加賀藩3代藩主・前田利常(1/3)

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関ヶ原の戦いの数年前に生まれた前田利家の四男

加賀藩3代藩主の前田利常は、息子の大聖寺藩・初代藩主の
前田利治に九谷焼の窯を築窯させ、長崎にお買物師の常駐を
任じ、オランダのデルフト焼を日本で初めて注文した大名です。

 

注文は4代藩主の光高のでしたが、実際のところは顧問を
務めていた利常の指図のもとで行われ、利常は手に入れた
デルフト焼の意匠を九谷焼の参考にしたともいわれています。

 

利常が前田利家の四男として、利家の正妻・まつ(芳春院)
の侍女だった千代(寿福院)から生まれた時、将来
利常が藩主になろうとは、誰一人思いませんでした。

 

 

まつ(芳春院)

|ーーー利長(長男) 2代藩主

|ーーー利政(二男) 七尾城主

|ーーー幸姫(長女) 前田長種に嫁ぐ

|ーーー蕭姫(二女) 中川光重に嫁ぐ

|ーーー摩阿姫(三女)秀吉の側室、後に
|          万里小路充房に嫁ぐ

|ーーー豪姫(四女) 秀吉の養女となり
|          宇喜多秀家に嫁ぐ

|ーーー与免(五女) 浅野幸長と婚約するも
|          若くして亡くなる

|ーーー千代姫(六女) 細川忠隆に嫁ぎ、
|           後に村井長次に嫁ぐ

—————————————————–
*前 田 利 家(1537〜1599)1538、39年生説も
—————————————————–
 |     |     |     |
 |ー知好  |ー利常  |ー利孝  |ー利貞
 |(三男) |(四男) |(五男) |(六男)
 |     |     |     |
金晴院   寿福院   明運院   逞正院

 

 

利常が生まれた時、父・利家は56歳。
誕生のしばらく後、利常はまつ(芳春院)の長女・幸姫と夫
の前田長種のいる越中守山で養育されることになりました。

 

利常が父と初めて会ったのは、長種の
もとにいた1598(慶長3)年、5歳の時。
その翌年に、利家は亡くなりなっています。

 

 

利常がオランダのデルフトに注文したといわれる
「和蘭陀白雁香合(おらんだはくがんこうごう)」
石川県立美術館

 

 

 

前田利常(まえだとしつね 1593〜1658)

幼名は「猿千代」、初名は「利光」。
1605(慶長10)年、2代・利長が隠居し、利常が藩主に。

 

1623(元和9)年に、3代将軍・家光が就任後、
1626(寛永3)年、「光」の字が名前の下になるのは無礼
ということから、諱(いみな)を「利常」に改めます。

 

 

同年、従三位権中納言。
1639(寛永16)年に小松城で隠居。

 

1645年(正保2)年に、4代・光高が急死。
5代・綱紀が3歳だったことから、家光の命令で後見人に。
綱紀の正室に家光の弟の保科正之の娘・摩須姫を迎える。

 

1658(万治元)年、66歳で死去。
法号は微妙院。

 

 

 

 

謀反の嫌疑をかけられ、まつは人質に

1599(慶長4)年の利家の死後、半年ほど経った頃、
2代藩主となっていた利長が家康の暗殺を企てていると
の密告により、家康は前田家征伐の意思を表明します。

 

これに驚いた利長は、嫌疑を晴らすために使者を家康
のもとに送り、母のまつを人質として家康のいる江戸へ
送るということで解決をみました。(『前田家雑録』)

 

「(慶長五年)三月利長、横山長知及び有賀直政を
大阪に遣り家康に謁して和親を締せしめ、遂に芳春院
を徳川氏に質たらしめ、これに代ふるに秀忠の女を
利長の弟利常の配として迎へ、以て二氏の親眤を
繋がんことを約し、芳春院も亦家門の存亡に關する
大事なるが故に、敢えて関東に赴かんことを諾せり。
是を以て五月二十日芳春院は村井長頼をs
従へて伏見を発し、六月六日江戸に入る。
これより前田氏の死命全く徳川氏に制せらる。
諸侯の妻子を証人として江戸に置くの例、
亦是を以て權輿となす。」

