九谷焼の歴史(古九谷〜再興九谷)

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吉田屋窯「百合図平鉢」
石川県九谷焼美術館所蔵

 

 

 

九谷焼の歴史

九谷焼の始まりから現在までの流れを、

1「江戸時代初期〜中期」と
2 一時中断後の「復活」、
3 そして「大聖寺藩がなくなった明治時代以後」

の三つに分け江戸時代を中心にまとめてみました。

 

 

 

      1前田利家加賀
          |
          |
  ________________________________________________ 
* |   |   |    |   |   |
2利長  利政  知好  3利常  利孝  利貞
加賀)          (加賀
             |
             |
       _______________
       |   |    |    |
      4光高  利次  1利治  2利明
      (加賀)    (大聖寺)(大聖寺
                     |
                    3利直
                   (大聖寺

 

* (なお、利家の子・利孝は七日市支藩の初代藩主に、
*  利常の子・利次は富山支藩の初代藩主になって
*  いますが、煩雑なりますので記載していません)

 

 

 

1 1655(明暦元)年頃〜1710(宝永7)年頃

九谷焼は、加賀藩の支藩である大聖寺藩領内の九谷村で
磁器の原料である陶石が発見されたことから始まります。

 

加賀藩前田家の支援のもとに、大聖寺藩の初代
藩主・前田利治(としはる)、2代藩主・利明が
焼かせたものですが、築窯に際し、大聖寺藩士
を有田に修行に出します。

 

九谷金山の鋳金師だった後藤才次郎が、肥前磁器
(有田焼、伊万里焼)の産地で技術を習得後、
加賀国江沼郡九谷村(現在の石川県江沼郡山中町
九谷)の藩窯で焼き始めたことから「九谷焼」
と呼ばれるようになりました。

 

 

 

古九谷「青手桜花散文平鉢」石川県立美術館所蔵

 

 

 

1655(明暦元)年から1657(明暦3)年頃に
始まった九谷焼ですが、50年ほど経ったあとに
突然、作られなくなってしまいます。

 

理由としては、大聖寺藩の財政の問題とか、藩政の混乱、
幕府の干渉などが挙げられていますが、正確なことは
わからずに、現在に至るまで謎に満ちたまま。

 

この時期に作られたものは九谷焼の中でも「古九谷」
と呼ばれ珍重されていますが、ニセモノも多いといいます。

 

100年後に吉田屋窯で九谷焼が復活しますが
その少し前に、九谷ではなく金沢で加賀藩窯の
「春日山(かすがやま)窯」が1807(文化4)年
開かれ、京都から青木木米を招き赤絵、
金襴手を
作りましたがほどなくして閉窯。

 

 

 

古九谷(青手)
「青手土坡に牡丹図大平鉢(あおてどはにぼたんずおおひらばち)」
口径 43.5cm 底径 17.8cm 高さ 10.2cm
(写真/「石川県九谷焼美術館」)

 

 

 

2 江戸時代後期に復活
「吉田屋窯」→「宮本屋窯」→「松山窯」→「九谷本窯」

⑴「吉田屋窯」1824(文政7)年〜1831(天保2)年

一時期途絶えていた九谷焼が
100年の時を経て復活します。

 

1824(文政7)年に窯を作ったのは、大聖寺の城下町
に住む豪商の豊田家(屋号 吉田屋)の4代・吉田屋
伝右衛門(よしだやでんえもん)です。

 

古九谷に魅せられた伝右衛門は、その再興を願って
私財を投じて九谷古窯跡の隣に窯を作ります。
その時、伝右衛門は72歳。

 

窯の完成の2年後には、山代村の越中谷に窯を移し
ますが、名称はそのまま「九谷焼」と称されました。

 

 

 

吉田屋窯「莢豆図甲鉢(さやまめずかぶとばち)』
口径 18.9cm 底径 7.9cm 高さ 10.2cm
(写真/「石川県九谷焼美術館」)

 

 

採算を度外視し、高品質の焼物を追求していた
「吉田屋窯」の作品は好評を博しましたが
巨額の投資は吉田屋の経営を圧迫して行きます。

 

4代・伝右衛門の死去もあり窯は7年でその歴史
を閉じていますが、吉田屋伝右衛門なくしては
現在の九谷焼はないといわれるほど。

 

