宇和島藩麻布上屋敷の発掘調査で出土した鍋島焼

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

麻布龍土町の宇和島藩中屋敷

江戸時代の大名は江戸に複数の屋敷を構えていました。
上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷に
抱屋敷(かかえやしき)等です。

 

なかには中屋敷がなかったり、反対に中屋敷
や下屋敷が複数あったりというように
藩の大きさによってその辺りは様々なよう。

 

各大名の地位、譜代、外様の別、石高などが
考慮されて、場所や大きさが決められたものを
幕府から拝領したものです。

 

抱屋敷は、幕府から拝領した「拝領屋敷」ではなく
大名が必要に応じて土地を購入し、屋敷を作ったもので、
この抱屋敷を下屋敷にしたりという例もありました。

 

 

麻布・有栖川公園
「赤穂浅野家」から「盛岡南部家」に相対替えしたもの

 

 

 

大名間で交換も可能

このように大名の江戸藩邸は基本的には
幕府から拝領しているものですので
幕府の命令によって移転をすることもあります。

 

また、幕府の許可を得ていれさえずれば、各大名間で
屋敷を交換する「相対替え」も行われていました。

 

(このあたりについては、こちら
「『上屋敷』『中屋敷』『下屋敷』『抱屋敷』
『蔵屋敷』」
)をご覧くださいませ。

 

 

有栖川公園とドイツ大使館の間を通る「南部坂」

 

 

 

「南部坂」が2つあるわけ

その一例としては、現在の麻布の有栖川公園に
あった赤穂浅野家と、現在の赤坂6丁目にあった
盛岡南部家の屋敷の相対替えがあげられます。

 

南部家が「赤坂」→「麻布」に移ったことにより
それぞれの場所付近に「南部坂」ができたため
フィクションではありますが忠臣蔵の
「南部坂の別れ」が生まれて有名になりました。

 

忠臣蔵の南部坂は赤坂6丁目の方で、有栖川公園の
南部坂には「こちらは忠臣蔵の南部坂ではありません」
とわざわざ断り書きがあるのほど。
それほど多くの人が間違えるからでしょう。

 

 

赤坂6丁目の「南部坂」こちらが忠臣蔵の方

 

 

 

中屋敷から上屋敷になった麻布屋敷

今日、ご紹介する六本木7丁目の宇和島藩上屋敷があった
場所は、現在は国立新美術館、政策研究大学院大学、
都立青山公園、米軍ヘリポートなどになっています。

 

このように現在はいくつかに分割されては
いますが、屋敷割りはほぼ活かされているようで
当時は麻布龍土町という地名だったために
麻布屋敷と呼ばれていました。

 

実はこの麻布屋敷は、初代・伊達秀宗が拝領した直後は
上屋敷ではなく中屋敷で、各屋敷の場所はこのようでした。

  上屋敷ーー日比谷
  中屋敷ーー麻布
  下屋敷ーー恵比寿3丁目

 

ところが1681(天和元)年に、日比谷の上屋敷を
松平豊前守(親庸、丹波5万石)に引渡し
かわりに木挽町の屋敷を拝領して以降
麻布屋敷を上屋敷とすることになります。

  上屋敷ーー麻布
  中屋敷ーー木挽町
  下屋敷ーー恵比寿

 

 

四国左下の赤いあたりが宇和島藩

 

 

 

敷地を買い増しして広大な上屋敷に

火事が多かった江戸で、もしもの時の一時避難所や
嫡子や側室が住む中屋敷を、公式な行事の場となる
藩主や正妻などが暮らす上屋敷とするには
宇和島藩麻布屋敷は少々狭かったのでしょう。

 

「三浦家文書研究会」の記録には、初代・秀宗
(ひでむね)から3代・宗賢(むねよし)に至るまでに
土地を買い足していった様子が記載されています。

 

それによりますと、まず宇和島藩伊達家
初代藩主・秀宗が、晩年の1655(明暦元)年に

 

 沖津内記より26,404坪を、地代1,200両で購入、
 原宿村名主より1,265坪を、地代60両で購入、

 

1657(明暦3)年には
 原宿百姓より480坪を、47両で、

 