 (石川図書館 石川県史・第二編 加賀藩治創始期)

 

 

 

 

 

利長の死去後、人質を解かれる

まつは翌1600(慶長5)年に
「侍は家を立てることが第一。されば我を捨てよ」
              (『加賀藩史料』)
と言い残して江戸にたち15年間の人質生活を過ごします。

 

人質生活中に2代藩主・利長が亡くなると、まつは
利長亡き今、私は人質として江戸にいる意味がないので
願わくば、現藩主・利常の母を金沢から江戸に呼び
私を国に返してくださいとの意を願い出て許可されます。

 

 

 

 

「利長の薨じたる後、六月上旬芳春院は將軍秀忠に
請ひて曰く、今や利長已に空しく、妾にして江戸に
在るも質として何等の價値あることなし。
願はくは今侯利常の生母壽福院を金澤より出府せしめ、
妾に暇を賜ひて國に就かしめよと。」    (同上)

 

金沢にまつが戻ったのは、1614(慶長19)年、68歳の時、
代わりに利常の母・千代(寿福院)が江戸上屋敷に到着。

 

まつは、1615(元和元)年に豊臣氏が滅亡た2年後の1617
(元和3)年に秀頼の妻に会った後、71歳で亡くなりました。

 

 

 

 

 

利常は丹羽長重の人質に

1600(慶長5)年9月、関ヶ原の戦い直前に起きた
前田利長(東軍)と丹羽長重(西軍)の「浅井畷(なわて)
の戦い」の後、敗北した長重は東軍との講和を望んだだめ
利常は人質として長重のもとに送られることとなりました。

 

1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いでは、利長は東軍につき、
弟の利政は西軍でしたが、利長が東軍についたことを重く
みた家康は、前田家を32万石から120万石へに加増。

 

家康はその際、利長に条件をつけたといいます。
「利長は隠居し、家督は利常に譲る」ことと、
「利常は家康の孫娘を正室とする」ことを。

 

 

 

 

 

家康の孫娘との婚姻、3代藩主になる

1601(慶長6)年、利常は兄・利長の嗣子となり、名を
「利光」と改め、家康の孫娘である秀忠の娘を迎えます。
その時、利常は7歳、珠姫にいたってはわずか3歳でした。

 

そして4年後の1605(慶長10)年6月、利長は10歳を過ぎた
利常に家督を譲り、自らは20万石の富山城主として隠居。

 

大坂冬の陣の前年にあたる1614(慶長19)年、
利長は豊臣方に、味方につくよう説得されます。

 

 

140909tubuyorikomati

 

 

その時、利長は「自分は味方するが、利常は徳川の婿に
あたるので味方できない」と繰り返し答えたといいます。

 

徳川から正室を迎えた藩主の立場を配慮する
利長は、幕府から再び謀反の嫌疑をかけられる
ことを恐れて、20万石も自ら返上しています。

 

また冬の陣の直前には、らい病で身動きすらできない体
をおし、自らの身柄を京都所司代に預けようとした利長は
冬の陣の直前、1614(慶長19)年5月に亡くなりました。

 

 

 

 

 

家康の気がかりは有力外様大名

1614(慶長19)年の大坂冬の陣、翌1615(元和元)年
の夏の陣によって豊臣家は滅亡します。

 

1616年には天下統一を果たした家康が、死を迎える際
に気がかりだったのは、有力な外様大名のこと。
利常を臨終の床に呼び寄せた家康はこう言ったといいます。

 

「お前をなんども殺してやろうと思ったが、利常に嫁いだ
珠姫の父・秀忠が反対するので助けてやったのである。
これを恩義に思って秀忠に使えるように」と。
                 (『拾纂名言記』)

 

 

 

 

この時に利常と同じ豊臣の家臣であった外様大名の
肥後藩主・加藤忠弘と、安芸藩主・福島正則も
家康に呼ばれて同様の言葉を伝えられています。

 