吉田屋窯の作品の特徴としては緑、黄、紫、
紺青の四彩を用いて器の全面を塗りつめる
色絵が多く、赤を用いずに青い印象を受ける
ところから「青九谷」と称されます。

 

 

 

 

 

 


⑵「宮本屋窯」1832(天保3)年〜1859(安政6)年

「吉田屋窯」の現場の支配人だった宮本屋宇右衛門
(みやもとやうえもん)が、吉田屋窯を
「宮本屋窯」として再開することになりました。

 

最初は吉田屋風の青手も作っていましたが、加賀藩の
影響や絵付け職人の飯田屋八郎右衛門(いいだや
はちろうえもん)が赤絵の緻密な描写を得意としたこと
から、次第に赤絵の作品が多く作られるようになります。

 

しかし天保大飢饉や天保の改革などから、経営状態が
厳しくなっていた宮本屋窯は、宮本屋宇右衛門の死後
に跡を継いだ弟の理右衛門も亡くなり閉じられました。

 

 

 

松山窯(青手)
「双馬図平鉢(そうまずひらばち)」
口径 36.0cm 底径 19.0cm 高さ 6.5cm
石川県九谷焼美術館所蔵

 

 

 

⑶「松山窯」1848(嘉永元)年〜1872(明治5)年頃

大聖寺藩が江沼郡松山村で山本彦左衛門に
命じて、藩窯「松山窯」を作らせます。

 

九谷原石に吸坂村の陶土等を混ぜて作った素地が
灰色がかっていたことから鼠素地と称されました。

 

青手古九谷や吉田屋窯の様式を踏襲した、赤を用いない
九谷四彩の作品を作り、紺青は花紺青といわれる不透明
な水色をしているものが多く、黄緑色も使用しています。

 

大聖寺藩は衰退した宮本屋窯を九谷本窯とする
ことに決定したため、松山窯は次第に衰退。
最後は民窯として日常雑器を焼いていたということです。

 

 

 

九谷焼(赤絵)
「赤地金襴手花唐草文鉢」
永樂和全作 明治4年(1871)

 

 

 

⑷「九谷本窯」1860(万延元)年頃〜1879(明治12)年

大聖寺藩は経営困難に陥っている宮本屋窯を藩窯とする
こととし、藩士の塚谷竹軒、浅井一毫を起用しますが
技術面で行き詰まり、京焼の名工・永楽和全を京より招聘。

 

しかし明治4年の廃藩置県で大聖寺藩がなくなった
ことにより。九谷本窯は消滅し、民窯へと
形を変えて行くことになりました。

 

なお、九谷本窯でどのような作品が作られて
いたかについては、不思議なことに、
現在のところ定かではないようです。

 

 

 

 

 

 

3 明治時代から現代

明治時代になると藩からの支援が得られなくなった職人
たちは、それぞれ作家として自立をすることになります。

 

九谷焼の輸出産業が盛んになった時期でもあり、彼らは
美術工芸品作家にふさわしい技術を磨いて行きました。

 

竹内吟秋(たけうちぎんしゅう)、
浅井一毫(あさいいちもう)兄弟や
初代・須田青華(すだせいか)、
九谷庄三(くたにしょうざ)、
北出塔次郎・不二雄(きたでとうじろう・ふじお)、
三代・徳田八十吉(とくだやそきち)、
吉田美統(よしだみのり)
などが有名な作家です。

 

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須田青華 加賀、山代温泉の「青華窯」

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加賀の「精華窯」

先日、石川県金沢市の陶芸家・中村梅山の器をご紹介
しましたが、そういえばこれも同じ石川県のもの
と思い出したのがこの器、4代・須田青華の
「色絵風船向付」です。

 

こちらは石川県ですが中村梅山の梅山窯のある
金沢ではなく、加賀市の山代温泉にある窯です。

 

1906(明治39)年に青華窯を築いてから
染付や祥瑞(しょんずい)、呉須赤絵、古赤絵、
古九谷などの作品を作り出しています。

 

「須田青華
〒922-0256 石川県加賀市山代温泉東山町4
Tel. 0761-76-0008  Fax. 0761-76-0988」

 

 

 

