金術が好きで科学に明るいということが
磁器作りへの意欲を一層かきたてたのかもしれません。

 

マイセンでベトガーに磁器製造を命じたザクセン強王は
秘密の漏洩を恐れてベトガーを監視付きの部屋に閉じ込め
外界との接触を一切たったそうですが、フランチェスコ
1世は自ら実験に勤しんでいたということですね。

 

 

メディチ磁器(©RMN, Sèvres,
cité de la Céramique, Martine Beck-Coppola)

 

 

 

ヴァザーリも絶賛!

その甲斐あって、正確には磁器ではないものの美しい
軟質磁器の「メディチ磁器」が生まれました。

 

イタリアの画家であり建築家、美術史家でもある
ヴァザーリは、メディチ磁器について

 

「素晴らしい技術から生まれる完全な作品であり、
しかも芸術的にも最高の到達点である」と絶賛しています。

 

 

「メディチ磁器」皿 1575年〜1587年
大英博物館所蔵(写真/「やきもの色々」

 

 

 

つかのまの煌き

しかし1587年、毒殺とも噂されたフランチェスコ1世の
死とともにメディチ磁器の歴史も終わることになります。

 

この後、イタリアで磁器が作られるのは100年以上後の
ウィーンからの硬質磁器を受け継ぐヴェッツィ窯で
作られる1720年のことです。

 

短い製造期間だったこともあり、現在残っている
メディチ磁器はごくわずかなものです。

 

フランチェスコ1世の亡くなった年、1587年の財産目録
によれば
「メディチ磁器」は820点を数えていますが、
現存するのは60点ほどにすぎません。

 

セーヴル国立陶芸美術館に9点、
ヴィクトリア&アルバート美術館に9点、
ルーブル美術館に6点、
大英博物館に4点、
メトロポリタン美術館4点、などです。

 

 

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「デルフト焼(Delftware、Delft pottery)」 デルフト焼と日本の意外な関係

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錫釉薬陶器のデルフト焼

このデルフト焼のお皿は、1653年のロイヤル・デルフト
陶器工房で作られたフェルメールの「真珠の耳飾り」です。

 

17世紀のオランダの画家、ヨハネス・フェルメールの
この作品は「青いターバンの少女」とも
「ターバンを巻いた少女」とも呼ばれるもの。

 

白い地にブルーで描かれたものですが
この白地は磁器ではなく陶器にスズ(錫)釉を
掛けて表面を白くした錫(スズ)釉陶器です。

 

前回、ご紹介したマジョリカ焼と同じですね。
そうデルフト焼は、マジョリカ焼の影響を
受けているオランダの陶器なのです。

 

 

マジョリカ焼 蓋つき小物入れ(お塩入れかも?)

 

 

 

「マジョリカ焼」=「ファイアンス」

15世紀のイタリアで開花した美しい色絵陶器の
マジョリカ焼は、16世紀に入るとアルプス以北
のヨーロッパ各地に伝わっていきました。

 

フランス、ドイツ、スカンディナビアからロシアに
至るまで広がっていったこの錫(スズ)釉陶器を
アルプル以北では「ファイアンス」と呼んでいます。

 

これは当時のイタリアでマジョリカ焼の最大の
窯場であった「ファエンツァ」の地名に由来しています。

 

 

マジョリカ焼の色鮮やかなお皿

 

 

 

マジョリカ焼の広がり

イタリアのマジョリカ焼の陶工は、フランドル地方南部
のアントワープを始め、フランス、スイスへと招かれたり
あるいは移住してマジョリカ焼を作りました。

 

ベネディクト・ローレンツォは、1512年にリオンに
赴き窯を興し、1530年にはフランスの陶工、アバケース
がルーアンに窯を作ってフランス人としては初めて
ファイアンス(マジョリカ焼)を焼きました。

 

アルプスに近いムスティエ、中部フランスのズヴェールなど
各地に窯が作られて、17、18世紀にはファイアンスは
その頂点に達したといわれています。

 

 

「うさぎ」ウォルター・ポッセ
マジョリカ焼

 