1675(延宝3)年、三代・宗賢の時代に
 原宿村百姓地3,916坪を、1,700両で買い求め、
これにより麻布屋敷の合計は36,051坪になりました。

 

 

宇和島市で生産される「宇和ゴールド」

 

 

 

ほぼ10倍に拡張

「三浦家文書研究会」の記載では
買い増しした坪数は記載されているのですが
最初の坪数が書いてありません。

 

当然、買い増しした坪数を、最終的な36,051坪
から引けばでてくるのですが、そうなると
最初の坪数は、わずか3,986坪 。
計算が間違っているのではと不安になるほどの差です。

 

ということで私の計算が間違っていなければ
3,986坪だった麻布屋敷の敷地を買い足して
36,051坪というほぼ十倍ほどに拡張して
広大な上屋敷にしたと思われます。

 

 

 

 地図の上部が「宇和島藩伊達家の上屋敷」36,051坪
下の方が「仙台藩伊達家の下屋敷」 21,293坪

 

 

 

麻布には、宇和島藩上屋敷(六本木7丁目)
以外にも、仙台藩下屋敷(南麻布1丁目)
と2つの伊達家がありました。

 

地図では上が宇和島藩で36.051坪、
下が仙台藩で 21,293坪。

 

もっとも仙台藩は下屋敷ではありますが、港区東新橋
にあった仙台藩伊達家の上屋敷でも25,819坪ですので
宇和島藩麻布屋敷の大きさがわかります。

 

下は南麻布にあった仙台藩伊達家の下屋敷付近の古地図。
●  ●  ●」で囲まれた「●  松平陸奥守」と
書かれている所ですが、付近の大名屋敷と
比べても一段と大きいことがわかります。

 

 

 

 

なお、「松平陸奥守」の上の「●」は
下屋敷を表しています。
屋敷に沿っている水色の「ーーー
の部分は「仙台坂」
大藩であった仙台藩を思わせる、高低差のある長い坂です。

 

「仙台坂」の少し先にあるピンク色の「ーーー」は
「振袖坂(日向坂)」で、なだらかな優しげな短い坂。

 

 

 

「宇和島藩伊達家」と「仙台藩伊達家」の家紋

次にあげたのは仙台藩と宇和島藩のそれぞれの家紋です。
上が「宇和島藩伊達家」、下が「仙台藩伊達家」の家紋。

 

 


「宇和島藩伊達家」の家紋「仙台藩伊達家」の家紋

 

 

ともに竹と向かい合う雀をモチーフとした
「竹に雀」ですが、両者は微妙に違っていますね。

 

現在、仙台藩伊達家の家紋は、商標登録されている
ために使用するにあたっては年間10000円から
50000円、事務手続き量4000円が必要だとか。

 

ちなみに宇和島藩の蔵屋敷は
大阪の北区中之島にあったそうです。
1916(大正5)年に朝日新聞社が譲り受けましたが
蔵屋敷の建物をそのまま使っていたということです。
         (「大坂の史跡を訪ねて 9」)

 

 

仙台藩伊達家の下屋敷に沿っている長い坂「仙台坂」(南麻布)
先ほどの江戸時代の地図でいうと左側から見た所で、こちらが坂の上
仙台藩伊達家の下屋敷は、坂の右側にありました

 

 

 

宇和島藩伊達家跡の発掘調査

宇和島藩伊達家の屋敷跡に、2007年1月に
国立新美術館が開館されましたが、政策研究所
大学院大学を含め、それらを建設するにあたり
屋敷の北東側半分の発掘調査が行われました。

 

2001年から2003年までに、4期にわたる
東京都埋蔵文化財センターによる発掘調査です。
江戸の発掘調査は困難を極めるといわれています。

 

土質が関東ローム層で酸性ゆえに木部が、酸性土壌に
より溶けてしまって形をとどめず、残った穴などから
想像をしていく以外にないからだそうです。

 

 

 

宇和島藩伊達家上屋敷跡にある「国立新美術館」六本木

 

 

 

大量の「鍋島焼」の出土

そのような中できっちりと残って
いたのが大量の陶器でした。

 

