ピエール・ガニェールが赤坂のスーパーで手にしていた野菜 

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

36階のレストランに行きたいなぁ

「ピエール・ガニョール パン・
エ・ガトー」のケーキです。

 

名前ははっきり覚えていなくて
「ブラウニーチョコレート」とか
いうような名前だったかと。

 

赤坂1丁目にある「ANAインター
コンチネンタルホテル東京」の2階の
パティスリー専門店で購入しました。

 

36階には「ピエール・ガニェール」の
レストランがありますが、残念ながら
私はまだ行ったことがありません。

 

このレストランは2010年にANA
インターコンチネンタルホテル
東京に出来ました。

 

 

ピエール・ガニョール「クロワッサン」

 

 

 

「厨房のピカソ」

「厨房のピカソ」と呼ばれる天才
三ツ星シェフ、ピエール・ガニョール
が、初めて南青山にお店を持ったのは
2005年のことでした。

 

開店に向けての様子は、民放のTV番組
でも華々しく生放送をされたといいま
すが、パートナーの経営破綻が原因で
2009年に突如閉店。

 

勝手にピエール・ガニョールの名前をつけ
たカフェやスイーツのお店が作られてしま
うという、最初の契約とは全く違った展開
に彼は不満を抱いていたともいいます。

 

(ここで私は、ちょっと関係はないのですが
メゾンカイザーの木村社長の「日本のパン屋
さんはフランス直営店を開いても、あんパン
やメロンパンを並べる」という話を連想して
しました……)

 

そして、どうにか東京にもう一度
レストランを開きたいとの彼の思いは
ANAインターコンチネンタルホテル
東京店の誕生に結実したのです。

 

 

ピエール・ガニョール「マカロニサラダ」
今日の話とは関係ありませんが
ボウルの上の方にある黄色いヒョロンと
したものは「黄色いキュウリ」です!

 

 

 

1996年 三つ星返上、閉店

1950年にフランスのロワール県
アピナックで生まれたピエール・
ガニェールは、数々の有名店で修行
をした後、父親の経営するレストラン
「ル・クロ・フルリー」を引き継ぎます。

 

そこで彼は、わずか20代で
ミシュランの1つ星を獲得しました。

 

その後、サン=テティエンヌの
レストラン「ピエール・ガニェール」
を開店して2つ星を獲得。

 

同じサン=テティエンヌ市内に移転した
アール・デコ様式のインテリアを施した
お店はミシュラン3つ星を獲得します。

 

しかし3つ星獲得の4年後、1996年
に負債を理由としてミシュランの星
を返上し、お店も閉店します。

 

 

上の「マカロニサラダ」はこんな感じでお店に並んでいました

 

 

 

1998年 再び三つ星獲得

そして、パリ8区に「ピエール・
ガニェール」を新たに開店しました。

 

パリの「ピエール・ガニェール」で
翌年、1997年に彼はミュシュランの
2つ星を獲得しています。

 

また、その翌1998年には、ミシュラン
3つ星を再び獲得したのです。

 

なんとも息をのむようなといい
ますか、波瀾万丈の三ツ星シェフ
ピエール・ガニェールの人生ですね。

 

 

ピエール・ガニョールの「ルリジューズ」

 

 

 

世界のピエール・ガニョールレストラン

なお現在、ピエール・ガニェールの日本の
インターコンチネンタルホテル東京のお店
以外では、

 

フランスに3店、
イギリスはロンドンに1店、
ソ連に1店、
アメリカはラスベガスに1店、
香港、ドバイ、韓国のソウルに
それぞれ1店ずつあるそうです。

 

 

ピエール・ガニョール「フルーツタルト」

 

 

 

2010年8月 赤坂のスーパーで

ANAインターコンチネンタルホテル東京
にピエール・ガニョールがレストランを
開いたのは2010年の3月。
その数ヶ月後のことでした。

 

私は赤坂の小さなスーパーマーケットで
ピエール・ガニェールと会ったことが
あります、というよりは見たことがある
と言った方が正確ですが。

 

真夏のことでした。
そう、今からちょうど10年前の夏。

 

 

ピエール・ガニョール「ラタトゥイユ」

 

 

まだそんなには遅い時間ではない夜、
それでも、もうあたりは暗くはなって
いましたので、7時を少し過ぎた頃
だったでしょうか。

 

私がそのスーパーに入ると、その時
彼はすでに野菜を一つ手にして
レジに並んでいるところでした。

 

 

その時のピエール・ガニェールの
服装は、多分、この写真のような
格好だったと思います。

 

 

 

 

 

野菜を探しに

プライベートで自分か、あるいは友人
のために何かを調理しようとしていて
足りないものを買いにきた、という
感じでは全くありませんでした。

 

あきらかに仕事中に足りないものが
あって急いで探しにきたという様子。
でもその時、私は不思議に思ったのです。

 

たとえそのような状況であったとしても
野菜を買ってくるよう頼む相手は、彼の
近くには幾らでもいるはずではないのかと。

 

しかも、インターコンチネンタルホテル
東京のあるアークヒルズには、スーパー
成城石井もあるのです。
そこに求める野菜がなかったのでしょうか?