九谷焼窯元「精華」

 

 

写真の左の建物の1階の屋根の上にある看板には
「九谷焼窯元」と、右から書いてあります。

 

そして写真ですとちょっとわかりにくいのですが
その真下のガラス戸の上にあるのが下の写真にある
看板で「青華」とこれも右側から書かれています。

 

これは北大路魯山人の作品。
一度は陶芸作家の道から離れようとした中村梅山の
御長男・中村錦平が、再び陶芸家を目指すきっかけ
ともなったのが北大路魯山人の作品でした。

 

 

 

須田青華の窯元に掲げられている看板「青華」北大路魯山人作

 

 

 

ということで北大路魯山人というと、つい陶芸家と
思ってしまいますが、彼は元々は篆刻家で、このような
篆刻文字の看板や印鑑を掘る仕事が本業でしたが、
とはいえ魯山人を説明する肩書きは1つでは足りません。

 

美食家でも有名な魯山人は、今はもうなくなってしまい
ましたが、千代田区永田町に「星丘茶寮(ほしがおか
さりょう)」という有名な料亭の顧問兼料理長
としても活躍していました。

 

「星丘茶寮」は政界、財界及び文化人の
多くの顧客をもっていた料亭。

 

料理が超一流だったのみいうにおよばず、調理場を
お客さんに公開し、料理長にネクタイ着用を
義務付けたり、仲居さんにお酌をさせないなど
当時の料亭の枠におさまらない料亭だったようです。

 

 

北大路魯山人「伊賀釉四方平鉢」

 

 

同様に、北大路魯山人自身も篆刻家や陶芸家、
料理人等々、そのどれか一つにはおさまる
ことのない芸術家でもありました。
その魯山人の陶芸の手ほどきをしたのが
初代・須田青華。

 

私はこの「青華」の看板を作ったのは魯山人、と
聞いた時に最初は陶芸を教えてもらったお礼として
魯山人が看板を作ったのかと思ったのですが
そうではなく順番が逆だったようです。

 

山代温泉の「吉野屋」の主人・吉野治郎の別荘に
滞在していた魯山人がいくつか頼まれた仕事の
うちの一つが、青華窯のこの看板でした。

 

 

北大路魯山人の篆刻看板「青華」

 

 

魯山人は1915(大正4)年の11月に、出来上がった
「青華窯」の篆刻看板を須田青華のもとに届けます。
期待にたがわない素晴らしい出来に
須田精華は大満足。

 

その御褒美として魯山人は
青華窯で学ぶことを許されます。

 

書はお手のものである魯山人も、上絵付けには苦労
したようでしたが、生来の美的感覚の素晴らしさ
で周囲を驚かせる作品を作りあげます。

 

別荘の主である吉野治郎は
「この男、ただものではない」と。

 

また初代・須田青華は、この時に魯山人の
類い稀な才能を見抜いたといわれています。

 

一方、魯山人の方はといえば後に、初代・青華を
「陶芸界における〈独歩〉の観あり」と称えたととか。

 

 

「星丘茶寮」は現在、ザ・キャピトル東急ホテルになっています

 

 

 

初代・須田青華 1862~1927年 

初名、与三郎といった初代・須田菁華は
1862(文久2)年、金沢の商家に生まれました。
この年はペリー来航の9年後にあたります。

 

1880(明治13)年に石川県勧業試験場陶画部を
卒業後、京都に出て製陶の研究を重ね
3年後に九谷陶器会社に入社。

 

上絵付けに従事し、3年後の1885
(明治18)年には画工長となります。

 

ところが会社が解散してしまい、1891(明治24)年
に山代温泉に錦窯(きんがま)を築いた後、
1906(明治39)年には同じく山代温泉に自家用の
登窯「青華窯」を築いて独立することになりました。

 

 

 

 

 

「青華」の名前は「青花」から

須田青華の「青華」とは、白磁にコバルトで絵付け
を施した磁器の「青花」からきている名前です。
日本では「染付」と呼んでいるもののこと。

 

元代に、西方ペルシャから輸入されたコバルトを使用し
美しい白磁に酸化コバルトで絵付けをした後に
透明釉を掛け、高火度で焼成します。
鮮やかな青い色で複雑で重厚な模様が描かれています。