地下室を含める5つの場所から「鍋島焼」が64点
(資料により65点とするものもある)を出土
しましたが、この数は十万石クラスの大名家
としてはかなり多いといわれます。

 

加賀百万石の前田家上屋敷跡でさえ4点、御三家の一つで
ある尾張藩徳川家の上屋敷跡でも2点しか出土していません。

 

「鍋島焼」は佐賀藩鍋島家の藩窯で焼かれた、
高度は技術をもつ江戸時代最高級の焼物です。
写真は、若松模様の染付けの小皿や大皿。

 

 

宇和島藩伊達家の上屋敷跡で出土された「鍋島焼」
東京都教育委員会蔵
(写真/「愛媛県歴史文化博物館  学芸員ブログ『研究室から』)

 

 

 

貴重な鍋島焼

関ヶ原の戦いで西軍についた佐賀藩鍋島家は、徳川家との
関係修復に苦慮していた様子が伺え、将軍家や大名家への
贈答用に特別に焼かせたのが「鍋島焼」といわれています。

 

佐賀藩が鍋島焼の窯を直接に管理していて、地元での
使用を別にすると市場に出回ることもあまりなく、
絶対数そのものが少ない焼物でもありました。

 

にもかかわらず宇和島藩伊達家の上屋敷後
から大量に発掘された理由の一つには
鍋島家との婚姻関係があげられます。

 

(そうでない藩邸からの多量出土例もあるため
必ずしもそうとは言い切れないようでもありますが)

 

 

 

 

 

「宇和島藩伊達家」と「佐賀藩鍋島家」はお隣同士

宇和島藩伊達家9代の藩主のうち、

 5代・村候(むらとき)
 7代・宗紀(むねただ)
 8代・宗城(むねなり)

の3代の藩主が鍋島家から正室を迎えています。

 

下の古地図は東西南北が現在のものとは
少々異なっていますが藤色で囲んだ三角形に
見える敷地が宇和島藩伊達家の上屋敷。

 

「伊達遠江守」とありますが、宇和島藩伊達家は
2代・宗利(むねとし)が「大膳大夫」を
名乗った以外は全て「遠江守」。
その右側の緑色で囲んだ四角形に
見える敷地が佐賀藩鍋島家です。

 

 

(地図/「三浦家文書研究会  コラム  Toshio  Yuyama」に加筆)

 

 

地図では「鍋島甲斐守」と逆立ちをして書かれていますが、
これは名前の上の方が玄関ということを示していて、
名前の上に家紋が書かれているのは「上屋敷」を表します。

 

なお「鍋島甲斐守」の上部の敷地も「鍋島鍋島熊二郎」
と「鍋島」文字が見えますが、こちらは肥前鹿島藩、
鍋島熊二郎(2万石)の上屋敷で別の家。

 

宇和島藩伊達家と佐賀藩鍋島家は、上屋敷がお隣同志と
いうこともあり、3代にわたり婚姻関係が結ばれました。
鍋島焼もともにお輿入れしたのかもしれませんね。

 

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「麻布」の名前の由来 「一の橋」 古川の橋13 

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160906itinohasi

 

 

古川の橋

今年の最初の投稿は「一の橋」。
「二の橋」をご紹介してから随分、時間が
たってしまいましたが、今日の「一の橋」で
古川に架かる橋シリーズ(?)はおしまいです。

 

港区を流れる唯一の川である古川は
渋谷区では渋谷川と呼ばれていますが
港区に入ってからは古川と名前を変えます。

 

 

「天現寺橋」付近 下の地図では「 o  」の付近

 

 

港区に入って最初の橋である「天現寺橋(a)」
から古川は、ほぼ直線で右(東)に進み、

 

「古河橋(J)」で直角に曲がって
方向を上(北)に変えて流れます。

 

そして、また直角に右(東)に進み
始める起点が、「一の橋(o)」です。

 

 

古川の橋天現寺橋(a)・狸橋(b)・亀屋橋(c)・養老橋(d)・青山橋(e)・五の橋(f)・
白金公園橋(g)・四の橋(h)・新古川橋(i)・古川橋(j)・三の橋(k)
南麻布一丁目公園橋(l)・二の橋(m)・小山橋(n)・一の橋(o)
一の橋公園橋(p)・新堀橋(q)・中の橋(r)・赤羽橋(s)