 

たった一つの野菜のために、赤坂のこんな
小さなスーパーマーケットまで、ピエール・
ガニェール、シェフ自らがくることはない
のではないかという疑問です。

 

 

ピエール・ガニョール「ダックワーズ」

 

 

 

三つ星シェフのこだわり

しかし、それこそが三ツ星シェフ、
ピエール・ガニェールの
こだわりなのかもしれません。

 

「◯◯のようなもの」ではなく、
「自分の思い通り、とはいかない
までも許容範囲である◯◯」

 

を、ピエール・ガニェールは自らの
目で選びたい、他人にまかすことは
できない、と思ったのかもしれません。

 

私はその時、彼の「熱さ」を
見たような気がしました。

 

 

ピエール・ガニョール
「ピスタチオ オレンジムース」

 

 

もちろん、これは私の想像ですので
全くの見当違いかもしれませんが。

 

ただし、彼ではない人をピエール・
ガニョールと間違った可能性はゼロです。

 

写真を御覧になればおわかりのように
彼はとても特徴的なお顔立ちですし
まさにこの出で立ちでしたので人違い
ということは絶対にありません。

 

ピエール・ガニェールに、一卵性
双生児の兄弟がいない限りはね。

 

 

ピエール・ガニョール「プレッツェル」

 

 

ただ、その時にピエール・ガニェール
が手にしていた野菜が何であったか、
私の記憶は定かではないのです。
返す返すも残念でなりません。

 

スポンサードリンク




「調香師」 

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

国家資格ではありませんが

1996年に始まった「臭気判定士」
に比べると、調香師という仕事は
多くの方に知られていると思います。

 

調香師は国家資格ではありませんが
民間の「日本調香技術師検定」という
検定が、2010年から始まりました。

 

調香師といえばすぐフランスを思い浮か
べますが、フランス南東部のグラースは
「香水の聖地」として知られた街です。

 

 

 

 

フランスの香水の3分の2以上が作られて
いるグラースは、「ル・ネ(le nez)」、
「ネ(nez)」いう「称号」をもつ人が
最も多い地域だといいます。

 

フランス語で「鼻」を意味する「ル・ネ」は
約6000種類の香りを嗅ぎ分けることができ
る嗅覚をもった調香師に与えられる称号。

 

こちらも制度としての資格ではありません
が、世界で400人ほどしかもたない「ル・ネ」
の称号は、調香師にとっての名誉ある称号
といえるでしょう。

 

 

 

 

 

「パフューマー」と「フレーバリスト」

8000種類以上に及ぶ香料の組み
合わせで香りをつくる調香師には
科学的な知識も必須です。

 

大学の理系学部か、調香師養成コースの
ある専門学校を卒業した後、香料会社等
の研究開発部門で働くのが一般的です。

 

といっても日本では、香水やフレグ
ランスを作る「パフューマー」の
仕事の求人はとても少ないのが現実。

 

 

 

 

それでも香水づくりに携わりたいと
思う人は、外国にいくという道を
選ぶこともあるそうです。

 

それに対して求人が多いのは、食品会社
や香料会社で口に入るものの香りを調合
する「フレーバリスト」と呼ばれる職種。

 

口に入るものといっても、食品という
だけではなく歯磨き粉や薬、タバコなど
の香りもその仕事に入っています。

 

 

 

 

 

嗅覚に影響しないようコンディションを整える

一人前の調香師になるには10年
ほどの期間が必要といわれます。

 

調香師にとって最も重要な嗅覚に
影響を与えないよう、風邪や寝不足等
に注意する体調管理は当然のこと。

 

その上、タバコも吸わず、辛いもの
や味の濃い食事にも注意するという
日々の弛まぬ努力が必要のようです。

 

 

 

 

 

狭き門の「ジボダン香水学校」

1946年に創立し、パリ郊外のArgenteuil
(アルジャントゥイユ)にある「Givaudan
Perfumery School(ジボダン香水学校)」
は調香師を育てる名門校です。

 

入学応募者は3000名、そのうち許可
されるのはたった3名、卒業時にはさら
に少なくなってしまうという狭き門。

 

1人も入学者がいない年もあるという
ことで本当の少数精鋭ですが、2015年
にはシンガポール校もできました。

 