二代将軍の秀忠の時代に、52万石の加藤忠弘が、
三代将軍の家光の代には、50万石の福島正則が
それぞれ改易されていますので、120万石の前田家が心穏やか
ならぬ日々を過ごしていたのは想像にかたくありません。

 

そして案の定といいますか、三代・家光の代になり
前田家に再び謀反の嫌疑がかけられてしまうのですが
長くなりましたので、それは次回にお話ししましょうね。

 

   (参考/宮元健次「加賀百万石と江戸芸術
     前田家の国際交流」人文書院 2002
    磯田道史『殿様の通信簿」新潮社2006
    石川県立図書館・石川県史)

 

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「古九谷」 前田家と鍋島家の繋がり

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次郎左衛門雛 加賀藩前田家「成巽閣」

 

 

 

古九谷と鍋島家の関係

今回は、前回の古九谷論争に関して
触れられなかった部分をご紹介します。
「古九谷論争『古九谷の真実に迫る』から」

 

九谷焼は、加賀藩とその支藩である大聖寺藩の
二つの前田家なくして語ることはできませんが、
実はそれに加えてもう一つの家が関わっていました。

 

それは日本初の磁器、有田焼をつくりだした
ともいうべき佐賀(肥前)藩の「鍋島家」です。

 

 

 

伊万里焼「色絵蓮池翡翠文皿」
江戸時代 17世紀中葉 径36.4㎝ 日本民藝館

 

 

 

「鍋島焼」「伊万里焼」「有田焼」

この3つの名称について、混乱があるといけません
ので、最初に言葉の説明を簡単にしてみましょう。
九州の有田で焼かれているものは有田焼と呼ばれます。

 

江戸時代、有田焼は伊万里津(港のこと)から出荷
されたので「伊万里焼」ともいうようになりました。
ということで「有田焼」=「伊万里焼」ですね。

 

また有田焼の中でも、鍋島藩が商品としてではなく
将軍家へ献上等のために、藩窯で独自に焼かせた
ものを指して「鍋島焼」といいます。

 

(ただし「鍋島焼」の名称は大正時代以降にできたもの
で当時、鍋島藩内では「大河内焼(おおかわちやき)」
「大河内御磁器」といわれていたといいます)

 

現在は鍋島藩窯はありませんが
鍋島焼という名称は残り焼かれています。
今回のお話は勿論、鍋島藩窯の鍋島焼のこと。

 

 

 

鍋島焼「色絵宝尽文皿 」
ロサンジェルス・カウンティ美術館

 

 

 

磁器づくりのきっかけは鍋島直茂から

日本で初めて焼かれた磁器の有田焼は、鍋島直茂が1592年
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、捕虜として連れてきた
朝鮮人陶工・李参平(鐘ケ江三平)がつくりました。

 

佐賀藩の鍋島藩窯は、1652〜1654年(承応年間)に
有田の岩谷河内(いわやごうち)に御用窯を作り、
1661〜1672年(寛文年間)に伊万里の
大川内山(おおかわちやま)に移転しています。

 

1651(慶安4)年6月に、徳川家光の内覧を受けた後、
鍋島焼が正式に献上されていますので、その時点では
もう実質、鍋島藩窯はできていたことになります。

 

 

 

鍋島焼「青磁染付桃文皿」
元禄(1688-1704年)
口径14.7cm 高3.7cm 高台径7.4cm

 

 

 

佐賀藩 初代・勝茂、2代・光茂

朝鮮出兵の際に朝鮮人陶工を連れ帰った鍋島直茂は
肥前佐賀の領主として鍋島家の基礎を築いた「藩祖」
とされており、初代藩主は、直茂の子・勝茂。
勝茂の正室は秀吉の養女で、側室は家康の養女です。

 

勝茂の子・忠直は20代の前半に亡くなったこと
から、2代藩主は、忠直の子・光茂が継ぎました。
光茂の正室は米沢藩2代藩主・上杉定勝娘の虎姫。

 