 

 

「一の橋」以降は、「中の橋’(r)」や「赤羽橋(s)」
を過ぎてからは港区芝に入り、芝公園や浜離宮恩賜
庭園(はまりきゅうおんしていえん)の側を通った後、
浜松町で東京湾に注いでいます。

 

 

「天現寺橋」付近  安藤広重『広尾ふる川』

 

 

 

古川の源流の一つは玉川上水

1653(承応2)年に完成した玉川上水の
余水は、現在の新宿御苑内で池を作り
そこからの流れが古川の源流となりました。

 

1657年の「明暦の大火」後の都市改造に伴ない
古川の拡張工事が計画されることとなります。

 

1675(延宝3)年には、麻布山付近に大名屋敷や
寺社仏閣を造営にあたり、江戸湊までの最後の1キロ
ほどが運河として再整備されることになりました。

 

新しく作られた運河は「新堀川」と名付けられ、一方、
運河の終点である麻布十番から、上流の川は「古く
からある川=古川」と呼ぶようになったといいます。

 

古川の下流は現在流れている場所よりも
もう少し、南に寄っていたという説もあるようで
それによりますと、この工事の際に本流が
現在の場所に付け替えられたとのことです。

 

 

「四の橋」の向かい側  麻布御殿(白金御殿)があった付近

 

 

 

綱吉の別邸づくりのために古川を拡張

1697(元禄10)年、現在の南麻布に将軍・綱吉
の別邸「麻布御殿(白金御殿)」が造られる
こととなり、その建設資材を運ぶための
改修工事が行われることになりました。

 

また将軍が直接、船で古川をさかのぼって麻布御殿に
入ることができるよう、川幅を広げる工事や、
掘り下げも行なっています。

 

普請のための土運びや資材を運ぶ人足場を、
古川の河口から「一番」、「二番」と順に設けていき、
その十番目にあたる「十番組」が、現在の麻布十番と
呼ばれる近くであったことが、「麻布十番」の地名の
由来といわれています。(「渡辺淳『東京風情』」)

 

 

川幅が広くなっている「二の橋」

 

 

1699(元禄12)年には、川幅の拡張をする際、
麻布十番付近にあった岡田将監(しょうげん)の
屋敷の西側が召し上げられ、新堀堀割となって
「一之橋」と「二之橋」が架けられました。

 

「麻布御殿(白金御殿)」は、綱吉が2度訪れただけで
わずか数年後には火事で焼失してしまいましたが、工事
で拡張された新堀川の川沿いは賑わいを増したようです。

 

「一之橋」のたもとには1716〜1736年(享保年間)の頃
から、新河岸と呼ばれる荷揚げ場ができるようになり近隣
の住宅へ、薪や炭を運ぶ役目も果たすことになりました。

 

 

160906itinohashi「一の橋」

 

 

しかし、かつては大名屋敷を中心とした市街地が
形成されて活気を見せていた街も、明治40年代に
入り、トロリー電車が通るようになると、水上交通
の役割は急激に少なくなっていったようです。

 

 

 

「一の橋」

赤羽川の合流口でもある「一の橋」は、三田1丁目
から麻布4丁目にかかる銅橋で、現在の橋は
1983(昭和58)年に改修されたものです。

 

次の写真は、首都高一ノ橋ジャンクションの下から
撮ったもので、写真の下につけた地図でいいますと
「一の橋(o)」、「一の橋公園橋(p)」のあたりになります。

 

 


 

 

 

「中の橋」でヒュースケン暗殺

なお、この地図をご覧になってもお分かりの通り、
「一の橋(o)」の右側には、まだいくつかの橋が
残っていますが、「中の橋(r)」と「赤羽橋(s)」
は昨年ご紹介しています。

 

最初は、中の橋(r)」(「『中の橋』で暗殺された
アメリカ公使館の通訳、ヒュースケン」
)だけをご覧
いただくつもりだったものが、お隣の「赤羽橋(s)」
や古川を遡って「天現寺橋」というように、