 

 

アントワープがマジョリカ焼の中心地に

1508年、アントワープに初めてマジョリカ焼の窯を作った
のは、イタリアのカステル・デュランテ窯の陶工、
グイド・ディ・ザビーノ(?〜1541年)でした。

 

(「グイド・ディ・ザビーノ」のカタカナ表記は、他に
「ギュイド・ダ・サビーノ」「キド・ディ・ザビーノ」
と色々ですが、ここでは参照した本の表記にしました)

 

その後、イタリアの陶工たちがフランドルに集まるようになり
アントワープはマジョリカ焼生産の中心地となっていきます。

 

「アントワープ」は「アントウェルペン」とも言いますが
「アントワープ」は英語の「Antwerp」からきています。
「アントウェルペン」はオランダ語の「Antwerpen」から。
フランス語では「Anvers」で「アンヴェール」です。

 

 

アントワープ(写真/「Wikipedia」)

 

 

 

リスボンと並ぶ世界最大の貿易港、アントワープ

現在はベルギーに属しているアントワープですが
15世紀にはブルゴーニュ公の領地であり、1506年からは
ハプスブルグ家のカール5世の領地となった土地です。

 

フランドル地方の毛織物の積み出し港として、
またその原料をイギリスから輸入する港として
栄えていたハンザ同盟加盟都市。

 

16世紀からの大航海時代には、リスボンを経由してきた
アジアの香辛料や、新大陸からくる銀などが集積される場所
でもあり、当時はリスボンとともに最大の貿易港でした。

 

 

オランダ・ユトレヒトの信号

 

 

 

「アントワープ」→「ハールレム」→「デルフト」

しかし繁栄していたアントワープもオランダの独立戦争で
スペイン軍により1585年には破壊されてしまいます。

 

市民はスペイン王フェリペ二世と対峙し、念願のネーデル
ラント連邦共和国を樹立しましたが、陶工たちは動乱を避け
アムステルダムやハールレム、ドルドレヒト、レイデン、
ロッテルダム、デルフト、さらにはドイツ、イギリスへと移住。

 

世界経済の中心地はアムステルダムへと移って行きました。
1600年頃、窯業の中心地はアントワープからハールレムに
なり、1650年頃にはデルフトがやきものの地となります。

 

 

A」アントワープ 「H」ハールレム 「D」デルフト(地図/google)

 

 

 

デルフトはさほど大きくはないものの美しい都市で、画家の
ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer、1632~1675年)
が生涯のほとんどの過ごした街としても有名ですね。

 

デルフトにはフェルメールセンターなるものもあり、画家の
アトリエの再現やフェルメール作品特有の顔料ラピスラズリ
などが展示されているということで興味を惹かれます。

 

フェルメールが青(ウルトラマリン)を好んで用いたのも
デルフトブルーからの影響からではないかともいわれます。

 

1600〜1800年頃は、ヨーロッパで最も有名な陶器の産地の
一つだったデルフト焼は、世界中の裕福な人々の間で人気
があり、彼らは自分のデルフトブルーのコレクションを
自慢し合っていたそうです。

 

 

中国・景徳鎮の「芙蓉手」
「染付芙蓉手蓮池水禽文輪花大皿(そめつけ
ふようでれんちすいきんもんりんかおおざら)」
景徳鎮窯 1590~1630年代
口径51.2 高9.5 高台径28.2
九州陶磁文化館所蔵(写真/「うまか陶」)

 

 

 

 

中国磁器をお手本に

マジョリカ焼の中心地がアントワープからデルフトに変わる
とともに、マジョリカ焼自体もその焼成技法を改良し、また
絵付けも意匠を変えて新しい焼き物に変化していきました。

 

それが現在「デルフト焼」と呼ばれるもので、
この変化に大きな影響を与えたのが中国磁器でした。

 

1602年3月、オランダ人は中国磁器を積んだポルトガル船
サン・ティアゴ号を拿捕し、1604年にはサンタ・
カタリーナ号を拿捕して10万点あまりの磁器を
オランダに運び競売にかけたといわれています。

