イサム・ノグチ作「花と石と水の広場」《天国》 草月会館

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イサムノグチ「花と石と水の広場」《天国》

今日はイサム・ノグチの作品を御覧いただきましょう。

 

昨日の大きな生け花を撮ったのは
今日の冒頭の写真の場所でした。

 

 

130818sougetukaikanbara草月会館(赤坂)

 

 

イサム・ノグチ作「花と石と水の広場」
《天国》、この作品は1977年にできました。

 

この場所で、1981年にイサム・ノグチと、草月流の
勅使河原宏の2人展を、84年にはイサム・ノグチ
80歳の記念として「あかり」を展示したそうです。

 

もちろん、それ以外にも生け花にとどまらずに
様々な美術の展覧会やアーティストの
作品発表の場所でもあります。

 

 

pic_know_hall_plaza_01_20130818034327e21こちらが正面からの写真です。
1枚目は、レストラン「薔薇」からの写真。
(写真/「草月プラザ」

 

 

 

 勅使河原宏の語るイサムノグチ

1989年に勅使河原宏は産經新聞に、このような
ことを書いていらっしゃいます。(一部のみ)

 

「イサムさんとは父・蒼風と私と親子二代
にわたって親しくさせていただいた。

 

あるとき父にこういったという。
『蒼風さん、松を生けて
松にみえちゃ駄目でしょうね』

 

 

sougetu_20130818035446b73(写真/「草月プラザ」)

 

 

このイサムさんの言葉を
父はとても大事にしていた。

 

松という素材が作品化したとき、もう松と
いう固有のものを消化しなくてはならない
というイサムさんなりのいけばな論なのだろう。

 

私も好きな言葉である。(略)

 

 

isamunoguti(写真/「草月プラザ」)

 

 

イサムさんの近年の石の彫刻をみていると
石の持つ美しさを生かしつつ、自分の意志は
最小限に加えるだけにとどめている。

 

『宏さん、これらの作品群は、
自然(石)の許してくれた過ちですよ』
と、高松のアトリエを案内してくれながら、
もらしたものだ。

 

自分は石を傷つけている。
なのに石は許してくれている……。

 

 

草月会館のレストラン「薔薇」
写真に写っているのはお隣にある
「高橋是清記念公園」

 

 

そのとき芸術家と自然は一体化したのだろう。
自己の芸術感を謙虚に、
しかし決然と表明してくれた、

 

これもすごい言葉だ。
晩年のイサムさんは、この高みに達していた。

 

先ほどの松のたとえといい、日本語の表現が
完全だとはいえないだけに、考え抜かれたことが、
枝葉を払って口について出たときにその言葉は
光彩を放って聴くものの心を貫く。」

     (「草月とイサム・ノグチ」)

 

 

 

 

一方、イサム・ノグチは、日本の庭園に
ついてこのように語っています。

 

「有限の空間であっても無限の広さを感じ
させ、人間が住んでいるというよりも、人間の
精神が住んでいるというのが日本の庭のもつ
空間に思われた。」

(ドウス・昌代
「イサム・ノグチー宿命の越境者」より)

 

 

 

 

 

誕生前に日本に帰国した、父・野口米次郎

イサム・ノグチは、英文学者であり詩人の
野口米次郎を父に、アメリカ人の作家である
レオニー・ギルモアを母に、1904年11月17日
にロサンゼルスに生まれました。

 

しかし、イサムが生まれた時、父は既に
日本に帰国していて、レオニーとイサム
のもとにはいませんでした。

 

しかもその当時、イサムの父、野口米次郎は
イサムの母、レオニー・ギルモアではない
別の女性に求婚していたといいます。

 

 

 

 

野口米次郎が日本に帰ったのが1904年の9月。
その2ヵ月後にイサムは生まれています。

 

その後、野口米次郎はレオニーに来日を要請し
1907年に、彼女は2歳のイサムを連れて日本に
来ますが、米次郎はその時、別の女性と結婚を
していました。

 

レオニーは、2つの家を行き来する野口米次郎
との別れを決意し、イサムを連れて大森、
横浜、茅ヶ崎へと引っ越します。
1912年の1月には、父の違う妹、アイリスが誕生。

 

 

201308191600132f6「Tsuneko San」1931
(写真/「ノグチ・ミュージアム」

 

 

 

「真実こそを追求する」

幼稚園と小学校は「野口勇」の名で入学したものの
1913年には、イサム・ギルモアとして横浜市の
インターナショナル・カレッジに転入。

 

イサムが13歳になった1918年、母親レオニーの考え
により、イサムは米国の学校に入ることになります。

 

このくだりを「イサム・ノグチ庭園美術館」
の年表では、「アメリカの学校に送られる」
と表現しています。

 