 

古川に架かるいくつもの橋から
昔の話を教えてもらうように進んでいくうちに、
今回の「一の橋」までたどり着きました。

 

 

「中の橋」

 

 

 

ヒュースケンの暗殺を計画したとされる
清河八郎も「一の橋」で暗殺

なお「中の橋」で、アメリカ公使館の通訳だった
ヒュースケンを襲った、伊牟田尚平、樋渡八兵衛ら
の計画を、裏で画策したともいわれる清河八郎自身
も、後にこの「一の橋」で暗殺されています。

 

横浜の外国人居留地焼き討ちなども計画していた
清河八郎が、佐々木只三郎、窪田泉太郎など8名の
幕府の刺客によって暗殺されたのは
1863年4月13日の夕暮れ時でした。

 

28歳で命を落としたヒュースケンと
34歳で暗殺された清河八郎。
「一の橋」付近は激動の幕末期の舞台と
なった場所でもあったようです。

 

 

「うぐいす」と「梅」 赤坂「青野」

 

 

 

「麻布」の名前の由来は?

「麻布十番」の名の由来は、上に記したものですが
「麻布(あざぶ)」の由来は諸説あり
はっきりしたことはわからないのだとか。

 

「麻布」という表記は、1713(正徳3)年頃から
この辺り一帯が、「町方」に指定されて町奉行の
管理下に置かれた以降である旨の記述が「文政町方書上」
にみられるということです。(南麻布富士見町会)

 

麻布善福寺にある「北条氏朱印状」(1566・永禄9年)
や、「豊臣秀吉朱印状」(1590・天正8年)では
「麻布」を「阿佐布(阿左布)」「浅生」「浅府」
「麻生」「麻田(あさふ)」と記載しています。

 

 

 

 

 

色々な説

多くの麻を植えて布を織っていたことが地名となった
という説が一般的なものですが、それ以外には
草が浅々と(あっさりと)生えていたという説、

 

善福寺に麻が降り、そこから麻布留山(あさふるやま)
というようになって、それを省略したという説、

 

あるいはアイヌ語の「アサップル(船で渡るの意)」
とするもの、「アサム(底、奥)」から転じた、
などともいわれますが、結局のところ
はっきりとはわからないそうです。

 

なお、現在の「麻布」という地名は、江戸南西部の
かなり広い部分を指していますが、本来は、麻布木村
から善福寺周辺、現在の南麻布1丁目〜3丁目、
元麻布1丁目、2丁目あたりを「麻布」と呼んでいました。

 

 

 

 

 

芭蕉の句ではなかった「鶯を……」

ところで麻布といえば、芭蕉の
「鶯を たずねたずねて 阿佐婦まで」
が有名ですが、実はこの句は芭蕉の作
ではないということです。

 

しかも
「鶯を たずねたずねて 阿佐婦まで」ではなく
「鶯を たずねたずねて 阿佐婦かな
が正しいのだそう。

 

芭蕉がうぐいすを詠んだ句には
「鶯や 柳の後ろ 藪の前」
などがあるばかりで、あざぶの句はありません。

 

ちなみのこの句は、薄暗いところを好んで低空飛行
する落ち着きのない鶯が、柳の前にいたかと思うと、
今度は藪の前にいる、という様を詠んだもので
『蕉翁句集』では1692(元禄5)年とするものの、
1694(元禄7)年、芭蕉51歳の時の作だそうです。
           (「伊藤洋のページ」)

 

「鶯を たずねたずねて 阿佐婦かな」が
どなたの作かは今のところわかりませんが
うぐいすの鳴く春はもうすぐですね。

 

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イタリア大使館と、ローマで行われている日本人への式典を知っていますか?