鍋島直茂(1538-1618) 朝鮮人陶工を連れてきた
1勝茂(1580-1657) 鍋島藩窯を作った
* 忠直(1613-1635)
2光茂(1632-1700)

 

 


鍋島焼「色絵野菜文皿」
江戸時代前期 出光美術館蔵

 

 

 

初代・勝茂の娘の子「虎」が、2代藩主・光茂の妻

佐賀藩初代藩主・勝茂の娘「市」は、出羽米沢藩・2代藩主
の上杉定勝に嫁ぎ、「徳」と「虎」という娘をもうけます。
定勝には、市が母親ではない「亀」という娘もいました。

 

 

 鍋島直茂(1538-1618)
     |
 1勝茂(1580-1657)
     |
      _______
     |      |   米沢藩2代藩主
  忠直(1613-1635) 市ーーーー上杉定勝ーー◯
     |        | |     |
     |              
     |
     |
 2光茂(1632-1700)ーー
            |
            |
       3綱茂(1652-1707)

 

 

市の娘「虎」は、2代藩主となった光茂とは
いとこにあたりますが、光茂に嫁いでいます。
鍋島家からきた母の実家へ戻ったかたちになりますね。

 

ここまででは前田家は登場していませんが、虎の姉・徳
と、妹・亀の二人が前田家に輿入れをしているのです。

 

しかも、大聖寺藩の初代と2代藩主という兄弟に、
徳と亀の姉妹が嫁いだということになります。
それでは次に、前田家をみてみましょう。

 

 

九谷焼「百合図平鉢」
石川県九谷焼美術館蔵

 

 

 

九谷焼の窯を作った前田家

加賀藩前田家の4代藩主までの系図は以下の
通りで、前田利家の子・利長が2代藩主です。

 

3代藩主は2代藩主の弟・利常が継いでいます。
別の弟の利孝は、支藩の七日市藩の初代藩主。

 

加賀藩3代藩主の子、光高が4代で、
その弟・利次が、支藩である富山藩初代、
別の弟・利治も、支藩の大聖寺藩の初代となっています。

 

 

      1前田利家加賀
          |
          |
  ________________________________________________ 
* |   |   |    |   |   |
2利長  利政  知好  3利常  1利孝 利貞
加賀)          (加賀) 七日市
             |
             |
      _______________
     |    |    |    |
    4光高  1利次  1利治  2利明
     (加賀)    富山  (大聖寺)(大聖寺
                    |
                   3利直
                  (大聖寺

 

 

濃いブルーで表示をした、「利治」が藩主の
大聖寺藩が、古九谷を焼いた窯を作りました。

 

この大聖寺藩は、1871(明治4)年の廃藩置県で
大聖寺県となるまで(後に金沢県に編入され、
石川県と改称)14代にわたり前田家が治めています。

 

上の図から、七日市藩と富山藩を除いて、
九谷焼に関わる大聖寺藩と加賀藩のみ
を抜き出してみると下のようになります。

 

 

     1前田利家
       |
     ___________________
   |       |
   2利長    3利常 
           |
       __________
     |    |    |
    4光高  1利治  2利明
               |
              3利直

 

 

加賀藩の3代藩主・利常の子・利治が大聖寺藩の
初代となり、利治に子どもがなかったことから
2代は、利治の弟・利明が継ぎました。

 

 

 

九谷焼「莢豆図甲鉢(さやまめずかぶとばち)」
口径 18.9cm 底径 7.9cm 高さ 10.2cm
石川県九谷美術館蔵

 

 

 

加賀藩・利常の支援により大聖寺藩がつくった九谷焼

九谷焼の初期の作品、現在「古九谷」と呼ばれ
ているものが焼かれていたのは、大聖寺藩の
初代・利治と、2代・利明の兄弟の時代にあたります。

 

父である加賀3代藩主・利常の支援によって
利治、利明兄弟が関わったことになりますが
50年後に突然、窯は閉鎖。

 

その理由は不明ですが、大聖寺藩・2代藩主の利明の
死が影響したともいわれるほどで、加賀藩主の父と、
子の大聖寺藩主の利治、利明の強い関わりが伺えます。

 

