宇和島藩麻布上屋敷の発掘調査で出土した鍋島焼

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麻布龍土町の宇和島藩中屋敷

江戸時代の大名は江戸に複数の屋敷を構えているのが普通でした。
上屋敷、中屋敷、下屋敷、蔵屋敷に抱屋敷(かかえやしき)等。
なかには中屋敷がなかったり、反対に中屋敷や下屋敷が複数
あったりというように藩の大きさによってその辺りは様々です。

 

各大名の地位、譜代、外様の別、石高などが考慮されて場所や
大きさが決められたものを、幕府から拝領したものです。

 

抱屋敷は、幕府から拝領した「拝領屋敷」ではなく
大名が必要に応じて土地を購入し、屋敷を作ったもので、
この抱屋敷を下屋敷にしたりという例もあったようです。

 

 

麻布・有栖川公園
「赤穂浅野家」から「盛岡南部家」に相対替えしたもの

 

 

 

大名間で交換も可能

このように大名の江戸藩邸は基本的には幕府から拝領している
ものですので、幕府の命令によって移転をすることもあります。

 

また、幕府の許可を得ていれさえずれば、各大名間で
屋敷を交換する「相対替え」も行われていました。

 

(このあたりについては、こちらで
「『上屋敷』『中屋敷』『下屋敷』『抱屋敷』『蔵屋敷』」

 

 

有栖川公園とドイツ大使館の間を通る「南部坂」

 

 

 

「南部坂」が2つあるわけ

その一例としては、現在の麻布の有栖川公園にあった
赤穂浅野家と、現在の赤坂6丁目にあった盛岡南部家の
屋敷の相対替えがあげられます。

 

南部家が「赤坂」→「麻布」に移ったことにより、それぞれの
場所付近に「南部坂」ができたため、フィクションではあります
が忠臣蔵の「南部坂の別れ」が生まれて有名になりました。

 

忠臣蔵の南部坂は赤坂6丁目の方で、有栖川公園の南部坂には
「こちらは忠臣蔵の南部坂ではありません」とわざわざ断り書きが
あるのが面白いですが、きっと多くの人が間違えるからでしょう。

 

 

赤坂6丁目の「南部坂」こちらが忠臣蔵の方

 

 

 

中屋敷から上屋敷になった麻布屋敷

今日、ご紹介する六本木7丁目の宇和島藩上屋敷があった
場所は、現在は国立新美術館、政策研究大学院大学、
都立青山公園、米軍ヘリポートなどになっています。

 

このように現在はいくつかに分割されてはいますが
屋敷割りはほぼ活かされているようで、当時は麻布龍土町
という地名だったために、麻布屋敷と呼ばれていました。

 

実はこの麻布屋敷は、初代・伊達秀宗が拝領した直後は
上屋敷ではなく中屋敷で、各屋敷の場所はこのようでした。

  上屋敷ーー日比谷
  中屋敷ーー麻布
  下屋敷ーー恵比寿3丁目

 

ところが1681(天和元)年に、日比谷の上屋敷を松平豊前守
(親庸、丹波5万石)に引渡し、かわりに木挽町の屋敷を
拝領して以降、麻布屋敷を上屋敷とすることになります。

  上屋敷ーー麻布
  中屋敷ーー木挽町
  下屋敷ーー恵比寿

 

 

四国左下の赤いあたりが宇和島藩

 

 

 

敷地を買い増しして広大な上屋敷に

火事が多かった江戸で、もしもの時の一時避難所や嫡子や側室が
住む中屋敷を、公式な行事の場となる藩主や正妻などが暮らす
上屋敷とするには、宇和島藩麻布屋敷は少々狭かったのでしょう。

 

「三浦家文書研究会」の記録には、初代・秀宗(ひでむね)
から3代・宗賢(むねよし)に至るまでに、
土地を買い足していった様子が記載されています。

 

それによりますと、まず宇和島藩伊達家
初代藩主・秀宗が、晩年の1655(明暦元)年に

 

 沖津内記より26,404坪を、地代1,200両で購入、
 原宿村名主より1,265坪を、地代60両で購入、

 

1657(明暦3)年には
 原宿百姓より480坪を、47両で、

 

1675(延宝3)年、三代・宗賢の時代に
 原宿村百姓地3,916坪を、1,700両で買い求め、
これにより麻布屋敷の合計は36,051坪になりました。

 

 

宇和島市で生産される「宇和ゴールド」

 

 

 

ほぼ10倍に拡張

「三浦家文書研究会」の記載では、買い増しした坪数は
記載されているのですが、最初の坪数が書いてありません。

 

当然、買い増しした坪数を、最終的な36,051坪から引けば
でてくるのですが、そうなると最初の坪数は、わずか3,986坪 。
計算が間違っているのではと不安になるほどの差ではあります。

 

ということで私の計算が間違っていなければ
3,986坪だった麻布屋敷の敷地を買い足して、36,051坪という
ほぼ十倍ほどに拡張して、広大な上屋敷にしたと思われます。

 

 

 

 地図の上部が「宇和島藩伊達家の上屋敷」36,051坪
下の方が「仙台藩伊達家の下屋敷」 21,293坪

 

 

 

麻布には、宇和島藩上屋敷(六本木7丁目)以外にも
仙台藩下屋敷(南麻布1丁目)と、2つの伊達家がありました。
地図では上が宇和島藩で36.051坪、下が仙台藩で 21,293坪。

 

もっとも仙台藩は下屋敷ではありますが、港区東新橋にあった
仙台藩伊達家の上屋敷でも25,819坪ですので、
宇和島藩麻布屋敷の大きさがわかります。

 