「あぷりのお茶会赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

イタリア大使館庭園(写真/「イタリア大使館」)

 

 

 

「綱坂」の向こうはイタリア大使館

広大な8千坪もの敷地の中に英国人建築家
ジョサイア・コンドルの最高傑作といわれる
美しい建物がある「綱町三井倶楽部(C)」。
その隣に位置しているのがイタリア大使館( E)です。

 

水色の矢印がある「二の橋」から、三田通りに至る
までのかなり長い距離の中に、A、B、C、D、Eと
わずか数件しかありません。

 

というのは、一つの敷地の大きさが他と比べますと
かなり大きく、広大な面積を有しているからです。

 

もちろん今日、御紹介のイタリア大使館も同様です。
「イタリア大使館」 〒108-8302
 港区三田2丁目5-4
 Tel.0081334535291 / 0081334535292)

 

 

水色の矢印)「二の橋」 (ピンク色の線)「日向坂
紺色の線)「綱の手引き坂」 (緑色の線)「綱坂」 
B )「オーストラリア大使館」 ( C )「綱町三井倶楽部
E )「イタリア大使館

 

 

 

松山藩中屋敷  →  松方正義  →  イタリア大使館

「オーストラリア大使館」と「綱町三井倶楽部」、
「イタリア大使館」の3つは、全て
江戸時代は大名家の江戸藩邸でした。

 

(B)の「オーストラリア大使館」は
日向佐土原藩の島津家のお屋敷。

 

(C)の「綱町三井倶楽部」は
やはり同じ日向佐土原藩、島津家の屋敷の一部と、
会津藩松平(保科)肥後守のお屋敷の一部と思われます。

 

そして今日の(E)「イタリア大使館」ですが
こちらは伊予国松山藩、15万石、
松平隠岐守の中屋敷があった場所です。

 

明治維新後には、国立西洋美術館の
「松方コレクション」として有名な松方幸次郎の父
・松方正義の手に渡っていたこの土地を
イタリア政府が1934(昭和9)に取得しました。

 

 

このあたりは大名屋敷の多い一角です

 

 

 

伊予松山藩 松平隠岐守

上の地図でも「松平姓」がたくさんありますが
以前このブログでそれを取りあげたことがあります。
「江戸切絵図に『松平家』が多いのはなぜ?」

 

松平を名乗っている家は、大きく分けて3つ。
① 徳川を名乗らない家康の子孫の松平姓
② 家康が将軍になる前からの親類の松平姓
      (十八松平、十四松平とも)
③ 報賞、名誉として与えられた松平姓

 

現在、イタリア大使館ある場所に江戸時代、お屋敷を
構えていたのは、①の徳川家康の子孫の松平家という
ことで家康の異父弟・定勝の子孫の「久松松平家」です。

 

 

 伊予松山藩・松平隠岐守の中屋敷だったイタリア大使館

 

 

 

4代藩主・定直は俳句好き

伊予松山藩は、現在の愛媛県松山市を
中心とした地域をおさめていた藩。

 

残念ながら私は松山には行ったことは
ありませんが、松山といって思い浮かぶ
のは、なんといっても俳句ですね。

 

正岡子規や高浜虚子が、現代俳句で名を残したのも、
久松松平家と全く無関係というわけでもないようです。
というのは、第4代・定直(1660〜1720年)が
徘徊を好んだ藩主だったからです。

 

定直の死後の安永年間(1772〜1781年)に
俳句は一般の庶民にまで普及してゆき
領内では徘徊が盛んになったといいます。
また正岡子規も高浜虚子も、藩士の子弟です。

 

 

イタリア大使館 緑の向こう側に池があるのでしょうか?

 

 

 

赤穂義士を預かった4人の藩主

イタリア大使館といって一番有名なのは
もしかしたら忠臣蔵かもしれませんね。

 

忠臣蔵・元禄赤穂事件が起こった際に、義士のうちの
10人を屋敷に預かり、後に切腹をさせた場所の一つ。

 

1703(元禄15)年、12月15日に吉良邸討ち入りを
果たした赤穂義士は、4つのお屋敷に分けて
預けられることになりましたが、そのうちの
一つがこの松山藩・松平家です。

 

その他は以前、御紹介した現在は六本木ヒルズに
なっている長府藩・毛利家と熊本藩・細川家、
もう一つはやはり同じ三田にある岡崎藩・水野家です。

 

 

E  )の文字の下に見えるのが、イタリア大使館の池

 

 

 