 

 

「雛人形」次郎左衛門雛 佐賀藩鍋島家「徴古館」

 

 

 

「鍋島家」の二人の孫娘は「前田家」へ

古九谷の窯をつくった大聖寺藩の二人の
藩主に嫁いだのが、上杉定勝の娘でした。

 

初代藩主・利治の妻には「徳」、
2代藩主・利明には「亀」と。

 

家系図というのは、なんとも分かりづらいもの
ではありますが、前田家と鍋島家を並べて
書いてみました(余計、わからない?)。

 

 

 1前田利家
    |
    _______________
  * |      |
  2利長   3利常   
*        |
    ____________________________
*  |   |(大聖寺藩) |(大聖寺藩)
* 4光高  1利治ーー  2利明ーー
 

           
                          

 鍋島直茂             
  |                 
 1勝茂              
  |               
  忠直ーーー 市ーーーーーー上杉定勝ーー◯
  |         |  |       |
  |                  
** 
  |         
 2光茂ーー虎    

 

 

 


「雛人形」次郎左衛門雛  預玄院所縁(よげんいん)「成巽閣」
上の写真は「鍋島家」の、こちらは「前田家」のお雛様です

 

 

 

3姉妹の2人は「前田家」、1人は「鍋島家」へ

これを上杉定勝からみてみますと、娘の
徳の夫が、前田利治(大聖寺藩・初代藩主)
虎の夫が、鍋島光茂(佐賀藩・2代藩主)
亀の夫が、前田利明(大聖寺藩・2代藩主)となります。

 

 

* 鍋島勝茂の娘
  市ーーーーーーーー上杉定勝ーーーーーー◯
   |      |      |
   徳ー前田利治 虎ー鍋島光茂 亀ー前田利明

 

 

鍋島光茂からいいますと
前田利治(大聖寺藩・初代藩主)は、妻の姉の夫、
前田利明(大聖寺藩・2代藩主)は、妻の妹の夫、
ということ。

 

上杉家を間に挟んで、鍋島家と前田家の
深い繋がりが生まれることになったのです。

 

 

佐賀藩鍋島家の家紋「杏葉」

 

 

 

鍋島家と前田家と、それぞれの焼物

もっとも両家の親しい関係は、この婚姻によって
生じたというよりは、それ以前からの近い関係がこれら
の婚姻を成り立たせたという方が正確かもしれません。

 

加賀藩・2代藩主の利長の後を、利常が継ぎ
徳川秀忠の娘・珠姫を迎える際にも、前田利長は
慶事に必要な唐物を、鍋島勝茂に依頼しています。

 

前田利長とその子・利常が、鍋島勝茂と親交があった
事実に加え、複数の婚姻によって結ばれた両家の繋がり。
それは、それぞれの焼物にも影響を与えたと
考える方が、むしろ自然に思えます。

 

 

 

古九谷「青手桜花散文平鉢」
石川県立美術館所蔵

 

 

 

スタートについた「古九谷論争」

これについて中矢進一(石川県九谷焼美術館副館長)氏
は「古九谷の真実に迫る」の中でこのように述べています。
多くの方も同じお考えと思われますので
これをご紹介して終わりましょう。

 

「それぞれを領する大名同士が姻戚関係にあった
 という歴史的事実、背景といったものを踏まえた
 上での論考というものが、必ずこれから以降は
 必要になってくるんだろうというふうに
 考えております」

「この問題は短兵急に結論を出す問題ではなくして
 両産地の、いわゆる交流のもとにそういった
 ものが生まれたんではないか、そしてこの加賀
 前田家という加賀文化を育んだ前田家を抜きに
 して、最高級品である古九谷の百花手だとかは
 (略)生まれてこなかったのではないかという
 指摘もされております。
 真の意味での古九谷、それは一体何か、
 これを探る作業が色々スタートしたんだ
 というふうにいえるのではないでしょうか」

 

     (参考 /「古九谷の真実に迫る」

 