ジボダンのパフューマリースクールの
学生は毎日、1つの成分を一嗅ぎし、
500余りの原材料の中から識別できる
ように自分の鼻を鍛えているといいます。

 

そして同時に、シチリア島の果樹園や
アンダルシアの農園で自然の中に身を置き
パリの美術品や近代建築の探求もします。

 

 

タッセル邸
ビクトール・オルタ設計

 

 

 

天然香料  →  合成香料

現在、売られている香水のほとんどは
科学的に合成した合成香料で作られた
ものです。

 

それ以前の香水は、自然界に存在する
植物や動物から抽出した天然香料で
作られていました。

 

天然のものですので生産量も品質も
毎年、一定というわけにはいきません。

 

ほとんどがオートクチュール社製で
フランスの貴族たちという特権階級のみが
楽しむことができたものだったようです。

 

原料が合成香料に変わってからは
品質が安定した香水を、誰もが手に
することができるようになりました。

 

 

 

 

 

フランソワ・コティ


香水を誰の手にも届くように

伝統にこだわる調香師たちが、それまで使お
うとしなかった合成香料を積極的に使ったの
が、「香水の帝王」といわれたフランソワ・
コティ(1874年〜1934年)です。

 

「シブレー調」という新しい香調を作り
だした彼は、合成香料を使うことで価格を
抑え、誰にでも手が届くものにしました。

 

また、装飾芸術家であるルネ・ラリックに
ボトルのデザインを依頼し、香水瓶を芸術
の域まで高めたことも特筆すべきでしょう。

 

 

ルネ・ラリックの香水瓶「シダ」
こちらはコティの香水ではないよう

 

 

1909年に、ラリックがデザインしたボトル
で世に出た香水「ロリガン」は、ハーブの
オレガノをにおいを効かせた東洋調の香り
で人気になりました。

 

「ロリガン」は、幕末の日本の上流階級
の女性たちにも愛されたということです。

 

 

 

エドモン・ルドニツカ


(センスは)誰にも教えることが

できないし、学ぶことはできない

 

「香水は、人に衝撃を与え、感情を
揺さぶるものでなくてはならない」

 

と言ったのは、20世紀最高の天才調香師
といわれた「偉大な調香師」エドモン・
ルドニツカ(1905年〜1996年)です。

 

1966年に発表された、ディオールの
「オーソバージュ(EAU SAUVAGE)」
は、男性用フレグランスの最高峰と
賞賛されています。

 

日本における昭和のメンズコスメの
ほとんどが、オーソバージュの影響
を受けているということです。

 

庭のスズランからインスピレーションを
得たといわれている「ディオリッシモ」
は1956年の作品。

 

 

 

 

エドモン・ルドニツカのあげる
調香師としての要件

 

1 技術的な知識
2 イマジネーション
3 芸術的な審美眼
4 才能

 

彼の息子、ミシェル・ルドニツカも現在
調香師として活躍していますが、彼は父
がよく言っていた言葉を覚えています。

 

「調香師にとって最も大切なのはそれぞれ
のもつセンスであり、それは誰にも教える
ことができないし、学ぶことはできない」
(「BRUTUS」)

 

という厳しい言葉ですが
まさにそれが真実なのでしょう。

 

 

 

調香師   ジャック・キャヴァリエ・ベルトリュード
(写真/「Pinterest」)

 

〜現代に生きる調香師たち〜

 ジャック・キャヴァリエ・ベルトリュード

「香料を調合する以上の技を
習得しないと調香師にはなれない」

 

「ルイ・ヴィトン」のマスターパフューマー
を務める彼は、「匂いが見える男」といわれ
調香界のモーツァルトと称される名匠です。

 

父親、祖父、曽祖父までもがパフューマー
という彼は、すでに8歳の時に「調香師に
なりたい」と言っていたといいます。

 

父から、一つの匂いに一つのイメージを
記憶するよう教えられた彼のラヴェンダー
のイメージは「おばあちゃん」だそう。

 

 

 

 

毎晩、父から香料を浸した試験紙を渡され
その香りの描写をノートに書き留めるのが
日課だった彼には、一つの匂いが、ある
特定の像や観念と結びついているのです。

 

「香りにルールはなく、その人の持つ
雰囲気、体温によっても変化していく。
香りはジェンダーレスであり、全てが
ユニセックスと考えることもできる」
          (「WWD」)

 

「香料を調合する以上の技を
習得しないと調香師にはなれない」

 

という父の言葉を心に刻み、技を磨いた
キャヴァリエは世界3大調香師の一人
「香りのマエストロ」と称されています。

 

 

 

調香師   クエンティン・ビスク
(写真/「VICTORINOX」)

 