伊予松山藩 第4代藩主・松平定直

伊予松山藩の中屋敷に預けられた赤穂義士の面々とは
大石内蔵助の長男である大石主税良金、堀部安兵衛武庸、
中村勘助正辰、菅谷半之丞政利、木村岡右衛門貞行、
千馬三郎兵衛光忠、岡野金右衛門包秀、大高源吾忠雄、
貝賀弥左衛門友信、不破数右衛門正種の十名。

 

最も当時、第4代藩主の定直は病に伏していて、登城
できなかったため、赤穂義士預かりの命令は、家臣を
通じて聞いたといい、定直が赤穂義士たちと面会を
したのは元禄16年の1月5日になってからのことでした。

 

定直は会見が遅くなったことを詫び、仇討への
賞賛をした後に、このように語ったといいます。

 

「もっと大歓迎をしたいところだが、
幕府からのお預かり人であるためできない。
しかし諸事不自由はさせない。
用事があれば遠慮なく家臣に申しつけてくれて構わない」と。

 

 

イタリア大使館の庭園にある池

 

 

 

毎年、赤穂義士の供養を行うイタリア大使館

イタリア大使館には、大きない池を有した美しい庭園が
あることでも有名ですが、先ほどの地図で( E  )の
文字の下に、水色で描かれていたのが庭園の池です。

 

この池は、赤穂義士の切腹の場の一部を掘り
起こしたものともいわれ、池の裏手にある築山は
池を掘り起こした時の土でできているそうです。

 

そばには当時のイタリア大使により
1939(昭和14)年、記念碑も建立。

 

記念碑はイタリア語と日本語の両方が刻まれているよう
で、日本語は徳富蘇峰が揮毫したと伝えられています。

 

そして一般には公開されていませんし、日本人もあまり
知らないことだと思うのですが、イタリア大使館では
赤穂義士の命日に、歴代のイタリア大使の手により
義士たちへの供養が行われています。

 

 

 

毎年、8月6日にパンテオン前で行われる原爆の日の式典
(写真/「藤村シシン1/7映画ミューズアカデミー」」)

 

 

 

ローマで毎年、広島・長崎への式典も

そしてこちらは、もっと知られていないように思える
のですが、実はイタリアでは毎年、8月6日の朝から
ローマのパンテオン前で、誰でも参加できる
原爆記念日の式典を行なっているそうです。

 

横断幕に書かれているのは
「Mai più HIROSHIMA」(広島を二度と繰り返すな)
という言葉。

 

この時期、ローマに沢山の日本人環境客が来ているにも
かかわらず、この式典は知られていないようで
参加してくれないことを残念がっているとか。

 

そうだったのですね……、日本人として、心から感謝を!
私もその時期にイタリアに行ってみたいなぁ。
「藤村シシン1/7映画ミューズアカデミー」
さんのツイート
, 写真も)

 

 

チェルノブイリにある福島への祈りを込めた「折り鶴の像」

 

 

 

チェルノブイリにある「折り鶴の像」

そういえば今年の初めに、チェルノブイリにある
「折り鶴の像」を御紹介したのを思い出しました。
「フクシマへの祈り「折り鶴の像」」

 

1986年4月26日に起きたチェルノブイリ原発事故
から、ちょうど25周年目にあたる
2011年に起きた福島原発事故。

 

同じ苦しみを受けた福島の人たちへの
思いを込めて建てられた像です。

 

ウクライナ政府の資金提供により、ウクライナ人
デザイナーの設計で作られたものですが、このような
像はフクシマに対してだけではなく、ヒロシマへの
同様の折り鶴の像が建てられているということです。

 

 

チェルノブイリの「折り鶴の像」のそばには
「Fukusima」の文字が

 

 

 

知らないところで……、ありがとう!

2016年の初めと終わりにはからずも私たち、と
いってはいけないのかもしれませんが、少なくとも私は
知らなかった、外国から日本に対してのあたたかい
思いを記すことができたことをとても嬉しく思います。

 

血の繋がりや国境を越え、人々が心を砕いて
くださっていることを決して忘れることなく
今度は私たちができることをしてさしあげたい。

 

2016年、ありがとう!
そして、ブログを訪れてくださった
皆様へ、ありがとうございます!

 

 

 

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