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古九谷論争 「古九谷の真実に迫る」から

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古九谷「青手桜花散文平鉢」
石川県立美術館所蔵

 

 

「古九谷の真実に迫る」

「石川県の九谷焼の初期の古九谷は佐賀県の有田で
焼かれていた」という「古九谷論争」は、昭和20年代
に始まり現在に至るまで続いているようです。

 

有田と九谷双方での発掘調査により、古九谷は有田で
焼かれたもの、という説が有力になりました。

 

これに疑問を感じる人々の意見として今日は
「古九谷の真実に迫る」というサイトから
いくつかの視点をご紹介したいと思います。

 

 

 

有田焼(伊万里焼)
「色絵菊文輪花大皿」青手 1650年代

 

 

 

定説となっている「伊万里焼古九谷様式」

まずその前に、伊万里焼の流れを簡単に見てみますと、
朝鮮出兵の際に鍋島直茂が連れて来た朝鮮人陶工・李参平が
陶石を発見し、日本で初めて磁器を焼いたのが1610年頃。

 

最初は藍色のみで模様が描かれていたものに色が加わって
後に「鍋島」「柿右衛門」「古伊万里金襴手」と発展するの
ですが、問題は緑色の「初期色絵(古九谷)」の部分です。

 

古九谷は「有田焼の初期色絵」との位置付けになっていて
「伊万里焼古九谷様式」(「有田古九谷様式」ともいう)
研究者の間では定説なっているということなのですが。

 

 

1600年 _____________________

          初期伊万里

         初期色絵(古九谷)

1650年 _____________________

 大河内山  南川原山  内山・外山  武雄市など
  鍋島   柿右衛門    |      |
  |      |     |      |
  |       古 伊 万 里 金 蘭 手
1700年 _____________________

 

 

「古九谷の真実に迫る」は全部で10人の方との対談形式で
まとめられていますが、詳しくはサイトをご覧いただくと
しまして、私が面白いと思った点を箇条書きにしてみました。

 

 

 

「古九谷の真実に迫る」

1 意外なことに、古九谷論争は、有田と九谷の
 産地間の論争ではないということ

 

二羽 喜昭(『古九谷論争の真実』著者)

「ひとつおかしいのは、この古九谷論争って
 いうのは、石川県の産地と、有田の産地で
 争ったものじゃないんです。
 これはいわゆる、石川県と学会の対決というか、
 あるいは伊万里焼の研究者のグループとの対決
 と言ってもいいものだったんですよね」

 

 

初期伊万里「染付山水図大鉢」江戸時代
重要文化財 (写真/「文化遺産オンライン」)

 

 

 

2 最初から「古九谷は全て有田焼であった」との
 結論ありきで行われた学会だったとの指摘

 

二羽 喜昭(『古九谷論争の真実』著者)

「1991(平成3)年に九州の陶磁文化会館で
 学会が2日間にわたって行われたんですけど、
 これはもうすでに古九谷を伊万里焼にする
 という前提のもとで華々しく行われたんです」

 

 

伊万里焼「色絵蓮池翡翠文皿」
江戸時代 17世紀中葉

 

 

 

3 有田の登り窯で色絵磁器の破片が発見された
 ことから古九谷=有田になったそうですが
 そもそも九谷焼の絵付けは登り窯では焼かない

 

二羽 喜昭(『古九谷論争の真実』著者)

「実はあの色絵というのは登り窯で焼くというのは
 あり得ないんですね。(略)九谷焼の特徴の上絵
 というのは登り窯で焼かないんですね。
*  (略)伊万里でも上絵窯をやってきた人はたくさん
 おるわけですから、その人たちがその理論の中に
 加わっておれば、決して、今問題になっておる、
 伊万里焼古九谷論争っていうのは生まれなかった
 だろう。
 というのは、実体験の人がおいでるわけですから、
 そんなあんた、登り窯で焼くのなんかおかしいん
 じゃないかと言ってストップかければそれで
 終わったはずですね。
 ところが、それがなかったばっかりに、これだけ
 エスカレートした。
 それで、なんか発言されている人たちの人選を見ても、
 色絵がわかったと言う人はおいでないんですね。
 だから、そういう支持に回ったんだろうと思います」