 

官窯の永楽、宣徳年間のものにも劣らない巧みなものを
多く残した、初代・須田青華は1927(昭和2)年に、
文久、元治、慶応、明治、大正、昭和と
6つの時代を生きた後に亡くなりました。

 

 

4代・須田青華

 

 

初代の須田青華の子である2代・青華は1892(明治25)
年に生まれ、1971(昭和46)年に亡くなっています。
本名は吉次。

 

本名は清治といった3代・青華は、1916(大正5)年
に誕生し、1981(昭和56)年に没しています。

 

「身から遠いものは移ろいで行く。
逆に口の形が人間変わらないのと同じように、
口に近いもの、食べ物は変わらないだろう。
だからこれまでもこれからも、
自分は同じものを作り続けるつもりだ」
と3代・青華は語ったといわれます。

 

 

溜池山王駅アート「色絵茄子大鉢」
ギャラリー「壷中居(こちゅきょ)」(東京)所蔵作品

 

 

 

当代、4代・青華

その3代・青華の子が現在の4代・須田青華です。
本名は千二郎、1940(昭和15)年生まれ。

 

金沢美術工芸大学の洋画家を卒業後に
祖父と父に作陶を学びました。

 

1981(昭和56)年、3代・青華の没後、4代を襲名。
4代・青華は、初代からの手仕事を
大切に引き継いでいます。

 

地元の土を使って、電動ではない足で動かす蹴轆轤
(けりろくろ)で形作ったものを、磁器では珍しい
といわれる松薪の登り窯で焼くという
古九谷発祥時の工法を、現在も守り続けています。

 

 

須田青華「色絵かぶら文茶碗」

 

 

4代・青華はこの過程を「創作」ではなく「ものづくり」
と表現し「うちの器は健康なんです。だから丈夫で
使い勝手がよく、毎日楽しめるのです」と語ります。

 

観賞用だけではなく、日々の暮らしにとけ込む
「用の美」であり「色絵かぶら文茶碗」のゆったり
とした大らかさは ,まさにその言葉通り。

 

赤い色は,紅殻を丹念にすることで
生み出される赤だといいます。

 

この他には、青、緑、黄色、紫、紺など
はっきりとした色は、溢れ出る生命力を
感じさせる九谷の色でもあります。

 

 

須田青華「色絵風船向付」

 

 

 

「色絵風船向付」

それらの九谷の色が勢揃いして
楽しげなハーモニィーを奏でているのが
かなり前に手に入れたこの色絵風船向付。
「向付(むこうづけ)」というのは、小鉢のことです。

 

今、調べてみても見つからないのですが、以前は目黒に
こじんまりとした東京店があったような記憶があります。
私はそこで「色絵風船向付」を5つ購入しました。

 

残念ながら私は、石川県加賀市の「青華窯」に
お邪魔したことはありません。

 

この色絵風船向付の広い方を二つあわせて
まさに紙風船の形にした花瓶もあるのですが
なぜか私はこちらの方が好き。
紙風船の箸置きもありますよ。

 

 

 

 

「青華窯」の窯元では、何十畳ものお部屋には沢山の
器があるようですが、それでも現在ないものを頼む
部場合は1年ほど待たなくてはならないそうです。
購入された方は、待つのもまた楽しいとおっしゃいます。

 

また4代・青華は
「手の込んだものを『これは手が込んでいるのだ』と
見せつけるようではダメ」ともおっしゃいます。
本当は凄いものを、軽やかにさりげなく作り上げる。

 

「私どもが作るのは、日常で使う手工芸。
器ばかりが立派で、気にかかるのは
本意ではありません。
伝統を継承する職人として仕事は確かにこなし
ながら、世に生み出す姿は謙虚でありたい」

 

と語る4代・青華は、古九谷が発祥した江戸前期
からの古い絵柄を参考にしつつも、新しいデザイン
を多く作り出しています。

 

「気兼ねなく自然に、今の感覚で
自由に使っていただきたいです」

 

古い伝統的な工法を大切にし、古九谷の絵柄を
参考にしながらも現代のデザインを作り出し、
日々の生活で使われることを望む作者の作り出す器。

 

「青華窯」の器は「辻留」でも
多く使われているようです。

 

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