 

 

 

「送られる」という部分に、イサムの
当時の心境が伺えるような気もします。

 

イサムが日本から船で発つ時、野口米次郎は
イサムの船に乗って、アメリカに行かないよう
に引き止めたといいます。

 

そしてアメリカの高校を
イサムはトップの成績で卒業。
卒業写真に彼が残した言葉は
「大統領になるよりも、
僕は、真実こそを追求する」。

 

 

201308191609160371「Young Mountain」 1970
(写真/「ノグチ・ミュージアム」

 

 

 

 「芸術は無限だ」野口英世

イサムはコロンビア大学医学部予科に通い
ながら、レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校
の夜間、彫刻クラスで学び始めました。

 

この頃、日本からロサンゼルスに帰っていた
母レオニー、妹アイリスとともにニューヨーク
で同居をします。
レオニーの死去はその十年後でした。

 

コロンビア大学でイサムは、自分と同じ
姓をもつ野口英世に出会います。

 

彼は野口英世から
「医学は限界があるものだが、芸術は無限だ」
という意味の言葉で得て、芸術の道を選んだ
ともいわれています。

 

 

 

 

この彫刻のクラスに入って、初めて開いた
個展でイサムは、ナショナル・スカルプチャー
協会の会員に選ばれます。

 

そしてナショナル・アカデミー・
オブ・デザインに出品。

 

美術学校の校長から、彫刻に専念することを
勧められ、コロンビア大学を退学し1927年に
グッゲンハイム奨学金を獲得してパリに留学します。

 

 

201308191622476b0「The Big Bang」(Tao Tieh)1978
(写真「ノグチ・ミュージアム」

 

 

 

 「イサムノグチはアメリカ側のスパイだ」

そして1941年、第二次世界大戦。

 

イサム・ノグチは在米日系人の強制収容が
行われたときに、自らアリゾナ州の「日本人強制
収容所」に志願して拘留されることになります。

 

自ら志願して拘留された強制収容所で、彼を
待っていたのは思いもかけないことでした。

 

 

 

 

彼が「アメリカ人との混血」だという理由から
「イサム・ノグチはアメリカ側のスパイだ」
との噂が、日本人社会で流れたのです。

 

日本人社会から冷遇された彼
は、出所を希望します。
しかし今度は「日本人である」とい
う理由で出所することが許されません。

 

後にフランク・ロイド・ライトらの嘆願書に
より、やっと出所が叶ったといいます。

 

 

isamunoguchi_ny_genbakuireihi_201308191650505d5「広島平和記念公園 原爆慰霊碑模型」
(写真/「Tadaoh! Design」

 

 

 

アメリカと日本の狭間で 

このような理不尽なことは、
この時だけではありませんでした。
イサム・ノグチのデザインが、広島
平和記念公園のモニュメントに
選ばれたことがありました。
1951年のことです。

 

しかし、イサム・ノグチが原爆を
落としたアメリカ人であるということで
選考からはずされてしまいました。

 

そんな彼のデザインの一部は、平和公園
の丹下健三設計の「原爆慰霊碑」に
生かされているそうです。

 

 

 

 

また1964年には、「ケネディ大統領墓所の
デザイン」を設計していますが、こちらは
イサム・ノグチが日系であるという理由から
これもまた却下されてしまいます。

 

このような出来事が続く中でも、イサム・
ノグチはアメリカ国内外で彫刻、モニュメント、
環境設計を続けて「地球を彫刻した男」と
呼ばれるようになったのです。

 

1985年には、「イサム・ノグチ・ガーデン・
ミュージアム」(ニューヨーク)が開館。

 

 

isamunoguchi_ny_triangle270「ノグチ・ミュージアム」

 

 

 

日本の最高裁にある噴水もイサムノグチの作品

イサム・ノグチは、様々な場所で多数の
作品を制作していますので、それらに
触れるスペースはここにはありません。

 

ただ、このブログで最近登場した場所で
いいますと、東京の最高裁判所の噴水も
イサム・ノグチが手がけたものだそうです。

 

1984年、コロンビア大学より名誉博士号
授与、ニューヨーク州知事省を受賞。

 

 

 

 

翌年には、ヴェツィア・ビエンナーレの
アメリカ代表に選出。

 

1987年には、ロナルド・レーガン大統領
からアメリカ国民芸術勲章を受勲。

 

1988年、日本で勲三等瑞宝章を受勲。
そして、この年の12月30日に永眠。

 

 

isamunoguti200(写真/「イサム・ノグチ庭園美術館」)

 

 

 

母を描いた映画「レオニー」

現在、香川県高松市に「イサム・ノグチ
庭園美術館」(1999年)」があります。

 