 

ハーレムやデルフトのマジョリカ焼工房の中には、タイルなど
に生産の中心を変更していったものや、また安価な製品を作り
中国磁器と競合しない独自の路線を模索したりしました。

 

しかし中には、中国磁器と見まごうほど質の高い製品を作る
工房も登場し、1620年頃までには、イギリス人たちなどは
「東洋の磁器」と間違えるほどだったそうです。

 

 

日本・伊万里の「芙蓉手」
「染付芙蓉手花鳥文皿(そめつけ
ふようでかちょうもんざら)」
高さ8.0㎝ 口径39.0㎝ 底径17.8㎝
1670~1680年代 古伊万里
(写真/「伊万里の歴史や文化、自然の手帳」)

 

 

 

中国磁器に近づくために

1 マジョリカ焼では表面のみを錫(スズ)釉を施していたが
 表も裏も白い錫(スズ)釉を掛けたことと、クワルトと
 いわれる光沢のある皮膜を施すようになりました。

 

2 器を重ねて焼成すると、焼きあがったものに重ねた跡が
 つきますが、これを「目跡(めあと)」といいます。
 中国磁器は匣(さや)と呼ばれる容れ物に入れて焼くため
 目跡(めあと)がつきません。
 そこでデルフト焼も極力目跡を小さくしました。

 

3 陶土を純白にするために骨粉を混ぜてよく洗浄するする
 ことにより、轆轤(ろくろ)で薄く成型することが可能に。

 

これによりオランダのデルフト焼は白く、薄く、しかも目跡
もないという、他の陶器とは全く異なるものとなったのです。

 

 

オランダ・デルフトの「芙蓉手」
「藍絵芙蓉手人物文大皿(あいえ
ふようでじんぶつもんおおざら)」
17世紀後半 サントリー美術館所蔵
(写真/「SUNTORY」)

 

 

 

模倣から独自の作品へ

1620年以降のデルフト焼は中国磁器の影響から
白地に藍色で絵付けをし、芙蓉手と呼ばれる
意匠を模倣していました。

 

「芙蓉手」とは、お皿の縁をいくつかに仕切ると
これが花びらの一枚一枚と見えることから
芙蓉(ふよう)の花に見立て「芙蓉手」と呼ぶものです。

 

この写真は芙蓉と同じアオイ科の
「ウスベニタチアオイ(薄紅立葵)」の花。

 

 

ウスベニタチアオイ(薄紅立葵)
(写真/「広島の視線」)

 

 

やがてデルフト焼は、オランダの風物を絵柄として
取り入れるようになるとが、これが好評を博して
市場は北ヨーロッパ諸国へと広がって行きます。

 

異国情緒溢れる東洋の文様と、オランダの風物の
調和が生み出すシノワズリーは、単に中国磁器の模倣
ではなく、独自の世界を作り上げることになりました。

 

屈託のない突き抜けるような鮮やかな色のマジョリカ焼から
デルフト焼の白い地に青で描かれる模様は、繊細で高度な
技法を駆使して描写される絵は絵画の域に達していました。

 

デルフト焼は、東洋を写しながらも独自の世界を開拓して
ゆくことができることをヨーロッパの人々に伝えたのです。

 

 

1665年頃に描かれた風景画
アムステルダム国立美術館所蔵

 

 

 

「伊万里焼」と「デルフト焼」の繋がり

江戸時代初期、中国や朝鮮では磁器が主流となったため
陶器はあまり作られず、日本の茶人は土ものが手に入ら
ない寂しさからデルフト焼を好んで輸入したといいます。

 

そのようなものの一つが下の写真の花瓶ですが、これは
オランダからの注文で伊万里で作った「染錦(元禄染錦)」
と呼ばれる色絵磁器をデルフトが写し、それをまた
日本が輸入したものが下の写真のものです。

 

オランダからの注文で、伊万里が作る
    デルフトへ送る
       ↓
その伊万里の色絵磁器をデルフトが写す
    日本へ送る
       ↓
伊万里を写したデルフトを日本で愛でる