 

 

 

古伊万里「色絵荒磯文鉢」金襴手
江戸時代 18世紀 根津美術館蔵

 

 

 

4 放射化分析により、素地、絵付け共に
 九谷と証明されたものが存在する事実

 

北出 不二雄(元金沢美術工芸大学学長)

「(微量しか含まない元素を分析する、放射化分析
 という分析によって)九谷と伊万里との素地を
 判別することができるという話がありまして
 (東京理科大学の中井泉教授により)

 九谷であるということが分析の結果証明された」

 

 

 

鍋島焼「色絵野菜文皿」
江戸時代前期 出光美術館所蔵

 

 

 

5 有田焼の作家も、古九谷と認定された作品を見て
 「有田で焼かれたものではない」と言っている

 

徳田 八十吉(重要無形文化財い 人間国宝)

「有田焼の作家も言っているんですよ、はっきりと、
 最近古九谷と認定されているものの中に、どう考え
 ても有田でないものが入っていると、柿右衛門さん
 も、言っているし、井上萬二さんも言っている。
 だって彼らちゃんと見りゃ分かりますからね」

 

 

 

有田焼 柿右衛門様式「色絵花鳥文皿」

 

 

 

6 有田と九谷では描かれるもの、描き方が異なる

 

北出 不二雄(元金沢美術工芸大学学長)

「(古九谷の色絵の特色は)写実性の強い絵を描いておる。
 模様というよりは、絵を描いているというところが、
 非常に九谷の特色として大きなものだと。
 では柿右衛門はどうだといいますと、柿右衛門も確かに
 絵を描いております、たとえば岩に鳥が止まって、
 そこに花木が生えておって赤いきれいな花が咲いている、
 というような模様のあり方、一つのパターンとなった
 ものは全く柿右衛門様式といわれる、一つの独特の
 雰囲気といいますか、そういうものを持っておりますね。
 ところが九谷の場合(略)模様というのは、一つ一つ
 違う訳です。
 いかにも絵画、その当時の絵画からとってきたような
 模様が描かれておる。
 時代に応じていくらか違ってくるけれども、そういう
 模様構成のあり方というものは、九谷独特のものが
 あるというふうに思っております」

 

 

 

「青い桜」と呼ばれる古九谷「青手桜花散文平鉢」
石川県立美術館所蔵

 

 

 

7 古九谷は一枚一枚が絵画

 

高田 宏(石川県九谷焼美術館館長)

「(有田焼は)もっと様式化されたもの、そして
 従来の周辺にある美意識と深くつながっている。
* 『青い桜』は伊万里の伝統美意識の中に生まれて
 くるはずがない、またそういうものをあれも
 初期伊万里とか伊万里の古九谷様式だとか
 言おうとするのは、言うも愚かなばかばかし
 すぎて、論争する気にもならない。
 たとえばピカソとゴッホが違うということすら
 分からないような意識でしかないんじゃないか
 という、そういう気がしますね、
 だから古九谷とりわけ九谷焼全体の中で、
 古九谷しかも青手古九谷は、ぼくはこれは
 すぐれて絵画だと思いますね。
 たまたま、描く場所が磁器の上だったわけで、
 作品の本質としては絵画作品だと思っています」

 

 

 

九谷焼 吉田屋窯「百合図平鉢」
石川県九谷焼美術館所蔵

 

 

 

8 有田で、1640年から20年間だけで消え不自然さ

 

二羽 喜昭(『古九谷論争の真実』著者)

「柿右衛門様式というのは、だいたい1660年から、
 ヨーロッパのほうへどんどん輸出されたんですね。
 ところが、その輸出されていくものの中に、
 いわゆる古九谷様式というものはないんです。(略)
 それでどうしてもその前に入れる必要があって
 入れたんだろうと。
 それから、そのいわゆる古九谷が制作された
 という期間ですけれども、1640年から1660年
 という20年の間なんですよね。
 で、この間にあのすばらしい古九谷が栄えて、
 途絶えて、そして新しい柿右衛門様式が生まれた、
 というのは、これはどうも説明がつかないことが
 ありますね」