イサムノグチがその完成を待たずに
亡くなった、札幌にある「モエレ沼公園」
は2005年に完成しました。

 

3年ほど前の2010年に、イサム・ノグチの母
であるレオニー・ギルモアを主人公にした日米
合作映画「レオニー」が公開されました。

 

 

 

 

是非、見たいと思っていたこの映画を、
引っ越し直後の混乱の中で見逃してしまった
ことが悔やまれます。

 

また、今月の15日からは、宮本亜門原案
・演出で「ISANU〜20世紀を生きた芸術家
イサム・ノグチをめぐる3つの物語〜」
が上演されています。

 

8月の15日〜18日までが、
KAA神奈川芸術劇場ホール、
そして今日、21日から27日までは
東京渋谷のPARCO劇場、
30日は高松のサンポートホール高松の
3階大ホールで上演の予定です。

 

 

akairippoutaiisamunoguti_2013082001232887c「赤い立方体(Red Cube)」1968 ニューヨーク
このキューブは立方体ではなく目の錯覚を使用した
縦長のもの。(写真/「ニューヨーク旅行」

 

 

 

「父の国」と「母の国」

イサム・ノグチは、強制収容所においては
日本人から「アメリカ側のスパイ」だと
疎んぜられ、出所を希望すると「日本人」
ということで許されませんでした。

 

また、広島平和記念公園のモニュメントも
イサム・ノグチが「原爆を落としたアメリカ人」
ということで拒否され、アメリカ大統領の慰霊碑
の際は「日系」ということで却下されています。

 

 

 

 

この繰り返しは、イサム・ノグチに
どれほどの苦痛と悲しみを与えたのか、
私には想像することも出来ません。

 

父の国と、母の国、その両方をイサム
・ノグチは愛していたに違いないのですから。

 

しかし、晩年はともかく、二つの国が戦争
をした時期だったという不幸も重なり、一度
ならずもそれは彼に襲いかかったのです。

 

 

20130820012433ce2写真/「慶応大学・アートセンター ノグチルーム」)

 

 

 

「父」と「母」

また、アメリカ人社会、日本人社会という
漠然としたものではなく、自らの父である
野口米次郎に対して、イサム・ノグチは
どのような思いを抱いていたのでしょう。

 

日露戦争が勃発したとはいえ、イサムの
生まれる直前に父は帰国してしまいました。

 

その後、イサムと母のレオニーが日本に
やって来た時は、すでに父には妻がいました。

 

 

 

 

「2度も父親に捨てられた」とイサム・
ノグチは思いはしなかったでしょうか?

 

国や社会からの迫害もさることながら
もしかしたら、父という「一人の人間」から
遠ざけられたことの方が、彼にたとえようの
ない大きなの悲しみを与えたのかもしれません。

 

 

 

 

野口米次郎、レオニー・ギルモアという
イサム・ノグチの両親は、共に言葉に
関わる仕事をした人でした。

 

イサム・ノグチが抱えてしまうことになった
言葉にすることの出来ないほどの
大きな悲しみと胸に迫りくる思い……。

 

彼はその思いを終生、言葉以外のもので
表現しようとしたような気がしてなりません。

 

 

akariisamunoguchi
私がイサム・ノグチの名前を知ったのは
この「あかり」が最初でした。
(写真/「ノグチ・ミュージアム」)

 

 

 

「生まれた時から孤独の淵にいる人間」 

幼稚園、小学校は「野口勇」として通い
ますが、後に「イサム・ギルモア」に変更。

 

しかし、彼はその後の人生を
「イサム・ノグチ」として生きました。

 

イサム・ノグチが母の意志により
「アメリカに送られた」19年後の1950年、
彼が二度目に日本を訪れる前のことです。

 

 

 

 

イサム・ノグチは父の
野口米次郎から言われます。
「野口の姓を名乗って
日本に来てはいけない」と。

 

しかし「イサム・ノグチ」として日本を
訪れた彼は、必ずしも幸せとはいえない
父との再会をはたしました。
(加藤三明
「ヨネとイサム・ノグチ 二重国籍者の親子」
慶応義塾大学出版界 2013,4『三田評論』)

 

ドウス・昌代著の
「イサム・ノグチー宿命の越境者」
には次のような彼の言葉が記されています。

 

 

 

 

「芸術家には自分しかない。
一人だけで何かを作りあげていく。
孤独な世界だ。
孤独の絶望からこそ、芸術は生まれる。
ぼくは生まれたときから、
その孤独の淵にいる人間だった。」

(ドウス・昌代
「イサム・ノグチー宿命の越境者」
2000年 講談社)

 

イサム・ノグチ……、
あなたについて私は
まだ何も知らないようです。

 

 

noguchi_main_temp3(写真/「ノグチ・ミュージアム」)

 

 

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