 

 

「元禄染錦写八画面取筒型花瓶」
口径  7.9cm 高さ  16.8cm
伊万里の錦手を写したデルフト焼
17〜18世紀前半と推測
(写真/「総合文学ウェブ情報誌文学金魚」)

 

 

と、何やら「やぎさんゆうびん」のような感じですが
デルフトで写されたものと日本のものの違いを
茶人は楽しんだとということです。

 

 

 

デルフト焼から大きな影響を受けた日本

このような日本の伊万里焼とデルフト焼の関係を
鶴山裕司が以下のように書いていらっしゃいます。

 

「南蛮美術を別にすれば、江戸期以前で確認できる
ヨーロッパ美術からの大きな影響はデルフト焼き
くらいである。
出島という細い細い流入口したかなったにも関わらず、
日本の焼き物はデルフトの絵付けや器形から
確実に影響を受けている。
またデルフトも日本から影響を受けた。
幕末になり浮世絵がブームになるまで、ヨーロッパで
日本から確実な影響を確認できる美術品はデルフト焼き
だけだといっていいい。
日本の明治維新前後の19世紀末にヨーロパでは
ジョポニズムブームが起こるが、その下地を作ったのは、
日本から細々と輸入されそれを写したデルフト焼きの
記憶だったのである」
          「総合文学ウェブ情報誌文学金魚」

 

 

ロイヤル・デルフト「真珠の耳飾りの少女」
(写真/「Holland + Flanders」

 

 

 

現在残るデルフト焼の2つの工房

オランダのみならず世界で愛されたデルフト焼ですが
最盛期には30ほどもあったという工房も現在はわずか2つ。

 

デルフトにある唯一の工房は、1653年創業で現在は
「ロイヤル・デルフト」と称している
「デ・ポルセライネ・フレス」。

 

もう一つがフリースラント州(Friesland)にある1572年創業
の「ティヒラー社(Koninklijke Tichelaar Makkum)」。
(なお、Wikipediaには1594年創業とありますが、ティヒラー社
は1572年といっていますので、そちらを採用します)

 

この写真はティヒラー社の花瓶なのですが
これはチューリップ用のものだそうです。

 

 

チューリップ用の花瓶(写真/「ティヒラー社」

 

 

ハート型に近い平べったい花瓶の上部に、恐竜のヒラヒラ
(?)のようにチューリップの差し込み口が並んでいます。
オランダってこんな風にチューリップを飾るのですね。

 

こちらは「ロイヤル・デルフト」の別の形のもの。
横並びではなく縦になりますが、やはりチューリップ
を1輪ずつさせるようになっています。

 

 

チューリップ用花瓶(写真/「ロイヤル・デルフト」

 

 

 

オランダ以外の土が原料

オランダの粘土はやきもの向きではないということで
材料は、フランスのシェルデ(オランダ語: Schelde、
フランス語: Escaut)河畔のトゥルネーの陶土と、

 

ドイツのライン(オランダ語: Rijn、フランス語: Rhin)河畔
のミュルハイムの陶土を混成したものを素地としています。

 

粘土を成形した後に24時間ほど高温焼成をしてから絵付けを
し、コバルトと白い釉薬を掛けてもう一度24時間ほど焼成する
と釉薬は透明になり美しいデルフトブルーが生まれるのです。

 

 

ペンダント(写真/「ロイヤル・デルフト」)

 

 

 

「 ROYAL  DELFT」

マジョリカ焼から始まって独自の発展を遂げた
デルフト焼でしたが、18世紀にマイセンでヨーロッパ初
の磁器製造が始まると急速に衰退して行きました。

 

しかし19世紀の後半になってデルフト焼の
再評価がなされるようになります。

 

デルフト唯一の工房「デ・ポルセライネ・フレス」は
1905年、オランダ王室から「ロイヤル」の称号を許され
「ロイヤル・デルフト」と称するようになりました。

 

(参照/長谷部楽爾監修「世界やきもの史」美術出版社」
        南川三治郎「欧州陶器紀行」世界文化社)

 

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