こちらは南麻布にあった仙台藩伊達家の下屋敷付近の古地図。
●  ●  ●」で囲まれた「●  松平陸奥守」と書かれている所です
が、付近の大名屋敷と比べても一段と大きいことがわかります。

 

 

 

 

なお、「松平陸奥守」の上の「●」は、下屋敷を表しています。
屋敷に沿っている水色の「ーーー」の部分は「仙台坂」
大藩であった仙台藩を思わせる、高低差のある長い坂です。

 

「仙台坂」の少し先にあるピンク色の「ーーー」は
「振袖坂(日向坂)」で、なだらかな優しげな短い坂。

 

 

 

「宇和島藩伊達家」と「仙台藩伊達家」の家紋

次にあげたのは仙台藩と宇和島藩のそれぞれの家紋です。
上が「宇和島藩伊達家」で、下が「仙台藩伊達家」の家紋。

 

 


「宇和島藩伊達家」の家紋「仙台藩伊達家」の家紋

 

 

ともに竹と向かい合う雀をモチーフとした
「竹に雀」ですが、両者は微妙に違っていますね。

 

現在、仙台藩伊達家の家紋は、商標登録されている
ために使用するにあたっては年間10000円から50000円、
事務手続き量4000円が必要だとか。

 

ちなみに宇和島藩の蔵屋敷は大阪の北区中之島にありました。
1916(大正5)年に朝日新聞社が譲り受けましたが
蔵屋敷の建物をそのまま使っていたということです。
             (「大坂の史跡を訪ねて 9」)

 

 

仙台藩伊達家の下屋敷に沿っている長い坂「仙台坂」(南麻布)
先ほどの江戸時代の地図でいうと左側から見た所で、こちらが坂の上
仙台藩伊達家の下屋敷は、坂の右側にありました

 

 

 

宇和島藩伊達家跡の発掘調査

宇和島藩伊達家の屋敷跡に、2007年1月に国立新美術館が
開館されましたが、政策研究所大学院大学を含めそれらを建設
するにあたり、屋敷の北東側半分の発掘調査が行われました。

 

2001年から2003年までに、4期にわたる
東京都埋蔵文化財センターによる発掘調査です。
江戸の発掘調査は困難を極めるといわれています。

 

土質が関東ローム層で酸性ゆえに木部が、酸性土壌に
より溶けてしまって形をとどめず、残った穴などから
想像をしていく以外にないからだそうです。

 

 

 

宇和島藩伊達家上屋敷跡にある「国立新美術館」六本木

 

 

 

大量の「鍋島焼」の出土

そのような中できっちりと残っていたのが大量の陶器でした。
地下室を含める5つの場所から「鍋島焼」が64点(資料により
65点とするものもある)を出土しましたが、この数は
十万石クラスの大名家としては、かなり多いといわれます。

 

加賀百万石の前田家上屋敷跡でさえ4点、御三家の一つで
ある尾張藩徳川家の上屋敷跡でも2点しか出土していません。

 

「鍋島焼」は佐賀藩鍋島家の藩窯で焼かれた、
高度は技術をもつ江戸時代最高級の焼物です。
写真は、若松模様の染付けの小皿や大皿。

 

 

宇和島藩伊達家の上屋敷跡で出土された「鍋島焼」
東京都教育委員会蔵
(写真/「愛媛県歴史文化博物館  学芸員ブログ『研究室から』)

 

 

 

貴重な鍋島焼

関ヶ原の戦いで西軍についた佐賀藩鍋島家は、徳川家との
関係修復に苦慮していた様子が伺え、将軍家や大名家への
贈答用に特別に焼かせたのが「鍋島焼」といわれています。

 

佐賀藩が鍋島焼の窯を直接に管理していて、地元での
使用を別にすると市場に出回ることもあまりなく、
絶対数そのものが少ない焼物でもありました。

 

にもかかわらず宇和島藩伊達家の上屋敷後から、大量に発掘
された理由の一つには、鍋島家との婚姻関係があげられます。
そうでない藩邸からの多量出土例もあるため、必ずしもそうと
は言い切れないようでもありますが。

 

 

 

 

 

「宇和島藩伊達家」と「佐賀藩鍋島家」はお隣同士

宇和島藩伊達家9代の藩主のうち、

 5代・村候(むらとき)
 7代・宗紀(むねただ)
 8代・宗城(むねなり)

の3代の藩主が鍋島家から正室を迎えています。

 

下の古地図は東西南北が現在のものとは少々異なっていますが
藤色で囲んだ三角形に見える敷地が宇和島藩伊達家の上屋敷。

 

「伊達遠江守」とありますが、宇和島藩伊達家は2代・宗利
(むねとし)が「大膳大夫」を名乗った以外は全て「遠江守」。
その右側の緑色で囲んだ四角形に見える敷地が佐賀藩鍋島家です。

 

 

(地図/「三浦家文書研究会  コラム  Toshio  Yuyama」に加筆)

 

 

地図では「鍋島甲斐守」と逆立ちをして書かれていますが、
これは名前の上の方が玄関ということを示していて、
名前の上に家紋が書かれているのは「上屋敷」を表します。

 

なお「鍋島甲斐守」の上部の敷地も「鍋島鍋島熊二郎」
と「鍋島」文字が見えますが、こちらは肥前鹿島藩、
鍋島熊二郎(2万石)の上屋敷で別の家。

 

宇和島藩伊達家と佐賀藩鍋島家は、上屋敷がお隣同志という
こともあり、3代にわたって婚姻関係も結ばれました。
鍋島焼もともにお輿入れしたのかもしれませんね。

 

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