クエンティン・ビスク


自分と香りしか存在しない

洞窟のような暮らしを経て……

 

劇団の運営者を経て、全てを捨てて
ジボダン調香学校へ入学し、2011年に
ジボダン社に入ったクエンティン・ビスク。

 

クロエ、イヴ・サンローラン、ミュグレー、
ミッソーニの香水を手がけて一躍有名に
なりました。

 

新作「クロエ  アブソリュ  ドゥ  パルファム」
が今年2月に発売されています。

 

彼はたくさんの香りを覚えるために
6か月間、孤独に過ごしたといいます。

 

 

 

 

「それぞれの香りを心に浮かぶイメージや
ストーリー、感覚と結びつけました。
例えば、雲の滴る緑を思い起こさせる香り、
祖母の家の庭とつながる香り、といった
具合です」(「VICTORINOX」)

 

自分と香りしか存在しない、そんな洞窟
に住んでいるかのような日々を送りなが
ら学んだクエンティン・ビスクは、今
その才能を思う存分花開かせています。

 

 

スポンサードリンク




「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」瀧瓢水

「あぷりのお茶会 赤坂・麻布・六本木」へようこそ!

 

 

 

「手に取るな  やはり野に置け  蓮華草」

少し前に「レンゲ」を御紹介した時に
この句をのせましたが、これは播磨
(兵庫県)の俳人、瀧瓢水の句です。

 

「滝野瓢水(たきのひょうすい)」と
書かれることが多いようですが、これ
は誤りで「瀧瓢水(たきひょうすい)」
が正しいそうです。

 

「蓮華草は野に咲くから美しく見えるので
あって、それを積んで家の中に飾っても
調和せず美しく見えないことから、播磨
の俳人瀧瓢水が遊女を身請けしようと
した友人を諌めた句。
自然の中で咲く蓮華草が美しいのと同じ
ように遊女は色町にいてこそ美しく見える」

 

との意味だそうですが、知りませんでした。
のんびりした素朴な句だと思っていたの
ですが、遊女の身請けをとめる句だった
のですね。

 

「此の里に  来らざるこそ  粋なるべし」
との花魁の発句に応えたものだとか。

 

教えていただいたのは「レファレンス
共同データベース」で、提供館は
「私立牛久中央図書館」です。

 

 

 

 

 

この【例文】は正しいのでしょうか?

その記載のなかに事典等の書籍ではなくネット
上の「故事ことわざ辞典」が紹介されていた
のですが、少々気になることがありました。

 

「やはり野におけ蓮華草」の
【類義】として「花は山人は里」
とあり、これはふむふむと納得ですが
気になったのは【例文】の方。

 

「やはり野に置け蓮華草で、金になるからと
いって無理をして違う業種に手を出してみて
も、まったく自分の能力が発揮できなかった」

 

と記載されているのですが、これは
例文として適しているでしょうか?
(2020年6月16日現在)

 

 

 

 

勿論、私は国語の専門家ではありま
せんが、この使い方にはすっきりと
しないすわりの悪さを感じます。

 

少々、無理やり例文を考えてみました感
も否めないような気もするのですよね、
この事例、

 

「金になるからといって無理をして
違う業種に手を出してみても、まったく
自分の能力が発揮できなかった」

 

でしたら「餅屋は餅屋」の方が
ふさわしいような気もします。

 

残念んがら私には適した例文
が思い浮かびませんが。

 

 

 

 

 

また、蓮華に戻りまして……

瀧瓢水がこの蓮華の句を詠んだ気持ちは、

 

「蓮華(遊女)は、野に咲いている(自分
のものではない)から美しいので、自分の
ものにしてはその美しさは失われてしまう」

 

はまことにもっともで、どこからも
反対意見は出なそうな正論です。

 

ですがこの出来事、私には森鴎外の
『舞姫』の最後の文を思い出させもします。

 

「ああ、相沢謙吉がごとき良友は
世にまた得がたるべし。
されどわが脳裏に一点の彼を憎む
心今日まで残りけり。」
        森鴎外『舞姫』

 

 

 

 

『舞姫』では別れさせたのが友人の
相沢謙吉であり、「蓮華草」の句では
瓢水が身請けを止めた方という違いは
ありますが。

 

_____________________________________________________________
         (とめた人)
作者・鴎外ーエリス  友人・ 相沢謙吉

(とめた人)
作者・瓢水      友人ー遊女

 

 

蓮華草を手に取ることのなかった
瓢水の御友人は後になって、このことを
どのように回想していたのでしょう。

 

 

 

 

最後に、森鴎外の蓮華(ゲンゲ)
の句を御紹介します。

 

「うらゝかや  げんげ菜の花  笠の人」

 

 

スポンサードリンク