 

 

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なおここで、有田の初期色絵について、最初にあげたもの
とは異なり、初期色絵を「古九谷」と表示しないものが
陶磁器の本にありましたので、参考に載せておきます。

 

「有田焼の流れ」
           初期伊万里
          (17世紀前半)
             ↓   染付磁器
 初期色絵        ↓   色絵の誕生
(17世紀半ば)
   ↓       柿右衛門様式
   ↓       (1670〜90)
鍋島焼             ↓
 ↓               ↓   海外へ輸出
 ↓ 日本風の作風     金蘭手様式
 ↓ 拘った絵柄  (17世紀末〜18世紀)
 ↓ 精巧な作り        ↓
               有田焼
          (19世紀 明治以降)

(じゅわ樹「日本の陶磁器の鑑賞のコツ70」メイツ出版)

 

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9 加賀藩と大聖寺藩の前田家の大きな関わり

 

荒川 正明(出光美術館主任学芸員)

「加賀と大聖寺の前田家がおそらく、かなり関わりの
 中で作っていったのだと私も考えています。
 特に前田藩邸から出ました五彩手の最高クラスですね、
 百花手、幾何学手、九角手、そういったものがほかの
 大名家には出ておりません。
 おそらく前田家の注文のもとに作られた可能性が
 高いのではないかと思っております。
 そのような日本の陶芸史における金字塔と言われる
 ような古九谷という器を作らせていった前田家、
 その美意識と熱意には本当に驚くべきものがある
 かと思います。

 

 

 

      1前田利家加賀
          |
          |
  ________________________________________________ 
* |   |   |    |   |   |
2利長  利政  知好  3利常  利孝  利貞
加賀)          (加賀
             |
             |
       _______________
       |   |    |    |
      4光高  利次  1利治  2利明
      (加賀)    (大聖寺)(大聖寺
                     |
                    3利直
                   (大聖寺

 

    (利家の子・利孝は七日市支藩の初代藩主に、
     利常の子・利次は富山支藩の初代藩主になって
     いますが、煩雑なりますので記載していません)

 

 

 

まとめ

以上の事柄を簡単まとめてみますと
「そもそも九谷論争は九谷と有田の産地間ではなく
石川県と学会、伊万里焼の研究者のグループとの対決」
であり「最初から『古九谷は全て有田焼であった』
との結論ありきで行われた学会」。

 

産地間の争いでなかったからこそ
「有田の登り窯で色絵磁器の破片が発見された
ことから古九谷=有田になったものの、
そもそも九谷焼の絵付けは登り窯では焼かない」
という重要な視点も抜け落ちてしまった。

 

 

 

九谷焼 吉田屋窯「莢豆図甲鉢(さやまめずかぶとばち)」
石川県九谷美術館所蔵

 

 

 

「放射化分析により、素地、絵付け共に
九谷と証明された」ものが存在し、
「有田焼の作家も古九谷と認定された作品を見て
有田で焼かれたものではないと言っている」上に、

 

描かれた絵についても、中国磁器がお手本だった
伊万里の柿右衛門様式と、1つ1つが絵画のような
描き方をする古九谷とは根本的に異なっている。

 

しかも伊万里で1640年から1660年というわずか
20年間のみ作られただけで終わり、柿右衛門様式
へと変わっていったという流れはかなり不自然
ということになるでしょうか。

 

 

古九谷「青手土坡に牡丹図大平鉢
(あおてどはにぼたんずおおひらばち )」
石川県九谷美術館所蔵

 

 

九谷焼に関しては、加賀藩と大聖寺藩の前田家が深く
関わっていたことはよく知られていますが、実はそれ
のみならず鍋島藩との関係も重要だということです。

 

今日は長くなりすぎましたので、そちらは
次回にご紹介することにしましょう。

 

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